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 夜は移ろい、濃い暁の闇の刻限を過ぎ、空は徐々に東から白み始める。星も既に薄明かりに沈んだ。次々に処刑場に足を踏み入れる人々は、その場に拭いきれずに残る怨磋の臭気に、背筋を寒くした。

 慶国堯天の処刑場、何代か前の景王により封鎖された筈だったその場所は、今は久しぶりに人という人で埋め尽くされていた。闇に浮かんで見える、肩を寄せ合う人々は不安げに目を合わせ、これから起こること事を固唾を飲んで見守っている。群衆の一人として佇む若いその男も、先行き不安な集まりを視線を彷徨わせ見つめていた。
(何が起こるってんだよ…)
 近頃堯天を賑わせる逆賊の話題、今までにない王からの勅命、慶国で起こる様々な異変は嫌でも耳に入ってくる。噂だけが飛び交って、実質この国で何が起こっているのか、彼らが全容を把握することは極めて難しい事だった。
 状況はまるで、自分たちが光の見えない暗い霧の中にいるような心地。
これから何が起こるかも分からない。若者が居心地悪く周りを見てみれば、みんな自分と同じように、ここに呼ばれた者達ばかりのようで、彼にとってそれだけがせめてもの気休めだった。
 処刑場の造りはまるで円形闘技場のようだった。広間の中心から、段々に観客席の位置が空に向かって重なりながら、円周状に広がっていく。真ん中の落ち窪んだ部分が罪人の柩に見えるのはこちらの主観なのだろうか。兵卒に囲まれた物々しい雰囲気がその場の空気に緊張の糸を張っていた。

 楕円形に象られた処刑場の中心には一つ高い祭壇が聳えるようにして立ち、階段の裾には磔や、罪人の命を奪うために(あつら)えられた道具が肩を並べて置かれていた。大きなもの、小さなもの、鈍器、鋭利な刃物、個性の違うそれら一つ一つは、形は違えど全て同一の目的のために形作られている。

 漢轍は微かにこびりついた、錆びた血の匂いを吸い込む。その場が人で埋め尽くされていく様子を見て、一人満足げにほくそ笑んだ。
「良い環境だ…。慶国の民の前で王たる証を証明する瞬間、これをどれ程夢見たことか…。この場であの小娘を葬り、その時に景麒は私の前に跪く。慶国を治める時が遂に来た…!!」
 譫言のように呟く漢轍の目は見開き、血走っている。漢轍が握り締める翡翠の首飾りだけがその場に不似合いな透明で澄んだ光を零していた。ぬるく澱んだ風が吹き抜け、地表の砂粒を洗う。その光景の中掌で輝く宝玉は、漢轍から浮いて見えた。民衆に向かって、漢轍は大きく叫ぶ。
「皆の衆、よく来た!!これからお前たちに、本来ならば見ることが叶わぬ光景を見せてやろう!!麒麟の叩頭の様子を、お前たちの間近で見せてやる!!!」
 空から聞こえる分厚い羽ばたきの音、地面から聞こえる悲鳴とどよめきに、漢轍は上空を振り仰ぐ。
 暁を超えた空に一点の金色の光が灯る。夜空に浮かぶその美しさに、人々は口に手を当てて息を呑んだ。民衆の中、若者も釣られて見上げて、思わず口を開けた。
(き、麒麟…!!!)
 恐らく、それは彼が人生で初めて見た麒麟の姿だった。慶国の麒麟、景麒。もはや御伽噺の世界の神獣が、彼の目の前を、上空を横切っていくのを、男は呆然と見上げることしか出来なかった。
美しい顔立ちをした金の髪の青年と、若い男は一瞬目が合った気がしたが、彼には何も出来ない。声を上げる間もなく、伝説の神獣は、男から遠く離れた場所に攫われていく。
 高度を下げて一気に滑走する蟲雕の姿、その鉤爪に掴まれた景麒の姿に、漢轍は口元を歪め、残忍な笑みを浮かべてみせる。
「来たか…」
 景麒の金の鬣が夜の景色に光を創り、処刑場に埋め尽くされた人々が一斉にどよめく。
 蟲雕は処刑場中心の高く聳える祭壇に景麒を落とし、そのまま高度を上げて去っていった。
体をしたたかに打ち付けた景麒は、呻くようにして咳を零す。若者は思わずその場から身を乗り出していた。
(だ、大丈夫か?!仮にも、この国に一人しかいない神獣になんて扱いをしてんだ…!)
 あの蟲雕は景麒の指令なのか、それにしては一国の台輔を扱うのにあまりにも動作がぞんざいだった。先ほど一瞬だけ見た美しい濃淡の紫の瞳が、若い男の脳裏を過る。何故かはらはらとした心地で、彼は景麒を見つめた。見れば王と思われる男が、景麒に向かって階段を踏みしめ、ゆっくりと歩いていく所だった。
 石段を踏む音がして、景麒ははっと顔を上げる。

