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 日が頂点から少し滑った場所に位置して、歩く人々を焦がしていく時間帯だった。窓硝子を通り抜けて、斜めになった太陽が一日で一番輝く光を差しこませている。駆けてきた光の筋が流れこんで、建造された様々な彫刻物に落ちる光と影のコントラストが、美しさを誇張させていた。
 燦々(さんさん)と光が染める景色の中、高い壁に囲まれたその一角だけは落ちる影の暗さが塗りつぶす。周りが美しく光り、輝けば輝くほど相反して闇の濃さをより深く見せることに、光の中歩く人々は気づくこともないだろう。
 そんな一角に溶け込んでいる一人の人影がいた。その人は光が横で踊る中、静かに視線の先を見つめていた。陰に姿を掻き消されていながら、静かな佇まいの中に何処か人を惹きつける品格がある。
 季節はずれの虫の鳴く音がしゃわしゃわと石に吸い込まれていく中、木漏れ日だけが地面に不均等な光の斑を描き出す。
 彼が持つ怜悧な顔立ちの中の双眸は薄暗い闇を溶かし込んでいた。
 石像のように表情を変えないその男。中肉中背のすっきりとした体つきの国の要の一つとなる、その男。

 元麦州候 現慶東国 冢宰 浩瀚

 三十前後の若い見た目を持つ彼は視線の先に手を伸ばす。内宮の正寝、長楽殿の内部で佇む彼は手の甲でゆっくりと扉を叩いた。
 乾いた木の音が響いて、扉の奥からくぐもった「入れ」という声が浩瀚の耳に届く。
 取っ手に指を掛けて浩瀚がそれを捻れば、中で大きく腰掛けた男の後ろ姿が、逆光の中はっきりとしたシルエットを落としていた。男―漢轍は僅かに顔を浩瀚の方に向けて薄く声を漏らす。
 入り口で闇を纏う怜悧な冢宰に漢轍は満足気な様子で口端を上げた。
「来たか」
 漢轍は軋む音を立てながら、扉に体を向けてゆるりと浩瀚に笑み、囁いた。四方に乱雑に伸びた髭が顔を覆う男を見つめ、浩瀚は闇の中静かに佇み、双眸だけに薄く光を滲ませる。それは紗が掛かったように遠くを見つめ、酷く、感情の無い(ひとみ)だった。
「主上、私を此処にお呼びになられるというのはどういった御用件でしょうか」
 フン と漢轍は鼻を鳴らして、榻の縁を指で叩く。
「分かりきったことよ。浩瀚、お前だって想定はしている筈だ、つくづくお前は(さと)い男だと認識させられる」
 浩瀚は小さく唇から吐息を零す。浩瀚は唇を一度結び合わせた後、男を見つめたまま静かに囁いた。
「先日、包囲網から脱走した逆賊の事で御座いましょうか」
「それも一つの理由だ。その他にも、もう一つ私はお前に尋ねたいことがあるのだよ」
「お尋ねしたいこと?」
「そうだ。だが、その話は後で…そうだな。今はその逆賊の話から先にしよう。先日、私の宝重と麒麟が逆賊に狙われた…。私は奪われるのが嫌いでね、それらを何処かに隠そうと考えている。狙われた宝重の運送保護に楓椿を押そうと思案している所だ」
 ピクリと浩瀚の整った柳眉が跳ね上がる。最近新しく三弧に入った不審な女官吏が浩瀚の頭を過った。
「…何故で御座いましょうか」
「私の真意、お前なら分かる筈だ、浩瀚」
 浩瀚はゆっくりと紗のかかる曇った視線を下に向ける。眸に薄闇が踊り、浩瀚は視線を僅かに揺らしながら言葉を選んだ。
「主上は…狙われた宝重を敢えて使用して、逆賊を誘き寄せる材料としてお使いになられようとしているのでは」
「そうだ」
 お前をまず部下に出来て良かったよ と漢轍は顔を歪める。
「ですが、何故あの女兵士を送り込まれるのか、私には見当がつきません。力は必然的に男よりも劣る、それにも関わらず何故彼女が送り込まれるのか、餌とは言え一国の宝重を一人の逆賊のために危険に晒される理由は、結局のところ私にとって理解いたしかねるものです」
 漢轍は ほう と瞳を光らせ、浩瀚を見つめる。やがて茂みに覆われた口元を割り、汚れた笑い声を出した。
「はは そう、だな。そうだ。平静に判断すれば全くもってお前の言うとおりに皆考えるだろう、浩瀚」
 だが と漢轍は言葉を続ける。
「今回の場合、お前が言ったことはまるで問題ではないのだよ」
 浩瀚は口を噤んだまま漢轍を見やる。白く滑らかな彼の肌には、部屋が吸った淡い燐光が踊り、その表情が少しも変化していないことを露呈させていた。
「宝重は楓椿が居る限り、逆賊の手に渡るということは決して問題にはならぬ。お前が言った楓椿の問題点は、そもそも成り立っていない」
「それは…どういった意味でしょうか」
 漢轍はじっとりとした視線を持ち上げ口端を捲り上げた。何かを呟いたが、浩瀚にはその言葉を聞きとる事が出来なかった。含んだ顔をしたまま漢轍は続ける。
「性別など問題ないということだ。そもそも、女である以前の基質こそが奴に対して信頼が置ける点なんだ。奴は逆賊が宝重を手に入れても入れなくても必ず始末をしてくれる。だから結局渡ってしまったとしても何の問題も無いのだよ。 あいつは何が何でも暇つぶしに殺しの標的とした人間を殺す。何としてでも、殺す。地獄の果てまで追って、自分の腕がもがれようが、足が飛ぼうが必ず 殺す」
浩瀚は何も応えない。漢轍は凝った様な肩を片手で揉みほぐしながら息を吐く。
「そういうことだ。そしてあと、もう一つ。私にはあの女の命以外に欲しいものがある。この話こそがお前を此処に呼びつけた大本の理由だ」
「欲しいもの…?」
 浩瀚は眉根を寄せて瞼を揺らすが、漢轍は浩瀚の様子を見つめて満足そうな面持ちでゆっくりと口を開く。

