back index next


ひとりの少女と、ひとりの青年。
忙しなく肩で呼吸をする少女は、必死に唇を噛み締め、目の前の青年を見つめる。初めて、心の靄を誰かにぶつけきった、そして認められなかった事実を、自分自身で確定させてしまった瞬間だった。

――自分はもう二度と、帰れない。

桓魋に叩きつけた言葉が、自分をそのままなぶる。ゆるゆると知ったその事実は、それでも相応の重さを持って陽子の心を締め上げた。こちらの言葉を覚えても、そしてこちらで生きていける様々なことを身につけても…それが痛いことに変わりなんてないのだ。だが心の奥底でそのことに薄々気がついていくということは、彼女にとっては衝撃を与えないかわりに、とても残酷な過程だった。
詰まりそうになる言葉の塊を陽子は喉から押し出す。
「幼い頃には分からなかったものが、今少しずつ、少しずつ分かってきたんだ。初めて遠甫先生と出会ったとき、彼は私にはまだ早い、と様々なことをすぐに教えてはくれなかった。 その理由が、今になって私には痛いほど分かるんだ…」
 
 そして…そして、今はそれだけじゃない。帰れぬこと以上に、彼女を苦しめていることが、もう一つ陽子にはあった。桓魋を見て胸が締まり、それは陽子が心の中を見つめた瞬間、彼女に向かって嗤う。

 鋭い痛みが胸を突き刺し、陽子は強く目をつむった。桓魋は陽子の前に進み出て、彼女を見つめる。顔を歪めた彼は、陽子 と言葉を零した。この街に来る前から、彼女が悩んでいることの予想はついていた。
八割方、当たっていた。だがあとの二割は、まだ分からない。
「俺に出来ることは、あるのか。お前は俺に何をして欲しい…?」
 陽子は何も言うことが出来なかった。ただ胸を押さえたまま、自分より高い位置にある桓魋の顔を見上げる。その目だけが、必死に何かを桓魋に訴えようとしていたが彼と目があった瞬間、陽子は逸らす。桓魋は少し顔に翳りを落としながら、言葉を続けた。
「…すまない。俺はお前を帰してやることは、きっと出来ない…。でも、お前が他に望むことだったら、俺にできることだったら、叶えられるように努力する」
 桓魋は顔を少し落とし、目を伏せた。苦しげに、笑う。
「っていっても、これでも俺もお前に迷惑かけてばっかりだからな…。もうお前に愛想をつかされていてもおかしくないんだが…それにお前が悩んでるのも、帰れないってことだけじゃなさそうだからな…」
 もう一度、桓魋は陽子、と彼女に呼びかける。その真摯な声色に、陽子は思わず伏せていた顔を上げさせられた。見れば、そこにはその声色以上に真剣な顔があった。
「なぁ…無理はしないでくれ。抱え込むなよ。吐き出すことがそんなに嫌なのなら、何も言わなくてもいいが…ただ…堪えてキツいんなら…吐き出して怒っててくれよ。俺はそっちの方がずっと良い。怒って、それで笑ってくれ」
「桓魋…」
 陽子が呆然と呟く。
桓魋は少し翳りのある表情のまま、陽子に微笑んでみせる。声が漏れた。
「俺じゃお前の蓬莱の家族にはなれん。それに正直に言って、俺はお前が何を思っているのか、わからん。だがわからないからこそ、俺なりに悩んで向き合っていきたいと思っている。でも俺と共にいることが、もしも苦痛だったら、お前は無理することはない。それでお前が笑えるんなら、何かが吹っ切れるのなら…。頼むから、笑っててくれ」
 カッと陽子の目頭が熱くなった。違う、と陽子は目を開いて呟く。桓魋が再び口を開こうとしたその前に、陽子はもう反射的に叫んでいた。
「違う!!」
 桓魋の表情に驚いたような色が走る。陽子はもう我武者羅に、桓魋の腰を抱きしめた。
「違うんだよ。桓魋…違う、違うよ…違うんだ…」
もう、何が言いたいのかもぐちゃぐちゃになって分からない。支離滅裂に陽子はただひたすらに違う、とくぐもった声で言って、更に強く桓魋に抱きついた。
桓魋はそっと言う。その言葉が、陽子の頭で強く――響いた。
「お前を悩ませているのは…帰れない、それだけじゃないんだろう?」


