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 雷に打たれた様な衝撃とともに、漢轍の中で、全ての出来事が繋がり合ってゆく。音を立てて、鳥肌が逆立ってゆく。
(まさか…!!)
「…!!!!」
「ああああああ!!!」
 火花が、散る。陽子と漢轍の刃がぶつかり合って、高い金属音を響かせる。両者ともに足に力を込め、ぶつかりあった力を弾くように、その場から後ろに飛び退った。水禺刀を構えなおす陽子は、漢轍を睨み据える。濁った煙で、視野という視野を覆われる中、その時、小さなつぶやき声を、陽子の耳が拾った。
「そうか、瞳か…」
「…?」
眉を潜めた陽子をゆっくりと振り返る漢轍は、目を見開いたまま同じ言葉を繰り返す。
 陽子の瞳を食い入るように見つめ、漢轍の(よど)んだ瞳が炎を湛えた。
漢轍の中で浮かぶ、あまりにも抽象的だったお伽草子(とぎぞうし)の一節が、全て意味をたたえて目の前に現れる。漢轍は低くうなり声を上げた。
 王こそが持つと言われるその翼は、一体どこにあるのだろう。長年探しとり憑かれていたその真実に、今、漢轍は触れようとしている。何故、輝く翼の珠なのか。何故、ただの「(ほうぎょく)」だけでなく「(つばさ)」という言葉がつけられて称されたのか。
「珠翼とは…瞳の事を指していたんだな!!!」
 漢轍は自分ではどうしようもない激情を吐き出す。陽子は、全てが訳が分からぬまま、ただ眉根を寄せる。漢轍は叫ぶ。
「だから‥だから延王は手にできるような具体物では無いと言ったのか!人によって形を変えるのか!だからか…!だからなのか!!確かに‥確かにそうだ。末政の王の瞳など、死んだ魚のような目でしかない‥!それは既に珠翼を手放した者の瞳だからか!!」
 陽子は何も答えない。漢轍は陽子をまじまじと見つめたまま、何がおかしいのか、腹の底から笑って、そしてぴたりとその声を止める。その顔は殺気立ち、剣の柄を握る腕に力が篭っていた。

 漢轍の胸の内からこんこんと湧き出すのは憎悪と羨望、妬ましさと怒りだった。

「では何故、何故お前が珠翼(それ)を手にできた!私にも素質が有るはずなのに!何故お前が麒麟に選ばれた!玉座についた!優秀な部下を手に入れた!何故だ‥何故なんだ!!!」
 漢轍が泡を吹きながら、叫ぶ。陽子は何も答えない。

 彼女が持つ全てが、それが苦しみの中もがきながら、陽子が行き着いた先だということを、漢轍は知らない。
 彼女自身が必死に自分の目で見て、歩んできたからこそ紡がれてきた道だということを、漢轍は知らないのだ。

 陽子は薄く目を細める。だけど、彼女はそのことについて口にする気はさらさら無かった。言っても、無駄だということくらい、誰に聞かずとも分かることだったからだ。
 人は結局、自分の見える範囲でしか世界を見ていないのかもしれない。その範囲は人によって広かったり、狭かったりするだけで、それは最終的に人の根底に流れる事実なのではないのか、と陽子は思う。自身を過信し、完全だと思い込んだ者はその傲慢さがその身を滅ぼすことを知らない。
 人は皆不完全だ。
だけど、それを知っているか、知らないかでその先の道は大きく変わっていくのだろう。自分が不完全であることが分かっている者は、他者の考えを尊重し、その人の見る世界に寄り添うことを知っている。そしてそういう人はまた、本来ならば決して交わることのない自身の世界の欠片を、他者に与えられる者なのだ。

  閉ざされた個々の世界に新たな光を与えることが出来る者なのだ。

 新しいものの見方を取り入れ、変わることをが出来る者。己自身を見つめ、問いかけながら、手探りでも前に歩むことが出来る者。
 そういう者に、自分はなれているのだろうか、と陽子は自身に問うた。答えになど生きている限りたどり着けぬと知りながら、それでも鋭く自分に問いかけながら――陽子は目の前の男をひたと見据える。