 ゆっくりと景麒に向かって歩みくる漢轍を、景麒は強く睨み据えた。

残忍な薄ら笑いを顔に貼り付けたまま、漢轍は腕を抑える景麒を見下ろす。
「よく来たな、景麒。小娘を殺せなかったのは残念だが、直にお前の主は真に私一人となろう…」
 透き通った紫眸を細め、景麒は地面に吐き捨てる。
「下郎…。お前のような輩が景の器であるものか!」
「口を慎め。景麒、お前の主は私だ」
「違う!!口を慎むのは貴様の方だ!!私の主は他にいる!!」
 漢轍の顔が ほう と言うように歪む。
 空気さえもが身を潜めたその場で、景麒は睨み言葉を続ける。
 美しい紅が…景麒の脳裏を過る。
「私の主は一人‥。天は既に私にそのお方を示した。私は生涯をかけて、主上に付き従う。陽子様に‥ついてゆく。あのお方以外、景王では有り得ない」
 景麒 と誰かが彼を呼ぶ声を、景麒は耳元で聞いた。それは自分の記憶が引き起こした幻聴だったのだろうけれど、優しい穏やかな潮騒の声は景麒の心の奥深くに染みる。脳裏で笑う少女の姿は凛として、光のように光輝を纏って景麒を見つめる。口の中を這った潮の味に、景麒は唇を噛み締めた。
 笑んでいた漢轍の表情がゆっくりと乾き、色味が失せて顔の動きが消えていく。景麒の言葉に、周囲の民達は声を潜めて耳を傾けていた。若者も困惑した表情のまま、景麒の言葉を待つ。一切の音が身を潜めた空間で、濃紫の瞳が、くすんだ黒の瞳を射抜く。
 無表情になっていく漢轍の顔に向かって、景麒ははっきりとその言葉を――吐き捨てた。


「お前は、王では、有り得ない。現慶東国の玉座につかれているのは、女王だ」


 声は水を打ったように静かなその空間に、余韻を残して響き渡った。
 一瞬の沈黙の中、人々の懐疑の視線が交錯し合う。次の瞬間、声という声が民のあいだから聞こえ始める。この場に集まった民がざわざわとざわめきながら、どういうことだと口々に囁き合う声空間を満たした。

―ど、どういうことだ?
―あのお方が王では無いのか
―今の王は、男王だと聞いていたぞ
―そんな‥そんな訳あるか。女王の筈がない。
―だが、王を選定する麒麟の言葉に虚偽があるものか!