かつて、自分はいつか帰れると思っていた。それを信じて疑わなかった。でも…そんなのは陽子の勝手な思い込み、幻想でしかなかったと彼女は後になって知る。何も知らないまま、夢だけ見て。そして自分の真実を知って。
あれだけ望んだ帰る場所なんて元々無かった。陽子は胎果で、本来ならばこちらに生まれてくるべき人間だったのだ。蝕で流され、あちらの母親の腹に流れ着き、そうして仮の姿を被って生きてきていた。本当の母親なんていなかった。その事実も――学ぶうちに、彼女は知ったのだ。緩やかに。穏やかに。
その痛みは陽子の胸の中で鈍く疼いて、時折翳りとなって浮いて出た。
 今更自暴自棄になることも出来ず。ただ受け入れなければならない事実だけが陽子の目の前には横たわっていた。でも、それがすべてだと思っているうちはまだ良かったのだ。
 いきなり何もかもを失って、こんな理不尽は無い、そう過去を恨みがましく見つめればそれで良かったのだ。

だがその痛みに耐えるうち、そうしてそれが自分に起こった悲劇全てだと思っていた陽子は、桓魋が娘達に囲まれたあの時、ある決定的な一つのことに気がついてしまったのだ。
刺し貫くように、冷たく陽子の頭で声が木霊する。

じゃあ、桓魋は?桓魋はずっと私の傍にいてくれるの?

陽子は知ってしまった。自分の目の前から桓魋がいなくなる可能性なんて、いくらでもある、というその事実を。無意識にあると思い込んでいた保証など存在しないことに気がついてしまった。
桓魋だけはずっとそばにいてくれると思ってあぐらをかいていた自分自身のその心に。目の前から桓魋が奪われる理不尽が、起こりえる可能性は今も同じだということに。――桓魋は、美しい女が似合うということに。

 世界はとても、残酷だ。

彼女から一瞬で何もかもを奪い去っていった。どうして、今回がそうでないなんて、言い切れる?世界は彼女に対して、何一つとして約束なんて交わしていないのに。これまでも。―――これからも。
どうして、桓魋がずっと無条件で陽子の側にいてくれるなんて、そんな自分に都合の良いことを今まで何の疑いも無しに信じることが出来ていたのだろう。
どれだけ彼が強くても、戦線に立つ以上、彼が命を落とさない可能性の方が低いのだ。一瞬で幸せな時間を奪われるかもしれないのだ。かつてのあの日の、襲撃のように。それだけじゃない。戦線に立たなくたって、桓魋は恋をして人として当たり前の幸せをつかむ権利があるのだ。その時が来た時、それに口出しする権利も、彼が誰と共にいるのか決めるのを邪魔する権利も、陽子には欠片も無いのだ。

もう一緒にはいられないんだ。すまない、本当に。すまない。今まで本当に楽しかった、ありがとう。どうかお前も幸せに。

頭の真髄が冷えた。
どうしたら、桓魋は一緒にいてくれるのだろう。どうしたら、養ってもらっている枷でしかない自分を嫌いにならないでいてくれるのだろう。そればかりを陽子はずっと、ただひたすらに考え続けていた。もうあの頃のように幼くないからこそ、そんなことを考えることができるくらい彼女は成長していた。
だが、まだ桓魋に素直に側にいてほしいと言えるほど大人ではなかった。
ごめん、と陽子は声を上ずらせて零す。
「違う…違うんだ。避けるようなことをして、遠ざけるようなことをして、心配させて、ごめん。桓魋は何も悪くないよ…。私だって…私だってどうしたらいいか、分からなかっただけなんだ…」
あぁ、そうだ。自分で言って、自分で納得した。
「確かに、私は…帰れないことで…悩んでた。お母さんに会えないことで…辛かった」
だけど。まだ、それだけだったら、良かったのだ。
「でも同時に、私は桓魋がずっと一緒にいてくれることも当たり前みたいに思っていたんだ…」
陽子の顔がくしゃりと歪む。声を枯らすように、少女は叫んだ。
「当たり前のことなんて、本当は何一つとして…ないのに…!桓魋が今こうして一緒にいるのも、当たり前のことなんかじゃないのに…!明日、桓魋はいなくなっちゃうかもしれないのに…!いまのことも、これからのことも、私は少しも考えていなかったんだ…!」
 そうだ。陽子は未来に、恐怖した。過去を振り返り、今を見つめて、そしてようやく――気がついた。
奇跡、だったのだ。
桓魋が彼女を見つけ、助け出し、今までずっと面倒を見る義理もない陽子をそばに置いてくれていたことが。
何が良くて、何が悪かったのかなんて陽子には分からない。でも、確かにこれだけは言えることがある。陽子がこの世界に足を踏み入れたあの瞬間、悪夢と奇跡は同時に起こっていたのだ。陽炎を追い、微かにきらめいた金色の光。陽子は何もかも失った世界で、得るものがあったのだ。

