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 陽子は手に取った本にじっと見入った。少し古びた浅黄色のそのページは所々欠けたり文字が滲んだりしている。
 陽子が何を見入っているのか、と覗き込もうとした玉葉から陽子は無意識に本を体で隠した。玉葉は少し怪訝そうな顔をする。
 何故か誰にもこの本のことを知られたいとは思わなかった。この慶国赤書と書かれた本は周知になった時点で消されてしまうようなもののような気がしてならなかったのだ。――自分と同じように。
 陽子は極力声が上ずらないように気をつけながら、喉から声を押し出した。
「なぁ、この書庫で何か不味いもの、というのはあるか…?」
 固い表情をしていた玉葉は、不意を突かれたように目を瞬く。
「え‥?不味いもの、ねぇ…あ!そうそう、いつか此処にある本の中でも慶国の歴史を扱っている本は全て焚書にするという御触れが出たわ」
「焚書?」
「えぇ、焼き払うの。でもまだ回収されているだけで実際に火が掛けられたとは聞いていないわ。何でも歴史書に間違いがあったから全て燃やして、改訂版を発布するとのことらしいわ」
「…ここでも回収したのか?」
 ええ と玉葉は首を縦に振った。
「全てお役所に引き出したと思うけれど、どこかに紛れ込んだのか一冊だけその時は見つからなかったの」
 まぁこれだけ誰も整理していなきゃ仕方ないかもしれないわね と玉葉は苦笑いをする。本を読む暇もないほど忙しいここの人間には無理は無いかもしれない。
 現に今陽子はただの嫌がらせでここの整理をやらされているのであって、もし彼女がいなかったらここはずっと開かずの間のように埃に封をされていただろう。
 すぅと陽子は指先が冷えていくのを感じた。血の気が失せていくのに、ぬるい汗が吹き出してくる。体で隠している本が急に重くなっていく感触がした。 少しだけ視線を彷徨わせて陽子はそれとなく言葉を零すように尋ねる。
「それは‥何という本だったんだ…?」
「慶国赤書、よ」
 それを聞いた瞬間陽子の肩が強張ったことに玉葉は気が付かなかった。
「ここで見つかればいいんだけれど…そうしたらきちんとお役所にここで確認されている焚書対象の本数が合ったと報告が出来るから」
「そ…うだな」
 先ほどまでの固かった雰囲気が薄れた玉葉の顔に、強張った顔で何とか陽子も笑みを作って応える。恐らく口はただの歪んだ線にしかならなかったのだろうけれど、玉葉はそれには気がつかなかったようだった。玉葉は邪気のない楽しそうな笑みを浮かべる。
「ところで、陽光は今何を見ていたの?」
「ただの…本だよ」
 その時答える声が無表情を取り繕うとしているのが陽子には分かった。そろそろと少女からゆっくりと距離を取るよう足を空に泳がせ後退る。
 それを聞いた玉葉は、吹き出すように笑った。
「もう、陽光ったらそれじゃあ答えになってないわ!」
「全くだ…」
 頼むから今はあまりこだわらずに放っておいてくれないだろうか。だがそんな思いとは裏腹に、玉葉は益々陽子の持っている本に興味を持ったようだった。
 陽子は服の中で生暖かい汗が一筋伝うのを感じる。だがさらに玉葉が覗き込もうとした時、外で大きな鐘のなる音が細かく響いた。ぱっと玉葉の視線が外れた。
「あ!鐘が…」
 一瞬玉葉が振り返った隙に陽子は赤書を服の中に押し込んだ。玉葉がまた振り向く時にはもう陽子は何喰わぬ顔で作業に戻って別の本を押し込む。
「残念、鐘がなっちゃったから私はまた作業に戻るわ。もう、せっかく陽光がどんな本に興味があったのか知る機会だったのに」
「残念だったな」
 ふふ と玉葉は笑う。そして和やかになった空気を惜しむように見ると身を翻して外の冷気の中に足を踏み出していった。陽子はその背を目で追いながら、小さく息をつく。

助かった…

 ずるずると陽子は後ろの本棚に体を預けて座り込んだ。埃を噴いた木目が陽子を抱きとめる。重く長く安堵の息を吐ききると、服の淀みに溜まった本を衣の上から抱きしめた。
 その本はただ赤子のように大人しく陽子の腕の中に体を預けていた。その重さを肌で感じた陽子は 記憶をどこかに落としてから、初めて何かを守りぬいたような気がしていた。だが、陽子が守りぬいたその本が後に陽子にとって深い意味を持っていることを、今の彼女は未だ知らない。
 そして同時に陽子は、「危険」が着々と彼女に向かって足を伸ばしていることについて何も気がついていなかった。

 陽だまりが溶けこむ白い埃の吹き溜まりに、ただ一人陽子は座り込んで宙を見ていた。

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 時は少し遡る。
空気は澄み涼しげに風が流れていく堯天。活気を取り戻し、血の気に頬を紅潮させた人々が客寄せをする声が様々な箇所で反響し、高く駆け上がった陽の光を受けた穀物が、重そうに頭を垂れようとする。
 人々の努力と活気によって温められた経済の輪は緩やかに音を立てて回りだし、やがては快活な音を立てて生活を潤していくだろう。そんな復興の色が芽吹き始めた慶国はこれから王の下国を紡いでいく。国民たちもそれを疑わず、ただ日々の営みという名の織物を織っていくのだ。
 今ある王が自分たちを照らしてくれる灯火だと信じて。

