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崖を隔てて目の前に佇むのは―― 一人の少女だった。




 夜は滾々(こんこん)とただその空間を闇に染める。空に浮かぶ澄んだ白い月だけが、闇を薄くし、地上にあるものに光を投げかけていた。
 差し込む燐光は透明で、降り注ぐ全ての物を蒼く透かして光に染めるその光景は宵の刻限独特の風光だ。
 そんな景色の一部となっている佇む二人の人影は、姿だけを月影に晒し、落ちる影を夜の闇に溶かしていた。

 景麒は澄み切った紫陽花色の瞳を見開いたまま、茫然と視線の先を見つめる。二つの瞳の表面には赤の髪を薄蒼に浸して、こちらを睨みつけるようにして佇む一人の少女の姿がくっきりと映し出されていた。

 どくり と波打つ己の血潮の音が、急に逆巻いて耳元で荒れていく。唇から思わず息が漏れたが、それに乗ってでた音は意味のある言葉にはならずにその場で消えた。
灯るように現れた灯火の気配によく似た少女。思い切り殴られた様な顔をして、景麒は呆然と幻と重なる少女を見つめた。滑らかな濃い肌。燐光を弾く緋色の髪。
 だが何よりも…景麒が言葉なく見入ったのは 月明かりを浴びて煌めく新緑の双眸だった。
景麒の見開かれた紫水晶色の虹彩が、白目に縁どられて、震えていた。
 少女は景麒が自分を見入っている事など露も知らず、瞳を薄く細めて景麒を睨む。
 唇が―割れた。
「お前が…お前が今まで私に妖魔を送り込んできていたのか」
 風に乗って流れる声は、低く強い何かを孕んで景麒に届く。声を聞きながら、景麒は言葉を発することが出来なかった。少女は景麒を睨みつけながら、尚も言葉を続ける。
「何が望みだ。私の命か。私は何も覚えていないぞ。逆族と言われる所以、その確固たる証、真実を確認するまでは私はお前たちに命をやるつもりはない」
―逆賊…?景麒は目を瞬いて少女の言葉を受ける。彼女が何者なのか、それさえも分からず、景麒はただその場に佇む。彼女は自分のことを逆賊扱いされていると言っているが、その真実は景麒にも分からない。何故漢轍が執拗にまでその逆賊だけを追いかけるのか、その内実を景麒が知ることは出来なかった。少女は言葉を続ける。

「お前たちは、確証たる事実も持たないまま横暴に人の命を奪うのか」
「戦意の無い人間を(むご)く殺すことが 正義を、裁きを主張する者達のすることなのか」
「戸籍も消えて、記憶も消えて、世界からすでに消えたも同然の人間をどうして執拗に追いかける!私がこの国を見ている限り、もっと他にやることがある筈だろう!!」

 景麒は言葉も無いまま、少女を呆然と見つめた。少女の言うとおりだ。慶国は今整備が追いつかず、様々な場所で何万人という規模で未だ死者が出続けている。
 逆賊、逆賊 と金波宮、堯天では騒いでいるが実際の所 本当に王が狙われたという事件を景麒は覚えていなかった。確かめもしないで、人々に押されるまま慶国の兵士達は一人の人間を消すことに躍起になっているのが実情だ。正義のためと人は言う。だが人の命を絶つことが正義なのか。それは本当に正義と言えるのか。
 本当は…真実は違うのではないのか。今は漢轍が正しいように世界は回っているが、それは真実そうなのか。
 何が本当に正しくて、何が偽物として間違っている。
 漢轍は、彼は景麒が何故角の調子が悪いのか、細かな原因を突き止めようともしなかった。
 景麒の角を治そうとするのに僅かな努力さえもしなかった。
 半身を慈しむ気持ちなんて、あの男は微塵も持っていなかったじゃないか。

 酷い…頭痛がした。

 「ぐっ…」
 景麒はふらふらと頭を抑えて屈み込んだ。少女は不思議そうな顔をして景麒を見つめる。次々に剥がされていく色々な歪みが、彼を真実へと誘って行く。呼吸が荒く、景麒の陶器の様に白くて滑らかな肌から幾つもの汗の珠が吹き出してくる。激しい頭痛が、景麒を襲っていた。
 歪みに歪んで、曲げられて、厚塗りの化粧を塗りたくって粉吹いた、真実を(かたど)った仮面。

