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「楽俊さん!!」
 悲鳴じみた夕暉の声が闇を走る。ゆらりとこちらに歩みを進める武人の足音と、夕暉の駆け寄る足音が響く。だが、その声も、足音も陽子には届いていなかった。
 掌が血塗れて、ひきつれた感触がして、陽子はそろりと瞳を動かす。
 陽子の瞳に焼き付いたのは、目にも鮮やかな―赤、だった。
 掌に走る幾つもの筋を陽子は呆然と見つめる。楽俊が、自分を武人の攻撃から庇ったがために、出来た筋。入り乱れる音が過ぎ去っていく瞬間、陽子は沸き上がった、爆発的な身を焦がす怒りの炎に任せるまま、雄叫びを上げた。
 地面を蹴り、柄を握り見えない速度で白銀が弧を描く。
 武人は一瞬歩みを止め、消えた陽子を追おうとするが、次の瞬間首筋に冷えた鋭さを感じてそのまま動きを止めた。
 首筋にあてがわれた一筋の光。白く冷たいその光を、桓魋の喉元から薄く漏れた赤い雫が滑っていく。
「…?」
 ゆるりと瞬きをする桓魋。自分の目線の真下にある、紅の(まばゆ)さに思わず動きが止まった。喉元の線から走る鈍くて鋭い、熱い痛みがゆっくりと脈打ち始めた。その瞬間、淀んだ声が低く這い上がる。
「…殺したのか…?」
 殺気だけを色濃く含んだ声が、心の無い彼の頭に響き渡る。
「私の…」
 震える声が、力を蓄え、爆発する時を待っている。動けないまま、彼は少女の言葉を耳に叩きつけられた。
「友人を!!!!」
 陽子の殺気を帯びた声が響きわたって、月影を弾く光の筋が夜を裂く。桓魋は直前に身を捻って、その場から後退る。だが、体勢を整える前に、紅の少女は彼の懐に入り込み、剣の柄の尻が、彼の顎の下から思い切り突き上げられた。
「っ!!」 
 速さとあまりの衝撃に、桓魋は後ろの地面に倒れこむ。顎の骨が揺らされ、脳が一瞬動きを止め、桓魋は僅かの間、倒れたまま身動きが出来なかった。
「ああああああぁあぁあ!!」
「…ぐっ‥!」
 容赦無く振り下ろされる白刃の閃き。彼はくらりと未だ蹌踉(よろ)めく頭のまま、なんとか逸脱した反射神経だけで刃から逃れた。首のすぐ傍で、澄んだ白刃が地面に縫いとめられる。桓魋は陽子が地面から剣を引き抜くその間に、身体を転がし、体勢を整えて再び迫る斬撃を受け止める。そしてその瞬間から刃と刃が噛みあうけたたましい音と、飛び散る火花、命のやり取りの重さは激化の一途をたどり始める。
 

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 夕暉は目の前で繰り広げられる凄まじい戦いに注意を払いながら、楽俊に駆け寄る。

「楽俊さん…!」
 駆け寄った夕暉は、夢中で陽子から渡されていた碧双珠を楽俊の手に握らせる。彼の傷を確認するために衣を破き、血に濡れた衣服を剥ぎながら、夕暉は悔しさで強く唇を噛み締める。
 陽子と剣花を散らす武人は、彼の兄の良き友人で有り、そして彼にとっても兄のような存在である、禁軍左将軍 青辛 桓魋。慶国最強の武人と言っても良いだろう。でも、あれはいつも温和で冗談の好きな彼じゃない。桓魋と同じ顔立ちをしているが、今あそこに彼は居ない。
(どうして、こんな事に…!)
 答えてくれる人なんて誰もいない。桓魋に何が起こったのかも、夕暉には分からない。今の彼に出来るのは陽子のために、そして桓魋のためにも楽俊の傷の手当に全力を尽くすことだった。夕暉は丁寧に衣を取っていく。
(頼む、楽俊さん…生きて…!)
 もはや想いは願いとなっている。だが、深いだろう傷を覚悟を決めて見た瞬間、夕暉の手が思わず止まった。
「え…?!」
 夕暉を衝撃が駆け抜ける。それは、想像していたものとはかけ離れた傷に対する―驚きだった。
(何だ…これ…)

