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 揺らぐ殺気の鋭さだけが、彼を飲み込み殺戮へと誘っていく。

 どくり どくり と首元を駆けていく自身の血流の音だけが、嫌に大きい。大きく脈動して、世界の全てを煮立つ音で染めていく。彼はただ、酷く口が乾いていて、熱く火照った喉の奥が何か流動するものを求めているのを感じていた。欲しい物―それを思うだけで結んでいた唇が、薄く押し開いていく。頭の芯だけが疼いて、ひたすらそれを、求めている。

 流れる何か。白刃が沈み。吹き出す飛沫。喉に絡んで。指から零れ。捕まえられない――赤。殺戮。

 歪(いびつ)によじれる世界の形が彼の視界を瓦解させていく。自分は何かを仕留めなければならない。それが彼に刷り込まれたただ一つの使令だった。先程身に降り掛かった衝撃を弾き、線が捩れた世界の中で、遠くからこちらを見つめる何かの気配に彼は気がついた。 

 自分の欲しい色に染まった一つの気配に。

 喉の奥から漏れるのは唸り声か。こちらを見据える美しい紅を、彼の瞳が捕らえた。血潮が妙な音を立てる。自分と同じような姿をしているが、あちらの方が自分よりも幾分か小柄に見えた。締まっているがやわらかな身体の線も自分と違う。そもそも、本当にあの生き物は自分と同じ形のものなのだろうか、と僅かに疼いた疑念を彼は見つめる。もう自分がどんな姿をしていたのかさえ、朧げで思い出すことが出来なかった。喉の疼きが口内を焼いていく。
 だが欲しいと思いながら、よく見ればあの紅の波は‥自分が欲しい赤よりも、あまりに美しすぎるような気がした。

 心と理性を奪われ人形となった彼の求める物は、殺戮。
 低く擦れるような音が聞こえる。何だろうと思う間もなく、それが自分の喉元から出る唸り声だということに気がつく。いつからか、頭の中に居る誰かが「殺せ」と―桓魋の耳元に囁き続けていた。

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 ぬるい風が、頬を滑った汗を冷やしていく。陽子は武人と向かい合ったまま、距離を保って白刃を構えていた。紅の髪が時折吹かれる風に巻かれて、視界に入って邪魔だったが、睨む先は一点だ。
 殺気を垂れ流した一人の武人はゆっくりと長槍の柄を握り締める。
「?!」

 走る白銀の斬撃。

 次の瞬間こちらに駆けてきた斬撃の数々を、陽子は転がるようにしてなんとか避けた。柄を握ったと思った途端に、すでに斬撃がこちらに向かっていた事に、陽子は驚きが隠せない。
(飛ぶ斬撃…?!)
 その驚異的な速さに、陽子は目を見開いて武人を見つめる。だが、武人は顔色ひとつ変えずにまた柄を握り直し、その刃を弧を描いて振りかぶる。
(遠方戦じゃ、駄目だ‥!)
 その斬撃が来る前に、陽子は低く屈んで地面を力強く蹴る。遠方戦が駄目ならば、接近戦は、どうだ。再び斬撃が足元を舐め、武人に攻撃の隙が出来る。その時には陽子は武人の上空にその身を躍らせて、彼目がけて白銀の刃を振り下ろした。
「はあああ!!」
「…」
 武人の表情に変化は無い。斬撃が当たると陽子が思った次の瞬間、鈍い槍の刃と、まっすぐに伸びた澄んだ光の刃が噛みあう、けたたましい音がした。
「?!」
 揺らぐ武人の瞳の炎が、目の前に振り降りた紅の波を捕らえる。その理性の消えた炎に、陽子の背筋が凍り、彼女は思わず身じろぎした。それでも、陽子はなんとか頭を振る。
「やああああぁあ!」
 叫び声を上げながら、陽子は左上に振りかぶった刃を、風を切って振り下ろす。無表情の武人は簡単にそれを弾き、陽子の方が自らの衝撃で、思わず後ろへたたらを踏んだ。
「くっ…!」
 相手が強すぎる。
 まるで相手にならない、赤子になって手を捻られる―その感覚を、陽子は肌で実感した。それでも彼女はもう一度、攻撃を仕掛けようと、下ろした刃を背後に流す。
 だが、その瞬間を待っていたように、武人の瞳の炎が揺れ、大きく槍の刃が振り上げられた。
「!!」
 ゾッとその殺気を受けた陽子。咄嗟に体制を低くして、地面に手を着きながら、武人の左足に回し蹴りを食らわした。
「っ…!」
 空中で円を描いた陽子の足が武人の足に食い込んだ瞬間、僅かに武人の顔が歪んで、振り上げられた刃が宙に迷う。その隙に陽子は武人から飛び退って離れ、今度こそ彼の左肩目がけて刃を落した。
 だが、またもそれは彼の槍によって弾かれ、背後に吹き飛ばされた陽子の身体は、屋上に積み上げられていた木箱に突っ込んだ。
「お姉さん!」
「陽子ぉ!!」
 夕暉と楽俊が叫ぶ。頭を打った陽子は意識が朦朧としているようで、小さな呻き声が聞こえた。夕暉達が陽子の方へ身を乗り出したその時、力強い腕が二人を背後から締め上げた。
「?!」
「ぐぇっ!?」
 夕暉は藻掻いて、なんとか背後から押さえつけている人物を確認しようと首を捻る。筋肉質な腕、自分よりずっと太くて、背がかなり高い。そして、とても慣れ親しんだ感覚と臭いがふと鼻を掠めた。
(?!)
 捻った事で回転する視野。そして其処に映り込んだ人物の相貌を見た途端、夕暉は愕然と目を見開いた。
「兄さん…?!」
 それは表情の無い実兄虎嘯だった。弟、夕暉の言葉など、耳に入っていないかの様に更にその締め上げが強くなっていく。掠れる声で、夕暉はなんとか言葉を搾り出す。
「っ…に、兄さん!しっかりして!!僕だ、夕暉だよ!!」
 だが、それでも虎嘯の瞳は何も映してはいなかった。ただ、暗く虚ろなその瞳には表面に翳が浮いている。夕暉はなんとか身体を捻って、兄の腕からすり抜け、側に落ちていた巨大な石塊を我武者羅に頭上に振り上げた。
「兄さん、ごめん!!」
 虎嘯が振り向くその前に、夕輝はそれを思い切り‥兄の頭に向かって投げつけた。石が粉々に砕ける乾いた音がして、意識を無くした虎嘯の膝から力が抜ける。楽俊が解放され、咳き込む音と共に、夕暉の目に入ったのは、朦朧とする陽子に突進する桓魋の姿だった。一瞬夕暉は唖然とする。だが彼が動く前に…その時夕暉の横から楽俊が駈け出した。


