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少女の瞳が大きく見開く。瞳の表面に映る夜空を彩る星々は、ただただひたすら美しい。 次の瞬間響き渡るのは、牙と牙がぶつかり合う無機質な轟音だ。 その衝撃と勢いに弾き飛ばされた陽子は思わず後ろにたたらを踏んだ。 気がつけば無意識に牙を後ろに避けていたのは偶然なのか、喉元を押さえる掌の下では、凶器から逃れた無事な喉の輪郭が、穏やかに上下を繰り返していた。 ―死ねば良かったのにヨォ 先ほどまで心地よく響いていたきゃらきゃらと嗤う声は、ひたすら醜く浅ましい。 陽子は目を見開いたまま震える手を額に当てる。心の中にこびり付く、頭の中で響いた、寒い日の暖かな部屋の硝子のように、即座に柔らかく曇り始めた先程の声。 ―今のは…誰だ 男の、声だった。記憶の奥底に沈んだ声は、滲んでふやけてしまってもう掬い出すことができない。セピアがかった「彼」の声色はもう思い出すことは出来なかったが、その必死の声は陽子の心に深い爪痕を残していくには十分だった。 抵抗しろと叫んでいた声、陽子はきつく目を閉じたまま額に強く手を押し当てる。 ―誰なんだ、 自分にはかつて、大切にしてくれた人々が居たのだろうか。自分が居なくなったら悲しんでくれる人々が、居たのだろうか。 あの雨の日に目覚めてから考えたことも無かった独白が陽子の中を過ぎっていく。 瞬時にして溢れてくる様々な物への愛惜、色々な想いが心のなかを覗き込んでは去っていくのを陽子は止めることは出来なくて。 そして――その想いが過ぎ去っていく時……同時に陽子は気がついてしまった。 それは先程まで自分が気がつけなかった、気がついてはいけなかったその事実。 自分には今、誰一人として大切な人がいないという事実に。 心の中で先程まで感じていた何かが、またカタリと音を立てた。 押しとどめる間もなくその「何か」は音を立てて転がりまわっていく。徐々に徐々にその大きさを増しながら、「それ」は無視できないほど大きく心の中を占めて中心部に居座った。 酷く鬱陶しいこれは一体何なのだろう。心の中でのさばる得体のしれないものへの不信感を感じながら、陽子がそれを慎重に開いていけば、徐々にその正体が見えてくる。 絡まりすぎて、こんがらがりすぎて、もう解く起点さえも分からなくなっているそれ。 自己主張し、頑なに心の中に在ろうとするそれは― 肥大化して踏ん反り返って居座るそれは――― ―悲しみだった。 孤独で這いまわる悲しみ。安住の場所が無い悲しみ。信じることが出来無い悲しみ。帰る場所が無い悲しみ。そして… 大切なものが何一つとして無い悲しみ。 ズキリと音を立てて胸が痛んだ。 息が止まる程のその痛みに、陽子の口から思わず悲鳴が漏れて、胸を抑えて体を丸めた。 気がついた途端に、その痛みは陽子を内部から抉ってその傷の深さを主張する。体よりも何よりも、心が痛いと言うそのことを、全霊を込めて何かがが叫んで、それが陽子を苦しめた。 本当にこのまま死んでしまっていいのか ―死ねばいいじゃねぇかヨォ 何も知らないでいいのか ―知った所でお前の汚さが暴かれるだけサァ 何もかもから逃げ出して ―逃げたが勝ちサァ 此処は互いを貪り合う鬼の国、苦しむよりずっと…「楽」サァ 楽をするために私は生まれてきたのか。記憶が無いことを言い訳にして、一体何から逃げようとしていた。かつての自分からどれだけ目を背けても、記憶があろうとなかろうと私は私で在ることに変わりは無いのに。 陽子は強く自分の両手を握りこんだ。音が出る程、強く。 陽子が陽子であるということは、どんな時でも、自分に責任を持って、世界と関わり合っていかなくてはならないという理由にならないか。 