 その傷は、楽俊の脇腹から、喉の動脈ギリギリの場所に描かれていた。研いだ細身の刃が駆け抜けたような線だった。

 夕暉は思わず眉根を寄せる。出血は激しいが、傷は幸い浅い。だが、それが却って夕輝に猛烈な違和感を感じさせる。
(おかしい…)
 夕暉はさっと傷に目を走らせ、微かに口に湧いた唾を飲み込んだ。先程のあの斬撃に当たったにしては、あまりに浅過ぎはしないか。運良く掠っただけだったと言っても、桓魋のあの槍の刃の形状ならば傷はもっと大きく抉れるのではないか。
 それに…と夕暉は眉を寄せる。僅かに逸れてはいるが、楽俊の傷の位置は、紛れも無く一歩間違えば喉を切り裂く場所にあった。あの時、あれ程闇雲に放った斬撃が傷をもたらしているのならば、もっと抉れて引き千切ったような傷跡になる筈なのだ。少なくとも、この位置にこんな美しい斬れ方など出来る筈が無い。 桓魋から見て、陽子を庇うために出てきた楽俊の姿は、後ろ姿しか見えなかった、それなのに何故腹部から喉笛にかけたこの位置に傷を作ることが出来るのだ。
 先程砂煙に視界を奪われ、楽俊が陽子目がけて駈けて行った一瞬に、いったい何があったというのか。本当に、桓魋の斬撃が楽俊を斬ったならば、血糊が塗りつけられた筈の大槍の刃は、何故あれ程美しい光を帯びているのだろう。
 ゆっくりと、夕暉の呼吸が乱れて速さを増し、額に浮き始めた汗が急速に冷えて、彼の体温を奪っていく。動かない頭、渦巻く様に騒がしさを増した世界の中で、 夕暉は刃と刃が牙を向きあう凶暴な音をその時やっと実感して聞きとった。そちらを見れば、そこでは陽子と桓魋、二人の影が目に見えない速さで剣花を散らしていた。
 唐突に疑問が湧き上がる。

 この傷は、本当に…桓魋がつけた物なのか?

 夕暉は彼の膝の上に身体を預けたまま、意識の無い楽俊を見つめる。碧双珠の効力により、傷口からの出血は既に止まり、流れこむ癒しの力で、きつく結ばれていた楽俊の眉根は幾分か解かれている。本来なら怪我をしている筈がない彼の喉元から、僅かに覗く細い切れ込み。 
 楽俊の喉元から僅かに振れた、血管を断つには十分な深さを彫る線。
 それは無駄を削いで、力を凝縮して放つ、的確に標的の殺しを図った者が創れる線。今の桓魋の様に多大な破壊力を持つ斬撃では創り出せない―線。
 自分の出している答えの輪郭が見え始めた夕暉の背筋を、静かに寒気が舐めていく。確信が、彼の脳裏を貫いた。


――桓魋ではない。桓魋が、楽俊を斬ったんじゃない。


 楽俊は、確実に陽子とともに桓魋の斬撃を逃れている。
 だが、一つの確信は新たな疑惑を招く。
 それなら。
(桓魋さんじゃないのなら…だれが?)
 その時、応えるようゾクリと淑やかな殺気が背筋を撫でて、夕暉はゆっくりと振り向く。


 やっと、姿が確認できるかという程遠い物陰に、一人の人物が建物に寄りかかってこちらを見ていた。
 常人よりも逸脱して高い背、男か女か分からない中性的な相貌。そして月影に零れ、艷めく幾筋もの線を創るのは零れた黒髪だった。


「…!!!」
 痺れたように身体を動かせない中、夕輝はその人物の微笑を辿って、肩からなぞるように視線だけを落とす。夕暉の瞳に映るは、その人物の手元からまっすぐに伸びる細身の白刃の刃だ。目を見開いて、呼吸が、止まった。

