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 つい先程雇ったばかりの碧の瞳の少年を思い出し、湯屋の主人は満足そうに微笑んだ。
「良い少年が働き手として来てくれた…」
 近頃見ない凛とした新芽を思わせる少年。その新緑の瞳が実に美しく、うんうんと彼は一人頷く。未だ目の奥に残る少年の爽やかさに、割いた時間は無駄では無かったようだと、お湯屋の主人は押し留めていた業務に戻ろうと席を立った。
 付き人が慌てて椅子を引いた時、先ほど少年が出ていった扉が音を立てて開き、華やかな蝶のような娘が鼻息荒く部屋に入ってきた。風が足元でうねる。
「どうした そんなに肩を怒らせて…」
 嵐の如く入ってきた娘は気の良さそうな父親を睨めつける。藍色の瞳が怒りを湛えて薄く細まり、髪に差し込まれた美しい金の(かんざし)がゆらりと身を翻した。
「どーしたもこーしたもないわっ さっき変な奴にぶつかられて転ばされたのよ、このわ・た・し・が!」
「その様子だと怪我は無いな。ぶつかられたのは災難だったが大事なくて良かったな」
「ちっとも良くないわ!最悪よあんな奴、絶対後悔させてやるんだから見てなさい」
「どうせお前が前を見ずに人を気にしないで歩いていたんだろう」
 困った娘だと笑いながら父親は部屋を出ていく。穏やかでゆったりとしたその後ろ姿に、軽く流されてしまったそのことに、唇を噛んで娘は父の後ろ姿を()めつけた。彼女の心に燻るのは強い不満の火種だった。
(何なのよ!一体!)
 あの脳天気な父親は分かったもんじゃない、と少女は思いきり鼻を鳴らし、吹き出してくる怒りに身を任せて、絢爛(けんらん)な長椅子を蹴り飛ばす。
 側に怯えながら仕えていた使用人が小さく悲鳴を上げるのが聞こえたが、少女は表情に険を含ませたまま、聳える扉を睨み続けていた。
(それに…あいつは男なんかじゃないわ!)
 あてにならない父親に嫌気がさす。先ほどぶつかったあの人物は、少年の振りをしていたがあれは女だ。見目には分からない、ぶつかった肌の柔らかさ、匂いが少女の体と鼻の奥に残っている。なんとしてでもあの少年のなりをした女を見つけ出してやる と娘は双眸を薄く燃やす。
 磨かれた回廊に足を踏み出して、艶やかな床に姿を刻ませながら、お湯屋の一人娘はドスドスと歩いていった。
 

 その目的の少女彼女がすでに自分の手の届く所にいるということを、彼女が知るのはもう少し先のことになる。

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 その日は、陽子がこの湯屋に住み込みで働くようになってから一ヶ月が経とうとしていた日だった。初めは(つたな)く仕事を覚えるのが大変だった指先も慣れ始め、それに打ち込む毎日だ。
 内容は一日に様々で風呂釜の掃除は勿論、湯を沸かすための薪割りや火おこし、湯加減の調整のため、温度計の針の振れ具合から目を放さないことや、 床に油を刷り込み磨き上げるという作業もあった。
 接客内容の仕事はあらかた避けているので総じて一日で陽子がやっているのは一人で出来る力仕事が多い。
 動くたびに体が軋んで塩辛い汗が瞳に滴る。けれど汗が流れていくたび、陽子はどこか心の奥が爽やかな気持ちになることを感じていた。決して楽ではなく、全ての作業が終わって寝所に辿り着く頃には大抵動く気力も持ち合わせていなかったが、彼女にとって新しい生活の根拠地を手に入れられたことが素直に嬉しかったのだ。今、陽子は充実していて、よく働く彼女に対して給金が普通より多く弾まれている。
 そんな中、彼女は一人の娘と仲良くなり、お互いの昼食時間が折り合った時、時折ぽつぽつと食事を共にするようになっていた。
 最初に面会の仕方を教えてくれた娘で、名を玉葉と言った。大人しそうな様子で黒髪を流しているのが印象的だ。
 あなたの字は?と少し控えめに尋ねられた時、湯屋の主人に答えたのと同じように 陽光 と答えた。
 陽気の陽に光だと言うと、彼女は頬を紅潮させて なんて素敵な字 と微笑んだ。陽だまりのようだと彼女は笑ってつられて陽子も笑った。
 その彼女を見るたびに陽子はそれが誰かに似ていると心のどこかでざわつきが起こる。もう生きてはいない、とても近しい誰かという不思議な感覚だったが、残念ながら今の彼女には誰一人思い浮かぶ人物などいなかった。ただぼんやりと陽子を焦がす切ない感覚だけが胸に影を落とす。
 同い年くらいの、ふわりと優しげな黒髪の娘。何もかもが朧げで歯がゆさだけが彼女をくすぐってもどかしかった。
 娘玉葉はそんなことなど露も知らない。