それすらも――気がつけなかった。

陽子は溢れようとする嗚咽をこらえながら、必死に息を吸う。胸が痛かった。
「桓魋…いなくならないで…」
桓魋の瞳が見開く。陽子は夢中で腕に力を込める。

お願い、どうかお願い。一緒にいて。私は貴方を失うかもしれない未来が怖い。貴方に縋って困らせたりはしない。一生なんて言わないから、せめて貴方に好きな人が出来るまで。私を――そばに置いて。

桓魋の動きが止まり、それでも陽子は時折ひっくり返る声でふらふらと懸命に言葉を綴る。
「頼むよ、死なないで。嫌いにならないで。一緒にいて…一緒にいて…!桓魋に好きな人ができるまで…!」
 声は言葉にならずに詰まり、腕に込めることしか陽子には出来ない。普段無口で口下手な少女が言う言葉とは思えなかった。懸命な陽子の姿に、桓魋の脳裏に先日花魁に言われたことが克明に過る。

その時桓魋の表情に走ったものは、顔を俯かせる陽子にも、誰にも見ることは出来なかった。桓魋の顔が歪み、彼は掠れる声で囁いた。
「お前は俺がお前を置きざりにすると思ったのか…?お前を置いて簡単にいなくなると?そんな…おれがいなくなることが、そんなに怖かったのか…?」
 すすり上げながら、少女は彼の腹に顔を埋める。
桓魋は自分の腰に抱きつく少女の背に自身の手を重ねる。そうしてそっと少女を抱きしめる。いつものように飄々としようと、彼女を元気づけようと、桓魋は声を上げる。
「ばかだなー…お前はとんと自分のことは分かってないな。俺はお前が一人立ちしない限り、嫁はお断りだ。お前がいる限り、簡単に死なない。約束する。勝手に人を消すなよ」
陽子は決して桓魋に顔を見せないようにしている。彼女はここで泣くことさえも、不本意だった。うまい言葉も言えなくて。せめて相手の顔を見ようとしても、でも桓魋を困らせないよう涙を見せるわけにはいかない。 

 切ない矛盾が、苦しい。

夜の時間は濃く微睡む。月影だけが水面で砕けて散りばめられる。
目頭が熱くなり、桓魋の肩が微かに震える。

その時もう一度、ばかだな、と囁いた彼の声が泣いたように揺れたのは、それは陽子の――聞き間違いだったのだろうか。

:::::



 繰り返し、あの時の声が、頭の中で流される。
陽子と二人で里家まで夜更けに帰った桓魋は陽子と別れ、自身の臥室に足を踏み入れた後崩れるように眠りについた。その眠りの中、桓魋は頭の中で繰り返される。柔らかな声が、彼の耳を撫でる。


陽子っていうあの子はとってもぶっきらぼうで、それ以上にとってもとっても不器用ね…。本当は、人と関わるのが苦手な子だわ。でも、あの子は優しい。人のために自分の命を盾にできるくらいの器量を持っている。優しくて、そしてこちらがそのように願えば、それに応えようと、人に合わせることも出来る子よ。言葉が少なくて、だからこそ人との関わり合いの難しさを知っている。その刹那もね…。
あら、女らしさが無いって?色気がないって?
確かに少し気難しい子かもしれないわ…。

でも…だけどね。あの子は死ぬほど可愛いわよ。そりゃあもう凶悪的に。

あなたに関しては、あの子以外誰もかなわないの。そして同時にあの子は…光だわ。他の女たちが花ならば、あの子は光。貴方なんか骨抜きね。…ふふっ。私の言っている意味が分からない、ですって?でも、きっと貴方はこれについてはすぐに実感すると思うわ…。
あら嘘じゃないわ、本当よ。でも、残念だわ…。貴方が欲しかったけど、ちょっと私が張り合うんじゃあ分が悪いみたいなんだもの…。本当に残念。
 もっと色々と言いたいことはあるけど、今日はここまでにしておきましょう…。
次にもし会えたのなら…貴方の核心を言い当ててあげる。


眠りから、渦巻くように覚醒の時が迫っていることに、桓魋は気がついた。やっと、目覚められると思う桓魋。朝日が臥室に細く流れ込んでいく。

だけど耳にこびりつく声に別れをつげたくても、それは深く桓魋の心に刻まれてしまっていた。

:::::

 
朝日が零れて、山の稜線を薄く白みがかった霞が漂う。まだ青さを醸し出していない空は、濃度が低く薄く色を広げている。
 見送ってくれた遠甫と蘭玉、彼女の背で寝ている桂桂に別れを告げ、陽子たちは固継の里家を出発した。途中、虎嘯と夕暉が駆けつけてくれ、彼らとも別れの挨拶を交わした。その時、ふと気になった桓魋は虎嘯にあの花魁という女のことを聞いてみた。彼はあの女はここら辺じゃ名だたる花娘(ゆうじょ)だと教えてくれた。だが、花娘とは名ばかりに、あの女の手前では大概の男は門前払いを食らうらしい。捕まえる男はみな上物の将来は大物の男ばかりだそうだ。桓魋を面白そうに見た虎嘯は抱きたいのか?と揶揄して見せたが、桓魋は答えず肩をすくめただけだった(本当は男としての本能が揺らいだのはここだけの秘密だ)。次に会った時も、勝負をすると約束して、彼らは別れた。
虎嘯たちは、桓魋たちの姿が見えなくなるまで、ずっと手を振ってくれた。