 何も答えない陽子に もうよい!と吐き捨てた漢轍は陽子めがけて駆け出す。重く分厚い、けれど鋭い刃の切先が陽子を切り刻もうと空を裂く。漢轍の走らせる刃と自身の体の間に、陽子は水禺刀を滑り込ませた。
「っ…!!」
「私以外の王などいらぬ!!珠翼もろとも消えよ!!!」
 容赦のない刃と刃の噛み合う音だけが響き、陽子は降りかかる男の力に、耐える。漢轍は空に向かって叫ぶ。
「出てこい!妖魔ども!!この小娘を切り刻め!!」
 漢轍の声が響き渡るが、何故か妖魔は一匹として姿を表そうとしなかった。漢轍は不意をつかれたような顔をするが、それでも妖魔は現れない。漢轍は舌打ちして、刃を高く振りかぶった。
 十合程打ち合って、ある一瞬、陽子に僅かな隙が生まれる。その瞬間、漢轍の瞳が狂気の色に染まり、鋭い輝きが生まれる。漢轍の叫び声が怒号のように響き渡る。
白煙に包まれて、祭壇上部にいる陽子たちの姿は、民衆からも、楽俊達からも見えない。彼らはただ、白く濁った煙の中で煌く、鈍い輝きだけを見た。
「主上―――!!!」
 響き渡る悲鳴と怒号。延王は六太を振り返るが、六太は焦りを浮かべた表情のまま叫んだ。
「駄目だ!煙のせいで指令の視界が悪すぎる、下手をしたら陽子を傷つけちまう!」
 すぎる風だけが、その場に強く吹き荒れ輝く松明の炎の先を揺らしていく。
響く様々な音の中で、景麒は今まで味わった事のない恐怖に晒されていることにさえ、気がつかなかった。
(主上‥!!!)
刃を見つめる陽子は、その一瞬、景麒の声に応えるように翡翠の瞳で景麒を見つめる。
 それは強く優しい―澄んだ瞳だった。
(‥!!!)
 閃く刃と、叫ぶ民衆と、目を見開いて身を投げ出すようにして腕を伸ばす景麒の視線は一つに集中する。

 全ての景色が歪む中―――陽子の握る水禺刀が‥輝いた。

 褐色の肌に囲われた、美しい翡翠の瞳が漢轍をまっすぐに射抜く。再びその美しさに息を呑んだ漢轍の目の前を、白銀が駆け抜ける。形勢を逆転させた陽子の掌に走る、人の肉を断つ感触と、刃に絡んで空中に飛び散る赤の飛沫が目に鮮やかだった。
 漢轍は自分の胸に駆ける赤の筋を、信じられないものを見るように見下ろし、一度だけ瞬きする。その後はもう…早かった。
 崩折れる漢轍の体は同じように崩れていく足場とともに、地面めがけて落ちていく。

 暗くなっていく視野の中、漢轍が最後に見たものは美しい二対の翡翠の瞳だった。
 

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 耳元で、相棒の天犬が創り出す羽ばたきの音が響いていた。
衣の下から伝わる筋肉の動きを肌で感じながら、更夜は遥か下方で広がる処刑場の全容を見つめる。全てが小さな点の集合体にしか見えぬほど離れていても、なおそこから吹き出す緊張が空に向かって這ってきているようだった。
じっと見つめる更夜の脳裏に、遥か昔に聞かされたお伽草子の一節が浮かぶ。
 染みるように湧き出たその一節をなぞりながら、更夜はうっすらと吐息を零した。下方からひたひたと押し寄せる緊張の鋭さに気づきながら、たった今、全ての決着がついたのを彼はどこかで感じていたのかもしれない。
 虚空を振り仰ぎ、更夜は目を閉じる。その途端、紅の髪を持つ、光の少女の姿が浮かんだ。彼女の瞳を思いだし、更夜は微苦笑する。


 羽ばたく翼は鵬の如く、大衆抱きて千里を飛び、遥か彼方、十万億土の境地を目指す
 雛抱くその翼、中心に珠を据え、其の珠 千変万化にして形貌を変え、光彩を放ち姦譎(かんけつ)をも打ち払う 
 鵬こそ持つ珠の翼、天帝より十二国の長に寄与されしその翼、之即ち鵬珠翼と人称す


 
(珠翼、か…)
 古来の辺境の人々は、虹彩に縁どられた瞳を「珠」として、上まぶた、下まぶたによって象られる形を「翼」として見立てたのだ。それこそまさに、翼の中央に位置する珠―珠翼を指す。血の繋がり、遺伝子上の繋がりを持たぬこの世界では王として立つ人間は全て異型の瞳を持つ。歴代の王とも、そして他国の王とも違う瞳を持つ彼らはしかし、皆強く美しい輝きをその目に宿している。違う形、色彩を持つ彼らの瞳の根底に流れる共通点、それは王としての真の輝きなのだろう。そして恐らくそれこそが――珠翼の正体なのだ。