「う…」
 半ば朦朧としながら、陽子は瞼を押し開ける。その瞬間、飛び込んできた濃い武人の影に陽子は思わず目を見開いた。逃げなければ。そう思って石畳を掴んだ掌に力を込めるが、先程の一撃で頭を打って意識が朦朧としていたことと、手が石畳の上を滑ったことにより、次の瞬間陽子の体勢が崩れた。
(!!)
 一瞬を逃した陽子、それは決定的に武人の攻撃を避けるための時間を失ったことを意味していた。武人が振り上げ、閃く光る槍の先端を、陽子は目を見開いたまま、迫り来る光景を見つめる。
 視界に広がる無表情な槍の刃、鈍く世界を弾くその刃に目を見開いた自分の顔が、不可思議に伸びている光景を陽子は見た。
 間に合わない
 無表情な武人の顔、視野に広がる鈍い槍の輝きが世界を覆ったのと、その時一つの聞きなれた声が彼女を包んだのは同時だった。
「陽子!!!」

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 歪んだ自分の顔が迫ってくる。殺られる、と思わず目を瞑ろうとしたその時、横から温もりと衝撃が陽子を側方へ弾き飛ばした。

「?!!」

 吹き飛ばされて、木の葉のように体が舞う。石畳に叩きつけられる硬くて冷たい感触と、温かくて柔らかい感触が同時に陽子を包んだ。武人から離れた所で動きが止まった時、陽子はなんとか瞼を押し開く。
 頭を打った衝撃と、それに加わった回転が内蔵を掻き回し、酷い吐き気が胸からこみ上げる。陽子はなんとか顔を上げた。
(助かった…?)
 武人からの距離は遠い。何故あの斬撃から逃れることが出来たのだろう。僅かに出来た、生まれる筈の無い戦闘の合間の余裕に、陽子の中で疑問が湧き上がる。くらりと顔が揺れ、頭が朦朧とする彼女の視界の中に、何かが映り込んだ。肌色をして、陽子の身体に巻き付いていた。衣ごしに、肌に伝わってくる温もりに、陽子はその瞬間気が付く。

 ゆるりと紅の睫毛が一度だけ上下した。 

 巻きつく肌色の物を目でなぞり、つたっていけばその全容が陽子の視界に晒される。――黒髪の、半獣の青年が陽子を庇って、ぐったりと彼女に覆い被さっている光景が。
「陽…子…」
 乾いた彼の唇が、ひび割れ、少女の名を紡ぐ。その白い首筋に飛んだ、幾つものひしゃげた赤の楕円が、角度を付けて霧吹きで吹きつけたようだった。見開いていく翠の碧眼。鼻に流れ込んでくる、僅かな臭気が口内に広がり始める。

 嘘だ。

「楽…俊…?」

 唇から漏れた、誰のものか分からない程震えた声。音も無く、陽子の呼吸が止まる瞬間、更に世界が鮮やかさを増して彼女の視界を彩っていく。それに気がついた途端、楽俊の首元の衣が、急速に「その色」に染め上げられていく光景が陽子の瞳に焼き付いた。衣から流れ落ちていく「赤」の雫に釣られるように、ずるりと視線を落とした陽子が見たのは、地面に描かれる大輪の花。
 石畳に流れていく赤黒い染みは何かの冗談なのだろうか。
 目の前に広がるのは、まるで蕾のように地面に落ち、じわじわと不均等に綻んでいく‥あまりに淀んだ花びらだった。



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