「慶国の‥珠翼だ」

 浩瀚の瞳がゆっくりと開いていく。
音だけがやけに大きく響いて、その身を潜める。光が一瞬輝きを止めた。
 漢轍の双眸だけが、薄暗い光を放って狂気を揺らす。
「王こそが持つことを許された珠翼が‥私は欲しい」
 頭だけが動きを止めて、浩瀚は訳の分からない単語にすっと整った目を瞬く。
「何の‥ことでしょうか‥」
 男の言っていることが分からないのに、それは妙に浩瀚の中に余韻を残した。
胸間に妙なざわつきが走る中、浩瀚は硬い唇を押し開く。
「そのような物、見聞した事は御座いません」
 漢轍はじっと浩瀚を見ていた。
だが、彼がその事を知らない様子なのを悟ると、やがて そうか と視線を逸した。浩瀚は息をつくが、まだ何も諦めていないその狂気を孕んだ瞳が燃えているのに今の彼は気が付かない。
 漢轍から目を逸した浩瀚は、眉を詰めて地面を見つめる。最近、時折記憶が飛ぶのを彼は自分自身の変化として感じ取り始めていた。
 漢轍はそんな浩瀚を気にすること無く鼻で息を吐く。
「お前でも知らぬ話だったか‥やはり慶では伝えられておらぬ。致し方無いだろう、慶国は半獣が将軍になれるなど大層な無法な国なのだから。獣など何をするか想像も付かぬ生き物なのに‥そう思わぬか」
 浩瀚は一言も言葉を漏らさない。きちんと獣を抑えるための香は嗅がせておるのだろうな?と尋ねる漢轍に、浩瀚の瞳に一瞬だけ美しい燐光が僅かに揺れる。何かが彼の心の中を走ったが‥だがすぐにその瞳を曇りが満たし――浩瀚は流れるように頭を下げ、抑揚のない表情が彼の顔を埋めていった。その後に、やがて、静かな言葉が綴られる。
「…仰せのままに、致しております」
「上々だ。我が冢宰よ 今日の話は以上だ」
 漢轍は笑みを含ませた顔で光の翳る一室を見渡し、片眉を跳ね上げた。曇り掛かる部屋は光に紗をかけ、部屋の中にある一切の物物の輪郭を淡く(ぼか)していた。
 は と答える浩瀚に漢轍は立ち上がって歩み寄る。大きくて節くれだった手を伸ばし、眸を細めた。浩瀚の瞳から美しい燐光が消え、花を煮詰めたこってりと濃度の高い蜜の香りが空間を漂うのに気が付く者は、今の金波宮には…誰もいない。漢轍は半獣の将軍の措置に対して何も不服を漏らさない冢宰を満足気に見つめ、くつくつと嗤う。
「本当に…」
 漢轍はゾッとするような薄ら笑いを口元に貼付け、浩瀚を見やる。甘く光が翳る一室で、浩瀚は遠くを見つめるよう上を向く。
 漢轍は呟いた。
「お前を最初に手に入れられて良かったよ…浩瀚」
 甘い僅かな香りが室内を流れていき、淡い光が漢轍と浩瀚の顔に落ちる影の濃さを薄くして濃度の対比を弱く霞ませる。