『景麒』

 薄ぼんやりと名を呼ぶ温かい声。それは今の今まで聞いていた声音と同じ強さと優しさ、深さを伴った声だった。頭痛は激しさを増していく。

『貴方 誰ですか?! 家に帰りたい…!』
『景麒さん…』
『お前だけは私を信じなくてはならない』
『私もお前も知らないことがまだまだ沢山ある』
『お前までそんな目で見ないでくれ!』
『すまない』

 心から溢れ出してくる声、声、声。今まで聞いていたものとは違う声色が時折混ざるが、その声さえも他の声と深く流れる根底は同じで、景麒の中を掻き乱す。間違いなく、声色は違えどもそれは同一人物の声に他ならなかった。
「う…あ…!」
 襲い来る頭痛は一層激しさを増す。心の奥底の記憶の蓋がカタカタと音を立てて壊れかけていた。
 猛烈な痛みが景麒を襲った。記憶の扉が開いていく。光が漏れ込んで、景麒の中に流れ込む。

「うあ、あああぁあっ!!」

 溢れ出す記憶の渦に、景麒は頭を抑えて屈み込んだ。風はいつの間にか動きを止めて、ただ穏やかにその場をたゆとい夜空を撫でる。
 少女の瞳が遠目から見ても分かるように大きく見開いた。驚いたように数歩こちらに駆け寄ったが、崖が二人の距離を隔てた。景麒は頭に手を当てる。
 こじ開けられていく記憶の確信。
 ガンガンと鳴り響くその痛みの音が視界を狭くしていく中、景麒の耳元でまた声が過る。その声と共に…ある一風景が景麒の目の前に広がっていった。

 現れたのは、見たことも馴染みもない、常世の風光から外れた一つの景色。
 少し灰色がかった空、人で混み合っているのに何故か殺伐とした場所だった。並び立つ建物の外装も、人も、色で溢れているのに色味がないのだ。様々な色彩の服を着る人々が混ざり合うようにして道という道を歩いているのにも関わらず、どうしてこれ程殺風景なのだろう。ふと見た時に、顔貌は全て違えど、皆無表情をしているからだということにその時景麒は気がついた。
 ふと瞳を目端にずらすと、そこにかつて自分がいた。王が居なかった頃の景麒だ。瞳に映った自分自身は、その風景の中で眉を潜めて、何かを探すように遁甲してその場を滑っていく。景麒は後を追いかけた。
 やがて目の前に現れた石で固められた建物を認めると、かつての彼と景麒は静かにその中に入り込む。
 一瞬風景が溶けて、やがてはっきりと形を持った時には、景麒の目の前にはかつての自分と不思議な服で身を包んだ、赤味がかった髪の少女が立っていた。不安げな色が揺れる少女の瞳は、得体のしれないものを見るような目で自分を見ていた。恐怖と嫌悪が入り混じった複雑な色合いを湛えていて、同時に彼の中にも何か複雑な感情が吹き出す。
 一種の――落胆に似ていた。
 少女の手が思い切り、一回り大きな自分の掌を(はた)くその光景と、痛々しい音響を最後に、景色は揺らいで消えていった。

 急速に遠のいていく景色。景麒は目の前の光景から引き離され呆然とその場に佇む。
(何‥なんだ…)
 見たことも無い少女だったが、景麒は彼女を深く知っていることを感じた。矛盾している。だがその矛盾がまかり通る不思議な感覚だった。確かな輪郭さえ持たない様々な光景が、走馬灯のように駆けていく。視界を占める歪んでいた景色が急速に渦巻き始め、形を創りだしていく。

 風がたなびく、音がした。

 次に現れたそれは――金波宮の中、 時を止め忘れ去られたある場所。
 光だけが見落とさない、寂れた広大な敷地から消されたある場所。

『よくここが分かったな』

 うっすらとセピアが掛かったその景色の中で陽だまりを浴びた一人の少女。先ほどまでの記憶の少女と、似ているようで似ていない同じ何かを持っているように見えた。そしてそれは同時に先ほどまで崖を隔てて遠目で見えていた人物とよく似ているように思える。考えこむように遠くを見つめる最中、時折掠れるその風景の中で、流れた風が彼女の髪を撫でて行く。誰も返事をする筈無いのに、応えるように聞こえたのは自分の声だった。

『どこに居られるかなど、いつでも分かります』

 少しだけ、困ったようにこちらを振り向く彼女。その顔は僅かに はにかんで、固かった瞳が、口元が綻んだ。花が綻ぶような微笑。その顔はくっきりと脳裏に焼き付いて、景麒の呼吸が止まった。
 見つめる自分の唇から息が漏れ、思わず手を伸ばした途端、ぐにゃりと世界が歪んで混ざっていく。待てという間もない間に色という色が撚り合わさって、僅かに残っていた目の前の景色をかき消した。
 景麒には消えた幻影の中伸ばしていた手を見つめることしか出来なかった。

