back index next



激しく視界がぶれる。
 吹き飛ばされながらも、桓魋は空中で体勢を整え直す。地表を滑るように、桓魋は身を低くして着地した。砂煙が吹き上がり、歓声ともつかぬ声が周囲から巻き起こる。口の中で走った血の味を地面に吐きながら、楽しそうな笑みを浮かべる虎嘯を桓魋は鋭く睨んだ。
 息を吸い込んだ桓魋は足に力を込める。

 次の瞬間――虎嘯の目の前から青年の姿が掻き消えた。
「あ?!」
 眉をひそめる虎嘯、だが周囲を見渡す暇もなく、彼の上空から影が振り落ちる。虎嘯が振り仰ぐ前に、桓魋の回転を加えた踵落としが虎嘯の背に鋭く決まった。地面に激しく叩きつけられ、一瞬何が起こったのか分からず、虎嘯は思わず咳をこぼす。先ほどより一回り大きな歓声が、その場から沸き上がった。
「すげぇ!!あいつ超強ぇ!!」
虎嘯に踵落としを食らわしやがった、と周囲からいっせいにどよめきが沸き起こる。
 歓声を裂くように、桓魋はその場から飛びすさって間合いをとった。口端に血を滲ませた不敵な笑みを、彼は口元に浮かべる。
「俺は青辛桓魋だ。互いに、挨拶はここまででいいか、虎嘯?」
 桓魋は揃えた指を虎嘯に向かって挑発するように前後に動かしてみせる。
 反対に地面を拝まされた虎嘯は、手をついて体を起こした。片方の口端を上げながら、虎嘯はじっと桓魋を見つめた。
「…!お前‥強いな‥!!」
「ま、仕事柄ってところだ」
 虎嘯の太い豪快な眉が跳ね上がる。軍人か?との問いには答えずに、桓魋は同じように片眉を跳ね上げて見せた。虎嘯の口端が、ますます持ち上がる。瞳の輝きが、増した。

 腕に力を込める虎嘯――瞬間。

 桓魋は鋭く突き出された目の前の拳を避けた。膨れたぬるい風が一気に顔に吹き付ける。
 虎嘯がからりと温度の高い笑みを浮かべた。

「おもしれぇな、お前」
「そっちこそ」

 桓魋が体を捻り、空を裂くように足で思い切り弧を描いた。虎嘯が腕で防ぎ、激しい戦闘の火蓋が切って落とされる。
 激しい打ち合いの、衝撃と音がその場に刻まれては消えていく。
 そこに立つものはもはや桓魋と虎嘯の二人だけだった。あとは二人の戦いに参加しようとしてやられて地面に転がっているか、勝てないと早々に踏んで一般民衆と同じように観戦側に乗り換えた者たちばかりだった。確かにせっかくの手に汗握る戦いは参加して一瞬でやられてのびてしまって見逃すより、観戦に回った方がおもしろいかもしれない。
 激しく体技で打ち合うこと十合弱。
 陽子たちも彼らの側まで駆け寄り、決着の機会は虎嘯が拳を振りかぶった時に訪れた。桓魋は向かってくる拳の嵐を体勢を低くして飛びかわし、すき間の空いた虎嘯の脇から、彼の背後に回り込んだ。
 虎嘯が振り返る前に、桓魋は虎嘯の耳元に囁いた。

「脇が甘いな、連打を打つのなら脇はちゃんと守っとけ。背を取られるな」

 虎嘯が目を開く。彼が声を上げる暇なく、桓魋はその背に力を込めた一撃を叩き込む。
「?!!」
 虎嘯の巨体が吹き飛んで、弾丸のように廃材の山に突っ込んだ。木切れの山に体を預けた虎嘯の顔に細かい木屑が振り落ち、彼はそれきり意識を失う。

