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 闇の中、真紅を翻す、佇む陽子。その場にいる者全員が、息を呑んでその姿を凝視していた。
 光のような――一人の少女を。


 風が逆巻き、吹き荒れる。
 若者は呆然としながら、目の前の少女にただただ見入る。彼を支える虎嘯、桓魋がねぎらうように若者の肩に手を置いた。若者は腰が抜けたまま、今起こっている光景を見つめることしか出来なかった。
 額に青筋を浮かせた漢轍は、石段を上った遥か上空の祭壇から、陽子を冷酷に見下ろす。ざわざわと囁く音が辺りを満たす中、ただ一人、苛烈なまでの鋭さを瞳に宿し、陽子は漢轍を睨み据えていた。音がゆっくりと静まって、視線が処刑場、中央広場の更に中心へと集まっていく。陽子は漢轍を睨み上げたまま、冷たい水禺刀の柄を指でなぞる。陽子の唇が―割れた。
「景麒を、返してもらおう」
 漢轍は陽子を見下ろしたまませせら笑う。
「それは受け入れられぬ申し出だな…」
 申し出などではない と陽子の瞳が鋭く光輝を帯びる。
「宣告だ。景麒は私の半身…。それ以上お前には指一本触れさせはしない‥。私はお前を、許すつもりはない」
「許す?はっ お前などに許される覚えが無いわ、この逆賊!そもそも王に選ばれるべくはこの私だ。それをぬけぬけと王座になどつきおって!傀儡にしかなれぬ無能な女王など民は必要としておらぬ。ましてや蓬莱からの海客、毛の生えた程度の小娘に国など任せたらこの国が腐りきってしまうわ!」
 その言葉に怒りに頬を上気させた祥瓊、鈴、虎嘯が身を乗り出そうと足を踏み出す。周りにいる者達がそれを止めた。浩瀚の鋭く冷ややかな視線が漢轍に向けられ、桓魋の長槍を握る握力が増し、微かに軋んだ音が響いた。殺気立つ、周囲。
 だが、当の本人である陽子は、表情一つ動かさず、瞼を下ろして小さく息を吐く。
「お前は、何も分かっていないんだな‥」
「…何だと‥?」
 陽子の前髪を閑寂な風が揺らす。
翡翠の瞳を瞼から覗かせ、陽子はまっすぐに視線で漢轍を射抜いた。
「麒麟に選ばれるその意味を。国を背負う、その本当の意味を。お前は何も、分かっていない」
 漢轍はのけぞって そんなことか と澱んだ笑い声を上げる。
「麒麟に選ばれることは王として選ばれた傑物であるということだ!そして国を背負うということは民が全て王のものとして随従するということ!たわけたことを‥。分かっていないのはお前の方なんじゃないのか?」
 陽子は眉一つ動かさず、冷ややかに漢轍を見据えている。漢轍は唇を歪ませて、陽子に目を剥く。
「何もかもが計画通りの筈だった!何故、大人しく殺されない?!私の計画は完璧だった。私は王たるべき傑物!どうやって一部の者の呪術を解いたか、お前の記憶を取り戻したのかは知らぬが、それは私の部下に非があったのだな‥。お前にうつつを抜かしたあの楓椿に!私に非などありはしない!こうなれば今ここで、私がお前の首を跳ねてやる!!」
 仰け反って嗤う漢轍だったが、陽子の氷点下の温度の視線が冷たく突き刺さる。違うな‥という陽子の澄んだ声が、克明にその場に響き渡った。
「私が記憶を取り戻すきっかけを作ったのも、全てお前の落ち度あっての物だ。それさえ分からない、だからこそ、私はお前が何も分かっていないと言った。お前は大切な事柄を、一番見なくてはならない事柄を全て取りこぼしている‥。人の心のことなど何一つとして分からないお前に、天意が下ることも無いということにさえ気づかない」
 陽子は静かに視線を揺らす。周囲を見渡し、少し離れた所に佇む楽俊達、すぐ傍で控える桓魋、虎嘯、遥か上の祭壇から自分に向かって身を乗り出す景麒を目にいれ、瞼を落として吐息をつく。脳裏に描かれるこれまでの全ての出来事が、走馬灯として駆け、色を残して去っていく。駆け抜けていく記憶全てを瞳の表面に映し出すように陽子は瞼を押し開く。陽子は胸元で拳を握り締めた。
