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黎明の空。
朝の水気を帯びた空気が空を流れる。
 陽子はゆるりと目を開いた。
 地平線から零れ始めた黄金の光に目を細める。彼女自身の翡翠の瞳が朝日を受けて光彩を放っていることを陽子は知らない。
「‥っ」
 静穏が心気を満たす中、体の節々が悲鳴を上げていた。息を詰めて何とか体を起こそうとするも、萎えた体は言うことを聞かず、それは手近にあった繊細な白く光る枝に寄りかかる形となってしまった。

 なんとか助かったみたいだ。

 その事実がじわじわとせり上がって来て乾いた嗤いが漏れる。妖魔から逃げ果せ、あの崩れた山道と高低差はあまりなかったことが、今ここに在る理由だろう。
 悪運だけは強いのかもしれない、そう自嘲気味に陽子は(わら)う。

 ――生き延びてしまった

 周りを見渡すも、濃い白の霧がゆっくりとたゆとっているだけのように見える。ここは遥か下の地面だと思ったが、そうでもないようだった。この地面よりもまた遙か下に地面が存在し、霧のちぎれ目が所々で顔を覗かせ、下に隠された森の頭や荒い草の茂る街道を透かしていた。
 辛抱強くその気まぐれな霧を見つめていると、一瞬そのちぎれ目の一つに家々の屋根がこぢんまりとまとまっているのがチラリと見えた。群れの中でも大きな面積を陣取る朱の屋根が目に付く。
「人里…」
 思わず呟いた陽子は枝を離し、斜面をずり落ちるような形で降りていく。靴裏で湿った土を削りながら下へ下へと体を向かわせる。
 なんとか生き延びたこの命をつなぐためには、とにかく今は隠れて、日銭仕事でも何でもして金を貯め、体力を回復しなくては話にならない。無銭は移動手段が歩きに限られるし、何より物資が調達できない。丸腰の自分に対して奥山には昨日のように怪物が数多(あまた)にいる。
 なんとかあの人里に紛れ込みたい。追われている人物だと知られず、記憶が無いという穴に気づかせ無いように。
 背中から前に流れようとする真紅の束を掴み、陽子はまじまじとそれを見つめる。この赤い髪が追われる決め手の一因となっていることは言うまでも無いことだった。
 毛束を掌の中で散らしながら陽子は薄くため息を付いた。村に助けを求めても、自分の身を危険に晒すだけではないか。

――どうする

 写真さえも無いこの国だ。特徴を隠して疑われている逆賊だと分からなければ、しばらくはどこかで働かせてもらえるかもしれない、バレるまでは、まっとうな人間として生活するための、必要な金銭は欲しかった。
 小さな鳥の(さえず)りが重なりあって遠のいていく。

「…行くしか無いだろう」

 彼女は一人呟き、屈み込んで今着ている女物の着物の裾を細く千切り上げた。千切れる衣の高い悲鳴を聞きながら陽子の顔は緊張して締まっていく。
今からの思案が無駄に終わるならきっとどこに行っても同じだろう。

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 陽子は紅い髪を破いた衣片で巻きつけ、覆い隠し下の村に降りていった。その見た目ははたから見たら少年そのもので、現に村人にものを尋ねた時も、何ら怪しまれることもなかった。
 その村人と話をしていて(大概は今年は少しでも作物が実れば恩の字だとか、妖魔はだいぶ少ないがまだ注意しなければならない、というような話題だったが)ここでは湯屋が商売の手を広げていて、あまり人にこだわらずに雇う余裕があるのは、そこだろうという情報を手に入れた。
 教えてくれたその村人に対し礼を言って頭を下げると あいよ とその人は笑った。

 先ほど聞いた名を頼りに所狭く家の並んだ村の隙間をめぐる。
 赤々とした炉台が立ち並ぶこの村は、見る瞳も朱に染め上げるような雰囲気を醸し出している。
 興味深げに眺めながら荒い道を進んでいくと、目の前に大きな平塗で塗装された屋敷があった。一階建ての平屋に見えたが、奥には大きな御殿が続いている。
 あの山の上から見た時、一部分だけ大きな面積を占める屋根があった気がしたが、それはこれのことだったかと一人陽子は納得した。
 ぬらりと伸び、煤で汚れた煙突からは白い湯気が吐き出されていて、空と溶け合っていく様子が不思議な光景だった。
 古びて使い込まれた看板には「湯屋」の文字が大きく面積を占めている。陽子はその頭上から見下ろしてくる看板と対面し目を瞬く。

――ここだ

 ごくりと唾を飲む。扉を叩こうと握った拳を上げた時扉が開き、奥から女中のような娘が出てきた。黒髪を垂らした大人しそうな娘だった。
「あの…」
呼び止められた娘は怪訝そうに振り返って陽子を見た。
 ここで働きたいという意図を伝えると、中に入って一番最初ある面台の人間にそれを伝えれば面会はできると娘は教えてくれた。陽子の思案通り、少年だと思われている様で陽子は内心ほっと息をついた。
 娘に礼を言い別れた後、教えられた通り面台という受付のような場所で、今日の夕刻に面会するという話をつけてもらった。