 ざわざわとざわめく声は重なり合って、打ち寄せる波のように空気中に波紋を描いていく。始めは漣だった声の波紋は、太りながら濁流となって処刑場をのんでいった。
 先ほど居心地悪く身を揺すっていた若い男も、景麒の言葉に呆然と立ち尽くしていた。彼は隣にいた男に、そっと耳打ちする。
「お、おい…台輔が仰っていることは、ご冗談だよな…?」
聞いた男はギョッと彼を見返し、その質問には聞こえなかった振りをした。
 一方漢轍はしばらく景麒を見下ろすようにして睨んでいたが、やがて ふ と唇から息を漏らす。
「そのような口をいつまできけるかな?民も集まった。今からお前には人民の前で私に叩頭してもらう‥!お前が私に頭を下げた瞬間、私がこの国の王であることが確証される!!」
 爛々と、瞳の奥に乾いた炎を燃やしながら、漢轍は囁く。
 景麒に向かって、漢轍は手を伸ばした。
「私にはお前を跪かせる算段が有るんだよ。景麒。王こそが手にする宝玉、『十二帝の鵬珠翼』その一つ、慶国の珠翼を私は手に入れた」
彼の目に映るのは目を見開いたまま固まる景麒の姿だけ。漢轍は逃げようとする彼の頭を思い切り鷲掴みにする。乱暴なその動作に、景麒の金糸に走る光の輪が崩れ、整った彼の顔が歪んだ。
「ぐ‥!」
 転変も出来ない。指令も出せない。身を守る術が何一つない景麒は必死に体を捩って逃げようとするが、強い力に対抗して藻掻く白い指先は、祭壇の大理石を滑るだけだった。藻掻いて藻掻いて、それでも自分から逃げる術がない景麒を、漢轍は痛ぶるような嘲笑を瞳に浮かせて見下ろす。漢轍は掌に掛けた翡翠の首飾りを景麒の前でぶら下げてみせた。その宝玉に驚嘆したような色を浮かべた景麒の表情に、漢轍は機嫌良く、ゆっくりと、噛んで含めるように言葉を練り出す。
「悪いな‥これは私が貰う。珠翼を持つ者こそ、王たる輝きを持つと、私はどこかで聞いた。これさえあれば‥お前は私に跪く」
 景麒は顔面を蒼白にしたまま、呆然と漢轍を見上げる。漢轍は爛々と瞳の表面に欲を浮かせ景麒の頭にかけた手にじわじわと圧力をかけていく。

 くすんだ闇を深く顔に落とした漢轍が――笑む。

「叩頭しろ…景麒」
 景麒は濃紫の瞳を見開く。息を呑んで祭壇に視線を集中される、巨大な楕円形の処刑場に詰められた人々の視線、視線、視線の数々が彼に突き刺さる。
(無理だ…)
 徐々に頭に降りかかる圧力に、声も出ない景麒の喉から、細い悲鳴が漏れそうになる。

 出来る筈が、無かった。

 景麒が跪けるのは、地にまで頭をつけられるのは、彼にとって一人しかいない。紅の髪を靡かせる、澄んだ瞳の少女王だけが、彼の主だった。
 景麒の目の前で揺れる翡翠の宝玉は様々な表情を覗かせながら、じっと景麒だけを見つめる。陽子と同じ瞳の色、深さ、輝きを持ちながら、決して陽子のものでは有り得ないそれが、景麒の心を激しく焼いた。
(主上…!!)
 吹き出した汗が、幾つも顔の輪郭に沿って滑り落ちていく。
(主上…!!!)
 若者が息を呑んで景麒を見つめ、民達がどよめく声が広がる。額を滑る汗が零れて、視界が塩辛く染みて霞む。
 上空から降りかかる圧力、全霊を込めて抵抗を始める自身の体。
景麒の顔が苦渋で歪もうとしたその時――

 朗々と、男の声が割って入った。


「叩頭だと?馬鹿馬鹿しいにも程が有る…!お前は王ではないという事実が未だ認められないか!」


 凛とした低くなめらかな男の声が響き渡る。観客達がざわめいて、視線を揺らして、声の方向を確かめようとする。若者も身を乗り出し、声の方向を確かめようと首を捻った。
(な、何だ…?)
 誰かが指を指し、それに釣られて皆がその方向を目線で辿れば、中央広間の裏口に濃く影を落とす一人の男の姿に辿り着く。その後ろから背筋を伸ばした三十前後の男、一人の少年と、二人の少女、そして二人の青年が続いているのを見た漢轍の顔に衝撃が走り、表情が苦々しく、渋くなっていく。
(誰だ‥?!) 
 その時、若者は目を見開いて、その偉丈夫の姿、後ろに控える男を遠目に瞳に映す。先陣を切る男の簡素に括り上げられた髪は常闇の色している筈なのに、何故か光を含んでいるように見えた。それは男自身が、烈火の如く苛烈な輝きを持っているからだとでもいうのか。 