「そうだな‥。確かにお前の計画に私たちは嵌められた。記憶を消され、何もかもを奪われて。でも‥でもお前は一番見落としてはいけないことを理解していなかったし、しようともしなかった。いくら消しても、消せないことがあるなんてお前は想像だにしていなかったんだ。だからこそ、私はそれに導かれて、今ここにいる。自分の目で自身を見つめて、自分の足でここまで来る機会を私は与えられた」
 お前は‥と陽子は漢轍を静かに見据える。
「私を支える有能な部下を最初に手にかけた。誰にも気づかれぬ内に、徐々に徐々に足元からお前は全てを崩しにかかっていった。あぁ、完璧だったよ。最初に浩瀚を私から奪い、そして民を、下官達の記憶を書き換えていく。誰も気づかないほどさりげなく、囁かに何もかもを塗り替えて、私へ忍び寄る。精神的な均衡を崩されて不安定な所、脆くなった所を狙って、最後に全ての人間の私に関する記憶を消して、私自身の記憶をも消し去る‥完璧だよ。景麒の麒麟としての役目を果たす角も封じ、もはや私の存在は完璧にこの世から消えていた」
「そうだ‥!なのに何故、お前は‥!!」
「私が言ったことを忘れたか?お前は決定的な部分を分かっていない。私が完璧だと言ったのは理性で考えられた部分の計画だ。お前は人の想いを視野に入れることにまるで興味を持たなかった。そしてそれが、決定的なお前自身でさえも気がついていない今回のお前の計画の落ち度へと繋がる」
 何?と顔を歪めた漢轍に、陽子は淡々と言葉を重ねる。
「景麒は私が遺したその首飾りを、記憶がなくても手放さなかった。それが何故だか、お前には恐らく分からないだろう。記憶を超えた、本能的に残る主人を求める仁の神獣の性だ。慈愛の麒麟の本性をお前は理解していない。記憶を何度消したところで、私が生きている限り、景麒は私を探し続ける。たとえ、私が景麒を忘れていたとしても、景麒が私を忘れたとしても、最後には景麒は私の元に戻ってくるだろう。麒麟としての機能である角を封じたくらいで、記憶を消したくらいで、お前の手駒になるような生易しいものじゃない。うちの麒麟を甘く見るな」
 そして何より、と陽子はついと視線を持ち上げる。
「お前は楽俊の存在を知らなかった。王宮の人間にばかり目を取られていたようだが、私には王宮の外にも、かけがえのない人がいる。私が今ここにいられるきっかけをつくってくれた私のかけがえのない友人‥。慶国の元号、赤楽の一文字をつかさどる私の友人を。私にとって欠けてはならない楽俊の存在に、お前は最初に気がつくことが出来なかった。そんな概念をお前は最初から視野に入れていなかったからだ」
 全て思い出した、そう陽子は眸を光らせる。
「私達は、私が事件に巻き込まれる直前まで、青鳥をやり取りしていた。彼は、私と連絡がつかなくなったことを心配して慶まで来てくれたんだ。慶で飲み水を飲んだ瞬間、お前の呪具の効力にあてられたが、それはずっと慶にいた祥瓊や、鈴、桓魋達に向けられた呪の強さに比べたら遥かに弱い。楽俊はただ一人、私の名を存在を覚えていた。私でさえ思い出せなかった私の存在、名を楽俊だけは覚えていた」
 漢轍の顔が歪む。陽子は大きく顎を煽った。
「今回、彼の存在を見落としたこと、景麒の麒麟としての本性を侮ったことがお前の決定的な落ち度だ。その綻びから、私は自分を取り戻し、そして今に至る。残念だったな、お前の天下もここまでだよ」
 そう言い放つ陽子は、少しだけ視線をずらし、背後にいる楽俊に一瞥をくれる。複雑な色合いを湛えたその視線に、楽俊は親友の名を小さく唇にのせる。
「陽子‥」
 漢轍は顔を真っ赤に震わせながら、怒りに染まった瞳を陽子に向ける。食いしばった歯が硬い音を立て、声が漏れた。
「小娘ぇ‥!!!」
 陽子は表情を変えぬまま、首だけを僅かにかしげて見せる。その微かな揺れで、肩に零れた真紅の波が流れ落ちた。陽子の口端が不敵な笑みを湛える。