 勝負がついたその瞬間、割れんばかりの歓声が周囲から沸き起こった。
 遠くから陽子たちが駆けてきて、夕暉が虎嘯に向かって声を張り上げた。
「兄さん!!」
「桓魋!!」
 どこからか、今日食事した店の店主が桓魋を指さし、あいつ俺が出るように薦めたんだ!としきりに主張する声が遠く聞こえた。
 桓魋は息をつく。
 ふと人混みの中に、あの花魁とかいう女の姿を見た気がした。
 桓魋は陽子に向かって軽く手を上げて見せる。ほっとしたような陽子に、桓魋は明るく破顔してみせた。
(無事で、良かった…)
 見たところ、擦り傷や切り傷などかすり傷はいくつか有るが、致命的な怪我を負っていなかったことが、陽子の胸をなで下ろさせた。
 陽子は息をついて、口を開く。
「桓…」
 だが…陽子が駆け寄ろうとしたその時、彼女より先に沢山の女たちが桓魋を取り囲み、陽子は足を止める。色とりどりの美しい衣に身を包んだ、蝶のような女たち。彼女たちの桓魋に送る視線の温度の高さに陽子は気がついた。桓魋に一番近く詰め寄った女が溶けるような声で唇から言葉を紡ぐ。
「ねぇ、貴方とっても強いのね…。虎嘯より強い男なんて私初めて見たわ。軍人さんって本当?」
「まぁ…そんなところだ…」
 ぐっと他の女が桓魋に顔を寄せた。
「守る男って最高!だからそんなに素敵なのね」
 恋人いるの?という問いが出た時点で、陽子はその場に佇むことしか出来なかった。
 視線を伏せた陽子には、剣の稽古で掌に馴染んだいくつもの豆だこがふいにその場から浮いて見えた。女たちが纏う甘い匂いと、衣の華やかな色合いが一瞬でその場を変える。

 それはまるで――花畑が現れたようだった。

 一人一人、纏う匂いも衣の色も違う。単体であっても目を奪われるのに、それは集まれば何よりも美しく視野を彩った。
 胸に灯っていた温かいものが吹き消えた。呆然とその場に立ち尽くす陽子。風が吹いて、陽子の髪を攫っていく。顔に零れた髪が揺られて、視界に線を創っていく。すべての音が遠く乾いたように、彼女には感じられた。食事の誘いに少し困ったように笑う桓魋。とろけるような熱い視線を送る女たち。未だ残り火のように燻る周囲の歓声。何もかもが遠い。


そしてその時――目の前に広がる光景を見つめる内に、陽子はある決定的な気がついてはいけないことに気がついてしまった。


 冷たいものが、胸を満たす。その気がついてしまった事実に、陽子は大きく瞳を見開く。
冷え切った頭で鈍い痛みが疼いて、心に何か鋭いものがあてがわれた。ゆるりと足がひとりでに動く。
一方桓魋は、女達に囲まれながら、なんとか首を捻った。
だが――
「…陽子?」

 桓魋が顔を上げた時、そこにもう陽子はいなかった。

:::::