 飛ぶように景色は過ぎ去っていく。
 断片的な記憶が次に見せたのは淡い光が漏れ込む牢獄のような場所だった。

 ふと気がつくと目に映る自分のほっそりとした足には重たい足かせが嵌められていた。足かせが放つ鈍光はどこまでも無表情に景麒を見つめて顔貌を崩さずせせら笑う。頭上から差し込む燐光で、景麒の毛並みには艶が走り、まるで涙で濡れているようだった。角を封じられ刻み込まれた乾いた血の色だけが目に映る。細めた眸の奥に溜まる絶望に、彼はその時自分が蝕まれていたことを思い出した。
 だが目を閉じたその時、駆けてくる幾つもの足音が耳を叩いて景麒はうっすら瞼を開く。一際大きな音が鳴り響き、閉ざされ暗闇に濡れた目の前に光の筋が切れ込んだ。次の瞬間には光が溢れて、景麒は思わず目を瞬く。
 光の中に立っていたのは…真紅の髪を翻した一人の少女。
 少女は肩を上下させながらその場にまろぶようにして駆け込んだ。
『…景麒?』
『探した』
 所々ぼやけた音になりながらも、自分と彼女は会話を紡いでいく。景麒は頭に手を当てる。
(何だ…こんな風景は今までの記憶に無かった…)
 だが呆然とその光景を見つめながら記憶の景麒と、今の景麒が少しずつ融け合う感覚がして、彼は静かに目を閉じた。強い何かが景麒の胸を突く。今と記憶の声が重なり、唇が―動く。

『天命を持って主上にお迎えする』

 首を垂れて、その角を目の前の少女の足に当てる。

『御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと誓約申し上げる』

 角に、柔らかな温もりが灯った。目眩が彼を襲って、滲み出し形を露わにしていく真実に、景麒は頭に両手を当てた。
 そうだ、自分たちは幸か不幸か時の流れの中関わり合っていた。自分のことはなりふり構わないから再会した後にも、何度も何度も危ない目に遭う度自分の溜息と説教を彼女はくらう。だが迷いながら、それでも正しい道を選ぼうとする姿は光のようで、その姿はまるで先を照らす灯火のようだったのだ。
 そうだ、かつてその彼女にとって、きっと景麒は彼女の世界の一部だった。けれど…


 景麒にとっては彼女こそが、彼の世界の、すべてだった。


 景麒の誓約の言葉を受け止めた少女は、一瞬大きく目を見開いて…そっと微笑んだ。
『―許す』

 薄く細まる翡翠の色合いが、時を止めて廃れた景色を美しく彩った。
彼女が居てくれさえすれば、そこから色は消えない。
景麒の無彩色の世界から、鮮やかな色は、消えない。

 記憶の風が急速に吹き荒れて、何もかもを攫って行く。途端に怒涛のように溢れだす記憶の渦に景麒は頭を抑えて吠えた。
 記憶が駆け抜ける以前に景麒が感じたそれ。
 髪を靡かせ驚いたように見つめる、目の前の少女から僅かに感じるそれは仄かな灯火の温もり。

 それは紛れも無く景麒にとって、世界でただ一つの…王気。

「しゅ…じょ‥う」
 うっすらと目を開けば景麒を見つめ、崖を隔てて佇む緋色の少女の口が動いた。やっと再会出来た―ただ一人の主。景麒は霞む目を瞬いてその動きを追おうとする。けれどその瞳が唐突に大きく見開かれる。
 それはその口を開けた少女の背後から、踊りかかるようにして飛び出た妖魔の残党が彼の瞳に映ったからだ。
 景麒の大きく開いた口から叫び声が漏れる。その声で、牙を向き襲い掛かる妖魔に気が付き、少女は振り向きざまに剣を薙ぐ。
 妖魔は斬り飛ばされて森の中へ倒れていったが、切り捨てたその反動か、少女の身体が大きく傾いで、崖の口の方へ身体の線がずれて行く。
「!!」
 傾いていく少女。
 景麒が咄嗟に転変しようとしたその瞬間に、頭が割れるような激痛が襲って彼は膝を着く。使令の苦しむ気配が背後でする。景麒が痛みで釈然としない頭を振ってなんとか少女を目端に入れた時には、少女は髪を靡かせて崖下に身を躍らせていた。
 まるで自ら飛び込んだように。
「主上――――!!!」 
 景麒は―自分が叫ぶ声を聞いた。