 時間までまだ幾らかの余裕がある。今の刻は昼下がり、日が徐々に傾き始める時間まで陽子はこの村を散策してみることにした。

 点が(まば)らに繋がろうとする朱の灯りは街の色を変える。ほんのりと澄んだ灯りは所々に灯り、光彩が輪のように空間を照らし出す。中華街のような華やかで神秘的な賑わいが耳元にまで届いてくる。
 その錯雑で楽しげな空気に思わず顔が綻ぶも目立つことは出来なかった。湯気を立て、男たちでごった返した声がひしめく屋台の香りが鼻に入ってくるのが空腹には辛い。
 所持金が無いのが心底悲しい、自分が恨めしいがこればかりはどうしようもない。現に今の陽子にはこの世界の通貨がどんな形をしているのかということさえ覚えがなかった。
 陽子は空を振り仰ぐ。歩く中でもここの灯りは何者にも関わらずその柔らかな光を投げかけ、街の生命を感じさせる雰囲気に励まされるようだった。息をつく陽子。その矢先――

 穏やかな気分の陽子だったが、人の気分などというものはふとした一瞬でガラリと変わる。

 視線を踊らせながら街の景色で遊ぶ陽子の目に、一瞬昨日の金色の光が映った。
 光を()いた白金の一閃。気分が凍りつき、息が止まった。

 嘘だ 昨日逃げ切ったはず

 激しく(またた)いて目を凝らすも、そこにはもう何も見えなかった。だがあの妖魔と共に現れた色は見間違えようがない。心臓が打ち出し足が後ろに下がる。一度動き始めると止まらない足に体を乗せて身を(ひるがえ)し彼女は人混みの中に駆け込んだ。
 その時、その中の一人が足を止め、陽子の姿を目で追ったのに陽子は気づくはずもない。
 陽子は人垣を割りながら足を速める。人の合間を縫うように駆けていた彼女だが、唐突に、前を見ていない年頃の華やかな蝶のような娘たちの一団が飛び出してきた。
「!」
 きゃあっ という高い声がその場に跳ねた。

 陽子はその場に踏みとどまったが、その中でも一層華やかに着飾った娘がひっくり返り地面に尻餅を付いていた。淡い緑の巻き毛が顔の周りを彩る。絹に身を包んだその娘の繊細な金細工の(かんざし)が衝撃に揉まれて揺れていた。顔を(しか)めながら下から娘は陽子を睨み上げる。
「いったァーいっ!何なのよ、あんた?」
「!すまない」
 陽子は思わず目を瞬かせる。娘の状態を確認するが怪我は無さそうだった。すぐに手を引き立ち上がらせる陽子だったが、頭の中はあの金の光のことでいっぱいだ。

――なぜ あの金の光がここに…?

 とにかくここにいては危ない。
 陽子はもう一度謝って、娘の脇をすり抜けようとしたが、娘がその腕を思い切り掴んだ。
「待ちなさいよ!こんなやわい娘を転ばせておいて逃げる気?何か詫びの印でもよこしたらどうなの?」
「生憎今持ち合わせが無いんだ」
 それじゃあと手短に言って、手を一瞬で振りほどき陽子は身を(ひるがえ)す。
「ちょっとあんた!」
 号を煮やした娘が、更に強く手を掴もうとするも、捕まえることは出来なかった。少年のような少女はあっという間に人混みに溶けて消えていく。大丈夫ですか?酷いですね と周りが娘に(うやうや)しく接する中、娘の顔が歪んだ。
「何あいつ…!この私を誰だと思ってるの…」
「本当に。身の程知らずにも程がありますに…」
 従者が相槌を打つも、娘の耳には届いていなかった。少し吊り目のその娘は口元を歪に曲げ、差し出された供の手を払いのける。
 娘は一人消えた人影に対して歯噛みした。
「絶対に後悔させてやるわ。見てなさい、土下座して許しを請わせてやる…!」
 そんな言葉などあいつと呼ばれた当の本人は知る由も無かった。
人に溶けた少女はただただひたすら人並みに逆らって走り続けていた。

 少しでもあの金の輝きから遠ざかるために。

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 息巻いた陽子は人通りの無い路地裏に逃げ込んで、ようやく足を緩める。まだ心臓の音がうるさく、呼吸が荒く乱れていたが、それを落ち着かせそっと周りを確認した。
 老若男女の声がひしめき、押し潰しあうような音が相変わらず街道を通っていた。陽子が逃げ込む前も、逃げ込んだ後も変わらない人の行きかう音、ただその音源となる人々だけが入れ替わりながら、人通り特有の音はその場を流れていく。
 陽子は逃げ込んだ路地裏からそっと顔を覗かせてみたが、もうあの金色の閃きは見えなかった。 隠れ隠れ周りを確認しながら人混みに混ざるも、特に主だった殺気も敵の気配も無い。
 (おかしいな…)
 陽子は狐につままれたような心地で首を傾げる。先ほどの場所近くまで確かめに回ってみたが、そこは今までと何も変わらないというような表情で佇んでいるだけだった。何かの幻だったのか。よく見たら先ほどの眼光を確認した場所も、とても何かがが立てるような場所ではなくて、じっと目を凝らしてみると、更に荒れ放題の木陰の奥に放置された塗りかけの家のと塀が見えた。
(気のせい‥だったのか‥?)
 家の住人すら放り出して、意義を無くしてしまったそれに、時折いたずらに光が差し込む。その時の反射した光が一瞬、あの白金に見えなくはないか、と陽子は自分の目を擦った。