「それに、『珠翼』などというものは、これまでに私は一度も耳に入れたことが無い言葉だ。今回の一件があって、私は初めて耳にした。私は蓬莱の出、そもそもそんな宝玉の存在も知らないし、私は体一つでこちらに渡った。お前が縋り付いていた、期待するようなものなんて私は何も持っていない」
 陽子は目を糸のように細めたまま、冷たい剣の柄に這わせた指に力を込める。腕が弧を描けば、空中に白銀の筋が残像を残した。細い金属音が軋む。
 しなやかに伸びる腕が持つ、鋭い輝きを孕む剣の先端がぴたりと漢轍に向けられた。澄んだ輝きを閉じ込める瞳の少女の、朗々とした声がその場に波紋のように響き渡った。
「全て終わりだ!弑逆の罪を認めよ。台輔を解放し、自らを悔い改め縄に付け。これが最後の忠告だ」
 漢轍の瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれる。食いしばり、不揃いに噛み合う歯からは、ぎちぎちと嫌な音が滲む。顔を紅潮させ、戦慄かせる漢轍は、半狂乱になって雄叫びを上げた。
「おのれええええぇえ!!!」
 泡を吹く勢いで、目を血走らせた漢轍は、景麒の金糸を力任せに掴んだ。景麒が痛みに口から悲鳴を上げる。
「やめろ!!!!!」
 広場を陽子の鋭い声が貫く。漢轍は目を血走らせながら、鬼のような形相で陽子を振り返る。麒麟に手を触れた途端、殺気が含まれ始めた陽子の表情に、はたと漢轍は動きを止めた。そして何がおかしいのか漢轍はくつくつと笑い出す。
「それ程大切か‥。この麒麟が。それ程までに‥」
「…何が言いたい」
 低い殺気を孕ませた声を上げる陽子とは対照的に、漢轍は込上がる笑いを抑えようともしないまま、高らかに声を上げる。掠れて汚れた笑い声が、歪んだ。
「不可思議な絆よの‥、もはや呪い…。そうか…こうなったのも先代が恋着したこの麒麟がいけないのか。慶国ならぬ傾国の麒麟…!!面白い!!!」
 漢轍のよれた狂気が再燃し、奥深くに澱んだゆらぎを灯した瞳が、陽子、景麒それぞれを見比べる。その瞳の表面に映る二人の姿は、歪んで異形をなしていた。 そうか、と漢轍は口の中で呟く。残酷な顔に落ちた薄闇に、景麒の背筋を、ぞっとするような寒気が舐めた。漢轍は血走らせた目を開いたまま、譫言のように抑揚のない声を零す。そして…漢轍の声が紡ぎ出したその言葉は、周りにいるもの全てを驚愕させた。
「あぁ、これで全て辻褄が合う…。そもそも、この麒麟が全ての諸悪の根源…。女王を選び、国を傾け、真たる王が選べぬ麒麟。もう再び機会をくれてやったというのに、愚王しか選ぶ能力を持たぬ麒麟。ならば…この麒麟を亡きものにした方がいっそ話が早くてすむ…。有能な新参の麒麟こそ、この私に相応しいということか」
「…!!」
 漢轍が残酷な笑みを顔に濃く刻む。目元に落ちたその異常な暗さは常闇を思わせた。
「そうだ。そうじゃないか。こうなるのだったら、もっと早く気がつけば良かった。お前が死ねば、何をやっても死なぬあの小娘は確実に死ぬ。確実に…確実に!!何故、この事にもっと早く気がつかなかったのか…!!」
「…!!!」
 景麒が呆然と息を呑む音だけが響き、群衆から驚愕とも、悲鳴ともつかぬ声がする。
ざわりと陽子は全身の毛が逆立つのを感じた。目を見開き、もはや怒りとも恐れとも分からぬ感情が、烈火のごとく陽子の内部を焼き焦がす。
 漢轍は高笑いをしながら腰から冷たい金属音を響かせて、冬器の刃を抜き放つ。何の感情も映さない白刃の刃が、呆然とする景麒自身の顔を映し出しているのが滑稽だった。自分の鬣の白金が、刃の中で、輝く。
「台輔!!!」
 悲鳴が甲高く響き渡る。
漢轍は大笑いしながら、刃を大きく振りかぶった。
「死ね、景麒ぃいっ!!!」
 刃に映し出された自身の顔が急速に自分めがけて降ってくる。耳に残るのは延王、浩瀚、鈴や祥瓊、楽俊、虎嘯達の声。そして、目に焼き付くのは腕を伸ばして叫ぶ唯一人の主の姿だった。
(主上…!!)

