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 柔らかい日差しが、上空から降り注ぐ。
 金波宮、禁軍の訓練場で、桓魋は吹き抜けるような青空を振り仰ぐ。
稽古の掛け声と、重なり合う金属音を耳にしながら、桓魋は空に一点だけ浮かぶ白い雲を見つめて目を細める。
 あの一連の事件の終焉から、早二週間が経過した。見渡して感じられる季節は、もう静かに春に染まり始めている。日差しに温められて立ち上る土の香りも、もう随分と新しい命の芽吹きを感じさせるものになってきていた。それを自分の主に伝えた時、彼女は嬉しそうに顔を綻ばせた。
 紅の髪の少女の面影とともに、ある武人の顔立ちが桓魋の脳裏に浮かんだ。冷たく、そして内に熱い何かを秘めていた女顔の武人の顔が色濃く浮かび上がった時、桓魋は瞼を落とした。
 
 あの後、武人、楓椿の姿を見た者はいない。

 助かる見込みさえも持てないほどの傷を負っていた筈なのに、桓魋があの場所に戻った時には、もはや楓椿がいた形跡は残ってはいなかった。
 その時の光景が浮かび、桓魋は目線を足元に落とす。
 彼が見たものは、楓椿がいた場所に残されていた赤黒い別れの文字だけだった。大量の血痕も、かき消され、彼がどこに行ったのか知るものはいない。彼が、自分の命の終わりを予感してなんとか王宮から身を出したことだけが桓魋にはそこから見て取れた。たとえ生きていたとしても、彼が二度と自分たちの前に姿を現さないことが、桓魋には分かっていた。
 それが楓椿なりのけじめだろうと桓魋は馴染んだ武器を持つ手に力を込める。
 思い返せば返すほど、不思議な男だった。
 不確かで掴みどころがない、狂気だけを纏った武人。だが、最後に彼が変わったことを、桓魋は確かに感じたのだ。その仮面の奥に潜められていた彼の心を、桓魋は見たのだ。消えた楓椿はどこに行ったのだろう。
 考えても、今となっては、桓魋にできるのは主を守り通すことだけだ。決して手の届かない想い人を守りぬくことだけだった。
 落としていた視線を、桓魋は持ち上げる。広くなった視界に舞い踊る光に、桓魋は思わず微笑んだ。
(どこの出身だったのか、聞いてみても良かったな)
 そう思った時、記憶の中の黒髪の武人は、バツが悪そうに桓魋に一瞥をくれる。桓魋がにっと笑えば、そっぽを向いて、どこかへ歩き去ってしまった。記憶の中から遠のいていくその背を見つめながら、腰を下ろしていた桓魋は立ち上がる。兵卒の一人が、立ち上がった桓魋を見て、声をかけた。最近入った新入りで、すこし緊張で上ずった声だった。
「青将軍!もしよろしければ、剣の稽古の相手をしてくださいませんか?」
 桓魋は振り返り、不敵に笑って若者を見る。先日入隊した彼は、処刑場で陽子に助けられた、あの若者だった。使い込んだ長槍を手に取り、桓魋は担ぐ。大きく息を吸って、桓魋は言った。
「いいぞ。主上をお守りできるように、みっちり鍛えてやるから覚悟しろ」
はい!と若者は声を張り上げ返事をする。初々しいその姿に桓魋は笑った。
 風が優しく桓魋を撫でていく。

