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 薄く砂塵が駆け抜ける。
翡翠の瞳の少年を、男子たちは気に入らなさそうに睨みつけた。
「何だよ、お前」
「まーた新しい奴が来たよ…」
こうなったらもう全員やっとけばいいんじゃねぇの?と嗤う彼らに、翡翠の少年は目を細める。短く一言一言区切った言葉を発する。
「その子の手を放せ。失せろ。今なら見逃してやる」
「はぁ?失せろ、だってさ!」
「コイツ、何言ってんの?!」
ゲラゲラと笑う彼らに少年は表情を変えない。もう一度だけ言う、と微かに低い声が流れた。
「失せろ。痛い目を見たくなかったら、帰れ」
ピクリと男子たちの眉が跳ね上がる。険を剥き出しにした一人が、拳を固めて少年に振りかぶった。血管を浮かせて、叫ぶ。
「痛い目見るのはテメェだよ!」
少年の指が微かに動く。拳は間違いなく彼を狙った筈だった。だが拳は少年に当たらず、彼が先程までいた場所で空を裂いた。透かした感覚に、男子は思わずたたらを踏む。
紅の髪が翻り、次の瞬間体勢を低くした翡翠の瞳の少年の拳が男子の腹に打ち込まれた。
「な…?!」
少年の翡翠が鋭い光を帯びる。
空中に飛び上がる彼の右足が空気を裂いて円弧を描く。筆頭格の男子の顔面に鋭い回し蹴りが食らわされた。
「は…?!!」
吹き飛ばされた男子が地面に倒れていく中、軽やかに少年は地面に着地した。男子が倒れる時にあげた砂埃が、着地する真紅の髪の少年の衣服を撫でて流れていく。
倒れた仲間と一発で伸びてしまった彼らの集団での筆頭格の男子を、彼らは呆然と口を開けて見る。
翡翠の瞳がじっと彼らを見ていることに気がついた次の瞬間、彼らは悲鳴を上げて散り散りに散っていった。倒れた仲間を引きずりながら、必死にその場から逃げていく様子を蘭玉はポカンと口を開けて見送る。
 男子たちが視界から消えた時、へたりこんでいた蘭玉ははっと我に返った。
隣に視線を送れば、自分と同じように黒髪の少年が呆然とその光景を見つめていた。紅髪の少年がそっと蘭玉の目の前に屈む。
「大丈夫?怪我は、ない?」
逆光で、少年の顔には薄い影が落ちている。
そんな中でも、深く澄んだ翡翠の瞳が煌めいて、思わず蘭玉は視線を逸した。顔が熱く、胸がうるさいのを抑えながら、蘭玉は必死に言葉を押し出した。
「だ、大丈夫。た!助けてくれてありがとう…」
 大したことはしてないよ、と少年は微笑んだ。同じように地面に腰を落としている黒髪の少年に彼は向き直る。
「君は?頬を殴られたみたいだけど、大丈夫か?」
黒髪の少年は、首を振ってじっと真紅の髪の少年を見つめる。ペコリと彼は頭を下げた。
「ありがとうございました…!僕ひとりじゃ、どうしようも出来なくて…お姉さんも、ありがとう」
蘭玉は目を丸くした。自分より年下そうなのに、その話し方は丁寧で、知性を感じさせるものだった。同じ里家に住む、彼と同い年の子でも、さすがにここまでの利発さは無い。
少年の黒眸が煌く。
「僕は、夕暉、と言います。あの人たちは、僕と同じ小学に通っている先輩です。昇級させてもらって、同じ級で勉強しているんですが、それがあの人たちは気に入らないみたいなんです」
それを聞いた紅の髪の少年が、不愉快そうに顔を顰める。二人に手を貸して立ち上がらせながら、少年は眉を寄せた。
「そうか…。人を攻撃したところで、自分は変わらないのに…。下らないな」
ありがとうございました、ともう一度夕暉は頭を下げる。彼は、表情を明るくして声を上げた。
「あの、助けていただいたお礼に、何かさせて頂けませんか?お願いします。僕の兄が、舎館を営んでるんですが、そこで、今晩お二人に何かご馳走させてください!」
えぇ!と蘭玉の声がひっくり返る。
「わ、私何も出来なかったのに…」
夕暉は笑顔で首を振る。口元は明るく綻んでいた。
「いいえ、お二方のおかげです!本当にありがとうございました。誰もが素通りしていく中で、お二人だけが僕を助けてくれたんです」
何かご予定がありますか?との言葉に蘭玉は首を振る。隣の少年も、同じように首を振った。
夕暉は街角に見える小さな黄色の扁額を指差す。
「あそこが、僕たち兄弟が営んでる舎館です。多分この辺りは、今夜は豪傑選挙でごった返すだろうから…八時くらいにでも。見もののお祭り騒ぎの後、いらしてくだされば、何か美味しい物をご馳走できます」
もう一度頭を下げて、夕暉は身を翻した。
「きっと、いらしてくださいね!本当に、ありがとうございました!!」
 小さくなっていく、夕暉の姿を手を振って見送りながら、その場には蘭玉と紅の髪の少年が残された。少しだけ面はゆい心地で、蘭玉は少年に向き直る。
「私からも…ありがとう。本当に貴方のおかげだと、思ってる」
少年は微笑む。
「私は大したことはしてないよ。貴方は、とても勇気があるんだね」
名前は?と問われて、蘭玉は恥ずかしそうに頬を掻く。
「蘭玉よ。蘇蘭玉が本名だけど…今日弟と一緒に、この地に来たばかりなの」
よろしくね、と微笑む彼女は、目の前の少年を見てきょとんとする。少年は驚いたような顔で、蘭玉の顔を見ていたからだ。
「そうか…貴方が、今日から里家に来るっていう…」
「え??」
少年の顔が綻ぶ。その太陽のような笑顔に、蘭玉はどきりと胸が高鳴るのを感じた。彼は蘭玉の手をとって、握手する。明るい声で、少年は言葉を続ける。
「私は陽子だ。陽気の陽に子どもの子で、陽子。私も今は一時的に里家でお世話になっているんだ」
目を瞬く蘭玉に、陽子は笑う。地面に落ちていた袋の砂を払い、蘭玉に差し出す。礼を言って蘭玉は袋を受け取った。買い出しの途中?との言葉に、蘭玉は頷く。
「今日来たばかりじゃ、まだどこかいいか分からないだろう?」
頷く蘭玉に、陽子は笑う。陽子が口を開いた時、空の青さが増した気がした。
「私も買い物、手伝うよ」
翻る紅が眩しい。陽子を少年だと勘違いしている蘭玉は、その申し出に体温が上がるのを感じた。