 仲良くなった玉葉と二人で粗末ながらも食事を囲む光景は、徐々にこの地の景色として馴染んでいく。そしてそれが起こったのは、そんな風に二人で倹しい食事を囲んでいた時のことだった。
「ねぇ、陽光はどこへ旅をしている途中だったの?」
「そうだな‥特に何処というわけでも…」
「宛のない一人旅だったのねぇ」
「まぁ そういうことにしておいてくれ」
 じゃあ と玉葉は視線を落とした。
「じゃあもう少ししたらきっと陽光はここを出て行ってしまうわね‥」
「え?」
 少し寂しげに娘は陽子に微笑む。
「ごめんなさい、陽光を無理に引き止めている訳ではないの‥それはあなたの自由だから。でももし、これからも陽光がここにいてくれたらきっとここはもっと素敵な場所になる気がしたの。だって、あなたってまるで太陽のような人なんだもの」
 名前と一緒ね と娘は笑った。
「そんな…私はそんな大層な人間じゃ‥」
「そうかしら?あなたはあなたが思っているよりずっと多くのものを越えてきた人だと思うの。私はあなたの全てを知っているわけではないけれど‥でもそう思う。貴方はきっとこの国に、いいえ世界に必要な人だわ」
 陽子の顔に翳りが走る。ふとその顔が悲しげに歪んで、陽子は自嘲する様な笑みを浮かべる。
「…果たしてそうかな」
(え‥?)
 玉葉は思わず動きを止めた。だが、その翳りが陽子に浮かんでいたのは一瞬で、すぐさま彼女はそれを拭い去って、いつもの微笑を浮かべる。玉葉は気になりながらも、あまり深く言及するのは良くないな気がして、口を噤んだ。その時の玉葉は陽子に何か嫌なことでもあったのかと想い留まるに至った。
(仕事で何かあったのかしら…)
 彼女は、ならばせめて陽子にお茶を入れてやろうと、飲んでいた茶の葉を沸かした古い急須を持ち上げる。使い古された鉄の急須の中の僅かに残った液体が音を立てて、もう残りが少ないことを教えていた。
 入れてこようかと腰を上げた陽子を張り切った玉葉はそっとまた座らせる。
「いいの。これは私に入れさせて頂戴。陽光は力仕事が多いから、力の出るおいしいお茶を入れてくるわ」
 陽子は ありがとう と笑う。少々おどけてじゃあお願いしようかなと言うと、かしこまりましてと同じようにおどけて返された。
 陽子が少し元気になったのを見た玉葉は、安心したようになだらかな丘を降りていった。クスクス二人で笑いながら一人は木陰に留まり、一人は水を汲みに割れていく。角を曲がり行ってくれた彼女の姿が見えなくなり、振り仰ぐと上にそよぐ木陰の木漏れ日が斑に陽子の顔に光を落としていた。

 陽子はほうとため息を付く。彼女の中では、先ほど言われた言葉が頭の中で木霊していた。

――あなたってまるで太陽のような人なんだもの

――違う

 本当にそんなに大した人間では無いんだと彼女に打ち明けてしまったらどれほど楽だろう。逆賊の疑いを掛けられていることも、本当の自分なんて知らないなどということもあの娘は知らない。陽子の心の中で渦巻いていることは、玉葉にとって、想像だにしないことだった。

―私は…本当は、消えてしまった方が良い存在なのかもしれないんだ

 あなたの字はひだまりのようだと言われた時、恐らく本名じゃない などと言えるだろうか。ただ、咄嗟に浮かんだ仮の名で、ひょっとしたら、本当は自分には名さえ無いのかもしれないなどと、言えるだろうか。 元気になったように見せるのも、陽子にとっては至極簡単なことだった。
 眉根を細めて遠くの小さく薄れた青空に視線を飛ばす。苦いものを堪えるように陽子はころりと仰向けに倒れた。葉が擦れ合う音がする。