 その時風が運んできた太陽の香りに、桓魋は穏やかな表情で目を閉じた。

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 目の前を、花びらの吹雪が散っていく。それを掴もうと背伸びをしながら陽子は指先を花びらに向かって伸ばした。指の腹を花びらが掠め、空を掻くだけのその感触に、肩透かしをくらいながら、陽子は自分の手のひらと睨み合う。自分の頭の上に、幾つもの花びらが振り降りて、軽く積もっている事に、陽子は気がついていないようだった。悔しそうな顔をする陽子の上空から影が落ち、ひょいと頭の上から何かが取られる。驚いて振り向けば、そこには薄桃色の花びらをつまんだ景麒の姿があった。目を瞬く陽子に、景麒は息をつく。
「何をなさっているのですか。主上」
 陽子は景麒の指から花びらを取って、くるくると回してみせた。悪戯っぽく彼女は笑う。
「少し、遊んでいただけだ」
 景麒が眉間の皺を指でほぐすのを見ながら、陽子はもう一度薄紅の花びらに手を伸ばした。
景麒と陽子は、今二人だけで、あの約束の場所に来ていた。去年の今約束したこの場所に。薄桃色の花びらが柔らかく舞う、この場所に。去年とは違った関係で、彼女たちはこの場所に舞い戻ってきた。
 花びらに手を伸ばす主人にため息をつきながら、それでも愛しくてたまらない景麒は目を細めて陽子を見つめる。ふいに心で、誰かが囁いた。
 
 世界には、そして人生には、手を伸ばしても、伸ばしても、手に入らないものもあるのかもしれない。
 そして時に、手を伸ばすことすら許されぬ事柄もきっとこの世界には存在するのだろう。自分たちのように。だが、遠ざけ、傷つけ、傷つけられ、それでも結局人は大切なものに手を伸ばさずにはいられない。孤独で泣いている大切な人を抱きしめるのを止める事など出来はしない。それがたとえ当の本人だったとしても、たわんだ心を縛る権利など、本来誰にも有りはしないのだから。

 だがそれでも、と景麒は時折こうして迷う。

 自分が手を伸ばしたことで、彼女を縛ったのではないのか、と。自分といることが、彼女にとって本当に幸せなことだったのか、と。己を振り返らずにはいられないのだ。自分は今幸せでたまらない。陽子が目の前にいてくれるだけで、嬉しくて、嬉しくて、顔に出さないようにするのが精一杯だ。だが、自分の幸せが陽子の幸せに繋がっているのか、それは景麒には分からない。世界が自分たちをどう見ようが、そんなことはどうでも良かった。ただ、景麒が気にしてやまないこと、それは彼女が幸せなのかどうか、景麒の心に刺さるのはそれだけだった。
 思わず視線を揺らした時、ふと薄紅が待っていた視界に、目の覚めるような鮮やかな紅が入り込んだ。花びらを追うのをやめた陽子が、気がつけば目の前にいた。
 悪戯っぽくこちらを見つめる深緑の瞳。その表情が目の前に現れただけで、景麒はくらりと目の前が眩むのを感じた。鼓動が一気に、跳ね上がる。

 目が眩んだその時と、鼓動が跳ねたその時と、唇に柔らかな甘い感触がしたのは、同時だった。

 驚く間もなく、重なり合った柔らかい唇から、一番大切な人の、温かい温度が伝わって、景麒は息が止まる。絶えず動いている思考さえも動きを止めて、景麒は思わず目を閉じた。
 背に這う温かい腕の感触を感じながら、知らないうちに景麒は腕の中の少女の体を抱きしめていた。強く、それでも、優しく。
 どれだけそうしていたのか、分からない。
 ただ、唇を離した時には、二人の頭に薄紅の花びらが積もっていて、それを見た陽子と景麒は思わず笑ってしまった。

 景麒の頭の花びらを背伸びして払ってやりながら、陽子はくすくすと笑う。
そっと景麒は陽子の顔を見つめる。見られていることに気がついた陽子は、ほんの少し顔を赤らめて、景麒を見つめ返す。
 人の心は本当に分からない、と景麒は思う。でもこの世で生きている限り、わからない中で人は必死に心を通わせていくのだ。
 心は、本当に不確かで掴み難いものなのかもしれない。でも、だけどその瞬間、陽子の顔を見つめていた景麒の中で、思考を覆す様に心の奥底に柔らかな温かい光が灯る。

 景麒を見つめる陽子が笑った。

 それは、本当に心の底から幸せな者が見せる、花のような――笑顔だった。






fin.








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