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 風が頬を切り裂く。
 落ちるのは時間にしては一瞬だったろうに、陽子にとっては酷く長い滞空時間だったように感じられた。待ち構えているのは固く広がる地面だとばかり思っていたが、突き出た枝に衣を噛まれ、体が空中にぶら下がる。襟を噛まれ息をつく間もなく、枝がたわんで陽子を果実のように ぼとり と地面に落とした。
 それから先は覚えていない。
 ただ、落ちた所がなだらかな曲線の斜面でコロコロと転がっていったことぐらいだろうか。体が止まった時には白く仄かな光が散っている小さな木の根元に転がり込んでいた。
 頭上では暗く落ち窪んでいた空に柔らかな乳白色の網が掛かっていた。
枝の先には所々丸くて少し雫が垂れた様な実が淡く照り輝きながら夜空を飾る。
 その金色の美しさが翡翠の瞳の中で映ると同時に、陽子は糸が切れたように意識を落としたのだ。


―ぶか?
 暗闇のどこかから、声がする。どろりと微睡むその闇の奥底で陽子は小さく身体を丸めた。身体が重くて言うことを聞かない。水を吸ったような重たい衣服が全ての動きを緩慢にする。
―じょうぶか?
 掠れて滲んでいた声が、さっきよりも輪郭を持って聞こえた。誰なのだろう、もう少しだけこのまま眠っていたいのに。陽子は声に逆らうように目をきつく瞑ったが、意識は反対に大きく浮遊して深い闇の水面へと浮かび上がった。きつく閉じた瞼を透かして、光が目に染みる。
 その瞬間声が、はっきりと陽子の耳に届いた。

「大丈夫か?」

 揺り起こされるようにして、陽子はゆるりと目を押し開けた。途端に溢れる光に塗りたくられた世界に陽子は反射的に目を細める。逆光を受けて濃いシルエットを落とす眼の前のものが何なのか、陽子にはすぐ判別が出来なかった。誰かに抱き起こされている感触だけを首から背中にかけて感じ、自分の垂れた髪が地面に波を作っているのが分かる。逆光を受けた影が、陽子を抱き起こしている張本人だった。影―少なくとも人間ではない―がまた陽子に言葉をかける。
「大丈夫か?気がついたみてぇだな」
 陽子は目を瞬いた。目が光に慣れてきて、言葉を話すそのシルエットがしっかりと陽子は見ることが出来るようになってきた。
ふるんとシルエットから伸びた尻尾が揺れる。ふかふかと柔らかそうな体毛に覆われた身体。パチリとしたアーモンド型の黒目。口元から伸びた髭は風にそよいだ。
(え…?)
 陽子は目を瞬く。だが、それは先程までとは違う理由で、自分の目が信じられなかったから、嘘じゃないかと何度も瞬きを繰り返した。
 それは陽子が見た、彼女を抱えているのが――人の子供程の大きさをしたネズミだったからだ。
言葉がでない陽子を見て、ネズミの瞳が僅かに細くなって笑う。柔らかい風に、髭がとろんと靡いて揺れた。ネズミは少しだけ笑って言葉を紡いだ。

「半獣は…珍しいか?」

:::::