 緩やかに時間が流れ行くまま、何も応えない浩瀚の様子を見て、己の手腕に漢轍は口端を歪める。何もかもが表情のない浩瀚の顔立ちの中、

 ただその眸だけが紗を掛けて  柔らかく曇っていた。


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 ――苛立ちだけが募っていく。指の隙間から零れていく不可思議な記憶の断片。掴もうと強く握り締めれば締める程、流砂として細かく砕けて流れ落ちた。


 景麒は暗闇の中、先の見えない外廊を歩いていた。暗闇に柔らかな温もりを放つ蝋燭は等間隔に並べられ、その身を溶かして背を低くしていく。外廊に横付けられて伸びる手摺の装飾は全て同じ顔で、燭光(しょっこう)を弾いて同じ角度から同じ明度の鈍光を放っていた。
 仁重殿へと続く道は長い。
 歩いても歩いても変わらない景色を抜けて、ようやく辿り着いた仁重殿は朝議に出た時と同じ表情のまま、闇に染まってその顔色だけを変えていた。
 中に一歩足を踏み入れれば、とたんに女御達がわらわらと彼の元に集まって、世話を焼こうと動き出す。それら全てを要らぬと一蹴したら、彼女たちは少々不満気な顔をしながらその場から散っていった。何処かから やはり 台輔のご機嫌は(かんば)しくない という声が風に混じって聞こえてきた。
 景麒は彼の臥室へと足を向けて、歩みだす。ふと、先日の漢轍に強要されそうになった叩頭礼の出来事が頭を過ぎったが、それは見て見ぬふりをした。口の中が酷く乾いて、喉の奥からそれを満たす物を求めていた。
 口を湿らせたいから、と水差しを持ってくるように言付けた女御の一人が来るまでそれ程の時間はかからないだろう。
 酷く乾いているのは何故なのか、少しずつ、少しずつ何かが干上がり枯渇してゆく。
 慶国の麒麟、いや、それよりも「景麒」という存在の核の表面が剥がれて落ちていく不可思議な感覚が彼を蝕み始めていた。
 胸元で身を翻す翡翠の首飾りを景麒は強く握り締める。取り外してしまおうとしても、外したくても、出来無いそれを。何が心の奥底から漏れ出すのか、自分がかつて何を求めていたのかまるで分からない。見事な翡翠だが、歪に削られてしまって もはや子供の工作と代わり映えしないのに、体がかちりと動きを止め、決してそれを外そうとしないのだ。誰から贈られたのかさえも覚えていないのにも関わらず。
 胸の内が酷くしくしくと痛み、心の奥底を無我夢中で掻き毟りたくなる喪失感が景麒を襲う。
 国があって王があって官があって民がある。これ以上に何を求める?麒麟とはそれほどまでに貪欲な生き物なのか と景麒は彼自身に嘲笑を零すことしか出来なかった。
 訳のわからない己の現状に景麒は(いらだ)つ事しか出来なくて、それがまた彼を抉っていく。
 そんなことを考えながら、薄く光が差し込む窓辺を景麒はじっと見つめる。
 彼が何かに悩むそんな時でも、窓の外に浮かぶ有白色の月は仄かな光を纏い、(しと)やかで。
 浮かぶ燐光を睨んだ時、同時に控えめなノックの音を耳が拾った。
 薄く目を開け、視線を扉へとずらすと、水差しを持って参りました と女御のくぐもった声が続き、景麒は視線を落として足元を睨んだまま口を開いた。
「入れ」
「失礼致します」
 衝立の影から現れた女御は一礼をすると、卓上に歩み寄って、静かに陶器の湯呑みに水を注ぐ。
 景麒は注がれた水の水面が月明かりを弾いているのを無感動に見つめ、湯呑みを手に取る。
 用を終えた女御はもう一度頭を下げると、衣擦れの音だけを響かせて衝立の奥へと消えていこうとしていた。
 音が消えて行く中でも、景麒は特にそれを気に止めず湯呑みに口づける。何処からか入り込んだ風が舞い、衣の裾を弱く揺らして掻き消えていく。
 その時だった。
 
