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 陽子と桓魋、打ち合う二人の戦闘は過激さを増していく。桓魋の常人とは逸脱した動きの速さを追って、陽子は彼に刃を向ける。その光景を見ながら、楓椿は静かに自身の双眸に薄い光を浮かせていた。そして打ち合う二人の中でも特に彼が視線を送るのは…桓魋だった。陽子の猛攻を防ぐ半獣の将軍を瞳に映したまま、刃を赤の筋が滑っていく感触に楓椿は嗤う。

 漢轍は 陽子を捕らえるために送り込んだ桓魋と陽子が戦闘を始めたら、姿を現さず、陽子に手を貸した共謀者を斬れ という使令を楓椿に言い渡していた。そして楓椿はそれを遂行した。

 漢轍から見た陽子の共謀者は、すなわち陽子の友を意味していることを楓椿は察していた。使令は、はたから見たらかなり難易度の高い物だったが、一瞬の機会を逃さず、楓椿は陽子、楽俊、桓魋が交錯するその僅かな間に、見えぬ速さで楽俊を斬った。 意図した通り、友を傷つけられ、怒りに吠えた陽子と桓魋の戦いが始まり、楓椿は物陰で一人ほくそ笑む。
 だが一方で楓椿の脳裏に、使令を下した時の漢轍の顔が過ぎっていった。打てるときにあの小娘の共謀者を打つのに理由など要らぬと漢轍は楓椿に言った。だが本当は、漢轍は楓椿との協定を破り、二人を殺しあわせ、両方共亡き者にしようと図っていることが楓椿には筒抜けだった。そもそも本来、理性を奪った桓魋を送り込む時点で、陽子を捕らえるよりも殺そうとしていることは見え透いている。漢轍は陽子だけでなく、あわよくば半獣の桓魋も消し去ろうとしているのだ。
 漢轍の表情の裏が透けて見えていたことを思い出し、楓椿はただ不愉快そうに目を細める。だが一瞬後、彼は桓魋を見つめ、ふっと記憶の男に嘲笑を漏らした。
(だが漢轍‥残念なことにお前の読みは…ハズレのようだ)
 楓椿は陽子を危険に晒すつもりは無い。陽子たちの姿は小さな粒のようだった。 
 白刃を剥く陽子と、それを防ぎながら、徐々に息が上がってきた桓魋。平常時なら、陽子は桓魋の相手にもならない。だが、今は桓魋はその戦闘能力を十分に発揮できない状況だ。そして…
(まさかとは思ったが…本当に攻撃が出来ないとはな…)
 楓椿の瞳が――光る。
 そんな考えは漢轍には予想も出来無い事態だったが、金波宮で暫くを過ごし、この半獣の将軍を見てきた楓椿には――考えられる事態だった。

 漢轍は具術で桓魋の記憶と理性と心を奪って、獣としての獣性を無理に植えつけることで、彼の、桓魋の何もかもを支配したつもりでいた。 だが、漢轍は全てを奪っても、桓魋を支配することは出来なかった。
 全てを奪っても、今まで幾度と無く陽子と剣の稽古を重ねてきた桓魋の身体は、陽子のことを覚えていた。
 桓魋の身体は今彼が誰と戦っているのか、分かっている。身体に蓄積された経験から、ただ自分が守りぬかねばならない人物だということを分かっている。
 だから…心を奪われた桓魋自身が、どれだけ命じられるまま陽子に攻撃をしようとしても彼の身体はそれが当たる直前に動きを止める。先程の斬撃の軌道も、彼は気がついていないが、あれは僅かに陽子のいた場所から逸れていた。
 どれ程支配したつもりでいても掻き消そうと躍起になっても、彼の想いは――生きている。
 彼を本当に導くのは大切な者を、自国を守る―そのために全てを投げ打って来た誰にも消せない意彼自身の強い意思だ。どれだけ彼の心と理性を奪っても、己に従ってきた桓魋の根底に流れる、その意思だけは誰にも折ることは出来無かった。
 だから桓魋は、決して陽子を攻撃できないとでも言うのだろうか。