 処刑場に佇む幾つもの影、先陣を切る男が…口元に不敵な笑みをはいてみせた。

:::::


 漢轍は男たちを睨み据えたまま、一言大きな声で叫ぶ。
「延王…!浩瀚!」
(え…!?)
若者が驚いて振り返れば、視線を落としていた男は、ついと瞳を持ち上げ、不敵に笑う。零れる黒髪、まるで揃えたかのように同じ深みと鮮やかさを持つ漆黒の双眸。延王、尚隆は漢轍を真っ直ぐ睨み据え、口を開く。
「お前は何も分かっていない。それは陽子が個人的に景麒に贈った贈り物だ。お伽草子の『珠翼』にしても、そんな風な具体物では無い、と俺は言わなかったか?王でないものの前には現れない。王であるものの所にだけ、それは形として現れる」
「嘘をつくな!お前のその言葉が譫言であることはとうに分かっている!!」
 泡を吹く漢轍を冷ややかに見上げながら、浩瀚が一歩足を踏み出し尚隆の隣に並ぶ。微かに砂埃が立ち、浩瀚の足元を流れていく。
「なぜ、お前が延王君の仰ることに虚偽があると言い切ることが出来る?それに、どちらにせよそれは主上と台輔にしか意味を為さぬ代物だ。お前が持った所で何ら価値は持たぬ」
「おのれ…浩瀚!」
 漢轍は目を剥いて尚隆達を睨み据える。浩瀚は不快そうに顔を歪め、地面に向かって吐き捨てた。
「本当に下らない…!私を、台輔を臣下にしようなど とんだ茶番だ。既に天は我々に唯一人の主を示している。主上にお仕えするために、私はこの国の 冢宰の冠位を受けた…。天と地が裂けても、お前の臣下になど下らぬ」
 怒りで夜目にも赤く顔を染めた漢轍を、浩瀚は涼やかな表情で見上げる。口元に美しい弧を描いて、浩瀚は確言する。
 それは微笑と相反した、残酷なほど克明にその場に響き渡る――声、だった。

「お前は、王では、有り得ない」

 さっと漢轍の顔から血の気が失せ、唇が僅かにわななく。細かに顔の筋肉を震わせながら、漢轍は狂乱した。
「おのれぇええ!!!」
「…!!」
 鬼の様な形相で、漢轍は景麒を振り返り、その金糸を力任せに掴んだ。毛を引き毟る程の強さに、景麒が悲鳴を上げる。若者は目を見張って、息を呑んだ。
(…!!!)
「叩頭しろッ!!景麒ぃい!!」
 漢轍は狂気を顔に醸し出しながら、力づくで景麒の頭を下げさせようと両腕で彼の頭を掴む。景麒の苦悶の表情が濃くなり、悲鳴が大きくなった。
「やめろぉお!!」
 六太が身を乗り出して叫ぶのを、尚隆が抑える。
民はその光景に声を上げ、若者は目の前の女性が口を両手で覆ったのを見た。
(…!!!)
 人に紛れてこの光景を見ていた若者は、映像がゆっくりと重なり、頭の中が真っ白に消されていく感覚を感じた。
 くぐもった悲鳴を上げる景麒。爛々と目を輝かせる髭面の男、漢轍。剣の柄に手を掛ける延王。そして延麒だろうか、少年の足影から蠢く指令。口を抑える二人の少女と叫ぶ二人の青年。目を見開く冢宰、浩瀚。
 全ての映像が若者の脳裏に押し寄せ、知らぬうちに若者は地面から石片を拾い上げ、手に掴んでいた。どうしたら…、慶国の民として、自分はどうしたら良いんだ と彼の心の中で誰かが囁く。
 冷たく硬い石肌の感触だけが手に食い込む。腕をわななかせながら、気がつけば彼は――