 少し暮れかけた空の下、二人の細い人影が途に伸びる。
買い物を終えた二人は里家への道を辿っていく。買いだした食材を、陽子は蘭玉の分まで持ってくれた。目に見える空の温度が少し肌寒い。横で揺れている紅の髪を意識しながら、玉葉はぽつりと口を開く。
「陽子、って不思議な名前ね…。私初めて聞いたわ。でも、とっても素敵な名前だと思うの」
「そうだな…珍しいだろうな。私は海客なんだ」
蘭玉の足が、驚いて止まる。
陽子はその反応に特に気にした様子も見せずに、少しだけ微笑んで見せた。
「蓬莱、あちらの名前だよ。私の本当の名は、中嶋陽子。この世界では使うこともない、私の名前だよ…」
 微かに空に残った光が、陽子の顔を浮かび上がらせる。その瞬間、表情に一気に影がさした。
陽子の表情に拭えきれない何かを見て、蘭玉は思わず言葉を失った。陽子は目を逸らし静かに横たわる途に視線を落とす。空の上で、紫と濃紺が溶け合う光景を見つめながら、いつかね、と陽子は呟いた。
「私は、帰りたいと思っているんだ。帰り方は今はまだ分からない。何もかもに別れを告げないまま、私はこちらに来てしまったんだ。父も、母も、私が生きていることさえ…知らない。生きて、私はいつか…帰りたい」
 歩く背中が真っ直ぐに伸びる。こんな話をしてすまない、と陽子は蘭玉を見て笑った。
蘭玉は何も言えぬまま、静かに揺れる紅の波を見つめた。見え始めた里家の大門が嫌に霞んで見える。
横に見える陽子の横顔だけが、静かな色合いを湛えていた。その奥に何を隠しているのか分からない。
でも大門の前まで来た時に、蘭玉は隣の気配が消えたことに気がついた。振り向けば、大門の前で立ち止まった陽子が軽く手を振っている。
「じゃあ、また後で」
蘭玉は目を丸くして陽子を見る。一緒に入らないの、と言おうとしたそれより先に陽子の方が先に口を開いた。
「連れと、約束があるんだ!」
先ほどとは打って変わった、どこか晴れやかな声が、薄闇の中響きわたる。
 陽子の顔が、暗がりに負けないくらい嬉しそうに輝いているのが、遠くからでも蘭玉には見て取れた。陽子は大きく手を振る。
蘭玉は陽子の方に一人の人影が歩んで来たのに気がついた。二十歳を少し過ぎたくらいの青年か。顔立ちの微かな鋭さが彼を実際の年齢よりもより大人びて見せた。
 陽子は彼にむかって嬉しそうに駆けていく。

