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 延王 尚隆が去ったその日の夕暮れ。
ゆったりと薄闇に浸かり始めた金波宮の回廊。時折行き交う下官達の足音と、床と擦れ合う衣擦れの音だけが耳を掻く。
 太陽はもう顔を沈めたが、空には未だ飛び交っていく(からす)の形を確認できる明るさが残っていた。今は染みとして空にこびり付くその形はやがて濃度を増す闇へと溶けて消えていく。
 風が淀んだ晩景だった。
 そんな(かげ)りの中、回廊を歩いていた祥瓊はふと足を止め、薄く目を細める。
 遠くを見つめる彼女の(ひとみ)は何を映しているのだろうか。瞳の表面を移ろいゆく景色は、もうただその暗さを増していくだけだ。
 睫毛が風に揺れて、冷えた瞳を(まぶた)で覆う。
 その時影を(まと)う彼女の背に近づく人影は、ただの景色の一部として何ら違和感のないものだった。
 背後で感じた人の気配に、祥瓊は緩慢な動作で振り返る。
一瞬の闇に目が(くら)み、やがて祥瓊が捉えたのは背後で佇立する暗さを(はら)んだ双眸だ。
 その人の顔に落ちた、深い複雑な翳りが整えられた顔立ちを彫り上げる。瞳の深みと鮮やかさだけが闇を弾いて薄暗く映えていた。
「台輔」
 佇んだその人の唇だけが、動く。
「邪魔をしたか」
 何もかもがまるで人間らしさとかけ離れた彫刻の様な容姿の持ち主だった。
彼の輪郭を形作る緩やかな曲線を目でなぞれば、浮かび上がるその美しさは見惚れる程だ。
 囁くように尋ねる彼の表情は相変わらず同じまま、顔に落ちた影は角度も濃さも変わることも無く彼―景麒の顔を(ほの)かに白く浮かび上がらせていた。
 角を逆賊により負傷したと囁かれている慶国の麒麟。
祥瓊は冷徹とさえ思える程無表情なその顔を薄く見つめる。
「いいえ?とんでも御座いません。台輔からお声をかけて頂けるなど、光栄の至極に御座いますわ」
 そうか と呟いて景麒は視線を横にずらす。無表情な顔立ちと抑揚の無い声からは何の感情の起伏も読み取ることは出来無い。
 風が冷たく冷えを増すのは光が消えて行くせいなのか。
暗さが滲む神獣の双眸はゾッとする程彼の瞳の澄明度を際立たせていた。
「何か私に御用でも?」
「いや…」
 口数の少ない慶国の麒麟はそれきり押し黙り、二人の隙間に幕を下ろす様に沈黙が静かに降り落ちた。ただ、彼は光が翳る虚空を見つめる。
 もうすっかり先程まで明るさを滲ませていた空間は濃い闇にとろけて混ざり合っていた。
 景麒が静かに闇と視線を絡める最中、祥瓊はふと思い返したように あぁ、と言葉を零す。
「そういえば…宮中で噂になっている逆賊は捕らえられたのですか?」
 ふつりと景麒は闇から眸を外して―見つめる紺眸(こんぼう)を見返した。
「まだだ。だが…」
 いずれ捕らえられるだろう と一切の表情を滲ませず麒麟は呟いた。興味などまるで無いような起伏のない声色で。
 景麒は背を向け、彼の足元に溜まっていた袍の衣擦れの音が地面を掻く。彼の双眸のその奥深くに潜む、重さを感じさせない、その軽やかさに祥瓊は目を細めた。
 軽く肩を竦めた祥瓊は去りゆくその背に一礼をし、一言、彼の背中に言葉を投げた。
「作用で御座いますか‥。それにしても、台輔」
 ゆっくりと含めるように口角を上げた祥瓊、その瞳が不可思議な色の変化を見せ―光る。
「随分と秀美な翡翠で御座いますのね。一体どなたからの贈物なのですか」
 それは静止した水面に石が投げ込まれたような光景だった。
声は妙に空間に余韻を残し、ピタリと歩みを止めた景麒の肩が一瞬(かす)かに揺れる。
 祥瓊の視線の先にあるのは、ゆらりと景麒の胸元で揺れる歪に磨かれた首飾りだ。
 彼の胸元で身を休める翡翠は、光の当たり具合が角度によって変わり、それぞれの断面が違った濃度の艶を放っていた。
 衝撃で小さく揺れていた宝石はやがてその動きを徐々に緩めながら、止まる。
 ゆっくりと振り向く景麒。
 眸だけが濃い幽闇の暗さを纏い、薄暗く光を放つ。
 夕闇で温もりが欠け始めた風がぬるく吹きすぎていく最中、彼は冷たい視線を逸らさないまま、唸るように囁いた。
「答えねば、ならないか」
 威圧するような、重圧が空気に滲んで重く落ちる。言外の拒絶を理解した祥瓊が静かに頭を下げ、その時になって景麒はようやく視線を外した。
 今度こそ、振り返らずに景麒は闇に(ひた)る回廊に足を踏み出す。
 掌(てのひら)で、翡翠の首飾りを握りしめて。