 ――その石を、処刑場の広間に向かって投げ込んでいた。


 指先から冷たい感触が離れていく。あ と気がついた時には、石は歪な弧を描きながら、処刑場の中心に向かって飛んでいた。自分の周囲から、息を呑む、悲鳴に近い声がする。すべてがゆっくりと動く中、石は予想していたよりもずっと大きな音を響かせ、広間の砂に落ちて、一度だけ地面を跳ねた。
「?!!」
 漢轍の目が見開く。延王達が驚いて、若者の方を振り返った。その時になって、初めて若者は自分を取り戻し、はっと瞬きする。気がついた時にはもう、何もかもが遅かった。
 不気味なほどの沈黙が落ちる。
漢轍は目を見開きながら、ゆっくりと石を視線でなぞり、飛んできた方向に目を向ける。一瞬で、静寂が処刑場を包み込んだ。若者は一気に体温が氷点下まで下がるのを感じ、前に塞がっていた人々が、恐る恐るこちらを振り返る。彼の前に居た人間が静かに分かれ、彼の周りに僅かな空間が出来た。
(あ…)
 こちらに集中する、延王、延麒、浩瀚らの視線を若者は感じる。だが、今彼の視野を占めていたのは目を開いたままこちらを凝視する、漢轍の姿だった。目の前で景麒が崩折れるのを気にも止めず、ただただ若者を目を見開いて見ていた。その姿にぞっと若者の背筋を、寒気が舐める。
(ま、まずい…)
 恐る恐る瞬きする若者、同じように瞬きする漢轍が遠くにいる彼に向かって、怖いほどの笑みを浮かべてみせる。目尻を溶かし、柔らかい猫なで声が、漢轍の喉から響いた。
「今、石を投げた奴…?出てこい」
 自分の喉が声にならない音を立てるのを、若者は聞いた。歩こうとしたが、膝が震えて動かなかった。がくがくと笑いっぱなしの膝をなんとか進ませながら、若者は人垣を割った中心まで歩みを進める。
 震えながら、石段の遥か上にいる漢轍を、若者は見上げた。漢轍は目尻を下げ、恐ろしい程深い弧を口元に刻んでいる。
「今、お前は私に向かって何をした…?」
「あ…あの…」
「何をした、と聞いている」
「あ…あ」
 声が震えて、音を出すことさえままならない。若者は後ろへよろめきながら、叩頭しようと膝を折る。体を腕で支える景麒と、彼はまた目が合った。ぶるぶると震え、瞳の表面に薄い膜が張っている自分の表情は、景麒にはどのように映っているのだろう。疲弊した景麒の表情が険しくなる中、漢轍は笑んだまま、ゆっくりと若者に向かって唇を割る。
「―死罪だ。ここは処刑場、丁度良い」
漢轍の声は淡々と、その場に響き渡った。延王、浩瀚達の表情が険しくなる。 
 若者は自分が何を言われたのかまるで分からなかった。
「え…?」
 音もなく、物陰から一羽の蟲雕がその巨体を夜空に浮かせる。彼が訳も分からず瞬きすれば、同時に妖魔の巨体が巻き起こす爆風が不規則に顔を叩いた。つんざくような悲鳴が民達の間から巻き起こり、人波がうねる。逃げ出そうとした民衆に向かって、漢轍が怒号を落とした。
「動くな、愚民共ぉ!!!そこから一歩でも動いた奴はこやつ同様この場で死罪にしてくれる!!!」
 しん とその場が水を打ったように静かになった。恐怖の表情を浮かべた民衆から視線を逸した漢轍は、空を振り仰ぎながら優しい笑みを妖魔に向ける。そして若者の背筋が凍る中、声だけが克明にその場に響き渡った。
 吹きすぎる風だけが―緩い。