 朝露が、透明な珠となって葉の表面を滑り落ちる。
白い繊細な枝の隙間から出た陽子と半獣のネズミ、最初に一言、お前朝餉は未だか とネズミに聞かれ思わず頷いてしまった。言葉より先に腹の虫が音を上げて、恥ずかしさに頬をうっすらと染めた陽子を見て、ネズミは楽しげに笑って彼女を手招きする。暫くの間二人はだらだらとなだらかに続く山道の斜面を歩いていた。
 やがて開けた丘のような場所に突き当たり、ネズミは一人で持っていた荷を広げ、火を炊き始めた。陽子もなんとなくそれに習いネズミの手伝いをする。
 しばらくして火が炊けて、鼠は持っていた笹の葉で包んだようなものを側に置いて、土を被せ、その上に火の中から取り出した石を幾つものせていった。
 その手際の良さに陽子は思わず目を丸くした。当のネズミは準備をしながら後ろに居る陽子に、声を漏らす。
「あんた、野木の下で夜を越すのは賢明な判断だったな」
「別に…意図してやった訳じゃないんだ」
 そうなのか?と首を傾げるネズミに陽子は頷く。
「旅の途中崖から落ちて、生い茂っていた木の枝に服を噛まれて助かった。そこからまた地面に落ちて、転がって行ったら たまたまあの光る木の下だったんだ」
「崖から落ちたぁ?!」
 ネズミの髭がピンと伸びる。心底驚いた様なネズミのアーモンド型の瞳が真ん丸に見開いた。
正確に言うと飛び降りたということは敢えて言わずに陽子は首を縦に振る。
 ネズミは驚いた様な顔のままふるふると首を振った。
「あんた、それでよく無事だったなぁ」
 そうだな と陽子は微苦笑してネズミを見た。ネズミは笑う。
「おいらは楽俊っていう」
「ラクシュン?」
「苦楽の楽に俊敏の俊で楽俊」
 そう と答えた陽子に楽俊はちょいと小首を傾げ、あんたの名はなんて言うんだ?と続けて尋ねた。陽子は思わず言葉が詰まるのを感じた。楽俊はきょとんと首を傾げる。
「私の…名は…―」
―わからない けれど言える筈も無かった。唇を開きかけたその時、炊いていた火が大きく舞い上がった。
「うわ?!」
 炎は風に舐められたように大きく燃え上がる。楽俊は慌てて水を含ませた布を火の上に覆いかけ、焦げた臭いをさせて火がプスプスと音を立てて静まった。楽俊はぽりぽりと頭を掻いた。
「あぁ〜やっちまったなー」
 陽子も手伝って、石をどかしていくが、その中に入っていた笹の葉で包んだ食べ物は奇跡的に無事だった。
 突然のボヤ騒ぎに、陽子はかすかにだが、ほっと安堵の息をついた。