 きっとこれを見間違えたのだ。

 少々違和感を覚えたが無理矢理自分にそう思い込ませる。
 ここにあの光が在る筈がない。
 自分を(たしな)めるように、陽子はその言葉を重ねて塗りこんだ。不安を解く陽子の顔に傾いた日の光がぶつかる。思わず目を細めた陽子だが、赤く色を変え沈んでいくそれを見て――陽子はお湯屋との面会時間が差し迫っていることに気がついた。まだしっくりと納得していなかった陽子だが、その瞬間、金色の光のことは陽子の頭から吹き飛ぶ。
 まずい と声を出さずに呟き、陽子は急いで先ほどの看板の湯屋に駈けて行った。


 陽子が滑り込んだ時間は、体良く面会時間を見計らって来た時間として見られるもので、中の従者には笑顔で通された。 ここです と促され開けられた扉の中に入ると、大きな広間に置かれた長机の正面に、上品そうな初老の男が腰掛けていた。
 その人物がここの主人その人で、名を聞かれた時咄嗟に、漏れ出る陽の光を見て「陽光」と名乗った。幾らか話をした後、逆賊の疑いをかけられている人物だと微塵も気が付かれることなく、無事その人に気に入られた陽子に言い渡された通告は、住み込みでここで雇うとの一番色よい物だった。

 面会を終えて、陽子は行きを案内してくれた従者の後についていく。 
影が深くなり始めた湯屋の外廊を歩く陽子は、ふと遠くを見つめた。人々が仕事を終えて、過ぎていく光景が妙に懐かしさを彷彿させて、陽子は薄く目を細める。その時、陽子は目の前を薄紅の花びらが舞ったのを見た。ふいに何かが胸を騒がせたが、佇む陽子は何も言わずにその花びらを見つめる。
 彼女は遅れていた歩みを速めた。


 少年のような少女の影が浮かぶその光景を飲み込みながら、風が流れ、一日が眠りにつこうとしていた。
 そんな中、湯屋の外を歩む一人の少年が足を止めたのに気がついた人はどれくらいいただろうか。年の頃12、3歳。髪を布で覆い、身につけている着衣は高級そうで、上品な色艶を放つ。
 だが、何よりも見入るのは少年の双眸(そうぼう)だ。その純度の高い深い濃紫に思わず(とろ)めく人が歩みを止めるが、今少年の目に映っているのは、巨大な湯屋の外廊を歩む人影だった。
 その少年のような少女の姿が目に止まった瞬間、薄く細められた少年の濃紫の瞳が大きく開かれた。

「陽子…?」

 呟いた声は風に掠められて吹き消える。その日はこの村にとっては当たり前にも満たないような一日だった。
 不思議な少年が足を止めたことと――陽子が見間違えたと思った金色の輝きが彷徨うように空を駆ける以外は。

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 日がその顔を地平線に埋める時、一人の男が佇む姿だけが、やけに濃くその場に影を落としていた。

 美しい残照に、人影は目を細める。台輔 とどこかで声が響いた。それに答えるように振り向いた男の顔は固く、生白い。
「ここにいてはお体に障ります。金波宮へお戻りを」
「…あぁ」
 風が急速に、耳元で逆巻いていく。光を零したような金糸が吹き流れた。男の影から滑り出た、大型犬のような妖魔はじっと男を見上げ、囁く。
「冗祐は未だ見つかりません」
「そうか‥私の呼びかけにも答えないまま…。引き続き冗祐を探せ」
 御意と妖魔は答えて、地面にゆるりと体躯を伏せた。妖魔は自分の言葉に是を示しながら、一向にその場を動こうとしない男を見て、小さく言の葉を零す。
「先程からあちらの方ばかり気に為さっているようですが…あそこには『何か』あるのですか?」
 風が耳元を吹き抜けていく。 世界が音を立てて廻る速さを速めていき、上空から薄い藍色が降り掛かっていく。彼らはその時、自身らが何かを奪われていることに気がついてはいなかった。
 男は金色に染まり、赤の濃度を濃くしていく空を見つめたまま、薄くその眸を細めた。僅かに彼の眉根が苦しげに中央に寄せられる。
「…分からない…」

 薄い風が弱く金糸を吹き揺らしていく。その中で――男が項垂れたように見えたのは、気のせいだったのだろうか。


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