 そして、彼らの姿も見えなくなり、街の豪宅が立ち並ぶ花街でのことだった。

一際大きな緑塗りの柱が立ち並ぶ、妓楼の花垂門の前を差し掛かった時、桓魋はもう会うこともないと思っていた花魁と再び出会ったのだ。

:::::


もう(まみ)えることのない女の姿に、桓魋は思わず動きを止めた。吉量が止まったことに驚いた陽子が桓魋を見る。だが花魁は緩慢に振り返り、あら…と言葉を零しただけだった。面白そうな表情を浮かべた花魁を見ながら、桓魋は吉量を降り、どうしたのか尋ねる陽子を先に行かせた。
「まさかここに来るなんてね…」
花魁に歩み寄る桓魋に、先に彼女の方が口を開いた。
「たまたま通りかかっただけだ。何故お前がここにいるんだ」
「何故って…」
花魁は小首を傾げてみせる。
「ここは私の店よ…。初めてあった時に、貴方に渡したものに、そう書いてある筈だけど…」
え、と桓魋は懐を探り、初めに渡された紙を引っ張り出した。あらぬ扱いで、紙はシワだらけだったが、未だ微かに花の香りがした。皺を指で伸ばして文字を読んだ時、桓魋はバツが悪そうな表情を浮かべる。くすくすと花魁が笑った。
「ね…?やっぱり貴方面白いわ…。まるで私に何かを言われに来たみたいね…。私が言ったこと、もう貴方はいくつか理解してるみたいだしね…」
 ますますバツが悪そうな顔をして黙りこくった桓魋に、花魁は微笑む。少し離れた場所で桓魋を待つ陽子は、空を流れる雲をじっと目で追っていた。そんな彼女に視線をやり、横目で桓魋を見ながら花魁は言葉を零した。
「やっぱりあの子は本当に不器用な子だわ…。でも、不器用だからこそ、懸命に人と関わろうとする…。その刹那に立ち向かって、光り輝けるの。刹那に流されてしまう他の人々とは違う…」
 含んだ笑みを瞳に浮かべ、彼を測るような視線を花魁は送る。桓魋は僅かに身じろぎした。
「可愛いでしょう?あの子。もう凶悪的に。懸命に、貴方を追うその姿が。誰よりも真剣に貴方と向き合う不器用なまっすぐさが。私だったらたまらなく――愛しい」
あの子は根本的に、何かが違うわ と静かに花魁は言葉を落とした。
「それがこれから先どんな形で現れてくるのか、私には分からないわ。それでも、ただ一つ分かることは、何があっても、これから貴方(・・)はあの子を追い続けるだろうということよ」
すっと花魁は美しく縁どられた目を細める。
「貴方…女を甘く見てるでしょう。あの子をまだ侮っているでしょう」
桓魋の耳元に彼女は唇を寄せた。最後にもう一つだけ、教えてあげると花の匂いが囁いた。

四年よ。四年が限度ってところかしら。その年を越えたら、貴方はあの子を子供とは認識できなくなるでしょうね。
私の言っていることが、きっと今は分からないと思うわ。だってそんな顔をしているもの…。だけど、必ず痛いほど分かる日が来る。あの子も気がついていない、そうして何より、あなた自身が、気がついていないことを知る日が。
貴方はあの子のことをまだ子供だと高をくくっている。
今はそれで良いのかもね。だけど…本当に分かっていないと思うわ。だってこれからあの子は誰よりも美しくなるんですもの。どんどん、どんどん。
そして貴方はいつか、年齢を言い訳にできなくなる日が‥やってくる。

声は克明に、緩やかな死刑宣告のようにその場に刻まれる。砂塵が舞い上がり、ふわりと衣が舞う中で、花魁は一際美しく―――笑んだ。

「それが私は――面白いの」

 呆然と、桓魋はその場に立ち尽くす。一陣の風が吹き抜け、それに押されるように桓魋は陽子の方を振り向く。
 少女はまだ空をじっと見上げていた。だが、その時彼女はふと視線を桓魋に戻す。その表情に桓魋の瞳が見開いた。

 陽子が笑う。
光を受け、太陽の中で笑うその姿は、桓魋には他の何よりも――輝いて見えた。



back index next