 二人で焚き火の焦げ地を囲みながら朝餉を食べて、何の差し障りもない談笑をしていれば、時間はあっという間に過ぎ去っていった。楽俊が陽子に差し出したあの笹の葉の中の物は、白米の団子の様な物だった。柔らかい米の中には炒めた肉がたっぷりと入っていた。香辛料が振ってあるらしく、鼻を寄せれば、中からとても香ばしくて良い香りが漂っていた。甘辛いタレが絡みつく肉を噛めばジュッと上手い肉汁が出て、食べながら陽子は、自分が久々にまともな食事にありついていることに気がつく。
 温かい食事は意外な程腹にしみて、身体に溜まった。
 貰った食べ物を綺麗に平らげた陽子は、指先に着いた米粒まで食べて、楽俊から差し出された温かいお茶を口に含める。
 食べ終わった陽子は幸せそうな顔をして、膨れたお腹を苦しげに摩る。そんな陽子の様子を見て楽俊は笑った。
「おまえ随分腹が減ってたんだなぁ」
 陽子は頭を掻きながら少し照れる。
「ありがとう。しばらくまともな食事をしてなかったんだ」
 だろうなぁと楽俊は空を仰いで髭をそよがせた。ゆらゆらと伸びやかに揺らぐ髭を陽子は思わず見入る。
「楽俊さんは…どうしてこんな山道を通っていたの?」
「おいらは雁からのちょっとした使いさ」
「エン?」
「あぁ。雁州国からの使い。慶国視察にオイラは来ている」
「視察…貴方、凄いんだね」
 凄くねぇよ!とブンブンと楽俊は首を振った。
「おいらはあくまでただの『使い』だ。本当に凄いっていう立場は王とかそういう責任を負った立場のことを言うんだ」
「ふうん?」
 ふっと陽子はその時楽俊と話をすることに何か既視感のようなものを感じたが、その時は深くは考えなかった。ひょっとしたら、久しぶりに他愛もない会話をしていることから来るのかもしれないと思い陽子は口を噤む。思い返せば、命を狙われてからは、穏やかな会話などひとつもした覚えがなかった。
 陽子がふとそんなことを考えている内に、楽俊は言葉を続けた。
「おいらは一介の学生だよ。確かに『使い』という立場を今回任されているけれど、そんなに堅苦しいもんでもねぇ。実際今回の視察は殆どおまけさ。全部が全部雁国のためって訳じゃねぇんだ」
「?それってどういうこと…?」
 楽俊は髭をゆらゆらと上下させる。目元が少し砕けたように笑った。
「実は今回ここに来たのは視察だけじゃなくおいらの私情も入っちまってるってことだよ」
 陽子はぱちぱちと目を瞬いた。けぶるように陽子の睫毛が上下するのを見て、楽俊は頬を掻きながら少しだけ遠くに視線を飛ばす。
 ふとその顔に、今までの柔和な感じが消えて、真摯な色が浮かんだ。
「探し人が居るんだ」
「探し人…?」
 あぁと楽俊は頷く。
「顔もわからない、探し人」
 顔もわからない、探し人…?その言葉の真意が組めず、陽子は僅かに眉根を寄せた。楽俊は言葉を続ける。
「変な話かもしれねぇが、おいら記憶が少し抜けてんだ。その無くなった記憶の中で、1つだけ覚えてるのが『顔も分からない探し人』」
「…どういう‥こと?」
 眉を寄せる陽子に、楽俊は肩をすくめて見せた。
「詳細は一切わからねぇ‥でも一つだけオイラは誰か大切な人を記憶から追い出しちまったことだけは覚えている。かつては誰かが確かに…おいらの中にいた。今はいない」
 陽子はただただ押し黙って、手元で冷めていくぬるいお茶を見つめた。中身の温度に合わせて冷え始めた入れ物は、握る陽子の掌の温度を奪っていく。
「その人がどこにいるのかはわかんねぇけど、少なくとも雁に居ねぇことだけは確信できる。それに本来なら、半獣は小学以上上の学校には行けねぇのに、おいらは今大学に通っている。野良仕事してた頃から、本当なら入れねぇ筈の大学に通うまでの記憶が抜けてるんだ。おかしな話だろ?抜けた記憶の中にスコンと全部答えは入っている筈なんだ」
 陽子の息が音にならない音を立てて止まった。彼女はその話におかしいねなどと言葉を漏らすことが出来なかった。だって自分は全ての記憶が抜けている。 そもそも記憶が消えるなんて、そうそう有るものなのか。同時期に、不可思議に記憶が消えた楽俊と陽子。
 こんな偶然が、あるのだろうか。
 陽子は眉を潜めた。戸惑うように瞳が揺れて、言葉を探しながら陽子は口を開いた。
「じゃあ貴方は…その人の名前も覚えていないの…?」
 楽俊が静かに瞳を持ち上げて、彼女を見つめる。風が吹き流れて髭がゆらりと揺れた。
 アーモンド型のその黒い瞳が濡れたように光って、楽俊は言葉を呟くように零した。
「…『ヨウコ』」
 少女の瞳が僅かに見開く。だが、彼女は今自分の名を知らない。酷く懐かしいようなその音は陽子の中で木霊のように響いた。蟠りを抱えたまま、言葉が出ないまま、陽子は舌から音を押し出す。僅かに、頭痛がした。
「ごめん…分から…ない」
 一瞬楽俊の瞳に期待の色が浮かんでいたが、そうか と髭をしおしおと垂れた。だが、すぐに気を取り直した様に顔を上げると陽子に向かって笑った。
「そんなすぐに見つかるわけねぇよな。珍しい名前だし。おいらもこれだけしか分かんねぇ。そもそも頭に残ってる『ヨウコ』っつう音が本当に名前を意味するのかも定かじゃねぇんだ。ごめんな、変なこと聞いて」
「いや…力になれなくてすまない…」
 言いながら、陽子は何故か楽俊と目を合わせることが出来なくて、ただ地面だけを見ていた。ざらついて砂を吹く地面はどこか無機質で、他人行儀なよそよそしい顔をしている。楽俊が気にすんな と言う声を聞きながら、陽子はその他人行儀な顔を見つめ続けていた。楽俊はそんな陽子の様子を見ながら、不思議そうに首を傾げる。
「それにしても…これからどこに行くつもりなんだ?」
 陽子は一度だけ瞬きすると、あぁと呟いた。ふと過ぎ去る様々な出来事が頭の中を駈けて行ったが、それには目を向けず、ただ自分の目的だけに焦点を合わせ、陽子は慎重に言葉を選ぶ。
「命も助かったことだし、私はこの国の…首都に、行ってみようと思っている」
「首都?堯天にか?」
 陽子は首をゆっくりと縦に振った。桜色の唇が薄く割れる。
「そこには、王様が住んでいる王宮が在るよね?私はそこに行って、どうしても確かめなくちゃならないことがあるんだ」
 楽俊はポカンと口を開いた。
「王宮って…金波宮のことか?何でそんな所に…」
 行く必要があるんだ と楽俊は言いかけたが、その時の目の前の少女の有無を言わさない強い色を湛えた眸に口を噤んだ。それ以上の言及を許さないその色に、楽俊は押し黙る。その光が宿る新緑の双眸は思わず見入る物だった。風が吹き流れていって、目の前の少女の髪を揉んで攫って行く中で、少女はふと視線を逸らし、呟くように囁く。
「いろいろな…事情があるんだ」
 呟きを掻き消すように、陽子は手に持っていたすっかり冷め切ったお茶を仰いだ。
 液体を飲み干すと、陽子は茶器を置いて立ち上がり、その場から歩き始めた。後ろ背に陽子は言葉を残す。
「じゃあ、私はこれで。朝ご飯、ご馳走してくれてありがとう」
「!ま、待てよ!」
 楽俊は慌てて陽子の後ろ姿を追う。歩く陽子の衣服の端を掴んで、引き止めた。陽子は怪訝そうに頭2つ分程小さい楽俊を振り返る。
「待てよ、お前 短気な奴だなぁ。おいらの行き先も聞いてくれよ。丁度おいらもこれから堯天に用があるんだ。どうせなら一緒に行こう。ひょっとしたら何か助けになれるかもしれねぇ」
 陽子の顔が僅かに曇る。親切はありがたかったが、彼を危険に巻き込むつもりは陽子にはさらさら無かった。でも…と口ごもる陽子に楽俊は畳み掛ける。
「そもそもあんた 堯天の場所知ってるのか?」
「そ、それは…」
「見たところ何も知らねぇみてぇだし、今あんたが歩いていった方向は堯天とは反対だぞ?どこに行くつもりなんだ、危なっかしいたらありゃしねぇ!」
 そんなんじゃ行き着けねぇぞ?と言う楽俊に反論の術無く陽子は押し黙った。楽俊はそんな陽子を見つめて眸を細めて笑う。
「一緒に行こう。なぁに、あんたに迷惑はかけねぇ様にするから」
 その人の良さそうな笑顔が却って今の陽子には辛い。
だが、な?と首を傾げて言われ――道も知らない陽子は首を縦に振るしか無かった。
 楽俊は嬉しそうに笑うと、陽子の手を引き反対方向に歩き始めた。


