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青さが染みる空は、今日も日差しがよく栄える。 秋の匂いを含んだ風が吹き抜けていく中に、時折、枝から振り落ちた黄金色に染まった葉が混ざる。二人の人影が、細い道に落ちていた。黒髪の少女の後を、まだよちよち歩きの幼い男の子が続く。 歩く少女の黒髪が靡いた。 少女は、まだ幼い弟の手を引き、初秋の色合いを醸し出す風景を歩んでいく。 「おねーちゃ」 舌足らずに姉を呼ぶ声に、少女はそっと弟の頭を撫でる。 「もう少しよ。あとちょっとで、着くからね」 「うん!」 少女の名は、蘭玉。そしてまだやっと立ち始めた弟の名は、桂桂といった。 目的地まではあと1里の半分もない距離だ。荷物を持つ手の平は汗ばんでいるが、もう少しでたどり着ける。 緩やかな風が、ふわりと空を拭っていった。 四季の変化が訪れ始めている、ここは慶東国瑛州、固継。 やがて辿り着いた、一つの里家の大門の目の前に、蘭玉は足を止める。 手を繋がれた桂桂はきょとんと姉を見上げる。大門に佇んだ蘭玉は桂桂に微笑んだ。中を見つめ、少女は声を上げる。 「ごめんくださ―い!」 少女の明るい声に、中から物音がした。正房から出てくる人影に、少女は少々緊張した面持ちで、男の子の手を握る。 出てきたのは、豊かな白銀の顎鬚を蓄えた、痩せ身の老人だった。 「待っておったよ」 こんにちは、と少女は頭を下げた。弟の方も姉の見よう見まねで頭を下げる。その様子に、老人は微笑ましそうに目元を緩めた。 「硬くならずとも良い。今日からお主らは、ここの子だ。蘭玉、と桂桂、だったな?」 「はい。よろしくお願いします」 大変だったな、と老人は少女たちを見つめる。顔が微かに曇った。 「二親とも‥亡くしたことは辛かったろう‥」 口を噤んだまま、必死に何かに耐えるように少女は少しだけ俯く。頭だけをもう一度下げた。 だが、懸命に表情を明るくする彼女は、弟の手を握った。 「大丈夫です。私にはこの子が‥弟がいます」 そうか、と老人は穏やかに幼子を見つめた。柔らかく、彼は口端を上げる。 「儂の名は、遠甫、という。この里家には、今は蘭玉と同じ年頃の娘が遊びに来ていてな。その子とも仲良くやって欲しい。あまり口数は多い子では無いが、きっと気が合う」 蘭玉は微笑んだ。弟と顔を見合わせ、二人は遠甫に招かれるまま大門へと足を踏み入れる。 ほのかに桃の香りが香る。足元に咲き誇る秋桜の花びらがそよぐ。 これから何か新しい出会いが訪れる予感に――蘭玉は口元を綻ばせた。 ::::: 街の喧噪は、何もかもを遮断するように目を閉じても、自分がその世界にいることを嫌でも自覚させてくる。 広途を歩む青年は、舞い上がる砂煙に思わず目を細めた。青を帯びた黒髪が風に嬲られる。 今日一日を歩きづめだということに、その時彼は気がついた。 (少し、休憩するか‥) 足を止める、年の頃、二十を少し過ぎた青年。 名を、青辛 桓魋というその青年は空に向かって軽く伸びをする。時刻は丁度昼時だ。見渡した時、手近にあった食事処に、彼は足を踏み入れた。 「いらっしゃい」 声と共に、様々な食事の匂いが鼻をくすぐる。桓魋は厨房を囲むように並べられる、手近な一人用の席に腰を下ろした。ぷんと料理の匂いを服に染み付かせた店主の顔が、ぬっと桓魋の前に現れる。 「よぉ、兄ちゃん何にする?」 「そうだな‥」 注文表を受け取った桓魋は、目にとまった物を幾つか注文する。注文を取る店主の顔がだんだん呆気にとられたような顔になっていく。桓魋は眉根をよせた。 「‥どうした?」 いや‥と店主は目を瞬いて、興味深々といった風に桓魋を見る。 「随分食うんだな、あんた」 主人は思わず笑う。 「俺は長いことここで商いをやってきたんだが、ま、そりゃ中には大層な大食らいもいたが‥ここまで食うやつは始めてだ。