自分の何もかもを受け止めて、自分自身の王者として己を律して、世界と向き合っていかなくてはならない理由にはならないか。 自分は罪人だと人は言う。自らが王座に就きたいがために王を弑ようとし、玉座を血で塗ろうとした逆賊だと言う。 死ぬことでしか罪を償えないのだと高らかに謳って、この世界で人は皆、正義の仮面を貼りつけて、陽子を殺そうとしている。だが、どんな人間とはいえ、人を殺すことが本当に正義なのか。人が人を裁く権利なんて無い筈なのに。 陽子は掌をきつく握りこむ。世界と自分の歪みをその時陽子は見つけ出した。 かつては贖いのためなら死んでも良い、と彼女は思えた。 だがそれは名前を変えた逃避に過ぎないのではないか。何も知ろうとしないで分からないまま物事を終えるということが贖いになんてなるわけがなくて。本当に罪を犯していたのならば、まずその重さを理解し、なぜそうなってしまったのか自分自身の弱さと向きあっていく姿勢こそが何よりもまず求められるものなのではないのか。 それこそが本当に、自分と関わりあう世界、周囲、自分自身への礼儀なのではないのか。 それすらも許さないで命を奪う権利なんて陽子にも誰にもない筈なのに。 何が起こったのかも分からずに、贖いとして求められるままに命を捨てられるその行為こそが罪以前に全ての生きるものに対する侮辱なのではないのか。 そんな簡単に捨てられる命で、物事と向き合う姿勢を欠いた、自分自身に責任を持たない命で、一体何と向き合える。 陽子がしなければならなかったことは、死を強要するような歪んだ世界観を鵜呑みにせずに、誰の口で曲げられたものでもの無い真実を知ることなんじゃないのか。 己が己であるために。 ざわめきだけが夜の影に染まった木々の葉を掻きだしていく。 風が髪を揺らしていく中―陽子はゆっくりと翡翠の瞳を持ち上げた。 妖魔は溢れるその覇気に押され、思わず後ろに何歩か下がった。強い力が溢れ始めた、目の前の娘に妖魔は驚きを隠せない様子だった。妖魔が目の前の娘に感じ、気圧されたその気配―― それは他者を導く王者の品格とでもいうのか。 「私は―死なない」 「何だと‥?」 「死ぬなんて、私が私に許さない」 今ここで選ぶ死は、歪んだ世界観に流されて楽をした、名前を上塗りして変えた逃避に過ぎない。 「国を敵に回して、世界を敵に回して、お前の味方などどこにもいない」 「いなくても、いいんだ」 「誰からも相手にされない」 「それでも、構わない」 「最後は裏切られて終わりだ」 「裏切られてもいいんだ」 どうするかなど、陽子自身が決めれば良いことなのだ。 砂が擦れ合う音を立て、陽子の足が土を踏んで前に進み出る。陽子は妖魔を見つめ唐突に強い声を放った。 「私は、誰だ」 妖魔は答えず、覇気に当てられ後ろに下がる。砂が砕ける、脆い音が耳に残った。 「私は、何者なんだ」 風は強さを増していき、陽子は地面に深々と刺さる己の剣の鞘に掌を掛け、鋭い瞳のままかくりと首を横に傾げる。 「何故、答えない。それとも何か私に知られたくない 陽子は己の掌を強く握る。何もかもに対して向けられた抵抗のように。 歪んだ世界がどれだけ陽子の死を望んでも、己と向かい合おうとする陽子には、そのために全てを知る権利があった。賢明に生きる陽子には、理不尽な要求を拒絶して、死を抗う権利があった。 妖魔は噛みあわせた牙の隙間から、すり潰した声を、唸りに乗せた。 「忌々しい‥!せっかく使令の妖魔に紛れた所、大人しく死んでいれば良かったものを‥!お前がそれを知る必要は無い、お前自身の過去などどうでも良い!お前が死ぬことにこそ、意味がある!!お前は、今ここで死ねば良いんだ!!」 