 光が沈んだ中、太陽のように微笑む陽子の姿を、蘭玉は目を細めて見送った。

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 薄闇が辺りを浸す中、高い金属音と、微かな火花が散っては溶けて消えていく。
ここは人の気配のない、荒れた空き地。陽子は汗ばんで滑る柄を握り直し、再び体勢を整え直して桓魋に斬りつける。いとも簡単に弾かれて、陽子は後ろに吹き飛ばされる――その繰り返しだった。
 それでも、陽子は受身の姿勢を取り、何度でも桓魋に向かっていく。武芸の型も剣の振りもすべて桓魋から教わって陽子は吸収していった。その飲み込みの速さに桓魋は驚かざるを得ない。武芸自体は共に住み始めた頃から、型を教えてはいたのだが、剣技の方はまだ始めて二年程だ。だが陽子は既に白刃を自分の手足のように使いこなすまで成長している。行く末が恐ろしい腕前だ。
「やあああああ!!」
剣を振りかぶる陽子の肩はさすがに長時間の稽古により、疲れが見え始めている。
「‥遅い!」
長槍を振るった桓魋は、陽子の剣の白刃を掬い上げ、彼女の腕から剣を弾き飛ばす。

剣は回転しながら、小さな円を幾つも描いて地面に深々と突き刺さった。

空を覆う夜の色の深さとその様子を横目で見た桓魋は表情の鋭さを解いて、笑う。
「今日は終わりだ」
僅かも息が乱れていない桓魋とは裏腹に、陽子は激しく息を切らしながら、両膝に掌をついて体を折る。息も絶え絶えに陽子は腹から声を絞り出した。
「はぁっ…!はぁっ…!ありがとう…ござい‥ました‥!」
袖で汗を拭いながら、陽子はその場に座り込んだ。水筒に入った水を手渡され、陽子は夢中でそれに口づけ水を飲む。隣に腰を下ろした桓魋の気配を感じながら、陽子は大きく息をついた。桓魋はじっと陽子を見つめる。表情が微かに翳っているのを桓魋は見逃さなかった。
陽子は最近、時折翳りのある表情を見せる時がある。
でも陽子はその表情を桓魋に見せないようにしているようだった。訊こうにも、陽子がそれを自分から言おうとしないのならば、それは訊いてもよい部類のことではないと思っている。