 木の葉がざわめく、音がする。
木漏れ日が地面に斑を落としながらその場を彩る。影を創る木々の葉は地面に落ちるその造形の形を気まぐれな風に委ねていた。
 日が高く登り始めたその時間に、一人と一匹の影がそれぞれ、違う長さで地面に落ちる。楽俊は荷を抱え直して少し遅れた歩みを速める。楽俊は真紅の髪を揺らす、隣で歩く少女に先程聞きそこねた質問をもう一度しようと口を開いた。その質問はその時の彼にとっては本当に、深い意味は無いものだった。
「そういえば名前を聞いてなかったよな。名前…」
 言葉を漏らした瞬間、突風が強く吹き荒れた。
 楽俊はなんの戸惑いもなく少女を見上げたが――その顔を見た瞬間彼の動きが止まった。
 
 彼女は先程までの優しい顔とは打って変わって、横顔を鋭く締めたまま、何者も寄せ付けないような色を濃く出して視線の先の一点だけを見つめていた。
 
 楽俊は一瞬呆気に取られたような呆然とした顔をした。
少女の顔(それ)はまるで‥何者も、踏み込むことを許さないような… 
孤独を受け入れ何かの決意を固めた人間の顔だったから。

 陽子は唐突に吹いた風の音で、質問は聞こえなかった振りをして、歩く速度を速める。楽俊は思わず歩みを止めて陽子の後ろ姿を見つめた。
陽子は楽俊が歩みを止めたのを背後に感じたが、振り返ることはしなかった。
 空が掻き乱される音が陽子の耳を吹き過ぎていく。その中で、違う影の形、影の長さを落としながら、一人と一匹は道を行く。謎めいた一人の少女と、一匹のネズミの旅が始まった。
 
 堯天まで、あとどれくらいの道のりが残っているのだろう。



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