  彼は―桓魋は楓椿が見ても申し分ない程の、真の武人なのだ。

 すっと顎を上げ、楓椿は桓魋を闇を滲ませた薄目で見やる。
 桓魋は、武人としても、人間としても自分が認める申し分ない男だ。だが、それでも楓椿は…。

(私はお前が嫌いだ。桓魋)

 その一瞬、今まで貼りつけていた薄ら笑いが剥がれて、楓椿の顔に初めて真摯な表情が浮かぶ。

 全てを無くしても‥桓魋にとって陽子は守るべき主だ。自分がどれ程傷ついても、桓魋は決して彼女を傷つけることなど出来無いだろう。

 だが…

 楓椿に唇が歪む。
 全てを無くした陽子にとって、今の桓魋は自分に向かって放たれた刺客でしかない。そして何よりも‥彼は楽俊の命を奪ったかもしれない憎むべき相手になっていた。

 そしてそうするために、楓椿は楽俊を斬ったのだ。わざと陽子を激昂させ…桓魋を葬らせるために。それこそが彼の目的だった。漢轍の命令に従うのも内心では吐き気がするが、それ以上に、楓椿は桓魋に消えて欲しい。そしてその桓魋を消すのにふさわしいのは陽子だけなのだ。だから、吐き気がする漢轍の命令に従ってでも、この殺し合いの状況を創りだした。もし桓魋が漢轍の指令に従うまま、陽子を殺すようだったら、楓椿が斬り捨てるつもりだった。桓魋が陽子を本当に殺せないか――そのことばかりは…楓椿にとっては、一種の賭けだった。
 翻り、唸りを上げる陽子の白刃となんとかそれを弾く長槍の鈍い燐光が(まばゆ)い。
 桓魋の動きは徐々に徐々に鈍くなっていく。
 打ち合う二人の人影‥闇に浮かぶ濃いシルエットを、映していた瞳の表面から拭う。
 返事が返ってくるはずもない桓魋に、彼は吐き捨てる。
(良かったな、賭けはお前の勝ちだ、桓魋。おかげで私の出番はなくなったよ。真の武人であるお前への褒美は――)
 男の瞳に憎悪の炎が巻き上がった。

「主の手によって消されることだ…半獣…!!!」

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 吹かれる風に押されて、呆然としていた夕暉はハッと我を取り戻す。打ち合う金属音を(くぐ)り見える陽子と桓魋の影、動く重なるその影の意味を理解して、夕輝は息を呑む。
(これは…罠だ…!)
「お姉さん、楽俊さんは大丈夫だよ!!彼を斬ったのはその人じゃ無い!!本当に斬ったのは…」
 叫びながら、慌てて振り向き、瞬きすれば先程までこちらを見ていた人影は跡形もなく消えていた。戦闘の音が入り乱れる中、その時夕暉のすぐ傍で、意識を失っていた虎嘯が身じろぎする。
「う‥」
「兄さん!!」
「んあ?せ、夕暉?お前何でこんな所に…」
 腕を着いて、起き上がった虎嘯の腕を夕輝は夢中で掴んだ。
「兄さん!!お願い、あの二人を止めて!!」
「ふ、二人??」
夕暉に促されるまま、虎嘯は未だ朦朧とする頭を上げ、視線を持ち上げる。金属音がぶつかり合う中…打ち合う二人の姿を視野に入れた瞬間、薄く細まっていた虎嘯の瞳が大きく見開く。驚く虎嘯と、必死の声を上げる夕暉。同時に、その場に二つの声が転がり込んだ。