陽子が口にしないのは――それが桓魋にもどうしようもできないと分かっているからなのだろう。

頭を掻いた桓魋は、それでもなんとか陽子を元気づけようと思いつくままに沈黙を破ろうとした。
「それにしても‥お前も強くなったな。その風情じゃ男にしか間違われんだろうに?!」
言葉を言い終わる前にバチンと背中を叩かれる痛みに桓魋は仰け反る。悶絶する桓魋の横で、陽子は涼しい顔で水筒に再び口付ける。桓魋は起き上がって抗議の声を上げた。
「何だよ!本当のことを言ったまで…っていててて!」
「一言多い」
ぷっと頬を膨らませたまま、陽子は桓魋の耳を引っ張る手を離した。桓魋は耳をさすりながら、体を陽子から離す。
陽子は元来の性格か、成長するに従って口数も自然と減っていった。幼い頃から桓魋のお古を着ていた陽子は、その動きやすさもあり、すっかり男物の服の方を好んで着るようになっていた。またそれが似合ってしまい、今では傍から見たらもう少年にしか見えない。実際間違われることも一度や二度では無く、本人もそれを自覚して特に気にしている様子も見せないのに、桓魋に関してだけは彼がそれを指摘するといつもむくれる。
 元気にはなったが機嫌が悪くなった陽子は、軽やかにその場から立ち上がる。どこに行くんだ、との桓魋の言葉に、陽子は一言で答えた。
「お食事会」
「お食事会?」
「今日色々あって招待されたんだ」
「そりゃあ面白いな。そういえば、俺も今日何かよく分からないもんに誘われたな」
「どんな?」
「なんとか選挙っていう、この辺りで一番強い奴を決める大会かなんからしい。血の気の多い連中ばかりだな、ここは」
 そういう奴らは嫌いじゃないが、とにやりと桓魋は笑う。
ふぅんと陽子は唇を尖らせた。少し何かを考えるように、陽子は顎に指を当てる。やがて、何かを思いついたような顔をした陽子は、ひょいと桓魋の目の前に屈み、彼を見た。
「…何だ」
陽子はじっと桓魋を見つめる。
「じゃあさ、一緒に行かない?」
「?」
眉根を寄せた桓魋に陽子の口端が、にっと上がった。
「だ―か―ら。そのなんとかかんとかに一緒に行こうって言ってるんだ」
「な、なんとかかんとか…お前話聞いてないだろう」
「今日夕食に招いてくれた子が、言ってたんだ。通りはいつもごった返すくらいの騒ぎだって。どんな騒ぎなのか見てみたいんだ。食事に招待されたのは、その盛りを過ぎた時間だし。ね!いい機会だし、一緒に行こう!」
「また野次馬根性がでたな」
陽子は笑う。服についた泥を払い落とし、陽子は桓魋の腕を引っ張った。先ほどの翳りが晴れたその楽しそうな顔に、桓魋も口角をあげる。

腕が抜けるとかなんとか言いながらも、桓魋は陽子に押されてその場から立ち上がって、広途の方に足を踏み出した。

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 灯火が街を彩る。その光景の中を、陽子と桓魋は二人並んで歩く。陽子の方がまだまだ歩幅が狭いので、桓魋は彼女と歩く時はいつも遅めに歩いている。何か興味があるものを見つけたら猛烈な速さで駆けていく陽子にはあまり意味はないのかもしれないが、それでも二人で並んで歩く時には桓魋はいつもそうしていた。
 そしてその時も陽子は目線の端に何かを見つけたらしく、あ!と声を上げ見つけたものに向かって駆けていく。
見れば道に出ていた黒髪の少年が陽子に向かって手を振っているのが見えた。陽子は桓魋に向かって振り向きながら声を張り上げた。
「少し、話してくるね!すぐ戻ってくるから!!」
ブンブンと桓魋に向かって手を振る陽子に、桓魋は笑ってひらひらと手を振り返す。
紅色が翻って街路の奥に消えていくのを見送って桓魋は目を細める。ふと、視線を視界の片隅に揺らぐ灯火に目を移した時、艶やかな声が桓魋の耳に投げかけられた。