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 夜は着々と深さを増していく。
翡翠の首飾りを掛けたまま、離そうとしない景麒は薄暗い金波宮の回廊を、一人、歩く。しばらく足を進めながら、少しだけここから外観が確認できる仁重殿に気がついて、景麒はゆるりと歩みを緩めた。
 闇が朧げに輪郭を霞ませるその光景を景麒はぼんやりと見つめる。

 まるで麒麟の輪郭が剥がれ始めた自分のようだとどこかで思いながら。

 仁重殿を振り仰ぎ、景麒は静かに眉を潜めて金糸を揺らす。更に足を踏み出したその時、背後から走る気配がした。
 暗い影を落とす景麒の背に――声が、投げかけられた。

「景麒」

 徐々に歩調を緩めて、景麒は歩みを止める。冷えた風が鬣を撫でるのを感じながら振り向けば、そこで立っていたのは現在金波宮を闊歩する男王―漢轍(かんてつ)だった。景麒は一瞬僅かに表情を揺らしたが、ゆっくりと、その表情の波紋を鉄面皮の下に押し隠した。
「景麒、こんな時間に何をしている…?」
 景麒は何も応えず、ただ静かに視線を落とす。一瞬の沈黙の後、景麒は結んだ唇を割った。
「別に…何も」
「何も…?」
 景麒は自分よりも少し背の低い漢轍を見下ろす。眸は澄明度の高い紫に静謐な光をゆるく湛える。紫と黒の瞳がかち合い、景麒は低く囁いた。
「あったとしても…貴方には関係の無いことだ」

 降り落ちる一瞬の静けさ

 瞬間―景麒は顔の左半分に強烈な衝撃を感じた。思い切り横面を(はた)かれたのだと理解した時には、そのあまりの強さに思わずたたらを踏み、景麒は顔を抑えて体を折って地面に片腕をつく。
「台輔!!」
 影から響く、悲鳴じみた叫びと共に飛び出る使令達と女怪。芥瑚が痛みを伴った顔で景麒の背に手を回して摩り、使令達が唸る中、漢轍はフンと鼻を鳴らす。
「それが主人への態度か、景麒。お前の主はこの私だ。お前は私に生涯の忠誠を捧げた筈、違うか?この私に平伏して額づき(ちぎり)を求めたのはお前だろう」
 景麒は顔に手を当てたまま漢轍を見やる。その紫眼は強い光を湛えていたが、それは憎しみに燃えたものでも、侮蔑を込めたものでも無かった。ただ、強く静かな光輝。その輝きこそがひょっとしたら、彼が人間と違うということを決定的に位置づけているのかもしれなかった。