 街の隅に溜まる夜の匂いは、少し澄んでいてきな臭い。
更けた夜を彩る灯りでさえも光を投げかけられない街の片隅で、桓魋は一人空を眺めていた。
空に散りばめられた弱々しく瞬く糠星を、桓魋は睨むようにして見つめる。湿気を孕んだ空気が流れる中で、背後でした物音に、桓魋は音もなく感覚を研ぎ澄ます。柔らかく、水気を帯びた女の声がした。
「悲しいわ。警戒しないで、ってさっき私が言ったことは貴方には意味をなさないようね」
桓魋は振り向かなかった。女――花魁は緩慢に首を傾げてみせる。
「それにしても‥貴方本当に強いのね。腕は立つとは思っていたけど‥あそこまでだなんて‥街の女たちの話題は貴方一色よ」
「…そうか」
振り返った桓魋は呟く。花魁はくすりと笑った。
「虎嘯が貴方たちを探していたわ…」
「あぁ、知ってる」
桓魋は目を伏せて地面を見つめる。あの後、女達を振り切って陽子を探しに出たが、陽子の姿はしばらく見つからなかった。暗闇の中姿を消した陽子は、土手の所でうずくまっていた所を桓魋が見つけた。土手で足を滑らせたらしく、足を怪我して小さくなっていた。見つけた桓魋が抱き上げようとしたら、その手は思い切り振り払われた。以来、陽子は桓魋に対して口をきかない。最近ではどことなく、桓魋の方が視線を外すことが多かったのに、陽子は今彼と視線を交わそうともしない。その後陽子を探しだした桓魋たちのところまで、虎嘯はわざわざ顔を出してくれた。陽子が足を痛めたことを聞いた虎嘯は見舞いの品と共に、体が大丈夫そうだったら、三日後の夕食を馳走させてくれと桓魋と陽子に言い残していった。今日流れてしまった夕暉の礼も兼ねて、夕食会をしたい、とのことだった。虎嘯は陽子と桓魋、二人のことを大変気に入ったらしい。
 陽子の様子を兼ねあえて桓魋はどうするか考えたが、当の本人である陽子に、行くか?と聞いたら、短く行くとだけ答えたので、虎嘯には是の意を示しておいた。
陽子と会話をしたのはそれだけだ。
「なんであの子は口をきいてくれないのかしらね?」
ぴくりと桓魋が反応する。花魁はくすくすと目元を溶かす。
あの後、先ほどの僅かな時間の鱗片の中で、身体に傷を負った以外に、陽子の心情で何が起こったのか。桓魋には分からない。
バツが悪そうに、桓魋は口を開く。
「…あんたには分かるのか」
「貴方は、どうしてだと思うの?」
桓魋の顔が苦々しく歪む。
「最近ずっと様子がおかしいのも気になっていた。あいつは、海客だ。…ずっと、帰りたがってた。恐らくそれは確実に関係している。でも今日になっていきなりあんなふうな態度を取る部分の、理由がわからない」
続けられた声は、風に吹かれて消えていく。ただひとり最後まで桓魋の声を拾った花魁はただゆるりと首を傾けた。
「そう…」
桓魋の顔が一層渋くなる。ぐしゃぐしゃと髪を掻きながら、桓魋は溜息をついた。
「最近、あいつはわからないことが多くなってきた…。情けないが、年頃の子どもの心情は俺にはわからん」
小さな頃の陽子の笑顔が桓魋の脳裏に浮かぶ。無愛想さを増した今でも、時折浮かべる笑顔はあの頃の面影をいまだに残している。素直に思ったことをなんでも桓魋に話してくれた陽子はもういない。
影が滲んだ桓魋の横顔が俯く。じっと彼を見つめていた花魁が、ふっと弱く吐いた煙管の煙が、燻って桓魋の顔を撫でた。白く美しい顔が桓魋の目の前に現れる。彼の瞳は揺らがなかった。
「ふふ…とっても面白いわね、貴方たち…」
彩で縁どられた、細目型の瞳が更に細まる。
「今まで見てきた〝人〟の中でもとびきり面白いわ。貴方は、まだ色々と分かってはいないみたい…。あの子のことも…自分のことも…ちゃんと話し合ってごらんなさいな。あの子の本心を見てごらんなさいな。まだ知らないことを知った時、あなたはどうするのかしら…」
多分びっくりするわ、そう言って、彼女は口をゆっくりと開く。
「―――――」
紡がれる言葉に、桓魋の目が初めて驚いて開いていく。
言葉を紡ぎ終えた花魁は、意味深な微笑みを浮かべ、衣擦れの音とともにその場から消えていく。

空に散らされた光の粒が、弱く瞬く。

 最後残された桓魋は、今耳にした言葉に眉を寄せながら、じっと花魁が消えていく光景を見つめることしか出来なかった。

:::::