「随分あの子に弱いみたいね」

 色男さん、という声に桓魋は驚いて振り返る。
そこには、傍の柱に寄りかかるようにして一人の女が桓魋をじっと見つめていた。珠のような白い肌、艶やかな髪は簪を差し込まれ、煌びやかに結えられている――享楽の匂いを纏う女だった。紅をはいた口元が美しく笑みを型どる。一瞬どこかで見たことがあるような気がしたが、それがどこでだったか、桓魋は思い出せなかった。
「べっぴんさんが俺に何の用だ?」
「やだ…。さっきの店で視線を交わした、と私は思ったんだけど…。どうやら私の思い上がりだったみたいね…」
 ふっと悲しげに緩慢な吐息をつく女に、主人と話している最中自分に視線を送っていた女がいたことを桓魋はその時思い出した。女が言いたいことを言外で悟った桓魋の瞳が笑んだ。
「…女には苦労していない」
女は口元を袖で押さえてころころと笑う。
「…でしょうね。女って自然といい男には群れるから。あなたにとってはやっぱり意味をなさなかったわね。でも女にとっては良い男がいたら覚えておくものじゃない?上物を捕まえたいのはみんな同じ。貴方、軍人さんなんだって?」
「しがない兵隊の一人だ」
そうなの、と女は首を傾ける。
「連れっていうのはあの子のことだったのね。凛々しくて、素敵な子だわ…」
男だったら目星をつけておくのに、と微笑む女に桓魋は動きを止める。
「あの子が…女だって、分かるのか?」
「無論。これでも色んな男と女を見てきているの。希な種類の子だわ…でも――可愛い」
「…可愛い?あいつが?」
女の桓魋を見るその瞳にはどこかおもしろがるような色が浮いている。その不可思議な色合いは、何を考えているのか透かして見せることはしなかった。するりと桓魋の目の前に衣を滑らせ、彼女は顔を寄せた。
「貴方もこの辺りでは絶対にお目にかかれない種類の人ね…。それに若いけど、どこか渋くて…色っぽいわ。女なんかイチコロ。あの子のことも注意しておかなくちゃね」
陽子の名が出た瞬間、ゆったりと構えていた桓魋の表情がゆるりと女に対して警戒するように静かに締まった。
「…あら、私踏み込み過ぎちゃったみたいね…」
僅かな桓魋の表情の揺れを見逃さない洞察力を持つ女に、ますます侮れなさを覚える。視線と視線が交錯するなか享楽の臭いが揺れた。
「ちょっと貴方を口説いてみただけ」
くすりと彼女は笑む。
「私の名は花魁(かかい)
彼女は空中に、すらすらと白い指で名前をなぞってみせる。
そう言って気を張った様子も見せない女は、なめらかな仕草で桓魋の袍の襟に何かを差し込む。滑るように彼女は桓魋の脇を通り過ぎた。艶っぽい声で、女は桓魋の耳元に囁く。
「そんなに怖い顔しないで…。私はただもう一度貴方に会いたいだけなんだから…」
意味深に微笑んだ花魁は、きっと来てね、と桓魋の胸元に視線を落として囁く。桓魋は視線だけを差し込まれた胸元の小さな紙に落とす。
立ち去りかけた彼女はくすくす笑いながら、ふと振り返って桓魋に言った。
「あ‥あと貴方がもし腕に自信が無いのなら、早くあの子を連れてここを逃げたほうが良いわよ…しがない軍人さん」
目だけで彼女の意図を問うた桓魋に、だって…と花魁は頬に手を当てて息をつく。
「弱ければ、命がいくつあっても足りないもの。今日はその参加が目当てでここに来たんじゃないんでしょう?この時間帯にこの辺りをうろつくなんて、誘っているようなものよ」
 その瞳が桓魋の背後を見て、面白そうな光を湛える。霞んだ風が流れ、砂煙が吹き荒れる。その瞬間、先程までうるさいくらいだったのに、不気味すぎるほどの静けさがその場に満ちていることに桓魋は気がついた。
花魁は零れた髪を掻き上げながら――言葉を紡いだ。

「もう、豪傑選挙が始まるみたい…」

 桓魋の視線が滑り、時刻を見る。時刻を示す指標が指すのは午後、六時。桓魋が薄く目を見開くのと、影が彼に落ちるのと、花魁が微笑むのは同時だった。

次の瞬間――自分に向かって振り下ろされる巨大な樽を、反射的に桓魋は鞘から抜き放った戈剣で真っ二つに叩き切る。振り返り際に桓魋は背後で樽を投げつけた男を固めた拳で吹き飛ばした。その動きの鮮やかさに、物陰に身を潜めていた者たちは思わず声を失う。花魁と話している時から感じていた殺気はこいつらだったか、と桓魋は睨んだ。
 桓魋に攻撃を仕掛けてきた男が倒れた瞬間、それが何かの合図だったように息を潜めてその光景を見ていた他の男たちが蛮声を張り上げた。桓魋めがけてまっしぐらに突進してくる。
(…!)
 桓魋の脳裏に、今日の昼、忘れかけていた食事処の主人から聞いた話が木霊した。

午後六時、誰かが誰かに戦いを挑んで、一人でも勝者が出た時点で、それが豪傑選挙の始まりの合図だ。ルールは簡単。勝者が出た時点で、そいつが「挑まれる者」となってあとのやつらが皆「挑む者」になる。最後に立っていた者が勝者だ。参加したくなかったらその時間帯にここらへんは歩かない方がいいぜ。戦いを挑まれても受けずに逃げたほうが無難だな。

遅ぇよ!!