 吹き過ぎる穏やかな通り風だけが彼女の前髪を揺らし流れていった。

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「ふざけるんじゃ無いわよ!卑しい家生の分際で!」
 怒鳴り声が角から鳴り響いた。
 ――何だ? 
 聞いたことのある声だと思ったが何処かまでは覚えていない。陽子は体を起こしてそこへ駆けていく。
そんなつもりでは‥と小さな声が聞こえた。
 陽子にはちらりと先ほどの彼女が小さく地面に頭を擦りつけているのが見えた。縮こまって震え上がっている。
「あなたなんて名前だったかしら?ありふれた大したことのない名前だったと思うけど」
「ぎょ、玉葉で御座います。お嬢様」
「あぁ、それね。その溢れかえってて不快な名前。あなた一人くらいがいなくなっても大して障りは無いんじゃないかしら?」
 娘玉葉は小さく項垂れた。まるで家畜を打つように、彼女の主の手が円を描くように振り上がり、それを見た瞬間陽子はその場に駆け込んでいた。
「お止め下さい!」
 玉葉が驚いて頭を上げた。誰だ、自分を庇うなんて。駆け込んでくる少年の格好をした少女が彼女の瞳に飛び込んできた。
「陽光‥!」
――何故 出てきた
 呟く声は自分の声とは思えないほど掠れていた。今まで、仲裁なんてこの主相手にしてはならない暗黙の了解だった。たとえそれが友人でも、普段は叱られているのを見ながら自分の仕事をこなすのだ。いつの間にかその決まりは見えない蔦のようにここに根付いていた。
 そしてその場にいる者全員の耳に届いていることを知りながら、この主人は自分を卑しめる罵倒を浴びせ続ける。誰も目も合わせない。表情さえも、見せない。人は溢れる程いるのに、自分たったひとりで、つらい悪意に晒される。
 来てはならない と無言で叫ぶも彼女の足は止まらない。緑の目の少女は、まろぶよう駆けてくる。その声に主人の愛娘が振り向くまでの時間が、玉葉には酷くゆっくりと流れていくように見えた。
 声に反応するように振り向いた湯屋の娘がその姿を眼に捉えた瞬間、瞳が大きく開かれた。
「大丈夫か、玉葉?」
「陽光‥!あなたどうしてここに‥!」
 振り返った陽子が見ると、その湯屋の娘は嫌味を言うのも忘れ、体をわななかせてそこに立っていた。ふと陽子は眉根を寄せる。確か、ここの娘の名はなんと言っただろうか。そういえば誰かが遊蘭と言っていたような気がする。
 陽子が口を開きかけたが、娘の方が先に言葉を発した。
「あんた‥」
 目はやっと獲物を見つけた飢えた獣の(まなこ)の輝きを宿していた。陽子はその姿を見つめ、彼女が以前ぶつかってしまった娘であることに思い至る。
「あなたは以前ぶつかってしまった… ご無事でしたか? 今ここでお世話になっています…っ?!」
 だが陽子が言葉を紡ぎ終える前に、湯屋の娘遊蘭は地面の土を掻き毟って力の限り陽子に()き散らした。通常では有り得ない展開に思わず陽子は呆気に取られて娘を見つめる。
「やっと見つけたわ…!」
 湯屋の娘、遊蘭の目が光る。その細められた瞳に映るのはきょとんとした翡翠の瞳の少女だけだった。

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 陽子が遊蘭と鉢合わせしてから事態は坂を転がり落ちるように悪化し始めた。労働時間は増やされ、給金は減らされた。住み与えられていた部屋も広途(おおどり)に面した、隙間風が通り抜ける粗末な粗造りの部屋に変えられ、寒さが緩んだとは言え、極寒の夜の厳しさが伺えた。
 その道行く人々の巻き上げた砂埃が散って部屋の中にまで入ってくることを玉葉は知っていた。
 この湯屋の跡取り娘に白眼視を向けられる、それだけでこれみよがしな悪意は連鎖していく。当たり前のように陽子に害をなす者も現れ、様々な人間の対応が変わっていくのを玉葉はただただ見ていることしか出来なかった。唯一変わらなかったのは文句一つ漏らさず働き続ける陽子自身だけだ。
 遊蘭と陽子が接触した日から更に一週間が経とうとしていた時には、歯止めを失った歯車は回り続け、これほど状況は悪くなることが出来たということが玉葉の至情を苦しめた。

 莫迦よねぇ 遊蘭様に楯突くなんて
 分別が無いからこその報いよ 身分も(わきま)えない痴れ者に天帝が下した相応の罰だわ
 自分の立場が分かってないのよ そう思わない、玉葉?