 唸りを上げる白刃との接触が、迫る。

 何もかもの音が消え失せる中、息をする事を忘れたまま、景麒はただ、その光景を瞳に映すことしか出来なかった。

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「やめろぉ―――!!!」
 陽子の声が、つんざくように響き渡る。悲鳴が響くその時には、誰よりも素早く、陽子は祭壇めがけて聳える階段を駆け上がっていた。桓魋の主上!!と叫ぶ声を背に、陽子は漢轍だけを見据えて水禺刀を翻す。景麒に向かって刃が振り下ろされる光景を目の前に、桓魋の脳裏に、先ほどの楓椿との会話が過った。
『漢轍は何をするのか、わからない。処刑場、中央広場の祭壇下に、爆薬を組み込んだ仕掛けを施しておいた。単純だが、一番効果は認められる筈だ。油を引いた導火線から繋がっている。何かの時に役立てろ』
 桓魋は瞬時に辺りを見渡す。
 閃光のように閃く言葉が終わる前に、桓魋は傍で明々と燃える松明を掴んでいた。階段を駆け抜ける陽子と、刃を振りかざす漢轍、祭壇下に、地面に隣接するよう控えめに這った導火線をむしり取るよう掴んだ桓魋が松明をそこに押し当てれば、油をたっぷりと吸い込んで重くなった縄を火種が猛烈な勢いで這っていく。
 そしてその一方、祭壇上では、景麒の見開いた瞳の中で大きさを増していく白刃の刃だけが、鈍い輝きを放っていた。漢轍は懇親の力を込めて刃を振り下ろしながら、目の前の清らかな神獣が血に染まる光景を脳裏に浮かべる。刃によって齎されるだろう、景麒の陶磁器のように白い肌に散る、赤の斑を思い描いた。
 だが、刃と景麒が触れ合おうとする直前、漢轍は何かゾクリとした悪寒が背筋を走るのを感じた。景麒めがけて、刃を振り上げ、振り下ろす――その瞬きする間もない時間の中で、漢轍の視線は気がつけば目の前に駆けてくる一人の少女に吸い寄せられていた。少女は腹の底から雄叫びを上げながら、まっすぐに伸びた水禺刀を振りかぶる。その姿を見た瞬間、何故か漢轍は心臓を掴まれるような、息が止まるような何かを感じた。
(…?!)
 その瞬間、思わず手元が狂い刃が空中で迷った。桓魋の放った火種から着火した爆薬が火を吹き、漢轍と景麒、陽子が足をついている祭壇を破壊していく。陽子は瓦解していく足元に少しも怯む気配を見せぬまま、景麒と漢轍めがけて駆け抜ける。
「おのれ…!!」
 一瞬呆然とした漢轍ははっと気がつくと頭を振り、歯噛みして、軌道がずれて迷った刃をもう一度握りなおす。だが爆薬のせいで、巻き起こる強風により、更に動きが封じられる。自分自身の様子に苛立った彼の中で燃え盛る強い憎しみが、漢轍の喉を焼き焦がした。
(ただの…小娘の分際で…!!)
 刃を狂わされたのが、腹が立つ。
何のとりえもない、海客で、無能な何もものを知らぬ小娘だとばかり思っていた。だがあの瞬間、ゾクリと背中を刺すような、景麒を殺すために振り上げた刃を止めさせる程の何かを、陽子は放ったのだ。

 一瞬、たった一瞬だが、漢轍が陽子に抱いた感情。それは紛れもない‥――畏怖の念。

 何故、そんなものを感じたのか、漢轍には分からない。
 そもそも、恐らく漢轍は自分が今煙に姿を隠されている目の前の娘に畏怖の念を感じたことは、きっと最後まで認めることなど出来ないだろう。
(おのれ…!おのれ、おのれ、おのれ、おのれ…!!!)
 漢轍が探し求めていた珠翼‥その正式名称を「鵬珠翼」と呼ばれるそれを、遂に漢轍は手にすることが出来なかった。
 鵬が持つ、珠の翼。
 その実態がどういったものなのか、漢轍には未だ分からない。その「珠翼」が何を指しているのかも、彼には分からなかった。
(珠翼とは‥何なんだ‥!!)
 まるでその問いに答えるように、分厚く鋭い刃を振りかぶった陽子が爆炎の中から躍り出る。紅の波が輝く。
 爆炎の中、煙を突き抜けて目の前に現れた陽子の姿を見た途端、漢轍は己の見たものに驚愕した。
 砂煙が吹き乱れ、目の前全てを白く濁らせる。漢轍の息が、止まった。
(‥!!!)

   風が、吹きすさぶ。紅の少女の刃が、翻る。
漢轍が見たもの――それは、漢轍をまっすぐに射抜く、二対の並んだ翡翠の瞳だった。
 初めて間近に見た陽子の二つの瞳が、漢轍には‥何故か翼に見えた。(まぶた)が縁どる目の形が翼を象っているようにしか見えなかった。
 己の見た幻影が信じられず、漢轍はせわしなく瞬きする。息が出来ない漢轍めがけて、鵬が飛ぶように、こちらに向かってくる陽子が水禺刀を走らせる。引き締まった表情を彩るのは、翼を模した(まぶた)に縁どられた、その中央に位置する翡翠の珠。

 それは翼の中で輝く、どこまでも深く澄み切った、覇気を湛えた二つの宝玉だった。 


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