 一陣の風が舞い込み… 誰かが景麒の耳元で――囁いた。


『お前は本当に言葉が足りない』


 湯呑みが割れる音が響いた。指から滑り落ちた陶器は粉々に砕け、中に入っていた水が床に歪な染みを広げていく。
立ち去りかけていた女御がその音に驚いて振り向き、悲鳴を上げる。
「台輔!どうなさいました?!誰か…、誰か来て!」
 女御の声に遠くから此方(こちら)に向かってくる幾つかの足音が音が重なり、響く。慌てて景麒の元に駆け寄った女御は硬直したままの景麒の顔を見上げた。
「台輔、お怪我は?!一体どうなされたのですか?」
 耳元で聞こえた、潮騒の匂いを含ませた 低くて優しい、穏やかな声。景麒の硬直していて乾いた口からは何も言葉が出てこようとしない。彼は震える紫陽花色の眸を見開いたままゆるゆると周囲を見渡し、囁いた。
 酷く掠れた声だった。
「誰だ」
「た、台輔?」
「今の声は…誰だと聞いている」
 困惑したように左右に視線を揺らす女御は僅かに小首を傾げる。
「お、恐れながら台輔、今此処で湯呑みが割れるまで声などというものは無かったと…」
「嘘だ!」
 この声は一帯何処から出たのだろう。
 景麒にしては珍しく声を荒げ、その声にひっと女御は思わず肩を縮めた。
 集まってきた他の女御達を見つめて景麒は肩で息をする。
 ゆっくりと世界が回り始め、体の中の血液が轟々と流れていき、さっきの声をかき消していく音が遠い。
 胸の奥から吹き出して、景麒を埋め尽くしていくそれが何なのか、彼には判断が出来ない。様々な感情が織り混ざり合って、もう何色なのかも分からない。ぐしゃぐしゃになった色の中顔を覗かせて分かることはただ、ただひたすら――胸が痛くて、苦しい。今までよりも鮮烈に、強烈に。
 呻き声が小さく唇の隙間から零れた。
 胸の奥が焼け焦げるようなこの(わだかま)りを何と呼べばいいのだろう。
 白い月だけが夜空で浮かんで粛々とした微笑をはいている。何が起こっても関係なく美しいその姿のままで。
 潮騒が静かに溶け消えていく中景麒はただ、その場に立ち尽くす。


 自分自身が何を求めているのか分からない。
 分からないのに景麒はその何かに胸が焼けるほど―焦がれていた。


 それは消えてしまったものへの―――切望とでも言うのだろうか。




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