あんた、ここら辺じゃ見ない顔だが‥」 軍人さんかい?と桓魋をしげしげと見る彼は尋ねる。桓魋はにやりとした笑みを口元に浮かべて見せた。 「まぁそうだが‥今は休暇中でね」 「そうかい」 店主は顔を輝かせて桓魋を見る。興奮を押し殺したような声で、ぬっと顔を寄せた彼は桓魋に囁いた。 「なぁ、じゃあ、軍人だったら、あんた強いよな。今年の『豪傑選挙』に出ないか?」 「豪傑選挙?」 あぁ~やっぱり外の人は知らねぇか、と店主は笑う。 「ここの連中が毎年この時期に行うバカ騒ぎの一つさ。この辺りで誰が一番強ぇか、つまりその名の通り瑛州北韋郡一の豪傑を決める格闘大会ってのが謳い文句だ。まぁ、大会と言えるほど正式なもんじゃねぇがな…。かつて行われた喧嘩がそりゃあもう見ものだったんで、それを真似して翌年も同じように喧嘩した馬鹿がいたんだ。それを毎年やってたら、いつの間にかそれが慣習になっちまったんだよ」 桓魋はへぇと眉を跳ね上げる。 「ここの奴らはよっぽど血の気が多いらしいな」 「ははっそうだな。単純な阿呆ばかりだからか、仕組みも簡単だよ。まず参加者は〝挑まれる者〟と〝挑む者〟に分けられる。って言っても、〝挑まれる者〟は常に一人だ。決め方は、午後六時の時点で、誰かが誰かに戦いを挑み、勝者が出た時点でその勝者が〝挑まれる者〟だ。で、あとのやつら全員が〝挑む者〟になる」 「大層なもんだな。それはどこでやってるんだ?」 「豪傑選挙は毎年どこで始まるか分からないんだ。午後六時、誰かが誰かに戦いを挑んで、一人でも勝者が出た時点で、それが始まりの合図だ。〝挑まれる者〟を倒しに他の奴らが殺到する。〝挑まれる者〟を倒した時点で、その称号は倒した者に移行する。最終的に一人残った奴が勝者!最後はいつも素手の殴り合いよ!ここは見ての通りなんもないからな、みんなそれを見んのを楽しみにしてんだ」 「それはご苦労なこった」 主人は顔を輝かせたまま、言葉を続ける。 「ここら辺じゃあ虎嘯の奴がそりゃもう強くてな。ここ数年はあいつが不動の王者なんだよ!あいつに叶う奴がてんでいなくてなぁ!あんた強いんなら出てみないか?」 「悪いね。おもしろそうな誘いだが、今は休暇を楽しみたいんでね」 にやりと笑った桓魋はひらひらと手を振った。 「ま、何にせよ参加したくなかったらその時間帯にここらへんは歩かない方がいいぜ。戦いを挑まれても受けずに逃げたほうが無難だな。それにしても、せっかくの休暇に、わざわざ何もないここに来るってことは、誰か知り合いでもこの辺にいるのかい?」 ふわりと良い香りが鼻を撫でる。料理が運ばれてきたのに目を細めながら、桓魋は割り箸を割った。料理を受け取りながら、彼は答える。 「あぁ。連れがここらの里家の閭胥と知り合いで‥。時々休みをを貰うとここに遊びに来るんだ」 「へぇ。今日そのお連れさんは一緒じゃないのかい?」 そうだな‥と桓魋は顎に手を当て、苦笑いを浮かべた。 「あいつは今頃一人でこの街を走り回っているだろうな」 紅の少女の面影が脳裏を過る。目を細め、初めて会った時から成長した少女の姿に、桓魋はその時何か言いようのないものを感じた。 あれから、五年の月日が流れようとしていた。 この年月の間に、陽子も桓魋も成長し、桓魋は今現在、両司馬からさらに昇進して、師師の位についていた。今でも半獣だからという理由だけで妬まれてはいるが、それでももうあの時のような危機に追い込まれるだけのことにまではなっていない。 現在の年号はあの頃から改元され、予青二年、長らく不在だった玉座には、今は女王が、就いている。 一年程前までは共に行動していたが、今では陽子は自分ひとりで散策に出かけることが多くなっている。陽子はこちらの言葉を覚え、誰とでも意思疎通が出来るまで、言語能力を上げた。