 それから――三日後。
陽子は未だ桓魋と目も合わせようとしない、口もきかないという状況のまま、蘭玉と桓魋の三人で、虎嘯兄弟が営んでいるという舎館への途を歩んでいた。歩きながら、桓魋はちらりと陽子の方を見るが、陽子は桓魋の方を見ようとはしない。彼女の隣で、蘭玉が楽しそうに陽子に話しかけていた。
 やがて視線の先の舎館から、顔をちょこちょこと覗かせていた夕暉の姿が見えた。夕暉も陽子たちの姿を目に入れたらしく、ぱっと飛び出してきて、彼らに向かって大きく手を振った。その後から、続いて虎嘯も顔を出す。辿り着いて、招かれるまま、陽子たちは食事処に足を踏み入れる。虎嘯は笑顔で口を開いた。
「よく来てくれたな、お前ら!怪我の方は大丈夫か、陽子?」
陽子は短く一つ頷く。そうか、と虎嘯は軽く陽子の肩を叩く。軽く、といってもそれはかなりの強さで、陽子は思わず前につんのめった。陽子の隣にいた蘭玉と、夕暉が笑う。
食卓の卓上には、既に様々な料理が並べられており、どの料理からも柔らかく湯気が立っていた。食おう食おうと虎嘯が言うので、皆それぞれ席につく。皆が座ったのを見届けた虎嘯は、酒を頭上高々に上げ、口を開く。
「じゃあ、みんな飯の前にちょっとだけ俺の話を聞いてくれや。今ここで夕食会を開いたのは他でもない、ここにいる勇敢な坊主と可憐なお嬢ちゃんが夕暉を助けてくれたからに他ならねぇ。二人共本当に、ありがとな!そして更に、今日は桓魋の健闘の祝賀会も兼ねたつもりだ、みんな腹一杯食ってくれ!」
わぁっと蘭玉は手を叩く。だが、桓魋と陽子と夕暉は眉を寄せ、虎嘯をじっと見上げた。虎嘯に、陽子がゆっくりと口を開く。
「勇敢な…坊主…?」
「?そうだ!陽子、お前のことだぞ?」
更に陽子の眉根がよる。頬を掻きながら、言いづらそうに、陽子は口を開いた。
「私は…女、なんだが…」
 一瞬、何を言われたか分からないように、虎嘯と蘭玉がポカンと陽子を見る。だが、次の瞬間、えぇ?!と虎嘯と蘭玉が盛大な声を上げる。桓魋が思わず苦笑いを零し、そして夕暉が兄さん‥と頭を抱える。蘭玉は口に手を当てたまま、目を開いて陽子を見つめていた。陽子は特に気にした様子も無く、笑ってみせる。
「いや、まさかとは思ったけど、ね。間違えられるのは慣れてるからいいよ。‥私は女だ。夕暉が間違えていなかったのが不思議なくらいなんだ」
「兄さん、女性の性別を間違えるなんて失礼だよ」
「う゛‥」
言葉を詰まらせた虎嘯の横で、蘭玉は顔を真っ赤にして頬に手を当てた。陽子は蘭玉を見て笑う。
「いいよ。もしかしたらと思っていたけれど‥蘭玉も私のこと男だと勘違いしてたんだね」
「ご、ごめんなさい‥私ったら‥」
恥ずかしさに頬が燃えそうだ。しかも男の子じゃなかったことに少しならずがっかりしているのも、蘭玉はとても言えそうになかった。小さく縮こまってしまった蘭玉に、陽子はきょとんと首を傾げる。桓魋は声を押し殺して笑っていたが、陽子に睨まれ、すいっと視線を泳がせた。料理の匂いが漂う中、楽しい食事の時間は過ぎていく。
桓魋は少し期待したが、それ以上桓魋と陽子の視線はあうことはなかった。

:::::


 ずっと溜め込んだ様々な想いが絡まり合う。潰されるような圧力を胸に感じて、陽子は小さくうつむいた。

 それからしばらく宴会に似た食事会は続くなか、酒で出来上がった虎嘯が幾度となく桓魋に絡んできては、それをかわしたり宥めたりしなければならなかった。だが最終的に弟からの雷が落ち、虎嘯はしゅんと体を縮めた。今は小さくなって夕暉に説教されており、大分大人しい。蘭玉が横でくすくす笑っていて、兄弟の力関係はもはや明白だった。桓魋も軽く微笑む。ふとその光景から視線を外した時、桓魋は、陽子の姿が食卓から消えていることに気がついた。
(‥?)
辺りを見渡しても、どこにもいない。桓魋は席を立ち、蘭玉に小さく囁いた。
「少し出てくる。陽子がいないから、探しに行ってくる。後は頼んでも良いか?」
蘭玉は桓魋に頷いて、是の意を示した。桓魋は礼を言い、その場を後にする。