 どん という人と人とがぶつかる鈍い音がした。そこには尻餅をついた陽子と一緒に腕から滑り落ちた本が散乱している。ぶつかって行った張本人がくすくすと笑った。
「あら、いたのぉ?あんまりにも埃まみれだから人だなんて気づかなかったわ」
 側にいた二人の娘が堪えきれずに吹き出した。悪意の籠った嘲笑のさざ波が空気を汚す。その陽子を蹴飛ばすようにして本を踏みつけて(にじ)った後笑いながら去っていく娘達を玉葉は静かに睨みつけた。
 その日も、湯屋に隣接する書庫の掃除の雑用を言い渡されて陽子は本の整理をしていた。湯屋で正規に働く者の仕事ではなかったが、陽子は黙々と言い渡された仕事をこなしていく。
 何も言わずに本を拾い上げた陽子は書簡の間にまた体を押し込んだ。玉葉は陽子が煤と埃で指先を汚しながら、本を整理をしていく光景をただ黙って見ていた。その光景は徐々に彼女の心を締め上げていく。
「陽光‥」
 ん?と本から目も上げずに少女が答える。ページを指で擦り捲る紙ずれの音だけが無音の空間にはえる。
 陽子は何も言わない。ただ背表紙の埃を払うときつく閉まった本同士の隙間に今見ていたものを押し込む。玉葉は俯く。

 本当はこの少女は何も悪くないのだ。

 玉葉はあの日、主人の共として街に下りた時の、と陽子がぶつかった日のことを記憶していた。彼女もあの場にいた、当事者の一人だったのだ。玉葉は柔らかい唇を噛む。脳裏にあの日の鮮やかな映像が描き出された。
 ぶつかって行ったのが前をろくに見ていなかった自分の主で、それを陽子に八つ当たりするのが、自分の非など認めようとしない主人らしくて情けなかった。
 彼女は自分こそが正しいという盲目に陥っている。たとえ自分に非があっても謝るのは常に相手では無くては気が済まないのだ。だから自分に対してかしずかなかった陽子が疎ましい。
 ただそれだけの理由なのだ。
「陽光は…砂をぶつけられても眉ひとつ動かさなかったわ…」
 陽子は本当は怒っていいのだ。理不尽な個人の感情さえままならない人間に振り回される必要さえ無いのだから。
 陽子は少しだけ驚いたように彼女を見つめ返した。
「別に 怒るほどのことじゃないだろう?」
 玉葉は驚いて目を見開く。陽子は何かおかしなことを言ったかと首を傾げる。玉葉の揺らいでいた視線が地に落ちた。
 その何気ない言葉は、玉葉は自分の主人とこの友人の決定的な違いだった。それは決定的な、人としての差とでも言うのか。磨かれた人間の光の一部を、玉葉は垣間見た気がしたのだ。何故、彼女がこんな目に遭わなくてはならないのか。それが玉葉には理不尽で堪らない。ふいに彼女の中で誰かが囁く。
 でも、いくら理不尽でも、このままいじめられ続けるよりは、いっそのこと形だけでも謝ってしまった方が早く済むのかもしれない。
 考えついたことを頭の中で反響させながら、玉葉はのろのろと口を開く。
「陽光…理不尽かもしれないけれど、お嬢様に頭を下げに行きましょう‥そうしたら、きっとこんなこともやめて下さると思うの」
 陽子はただ黙ったまま仕事を淡々と続けている。だがある一冊の本を手に取った時動きが止まったことに玉葉は気が付いていなかった。
いたたまれなくて、思わず玉葉は叫ぶ。
「陽光!」
「ちょっと静かにしてくれ」
 陽子が手に取っていたのは白い埃をうっすらと被った重そうな本だった。 手の周りの空間で陽の光に浮き彫りにされた埃たちが砂塵のようにそこだけ舞っている。 
 ふう と息をかけて吹き散らすと、一気に本の表紙から連なった埃の絨毯が引き剥がされる。
 その文字をみて陽子は目を丸くした。本にはある題名がなめらかな濃い金で刷り込まれていた。陽の光を受けて文字が上品な光沢を走らせる。

 
慶史赤書

 陽子は何が書いてあるのかも分からないその本を促されるように開いてみる。が、開いてみても何一つとして読めなくて、意味のわからない文字の陳列に少し肩を落とす。
 その本を閉じようとした時、僅かに口を開けていた窓から風が流れ込み、本のページを吹き散らしていくように捲った。
 その開かれたページを陽子は見入ることになる。そこの一部分だけが読めたのだ。
 

予青六年、春、宰輔景麒失道 


 …? ここからまた読めない。少し飛ばして意味がつかめる文に行き当たる。

 

七年七月、慶主景王陽子立つ。
景王陽子、姓は中嶋、字は赤子、胎果の生まれなり。
七年一月、蓬莱国より帰り、七月末乱を救い、雁国延王尚隆に請うて偽王舒栄討たしむ。
八月、蓬山に天勅を承く。神籍に入りて景王を号す。



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