そのしゃべりは今ではもうこちらの人間と変わらないほどだ。遠甫の元に通い教養を身に付け、傍から見ても、そして会話をしても陽子はとても海客には見えなかった。だが、元々の性格もあるのか、陽子はあまり口数は多い方ではなかった。だが、笑う時は太陽のように笑う少女だった。 出会ったばかりの時の、言葉も分からないまま熊になってよく遊んでやった記憶が蘇る。 (王、か…) 桓魋は瞳を上げる。 これから、この国はどう動いていくのだろう。ようやく王を与えられたこの国は、どんな風に耕されていこうとしているのだろう。 だが――実際のところ、玉座についたのが〝女王〟だったことに、この国の民は少なからず落胆しているようにも見えた。短命の女王が続き、この国では女王運に恵まれていない、との見方が強い。 願いとは裏腹に、そして今回も――噂によれば景麒に選定された現女王は早々に政に飽き、現在では宮廷奥深くに閉じ篭っているとの話だった。 少し目を細める桓魋に、新しい料理を運びながら、目を丸くした店主が尋ねる。 「それにしても…お連れさん、こんな所を一人でなんて大丈夫か?王が玉座に就かれたとは言え、まだここら辺の治安は良くないよ」 「まぁな‥」 だが、と桓魋は瞳に悪戯っぽい光を浮かべる。 「そんじゃそこらの奴じゃ、あいつには手を出せないと思うがな」 不敵に笑う桓魋に、主人は訳が分からず目を瞬く。彼はかまわず悠々と伸びをした。 陽子が、桓魋に剣を教えて欲しい、武芸の訓練をして欲しいと頼んできたのは、丁度彼女が十になるかならないかの頃、薄紅の花びらが空舞う季節だった。その時のことを、桓魋ははっきりと思い出すことが出来る。 『剣を、使えるようになりたいって?』 桓魋の驚いた声が響く。 桓魋が見つめる、ほんの少しだけ、幼さがとれた輪郭の少女は、一つだけこっくりと頷いてみせた。初めて会った時の面影を残したまま、言葉を覚え、この世界について微かに知り始めた少女は真摯に桓魋を見る。 そうして、少し落ち着いた声音で少女は言った。 『強く、なりたい。ずっと、ずっと思ってたんだ。ずっと、ずっと…伝えたかった。…この荒れた世界に負けないくらい、強くなりたいんだ』 その目に深く映える決意を見せて、陽子は桓魋に頭を下げた。まだ年端もいかない幼い少女の瞳から、桓魋は目を逸らすことが出来なかった。 そして、頭を下げた時の、束ねた緋色の髪が肩を滑るその光景が、桓魋の記憶に未だ鮮やかに焼きついている。 とても、こんなに幼い子が頼む内容では無かった。 この荒れた世界に負けないように。 それが陽子の、望んだことだった。 そしてそれがただ単に、王がいなくて荒廃した世界を指しているとは――桓魋は思えなかった。 ふっと手元の茶が冷めてきているのに気がついた桓魋は、湯呑に注がれた濁り茶を仰ぐ。 「いつも稽古の時間にはちゃんと戻ってくるから、心配はしてはいない」 「そうかい」 主人は精悍な青年を眩しそうな目で見つめる。新しく湧いたお茶を湯呑に注いでやりながら、彼は笑った。 「せっかくの休暇、楽しみな。今度はその冒険好きなお連れさんとやらと、一緒に来てくれよ」 湯呑を受け取った桓魋は、片手で軽くそれを目線まで掲げ、了承の意を示した。隅の席に腰を下ろした女がじっと桓魋を見つめていた。 熱い茶を啜りながら、席から垣間見える、人が行き交う街の様子に、目を移す。 見れば、湯気が視界で柔らかくくねる中、今話していた〝お連れさん〟と同じ年頃の黒髪の少女が、軽やかに駆けていく光景が桓魋の目にとまった。桓魋は少しだけ笑みを口元に浮かべる。 風に揺られて、少女の漆黒の黒髪が翻る。 少女の姿は街の喧噪の中に、小さく溶けて消えていった。 ::::: 蘭玉は、手元の小さな走り書きを見ながら、広途を駆けていた。肩に背負った布袋にはまだ何も入ってなくて、軽い袋は走るたび風を受けて膨らむ。 