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 陽子は崖を隔てて居る金の男をただ見つめていた。唐突に、頭を抑えて屈み込んだその男。何かに悶えているように見えたその男の、何がそんなに苦しいのか、陽子には分からなかった。
 ただ、何か居た堪れなくて、陽子は思わず男に大丈夫か、と声を掛けようと口を開いた。その時ふと後ろから感じた尖る殺気、自分を見つめた男の叫び声で、陽子は後ろから敵が迫っていることを知って振り向きざまに妖魔の残党を切り捨てた。
 重みで揺らぐ自分の身体と頼りなく輪郭を朧げに震わせる足元の崖に思わず陽子は息を呑む。男が何かを叫んで手を伸ばしたが届くはずもなかった。
 背後からは残っていた妖魔の残党達が陽子目がけて迫り来る。前では口を広げて陽子を待つ奈落の底だ。
(まずい…!!)
 だが一瞬恐怖で染まった陽子の脳内に、その時ふと誰かの「声」がした。それは先程の武人、更夜の柔らかな声だった。
『この先の崖下に、妖魔は来ないよ』
 先程別れ際に耳元で囁かれた言葉が陽子の耳元を過ぎ去っていく。
 その言葉が頭で響き、強く瞑った目を陽子はしっかりと目を開いた。見つめる先は、闇が微睡む深い深い地上の奥底だ。
 本当に大丈夫なのだろうか。
 信じても大丈夫なのだろうか。
 だが心が答えを出す前に、陽子の身体は動いていた。妖魔の牙をすり抜けて、陽子は自ら唯一の逃げ道である漆黒の闇の中へ身体を踊らせる。
 一瞬の沈黙
 叫び声が遠くから聞こえた。
 僅かな滞空時間、陽子は重力が身体を捉えていくのを感じながら男の方をチラリと見た。男が飛び込もうと両手に体重を掛け、だが頭を抑えて蹲った光景を、闇に絡められながら、陽子は見つめる。ふと不思議な、感覚がした。

―貴方は…誰なんだ

 一瞬絡む紫眸と緑眸。だがその次の瞬間には、陽子は闇に引きずられるようにして、奈落の奥底へと身を溶かしていった。過ぎ去る距離は二人の間を隔てていく。

 夜空に光を落とすのは散りばめられた満点の星々。その一粒一粒は、確かな煌きを持って輝きの(もと)、地上の人々を見つめる。
 その光さえも届かない、深い深い奈落の奥底に吸い込まれるように消えたのは赤色だ。

 誰も何も言わない静寂なその空間に、一人の男の声が響き渡った。


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「!」

 星が夜空に散るその同時刻。山の麓を歩いていた一人の人物が歩みを止めてその山の山頂付近を見つめていた。月明かりに濡れたその顔は優しげだが、その中に光る知性を感じさせる物だった。今はまだ、少年らしさが抜け切らないそんな年頃なのだろうか。もっと年を重ねれば、美丈夫になる事が想定できる柔らかくも美しい顔立ちだった。黒髪が風で揺れ、彼の顔に線を創る。
「どうした?」
 側で歩いていたもう一人の人物―こちらは老人だった―は不思議そうに彼の顔を見上げる。彼はふんわりと微笑んだ。
「いえ、何か不思議な感じが…したもので」
「不思議?」
 えぇと彼は頷く。老人はほぉと言葉を漏らした後、また彼と共に歩き始める。それにしても と老人は口を開いた。
「悪かったなぁ。見ず知らずのあんたに助けてもらっちまって。荷だって重いだろう」
「いいえ、お手伝いさせて貰えて嬉しいです」
「今日は俺んとこ泊まんなぁ。盧のみんなは寝てっだろうけど、明日にでも紹介してぇ」
 少年と青年の中間にいる彼は微笑んだ。夜の深さはもう大分濃さを増していた。夜道を歩きながら、彼を見て、老人はふと歩みを止め、目を瞬いた。
「そういえばあんたの名は…何だったかなぁ?」
 風が不意に強く吹く。
 空からの燐光だけは微動だにしない中、月明かりの掛かる樹の葉の影だけが重なりあって動く影絵を地面に落としていた。彼の深い黒の瞳にも葉に煽られた不均等な燐光が揺れる。僕の名は…と彼の唇が動いた。

「夕暉です」

 声は風に乗って流れていく。その声は夜空の下静かに溶けていく。
 幽闇の中佇む彼の瞳には聡明な光が踊っていた。



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