外に足を踏み出せば、濃い植物の香りが辺りを包む。

濃い暗闇が満たす空間に、桓魋は陽子の姿を探せば、舎館の裏通りを歩いた池のそばに、小さくうずくまる影を見つけた。
 陽子は大きな川沿いの大きな石に腰を下ろしたまま、履を脱いだ裸足の足先を川に泳がせていた。ゆらゆら月明かりを砕いて揺れる水面は、歪に彼女の姿を映し出す。
朗々とした、声が響いた。
「探したぞ」
たぽんと池に石が投げ込まれた。重い音と共に、見つめていた水面が大きくうねり、歪に弾かれた自分の姿が崩れていく。陽子は驚いて振り返った。そして後ろを振り返った陽子は、背後の丘にいた人影にはっと視線を逸らす。
陽子は顔を逸したまま呟いた。
「桓…魋…」
月明かりを纏う見慣れた人影、月影に顔を濡らす桓魋の顔を、陽子は見ることが出来なかった。陽子の隣の石まで彼はひと飛びで着地する。かすかな沈黙がその場に訪れ、そうして隣に座った彼はほんの少しだけ微笑む。
「少しお前と、話したい」
いいか?という声に、陽子は何と答えたらいいのかわからなかった。気まずい思いをしながら少し間を置けば、桓魋はそれを肯定と捉えたらしかった。
夜の匂いが染みた、秋風が二人の間を吹き抜けていく。桓魋は月も綺麗なもんだな、とからりと笑った。
 陽子はなんと答えて良いのかわからなくて、ついそっぽを向く。月なんてどこでも見れるよ、と陽子は唇を尖らせた。
「まぁそう言うな。ほら、あそこの星を見てみろよ!あの星とあの星!」
空を指差した桓魋の指先と重なる星を探して、陽子の目が泳ぐ。だけどどれか分からずに、陽子はついに口を開く。
「…どれ?」
「ほら、あれだ。あの赤っぽい星と白っぽい星…あそこの星をつないだら…」
 夜空を指でなぞりながら、桓魋の口元が、何かを堪えるように力がこもる。微かにひくひくと笑いをこらえる桓魋を不審に思いながら、陽子は眉をひそめて尋ねる。
「…つないだら?」
「浩瀚様の顔」
夜空に描かれた白目を剥いた大変酷い浩瀚の顔に、ぶはっ!と思わず陽子が吹き出した。桓魋もこらえきれなかったらしく、自分で思いついたくせに口を歪めて笑いに耐えていた。予想外の抜群の破壊力に、腹筋が痛い。しかも陽子が必死で笑いをこらえて夜空から目を逸らしても、今度は桓魋が夜空の浩瀚の表情をそっくり真似してくるものだからもうどこにも逃げ場がない。追い打ち攻撃で吹き出した陽子の腹筋は大変なことになっていた。浩瀚がこの場にいたらどうなるか考えるだけで背筋が寒いが、とにかく陽子は月を台無しにした夜空を見るのがしばらく大変だった。
陽子の様子を見て、桓魋はへへっと笑う。
「…笑ったな」
 はっと陽子は瞬く。僅かに動揺して、陽子はさっと下を向いた。桓魋は穏やかに笑った。
「浩瀚様には悪いことしちまったが…感謝するよ。お前、ずっと何かに悩んでただろ?」
陽子の目が無意識に泳ぐ。桓魋が何に踏み込もうとしているか微かに察し、陽子の頭が冷えていく。
「あんまり溜め込むなよ、お前は笑ってる方が良い」
 微かに顔がこわばって、陽子は更に深くうつむいた。虫が静かに鳴いている。
先程と打って変わったような空間。
そういえば、蓬莱の昔の人は、虫が鳴いているこんな夏の日の夜を、「静か」と言ったのだと幼い頃に聞いたことが、今になって脳裏に流れた。
染み入るような音にも負けて消えてしまいそうな声が、陽子の口からこぼれた。
「わ…私は悩んでなんか…」
 うそだ、と自分の中の自分が冷たく言い放つ。
 静謐な桓魋の視線は、逃れられない。陽子は必死に視線を合わせないようにしながら、自分の心臓が静かに駆け出し始めたのを感じた。押さえ込んでいた見ないようにしていた激情が静かに、暴れだす。何もかも受け入れるような桓魋の視線が、憎らしかった。
桓魋が緩やかに顔を陽子の方に向ける。
陽子はその顔を見ずに、言葉を続けた。かすかに震えて、何かを堪えるような、自分の中の溢れる何かを抑えるような、声、だった。
「…放っておいてくれ」
「悪いが、そりゃ聞けない頼みだな」
「…!」
陽子は唇を噛んで睨む。飄々としたように見せているが、引く気配のない桓魋に陽子は言葉を失い…小さく息をついた。