陽子の双眸が強く燃える、さながら芽吹いた強さは、淀みを弾いて光輝を纏って輝いた。淀みの存在でしか無い妖魔は高く吠え、躍り上がる。 「死ね、死ね!!お前は‥‥死ぬんだ!!!」 ―飢えて疲れてお前は死ぬんだ!! 不気味に色づく蒼の燐光、きゃらきゃらと嗤う浅ましい声は、もはや現実に鳴り響き、目の前に踊りかかる妖魔の毛並みを青銀に閃かせる。 「私は 死なない!」 冷たく夜気に冷え切った柄を握れば、宝剣は主の手の温もりに体を寄せて、地面からその身を抜き放つ。陽子は刀を思い切り振りかぶれば、刀身は静かに表情を光らせて、牙むく妖魔を映し出した。 「そこを 知りたくないことを知るために。己が己であるために。強く優しくあるために。そのために努力しようとする陽子は間違っているのだろうか。 陽子は懇親の力を込めて――歯をむく剣の刃を振り下ろす。 力強い手応えを返して、血を舐め肉を断ち、刃が妖魔に沈み込む感触がした。 妖魔の顔が歪んでいき赤が吹き出すその前に、陽子は身を舞わせてその場から飛び退く。ゆっくりと地面に倒れ伏していく妖魔の 妖魔が睨む一点を陽子からどことも知れない一点へと変えたその瞬間―― 凄まじい悲鳴が響きわたって、目の前を彩っていた蒼の燐光が 吹き消えた。 ::::: 景麒は崖を隔てて暗さだけを染みこませた山間部を静かに見つめる。何の音沙汰もなく、静かなその空間に降り落ちるのは月影のみ。風もその動きを止め、無表情を決め込んでいた。景麒は囁く。 「やはり誰も居なかったか…」 チラリと視線を投げてよこした班渠は鼻を鳴らす。 「返答は何もありません」 「そうか」 景麒が呟くと、班渠は喉から低く音を出した。 「どうなさいますか…?」 「少し場所を変える」 「御意」 班渠は腰を下ろし、景麒が乗れるようにその身を屈めた。景麒はそれに跨ろうと一歩足を踏み出す。だが… 唐突に、強い風が吹いた。 「?!」 突風が金糸を攫い、景麒は思わず強く目を瞑る。手で風を避けながら、風に促される様に、景麒は先程まで見つめていた場所に目を戻した。うっすらとその目を開く。 小さな星あかりが、闇夜に 光が差し込んだその瞬間崖上に現れた人影に… 景麒の呼吸が止まった。 ::::: 世界が――ゆっくりと陽子の元に舞い戻ってくる。 びっしりと額に汗の珠を貼りつけた陽子は、体温が掠められていくその感覚に我を取り戻した。見れば、側では唸り声を上げる残りの妖魔たちが、地面に涎を垂らして間合いを詰めていた。 陽子は柄を握りしめ、襲い来る妖魔を薙ぐ。 薙いで、薙いで、そして最後の一匹を仕留めた時、そこにあったのは月明かりに染まった静謐な山間だった。 血糊を刃から振り落とし、白銀が静かに閃く。けれども陽子の眸は静かな輝きを宿したまま刃を光らせ、崖淵を睨んだ。睨むはその先の― 全ての妖魔の使令を行なっているだろう、金の髪の男。 自分の命を執拗なまでに狙ってくる正体不明の男。 陽子は月明かりに身を翻し、男と遠目ながらも向かい合う崖縁目がけて駈け出した。 駆けて風が髪を掻き上げながら、何の覆いもない裸の場所へ陽子は姿を晒す。一瞬月の姿を包んだ雲は、灯りを消して夜を暗くする。 もう逃げも隠れも――する気は無かった。 男は暗闇から飛び出した人影に、僅かに眉根を寄せる。雲が剥がれて月がその姿を表すと同時に、陽子は蒼の光の中、自分の姿が男の目の前に晒されたことを確信した。 何故ならそれは…男の瞳が、大きく見開いたから。 唸る刃を手に収め、静かに睨む翡翠の眸と濃紫の眸がかち合った。二つの視線が―絡む。 夜の風が急速に逆巻き始める中、陽子は手に握る柄を更に強く握った。 |
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