 瞬きを、羽ばたきと見立て、そして瞳の珠をも単一ではなく、翼のように二つで一つとみなして。民を抱いて飛ぶ、先を見据える(ほう)の翼としみなして。だからこそ「珠の翼」という贈名がふさわしいのかもしれない。

 瞼を閉じた脳裏に浮かぶ少女の瞳に、更夜は小さく唇に笑みをはく。最初に陽子と対峙した時、何よりも自分が驚いたのは彼女の瞳の色彩だった。あの深い碧が意味する宝石はこの世界では一つしか考えられない。
 輝くばかりの光を湛えた、鮮やかで澄み切った深緑の瞳。
(まさかこの目で、翡翠の珠翼を見る日が来るなんてね…)
 翡翠―魂の成長や、理想的な人格を思い描いて身につける者を導くと謳われる宝玉。指導的な立場につく人間は多くの人々からの敬意と支持を集める――まさに王にこそ贈られるべき宝玉だということを、更夜は知っていた。
 冷静さを養い、精神力を強め、虚偽や悪に塗れた誘惑に打ち克つ強さを与えてくれる宝石。「奇跡の石」と呼ばれる、王にふさわしい孤高の宝石、翡翠。

 今まで数多くの珠翼を見てきたけれど、翡翠の珠翼を見たのは初めてだった。

 それを陽子が持っていたのは果たして偶然なのだろうか。

 祝福されたように、その美しさを輝かせる少女。だけど…と更夜は小さく笑い声を漏らす。
(彼女はきっと、こんな話を間に受けることも、誇らしく思うこともないんだろうな…)
 思い出される、真実だけを見抜こうとする陽子の姿に、更夜は微笑みを浮かべる。自分を見据え、世界を見据え、そんな彼女の立ち姿の美しさはまさに己自身の王者が持つものだった。
 彼女は自分が完全でないことを知っている。きっと、更夜の自分を褒め称えるこんな話なんて受けつけないだろう。
 だから、この話は自分の胸の中にしまっておこう、と更夜は目を細めて胸にそっと手のひらを当てた。自分が口を出すことがなくても、自分以外の誰かが、必ず気がつく日が来る。もしそういう人間がいたのなら、その人はきっと彼女の姿を見て、生き様をみて翡翠の珠翼を持つに値するものとして納得するだろうと更夜は心の中で思った。
 更夜は自分の体の下で羽ばたく妖獣に、そっと声をかけた。
「行こうか、ろくた」
 いいのか と見上げるろくたに、更夜は微笑む。

 力強い羽ばたきの音ともに、ふいに、風が舞い踊った。

 朝の匂いが風に混ざり始める中、更夜はろくたと共に、空を滑るようにその場から小さく姿を消していった。

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 全ての音が、消えたままのように、感じられた。

 瞬きする視界は、爆薬が巻き起こした濃度の高い煙に覆われて、手の届く場所を超えたら全てが全て白一色に染められる。漢轍が地面に向かって落ちていくのと、駆け寄った景麒に抱きしめられたのは、ほとんど同時だった。漢轍を見たまま一度だけ瞬きした陽子は、最後の瞬間彼と目があったのを感じた。全てが終わったのを、その時陽子は悟ったのだ。
 そして今、ただ強く抱きしめられる感触だけを感じながら、陽子は景麒の胸板に額を押し付ける。彼から見て、自分の顔が見えるかどうかも分からなかったが、それでも、こぼれ落ちそうになる涙の雫を、景麒には見られたくない気がした。衣越しに伝わる温もりが、陽子をそっと溶かしていく。景麒は、少女を抱きしめる腕に力を込めた。景麒の心で、声が呟く。
(やっと…会えた…)
 折って祭壇についた膝から、しんしんと冷たい温度が熱が逃げていく。でも、それ以上に胸に抱く少女の温もりを、景麒はただただ感じていた。
 たとえ自分の想いが一方通行だとしても、構わなかった。
 
 ただ、傍に在ることが出来れば、もう――何もいらない。

 陽子が自分の事をどう思っているのか、景麒は知らない。真っ白な空間、世界と隔絶されたその中で、どれだけそうしていたのだろう。きっと砂煙が舞っている一瞬の時間だったのに、それが永遠のような気がしていた。胸にこもった想いだけが、熱い。景麒は腕の中の陽子が小さく身じろぎするのを感じた。耳元を優しい声が撫でた時、景麒は思わず目を見開く。陽子が小さく、囁いた。
「景麒…」
「!主上…」
 背中に回された、陽子の腕に力がこもる。強く強く抱きしめ、抱きしめられる二人の間に陽子の声だけが染みた。
「私もお前に、言いたいことが有るんだ‥」
 そっと体を離す陽子は、真っ直ぐに景麒の瞳を見つめる。澄んで柔らかい光を湛えた陽子の緑眸に、景麒は自分が吸い込まれるのが分かった。桜色を伸ばした唇が、半弧を描く。
 白煙が、柔らかくうねる。