「虎嘯!!」
「夕暉?!」

 二人が振り向けば、そこには駆け上がってきた、祥瓊と鈴の姿があった。
「祥瓊、鈴…!」
 まろぶように駆けてくる二人の娘に、虎嘯が思わず声を上げた。
「良かった…虎嘯、正気を取り戻したのね」
 ほっと安堵したように声を漏らす鈴だったが、それも一瞬だった。目の前の虎嘯と夕暉二人の表情が固いことに気がつき、次の瞬間彼女は夕暉の腕でぐったりと横たわる楽俊を視野に入れる。頭を殴られた様な衝撃の横で、祥瓊が声を呑む音がして鈴は更に、遠くで起こっている事実に気がついた。
「え…?!」
 朧げな光景の中、夜に散る火花が粉となって浮かんでは消え、金属の噛みあう音が響き渡っていく。
 鈴の目の前に広がるのは、探していた「あの人」と桓魋が打ち合う血生臭い戦場だった。
鈴は目の前の戦場の光景、そして倒れる楽俊に目を見開く。祥瓊は楽俊に駆け寄った。
「どうなっているの…?!」
「楽俊!!」
 夕暉は顔に焦りを滲ませたまま、唇を噛んだ。
「これは罠なんだ!誰かが桓魋さんとお姉さんを戦わせて、殺しあわせようとしてる…!今彼と打ち合っているあの人は、楽俊さんに傷を負わせた犯人が、桓魋さんだと思っているんだ。桓魋さんはあのお姉さんになぜか攻撃が出来ない‥早く止めなきゃ、今度は桓魋さんの方が殺されてしまう、惨事になる!!」
「そんな…!」
 鈴は悲鳴を上げる。祥瓊は楽俊に寄り添いながら、呆然と目の前の光景を見つめていた。

―桓魋。

 彼と打ち合っている人物は、祥瓊の目から見て朧げでよく見えない。

―お願い、やめて…

 目の前を散る火花はすぐに溶け消える。祥瓊の唇が震えた。
「桓魋…」
 戦いは終わらない。剣花を散らす二人の人物は戦いを止めない。
「祥瓊?!」
祥瓊は風を切る音を自身の耳に聞いた。
 過激さを増していく光景に向かって、祥瓊は自分でも気づかない間に駆けていた。
 目の前に向かって祥瓊は―叫ぶ。

「お願い‥!止めてぇ―!!」

 その瞬間届いた声に押されたように‥桓魋と打ち合っていた人影が、驚いたように祥瓊の方を振り向いた。風によって視界が洗われ、祥瓊の息が止まる。桓魋と打ち合うその人の風貌が明らかになる。

 白刃を構えたまま此方を見つめる一人の人物の、闇に浮かぶ澄んだ碧の双眸に祥瓊は衝撃を受けた。

 それは彼女がずっと心に残っていた赤を持つ―美しい少女だった。

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 ここは、どこだ。

 動かない桓魋の頭の中で誰かがポツリと小さく囁く。真っ白な純白の世界の中で、何かに呼ばれるようにして今、自分はここに在る。遠くから何かの反響音が聞こえてきたが、それも滲んですぐに聞こえなくなった。先程から、目の前でしきりに流れる紅の美しさに、彼、桓魋は幾度と無く見惚れる。ふと気づけば、響く冷たく滑らかな音が交錯して、頭を痺れさせていた。先程からずっと頭で呟く、誰ともしれない無機質な声に、桓魋は小さく呻き声を漏らす。

 殺せ
―何を…?
 殺せ
―何故…?
 殺せ
―嫌‥だ…

 頭で響く声に無理矢理動かされる身体は、何故か途中で動きを止める。目の前を横切る幾つもの閃きが、美しい紅を持つ画面を切って不快だ。そうぼんやりと思ったが、同時に何故これ程自分が紅色に(こだわ)るのか桓魋には分からなかった。疑問が脳裏を掠めた瞬間、胸を焦がすような切なさが込み上げ桓魋は思わず声を震わせる。