小銭を数えて、買いたいもの分の料金はあると踏んだ蘭玉は、よし、と微笑んだ。 (まずは、野菜類ね…。なるべく安いところを探さなきゃ…) 夕飯の買い出しも楽ではない。だが、新しく自分たち兄弟を置いてくれる場所が見つかっただけでも、至極幸運なことなのだ。恐らくあの里家では、自分が年長だ。幼い子供たちに料理を作ってやる役目は、やはり必然的に蘭玉に回ってくる。 今日は何にしよう、と蘭玉は今晩の献立を、人数で割って考えていたその時、ふと目端に、目当ての安い値札を掲げた野菜類が入った。思わず少女の顔が綻ぶ。 (やった!良い所発見だわ!) だが、足を踏み出そうとしたその時、少女は驚いて足を止める。後ろからした大きな物音が、彼女の動きを止めさせたのだ。 振り向いた少女の目に、背後で小さな人だかりができている光景があった。 「な、何…?」 蘭玉は目を瞬く。 見れば、蘭玉より年下の男の子が、彼女より年長であろう男子たちに取り囲まれていることに、少女は気がついた。先ほどの音は、少年が顔を殴られた音だったらしく、頬にはうっすらと青い楕円が浮いていた。その口端に赤色が滲んでいるのを見た蘭玉は、野菜のことなど頭から吹き飛んで、思わず男の子の方に駆け寄った。 「!!やめなさい!何てことをしてるの?!」 広途に、少女の声が響き渡る。少年を取り囲んでいた男子たちは、蘭玉の方を振り返った。地面に尻餅をついていた少年は驚いたように顔を上げ、蘭玉を見る。綺麗な黒髪、黒目の美少年だった。一瞬虚をつかれたような表情をしていた男子たちは、見る見るうちに顔に険を流し込んで、欄玉を睨んだ。街の人々は、我関せずといった顔で、彼らの傍を通り過ぎて行く。 「何だ、お前?関係ねぇだろ!」 その剣幕に、蘭玉は僅かに怯んで後ずさる。 だが、もう引き返すわけにはいかなかった。微かに震える手を握り締め、蘭玉は顔を上げる。キッと負けず劣らず、蘭玉は男子たちを睨んだ。 「あ、貴方たち恥ずかしくないの?自分より年下の子に暴力ふるって!」 声が少しだけ震えるが、蘭玉は足をしっかり踏みしめ、顎を引く。男子たちの顔の険が濃くなり、彼らは蘭玉に詰め寄った。 「いきなり何なんだよ、テメェ。痛い目見たくなけりゃ引っ込んでろ!」 「嫌よ!その子を放してちょうだい」 蘭玉は足が震える中、必死に男子たちを睨みつける。誰かが鼻で笑う、声がした。 「何なのコイツ?大人しそうな顔してよくここに首突っ込んでこれたな…。コイツも一緒にしめといた方がいいんじゃねぇ?」 男子たちの動きが止まる。さっと蘭玉の顔から血が引くのと同時に、にっと誰からともなく、口元に歪な笑みを浮かべた。一瞬後に、蘭玉と睨み合っていた男子の一人が口を開く。 「…それもそうだな。この生意気なガキもやっとくか」 「…!!」 ぬっと自分より大きな掌が蘭玉の顔に影を作る。 迫ってくる影に、蘭玉は悲鳴を上げて逃げようとするが、一瞬早く強く腕を掴まれ、身を捩ることも出来なくなった。少年が叫ぶ。 「お姉さん!」 力任せに引き寄せられ、拳が固められるのを見た蘭玉は強く目を瞑る。 だが、次の瞬間――凛とした声が、その場に響き渡った。 「やめろ」 その瞬間、蘭玉を殴ろうとしていた男子も、少年も、蘭玉を除く、その場にいる全員が声のした方を振り返る。 覚悟した衝撃が無かった蘭玉は恐る恐る目を開き…やっと後ろを振り返った。 「…!!」 逆光を受けてよくは見えない。でも、蘭玉にはそれが、自分と同い年くらいの少年に見えた。頭の上の方で邪魔にならないよう簡素にまとめられた髪が風に揺られて翻る。 光を弾く褐色の肌に、真紅の髪。そして美しい、翡翠の色合いの瞳。 蘭玉が思わず見入る少年は、薄く目を細める。 翡翠の瞳の彼は、呆然とする彼らに向かって――もう一度だけ唇を開いた。 「やめろ」 |