「好きだよ、景麒。お前のことが‥誰よりも。私は世界で一番、お前のことが好きなんだ」

 唇から紡がれた言葉に、景麒は自分の呼吸が止まるのを感じた。鮮やかな紫眸が、震える。景麒の胸に広がっていくのは、熱くて締め付けられるような感情だった。鼻の奥を何かが突いて、ツンとした感覚が広がる。思わず歪んで俯く顔に、自分よりも一回り小さな手が、そっと添えられる。大切な花弁を包み込むような手つきだった。少しだけ小首を傾げて、陽子は微笑む。だから‥と温かい声がその場に滲んだ。その言葉を、きっと景麒は生涯―忘れない。

「私の傍にいてくれ‥。ずっと、ずっと。私の命が‥尽きる時まで。私はお前と、共に在りたい」

 煙が、少しずつ‥晴れていく。景麒はもう一度だけ強く少女を抱きしめて、そっとその身を離して跪いた。
金糸が地面に流れ落ちる中、景麒は震える声で言葉を押し出す。
「いつまでも‥どこまでもお供します。私の命ある限り、私は貴方に付き従います」
 そして景麒は陽子を見つめ、かつての誓約の言葉をもう一度、確かめるように紡ぎ出す。

「天命を持って主上にお迎えする。御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと誓約申し上げる」

 風に煽られ、白煙が柔らかく晴れていく。煙が剥がれていくその場に浮かび上がるのは頭を垂れる麒麟と一人の少女だ。あの時と同じように、陽子の瞳が僅かに見開く。そして優しく微笑んで、彼女はそっと瞼を落とし―囁いた。

「―許す」

 その瞬間、まるではかったかのように、視界の端に黄金の光が走る。釣られるようにして振り向けば、美しい朝焼けが、陽子の顔を照らし出した。山の稜線が溶けて、光が溢れ出す。黄金の光を体全体に受けた陽子は思わず感嘆の声を漏らした。
「なんて‥綺麗なんだ。ほら、景麒‥朝焼けが…」
 美しい輝きに目を奪われたまま、陽子は半身を振り返る。だが、その時、煙が晴れて目の前に現れた光景は、朝焼け以上の衝撃を陽子に与えるものだった。
「え…」
 陽子は言葉を失って、立ち尽くす。

 目の前に広がるのは、景麒を筆頭として、何万という民が、自分に向かって深く深く叩頭している光景だった。

 その時、術者を叩けばが具術が解けると言っていた夕暉の言葉が頭を過ぎって、陽子はあっと息を呑む。皆、この国の記憶を取り戻し、民達は今紛れもない麒麟の額づく王の目の前にいるという状況を、陽子は理解した。でも、それだけでは無い。その時、陽子の姿を溢れんばかりの朝焼けの光が幻想的に浮かび上がらせていたのだ。

 民が今目の当たりにしているのは、今までどんな絵巻物でも見たことがなかった、光の中麒麟を従える王の姿だ。暗い闇を崩して現れた輝く姿に畏敬の念を覚え、民は皆、陽子に頭を垂れる。

 陽子が狼狽して目線を走らせれば、祭壇の下で、こちらを見上げて笑っている六太と尚隆、鈴と祥瓊。そして民と同じように叩頭する浩瀚や桓魋達の姿が見えた。虎嘯だけがポカンとその場に立って、叩頭する夕暉に足を叩かれている。頭を掻きながら辺りを見渡す虎嘯に、陽子は思わず吹き出した。

 この複雑な人の世界は、一体誰が動かしているのだろう。
人の想いの下にこの世界は紡がれていく。時に激しく、時に暗く、そして時に―美しく。
様々な想いが交錯し、新たな物語はまた、幕を開けていくものかもしれない。
 そして今もまた、新しい慶国の朝が――始まろうとしている。
紅の髪を靡かせ、翡翠の輝きを細めれば、陽子には世界が少しだけ美しく見えた。

 自分に向かって叩頭する民に向かって、陽子は口を開いた。
 朝焼けが世界を染めていく中、困ったような笑顔とともに、民に向けられた強く優しい声が―――響き渡った。

「伏礼は、廃止した筈だ」



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