 記憶の奥底で翻る‥セピアがかった真紅の波。
 光を弾く褐色の肌。
 そして…何か深くて澄んだ碧を―その時桓魋は見た気がした。

 頭を槍で突いた様な鋭い頭痛が突き抜ける。戦闘の最中、紅を見る度湧き上がる、その時実感した正体不明の喪失感の大きさに―桓魋は訳も分からず吠えた。

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「桓魋――!!」
「お姉さ―ん!!」
 轟々と風が揉まれて吹き荒れる。
 陽子と剣花を散らす桓魋は唐突に、頭を押さえて叫ぶ。間合いを取って桓魋から飛び退った陽子はするりと刃を構え直す中、その深緑の瞳は貫くように桓魋だけを見つめていた。一方で桓魋は、自身の内部から唐突に湧き上がった、訳も分からない喪失感に、強く瞑目する。
「あああああ!!」
 もう戦闘などどうでも良かった。埋もれた記憶の映像全てが胸を焦がして、桓魋は叫び声を上げて長槍を闇雲に振り回す。破壊されていく周囲の建造物と巻き上がる砂煙が、全ての視界を白く濁らせ消していく。そんな中、桓魋の(ふところ)目がけて、陽子は低く駆け出した。
(殺すのか…?!)
「お姉さん!!お願い、やめて!!!」
 夕暉の悲鳴に近い叫び声が響く中、陽子の瞳は鋭く静かだ。桓魋の抉られるような叫びだけが木霊する。
「う、あああぁあああ!!」
「桓魋!!しっかりしろ、桓魋!!!」

―桓魋

 頭で低くて優しい声が響く。海の匂いのする声は、桓魋の脳裏を満たしていく。彼は自身の錆びつかされた記憶の欠片に覆われていた。

 誰だ。一体、誰なんだ。

 叫ぶ桓魋の今の世界の全ては、壊れかけた記憶の蓋から漏れ出る光景と響く優しい音のみだった。その時、駆け寄る足音を桓魋は聞く。紅の髪が目の前で翻り、何も分からない世界で次の瞬間、声が桓魋の耳を撫でた。気がつけば目の前に、だれかがいた。心の奥底に、だれかがいた。少女の、声がした。

「貴方…正気を‥無くしているな」

 世界は暗闇に呑まれている筈だった。だけど今の桓魋の見ている世界は空虚でぼんやりと白い世界だ。その白い世界の中で、桓魋は静かに瞬きする。翻る風。
 白熱した世界が反転して、渦巻く中で桓魋は

 ―一人の少女を見た。

 本当は今までずっと打ち合っていたのに、桓魋にはその少女が唐突に目の前に現れたようにしか見えなかった。その時初めて彼は陽子を一人の少女と認識したのだ。
 闇を吸う美しい紅の波。滑らかな褐色の肌。そして…深い深い透明の――翡翠。
 
 眸と眸が空中で絡み、その瞬間、その瞳の深緑の深さに桓魋は何もかもを吸い込まれる。

「…?!」

 瞬間、渦巻くように浮かんで記憶の泡が形を取る。目の前を様々な映像が‥駆け抜けていく。

 禁軍の演習場、隠れるように顔をだけをちょこりと出す人影に苦笑する声が聞こえる。呆れたように説教しながらも何故か嬉しそうな自身の声が響く。‥そして、困ったように頭を掻きながら物陰から滑り出る―一人の少女を、桓魋は見た。

 それは桓魋が再び、現実の世界に引き戻された瞬間だった。

 同時に、首筋に走る鋭い衝撃に彼の瞳が見開く。だが首に食い込むそれは無表情な白銀の刃ではなく、仄かに温い少女の手刀だった。陽子の顔は先程とは違う複雑な色合いを湛えていた。気がつけば一瞬の間に桓魋の懐に入った陽子の急所へ一撃が決まっていた。

 美しい紅。波。翻る光の刃に、輝く微笑。――主上。

 溢れる記憶の突風に目を見開いた桓魋はゆっくりと陽子を振り返る。

「‥!」

 至近距離で手刀を首筋に食い込ませたのは彼の主君だった。空白の次の瞬間、全ての記憶が吹き出して、桓魋の眸が光であふれる。同時に彼は身体から力が抜けて視界が暗くなっていくのを感じた。

 口にしたい言葉が沢山あるのに、何一つとして形にならずに渦巻いた。

 全ての動きが止まり、晴れ渡っていく砂煙に、月の光が落ちる。遠くから駆けてくる夕暉達の姿がぼんやりと見えた。陽子は何も言わずにただ桓魋を見つめていた。
 意識を落とす寸前、桓魋は一言絞り出した。
「主…上‥」

 風が逆巻いていく中、桓魋が最後に見たものは、物言いたげな視線で彼を見つめる、主君の表情だった。



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