 仁と慈愛が産み出した神獣、麒麟。

 彼らは他人に害意を抱くことの出来ない生き物だが、それは時として彼ら自身を傷つけて更に話を拗らせていく。仏頂面の穏やかで慈愛に満ちているようにはとても見えない慶国の麒麟にも、目には見えないその条理が確実に流れていた。
 景麒は顎を引いて王を見つめる。王気の見えない、王を。自分が契約を結んだと詰られる自分の主と言われる男を、景麒は見つめる。
 広くて滑らかな彼の額に僅かに盛り上がる角が疼いて、視界が振れていくのに景麒はくぐもるような呻き声を漏らす。
 逆賊に襲われて封じられたと言われる角。その損失は、想像以上の弊害を今景麒に齎していた。
 彼にはこの世に在る筈の、王気が見えない。
今まで確かにあって、感じられた筈の柔らかで温かい王気を、今の景麒は微塵も感じ取ることが出来なかった。

 王気が見えない、その事実は景麒にとっては世界の喪失を意味していた。

 その持ち主がこの男もの物だったのか、契約を結んだのが彼だったのか、景麒の掠れた朧げな記憶では計り取ることは不可能で。
 彼は自分が本当に今、「麒麟」であるのか沸々と疑問が沸き上がってくるのを抑えることが出来無かった。
 景麒はその時、誰かの声を、聞いた気がした。
 景麒を横目で見やりながら漢轍はつらつらと言葉を続ける。
「フン…主に反抗的な麒麟、か。生意気なのも大概にするが良い、景麒。不愛想な麒麟も個性があって面白いが…その態度は度が過ぎて不愉快だ。謝罪として麒麟の忠誠の印を今ここで表わせ」
 漢轍は喋りながら膝を着く景麒の金糸に手を伸ばす。視界が霞みながらも次の瞬間、景麒は自分の頭に強い負荷が掛かるのを感じた。
 頭を無理矢理下げさせようと強い力が上空から掛かる。

 頭が潰れてしまうほどの力がかかっている筈なのに、景麒は微塵も頭を下げることが出来なかった。

 思わず体を支えるため、両手を冷たい床に着き、景麒は漢轍から懇親の力を込めて上空から頭を抑えつけられる圧力に抵抗する。
 最初の一瞬だけ僅かに揺れて下に下がったが、景麒の頭はそれ以上僅かも動こうとしなかった。
 景麒の様子に、漢轍は苛立って叫ぶ。
「叩頭しろ!景麒!!」
 更に強い力が加えられて、その強さに頭が痛んだが、それでも下には下がらない。抵抗する内に汗が吹き出して、額を、頬を幾つもの筋が滑り落ちていく。自分が見つめる地面に滴り落ちた汗が、床に不均等な円を描く光景を睨みながら、それでも景麒の身体は叩頭を拒む。
「忌々しい…!!」
 官吏達も囁く、慶国の麒麟の角による不調。麒麟としての本性を失ったと言われる景麒。
 強い負荷が掛かり続けながらも景麒は決して頭を下げない。無表情の内に強い苦渋を滲ませながらも、彼は決して地面に頭を着かなかった。
 酷い吐き気と目眩を覚えながら、王で在る筈の主人への叩頭を拒否する景麒は、本当に自分が麒麟なのかと思った。
 景麒が強く瞑目すれば、塩辛い汗が目から流れ落ちて、また一つ地面に円を創ってゆく。


 仁と慈愛が産み出した神獣、麒麟。



 好き嫌いはあっても、他人に害意を抱く事の出来無い彼ら。景麒は、今まで自分が「麒麟」の枠組みの中で生きていると思っていた彼は、王に叩頭出来無い自分が麒麟なのかと初めて己を疑う。

 だが彼もその他にも、真実(ほんとう)の事に気づくものは誰も居ない。

 景麒が疑問と感じた――
 ――目の前の男に叩頭出来無いその本性こそが、紛れも無く彼を麒麟だと決定づけている真実に。


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