しばらくの間、静寂があたりを包んだ。

沈黙の中ポツリと観念したように彼女は呟く。
「どうしようもないのに、言ってどうしろと言うんだ…」
 桓魋は何も言わない。彼に向かって、陽子はポツポツと呟く。
「色んなことを、私は‥気がついてしまったんだ‥。知らなかったころには戻れない‥。もうどうしたらいいのか、私は‥私は分からないんだ‥」
 わななく唇を、陽子は懸命に噛み締める。言いたくないと言いながら、呟くのを徐々に徐々に、抑えられなくなっていく。真摯に陽子を見つめる桓魋の瞳に映った自分は顔を真っ赤にして手を震わせていた。言いだしたら、止まらなくなることに、陽子が一番驚いていた。陽子にとっては、溜め込んでいた色々なことが重なって、限界まできていた。
「私はここで‥色々なことを‥学んだ。言葉も、文化も、世界の理も、国を動かすしくみも」
俯いて、陽子は言葉を搾り出す。私さ…と小さな声が落ちた。観念したような、声だった。
「ずっと…帰りたいって言っていたの、桓魋は覚えてるよね?」
いつか、日本に帰る。母に会える。それだけを支えに、陽子は今まで生きてきた。だが今まで支えてきたその想いこそが、彼女を今苦しめていることの一つになっていた。
ただ頷く桓魋に、陽子は唇を噛み締める。どうしようもないことなのに、誰にぶつけたくて仕方がなかった想いが、強く胸を焦がしていく。帰りたいとバカみたいに繰り返している自分の声が、脳裏に響いた。

陽子は年を重ねて、二つの真実に気がついてしまっていた。一つは、時をかけて、ゆるゆると…。そしてもう一つは先日、雷に打たれるように。どちらも陽子に、打撃を残して。打撃は翳りとなって浮いて出た。

もうただ稚かったあの頃には、戻れない。

だって、今なら陽子は分かるから。遠甫が何故陽子に「まだ早い」と一番初めにそのことを教えなかったのか、残酷なくらいはっきりと、理解できてしまったから。

 遠甫は一番緩やかな方法で、彼女が真実に気がつけるよう手を回していたのだ。自分で力をつけ、自力で気がついた時には、それを受け入れこの世界で生きていけるように、幼い陽子に絶望を与えないように。自力で力をつけさせていくということは、陽子のためになると同時に、とんでもなく残酷な思いやりだった。何も知らなかったあの頃のようにはいられない。だって――。

 もうすでに陽子は自分の力で、遠甫からもらった世界について、蓬莱について、海客について、真実を記されたあの本が読めるのだから。

胸に熱いものが込み上げて、だけど本当は、と言葉を続けて囁く陽子は声が詰まる。それでも、陽子は桓魋の瞳に映る、ここに来た頃から年を重ねた自分を見つめながら、心の中で叫んだ。声に出して叫んだ。
帰りたいと思っていた。でも、私は――。私は、

「帰れないんだろう?!もう…二度と!この世界から、私は戻れない…!戻れないんだろう?!!」

桓魋の瞳が、大きく見開く。陽子は必死に、肩で大きく息をする。一層強い風が吹き抜ける。少女の声だけが音響を残して消えていく。


二人以外、そこには誰ひとりとして人の気配は無い。水面に映る月明かりが鈍く光って―――砕けていく。



back index next