 青い空が野を駆けるように悠々と広がる。その青に身を浸すように小鳥が楽しげにさえずりながら空を滑る。けれどその景色に馴染むべく慶国の玉座に捧げられた金波宮は、今不穏な空気に満ちていた。
 王宮の内部、普段なら朝議が行われる広間に仁王立ちしている一人の男が肩を怒らせている。男の名を尚隆、別名雁州国王 延 と言った。流れるように黒光りする髪を一つに括りあげ、男が僅かに身動きするだけでもそれは波打った。
 体から怒気が膨れ上がって空地を揺らし、眉間に皺を叩き込んだ精悍な顔つきの男は周りを睨めつけ口を開く。
「もう一度聞く。陽子は何処にいる?なぜ陽子の所在が分からん!」
 周りに召し上げられた管達は我関せずという風体で各々に与えられた仕事に精を出す振りをする。中には延王の覇気に押されてコソコソ逃げようとする輩までいるのが情けない。
 出てきた絹に身をくるんだ女官が彼に軽く会釈する。
「延王君、わざわざ金波宮へのご訪問有りがたく存じ上げます。これからも両国の繁栄を願い、王君自身もお健やかでありますよう心よりお祈り申し上げる所存。主上もそう申し上げております」
「主上…?」
 はい と女官は視線を上げる。
「慶東国 国主 景王漢轍様で御座います」
 尚隆の眉が音を立ててもおかしくないように跳ね上がった。
「俺が知っている慶国主は女王の筈なんだが?」
「何かの間違いで御座いましょう。女王の時代は先帝予王の時代までです。慶国は今まさに生まれ変わろうという祝時。新たに起ったのは男王で御座います」
 幾度と無くふらりと遊びに来る延王が見た中でも嫌に背が高いこの女は見覚え無かった。女の纏う最高位の女官の衣が、床で悩ましげに衣擦れの音を立てる。
 尚隆は女を睨み据え、唸り声を押し出した。
「景台輔と謁見を願いたい」
「申し訳御座いませんが、台輔はただ今王と瑛州の視察に出ておられます」
 石を塗り広げたように表情を動かさない女は答える。尚隆の眉が益々上がった。
「ならば戻るまで待たせてもらう」
「大変恐縮なお言葉でございますが、主上と台輔のお戻りは何時(いつ)になるかまだ目処が立っておりませぬ故、延王君ともあろうお方をいつまでもここでお待たせするわけには参りませぬ」
 ほう と尚隆の瞳が光った。
「そうか…会えぬとは残念だ」
「私共も誠に遺憾で御座います」
「わざわざ訪ねてきても会えぬとは、慶国の官は雁に何か含むところでも持ち合わせている、と受け取っても?」
「まさか そのようなこと」
 女を尚隆はその眼光で睨みつける。鋭い眼光が瞳の奥で光った。幾時経っても眉ひとつ動かさない女に まぁいい と尚隆は吐き捨てた。時間の無駄だ。もはや顔なじみのクソがつくほど真面目な麒麟が頭を過る。
 景麒は一体何をしているのだ。
「王の所在不明など本来ならば有りえん。陽子の所在だけははっきりさせてもらう。何を企んでいるかは知らぬがどの道、延麒に調べさせれば全てが明らかになろう。邪魔をした」
 ズンズンと足を踏み鳴らして尚隆は伸びた絨毯を進んでいく。慶国の女官達が慌ててその場にかしづき延の衣の裾を持ち上げようとするのをいらんと一括する。
 おかしい。復興の色を(かも)し出している慶が何者かによって食い荒らされようとしている。そうしている本人は食い荒らすつもりなど無く、自己への陶酔の産物だとしたら余計に厄介だ。

―とにかく六太に話を

 今は何処かに姿をくらましているが、あの金の髪の少年ならばすぐに動くだろう。そう思案し歩きながら大きく口を広げるのを待っていた扉の前まで来た時に、駆けた衝撃に尚隆は思わず足を止めた。
 わらわらと群れて深く伏礼をしている官の中の娘に見覚えが良く知った者がいたのだ。
 何よりも先ほど自分が「陽子」と言っても反応一つ見せなかった者達の中にその娘がいたことが尚隆にとっての衝撃だった。

 紺青の髪を流した美しい娘。

 かつて会った時は、陽子に向かって範王に何としても服を着せてやると息巻いていた彼女は自分と六太の姿を見た瞬間、羞恥に顔を赤らめて礼をした。
 だがあの時、後に満足気な笑みを湛えていた顔は、今その色を御首にも出さずに地面と向かい合っている。 尚隆にとって、ためらいもなくただ地に頭を擦りつけている我の強いその娘が、あの女に仕えていることが信じられなかった。尚隆を見ても反応一つしない。表情ひとつにしても何かを塗りこまれたように動かない。
 声を上げようとした時、背後から声が振りかかった。
「お待ちくださいまし」
 振り向くとあの女が壇上で濃い笑みを湛えていた。
初めてみるその表情の変化は這い上がるような寒気を催すもので思わず動きが止まる。
「今、もうそろそろ主上、台輔共々お戻りになられるとの一報が入りました。ご無礼のお詫びもさせて下さいまし。どうかもうしばらく、ごゆるりとここでおくつろぎ下さいませ」
 その時、背中を悪寒が撫でていくのを、尚隆は感じた。それは冷たい鎖が尚隆の足に巻き付き締め上げてゆく感覚と、どこか似ていた。外殿にはたっぷりとむせ返るようなとろりとした甘い香りが満ちてきていた。中にいる数多の者は何も感じないように表情ひとつ動かさない。無意識に動きを封じられて悪寒に撫でられながらも、その匂いが徐々に、気づかない程少しずつ頭の芯を痺れさせていく。

 寒気を覚えさせるその香りは、足元に溜り更に尚隆へと這い上がっていった。




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