 刃から次々と流れ落ち、斑じみた筋を刻んでいくのは―赤。楽俊の衣を染めていく色と全く同じ―赤。

 息が出来ないその瞬間、武人の浮かせた刃の刃先から、一粒の赤が零れて、足元の石に吸い込まれていく。
 顔に深く闇を刻むその人物は、夕暉に向かってゆっくりと人差し指を唇に当てて見せた。

 絶望的に美しい微笑みとともに。

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 夜の闇の奥深く、打ち合いを続ける二人の人影。翻る白刃が光の筋を残していく。硬い鎧の一人の武人と紅の髪を振り乱す一人の少女。二人の打ち合いは、今は陽子が武人桓魋を押していた。彼女の胸のうちから沸き上がる、友を傷つけられたという怒りの炎が陽子の身体を焦がして、焼き尽くす。
 陽子は桓魋が残していく斬撃には目もくれず、ただ湧き上がる怒りで顔を赤く染めていた。叫び声が角度をつけて跳ね返り、木霊を残す。
「やあああああぁあ!!」
 桓魋は突き出された白刃をかわし、巨大な槍を振り上げる。鎧に掠った刃が弾かれ、陽子は思わず足元をふらつかせるが、怒りの炎が渦巻く瞳は、怯むことなく、目の前の男だけを見据えていた。視線の合わないその男は、何も見えていないかのように槍を陽子目がけて振りおろす。
 叫び声が掠れ、喉が張り裂けそうになる中でも、それでも陽子は叫び続けた。自分の雄叫びしか聞こえない世界の中で小さな声が彼女の胸に落ちる。
(楽俊…!!)
 胸に込み上げるのは身を剥がれるような辛さと痛みか。夕暉は、あの珠を楽俊に使ってくれたのだろうか。彼は無事なのだろうか。瞳に浮いてくる幾つもの涙が、視界を滲ませ視力を奪う。瞬きするまでもなく、陽子の瞳から雫が幾つも零れ落ちた。
(どうして…!!)
 陽子は荒い息のまま、桓魋に何度も斬りかかる。だが、涙が悪戯に心を惑わして、陽子の手元が振れた瞬間、剣が陽子の手から弾かれた。掌から優美な柄がもぎ放されていく。
 濁る陽子の視野の中、光の筋が彼女目がけて駆けてきていた。
「…!!」
 死んだ と陽子はその瞬間思った筈だった。自分を仕留めに来て、そして何より楽俊を手に掛けた男の手によって、殺された と槍の刃が喉元に触れた瞬間、確かに思った。だが、目を開いた時首元にあてがわれた刃は、皮を裂くその手前、それ以上ピクリとも動かずただ震えていた。
「?!」
 陽子は驚いて目を見開く。武人は必死に筋肉に力を込めてその槍で陽子の喉元を突き抜こうとしているのだが、彼の意思に相反するように、彼の腕はそれ以上微塵も動かないようだった。
(何なんだ…?)
 一瞬訳が分からなかった陽子だが、とにかくその隙に武人から飛び退って離れ、地面に転がる自身の剣を回収する。武人も不思議そうな顔で自身の掌を見つめていたが、陽子が剣を構えた瞬間、ハッと我を取り戻したように再び刃を薙ぐ。武人は本気で陽子の首元に、再三 白刃を落としにかかるが、やはりその鋭さは陽子の皮膚に触れる前に止まる。
 どれ程、力を込めて振りおろしても、武人の刃は陽子に当たる前に動きを止める。
「…?」
 自分の不可思議な状況に甲冑の武人の表情に戸惑いの色が浮かぶ。友を傷つけられた怒りに目を燃やした陽子は、武人の様子に気づくこと無く、自らの刃を渾身の力を込めて斬りかかる。


 陽子は彼が誰だか知らない。その武人が彼女にとってかけがえの無い存在で在ることを、彼女は知らない。彼に何が起こったか、彼が今どういう状態か、そして真実先程何が起こったのか彼女は知らない。


 倒れた青年を支える一人の少年の、その視線の先、繰り返される戦闘に目を細める、黒髪の武人――楓椿。刃から血の雫を零しながら彼は薄く嗤う。少女を視線でなぞった後に、彼は桓魋を薄目で見やる。
。その彼を見つめながら、楓椿は口元に含んだ弧を描いた。



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