今更脳裏に響いた声に胸の中で叫んでも、虚しいだけだ。桓魋は高く飛び上がり、突進してくる男たちをかわした。着地して、突き出される拳をかわし身を低く屈めて、両手を地面について回し蹴りを男たちの足に食らわせる。鋭い動きで十人程をのした後、桓魋は低く走り出した。男たちは蛮声を上げたまま、桓魋の後を追う。
「くそ…!」
男たちは次から次へと湧いて出て、まるで限りがない。
 桓魋の姿は疾風のごとくその場から消えていく。負けじと脚自慢の男たちが、その後に続く。


胸元から取り出した煙管に火をつけ煙を燻らせながら、花魁は口端を軽く上げる。
「今年の豪傑選挙はこの通りから」
腕自慢の男たちは、青年を倒そうとその姿を後から後から追いかける。一人の「挑まれる者」を倒すために殺到する「挑む者」達。通年では「挑まれる者」は次々と変わっていき、最初に「挑まれる者」になったものが優勝者になった試しは本当にごく希だ。

――今年は果たしてどうなるか。

花魁は薄く目を細める。その目には小さく揺れる青年の後ろ姿がある。楽しそうに、彼女は一言、呟いた。
「何よ、強いじゃない。参加する気なんてなかったのに、巻き込まれちゃったわね…。今年の〝挑まれる者〟は果たしていつもみたいに簡単に入れ替わるかしら…」
軽やかに、簪を風に翻しながら、女はその場を後にする。

煙管を咥えた唇から漏れた薄い白煙だけが、その場に柔らかくくねって――溶け消えた。

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 桓魋は広途をただひたすらに駆け抜ける。
一拍おいて、その後ろを団子状態になった男たちが続く。角を曲がった時、その先に見慣れた紅色を見て、桓魋は思わず足を止めかけた。驚いて目を見開く陽子の存在に、後ろから迫ってくる一団に、挟まれた桓魋は軽く舌打ちする。
「か、桓魋?!」
駆け寄ろうとする陽子に、桓魋は短く叫んだ。
「陽子、来るな!!」
 陽子が足を止めるのも見ずに、桓魋は向かってくる黒い人だかりに向き直る。
 力の籠もる筋肉が目に見えて盛り上がった。
 陽子が声を上げたその時、蛮声が一瞬にして桓魋を覆い、彼は黒の人だかりにのまれて見えなくなる。だが次の瞬間―爆発が起こったように桓魋の周囲の人がその場から吹き飛ばされた。遠目からみたら塵の塊がちぎれて散るように、たくさんの小さな人影が桓魋のいる一点から弾き飛ばされる。陽子の隣にいた蘭玉は、ポカンと目の前の光景に口をあけていた。陽子は叫ぶ。
「桓魋――!!」
 何人もの屈強な男たちの影にのまれて、痩せ身の桓魋の姿は見えない。だが、吹き飛ばされる人の量からとりあえず彼が元気なことだけは分かった。
 陽子は柔らかい唇を噛む。だが次の瞬間、一点を見つめる陽子の視界の片隅を一つの人影が過ぎった。
「?!!」
 陽子が驚いて視線を奪われれば、よく日に焼けた顔を持つ大柄な体躯の男が、目にも見えない速さで人塊に向かって疾走していくのが見えた。陽子が目を瞬いた時、隣で夕暉が悲鳴に近い声を上げた。
「兄さん!!!」
「え…?!」
 声を飲み込んだ陽子は夕暉から人だかりに視線を戻す。

 目を見開いたその時――男が膨れていく塊に突っ込んだ。

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 次から次へと、キリがない。
 額から垂れた汗が、酷く目に染みた。視界が濁るが、瞬きすれば痛みが引いて視野が澄んだ。
 桓魋は唇を噛んで人波を睨む。むさ苦しいことこの上なかった。
(くそ…!) 
拳で打って、足で払って、それでも次から次へと男たちは溢れてくる。やっと数が減り始めたかと思った時、一瞬視界が開け桓魋は光が漏れるそちらを振り向く。
(抜けられるか…?!) 
だが、次の瞬間桓魋が見たものは固められ、振りかぶられた大きな拳だった。
 彼は目を大きく見開く。よく日に焼けた顔立ちと、逞しい体躯が桓魋の目に入る。零れた髪が、激しく風になぶられる中大きく口を開けた男が叫んだ。
「今年の『挑まれる者』はお前か?!」 
豪快に彼は口元に笑みを湛える。
その瞳が光を弾き、彼は桓魋を見てさらに叫ぶ。

「俺は虎嘯!!前回と前々回と前前々回の優勝者だ!!」

 桓魋は身を引くが、間に合わないことが直感的に分かった。すさまじい速度で拳が迫る。

 よろしくな―!!と地が揺るぐほどの雄叫びを上げながら、虎嘯は渾身の力で桓魋を殴りとばした。



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