「殺せ」

 一際大きな爆風が地表の土を削って巻き上がる。
瞬きする間もなく、彼めがけて先ほどの蟲雕が翼を羽ばたかせて突進してくる光景が、若者の目に突き刺さった。死ぬのか と彼の心で小さな言葉が浮かぶ。
 目をいっぱいに開いた自分の姿が、飛んでくる蟲雕の爛々とした双眸に歪んで映っていた。景麒の叫ぶ声と、こちらに向かって駆けてくる延王達の姿
が、若者の視界の片隅に映る。延王が鞘走りの音を響かせ、剣を鞘から抜き払い、延麒の指令が影から飛び出すが、若者は瞬き一つ出来ずに直感的に感じた。
 ―――間に合わない。
 振り返れば、「死」が彼に向かって、嗤う。
 嫌だ、と思う間もなかった。ただ、若者の中で一瞬の間に疑問が渦巻いて溢れる。

 何で、自分が殺されなくてはいけないんだ。麒麟を痛めつける王などいるのか。台輔を案じて石を投げただけなのに――なぜ。お前がしたことの方がよほど酷いことなんじゃないのか。違うのか。――違うのか。

 一瞬で様々な想いが彼の中を駆け抜ける。周囲から響く悲鳴と、必死の形相の延王、冷や汗を浮かべるこの国の冢宰、叫ぶ景麒、延麒と娘達、二人の青年の顔が彼の目に焼き付く。誰もが、もう終わりだと分かっていた、周囲も、そして彼自身も。
 もうだめだと誰かが呟く。
だが…駆けてくる鋼より硬い、鋭い妖魔の(くちばし)が若者の胸を貫こうとした時、誰かが、若者の脇を風のように駆け抜けた。
――刹那。


 ――――彼は視野一面に、美しい紅の波を見た。


 一瞬の出来事に、若者の呼吸が止まる。
(…!!!!)
 瞬きも出来ず、硬直した彼が次の瞬間目にしたのは、闇の中翻り、舞う白刃の光の筋だった。蟲雕の羽毛に沈み、赤の飛沫が吹き出す。恐ろしい程ゆっくりとその光景は流れていったが、実際は瞬きする間もないことだった。空中で体を捻るその人は、白刃で円弧を描きながら、蟲雕の喉元をあざやかに薙いだ。
 光を零す白刃の軌跡。



駆け抜ける潮騒の匂いと、視界を満たす、たゆとう紅の流れ。褐色の汗ばんだ肌、深く深く吸い込まれそうな澄んだ翡翠の輝きを――その時若者は目の前で見た。


 血しぶきを上げながら倒れる巨体の前に、その人は軽やかに着地する。周囲からどよめきが巻き起こった。
「…!!!!」
 若者の目の前で、闇に眩い真紅の波が揺れる。波の持ち主は血糊が這った優美な宝剣を振り、血の珠がいくつか小さく飛んだ。
(え…?)
 ゆるりとその人がこちらを振り返った時、若者は目を見開く。
 少年とも見える立姿、中性的な美しさを孕んだ顔立ち、孤独な美しさに、若者の息が止まる。目の前に佇むそれは…


 美しい、一人の少女だった。


 放心する若者の、目の前の少女が口元を緩め、低く優しい声が、彼の耳を撫でた。
「大丈夫か…?」
 美しい翡翠の瞳を間近で見つめたまま、若者は何度も頷いた。漢轍の額には青筋が走り、顔には殺気が浮き出ていたが、彼女はただ一人、目の前の若者だけを見つめていた。美しい少年とも少女とも言える人に、唇をわななかせて、彼はなんとか言葉を紡ぎ出す。
 言葉は自分が思ったよりも、遥かにはっきりと、その場に響き渡った。
「あ、あなたは―一体…」
 少女は目を丸くする。だが、一瞬後に小さく唇に笑みをはき、優しい眼差しで若者を見つめる。金の鬣の青年が、祭壇から身を乗り出すようにして、少女に向かって叫ぶ。彼女が答える前に、上空から大きな声が響くのを、その時彼だけでは無く、その場にいる全員が聞いた。
「主上――――!!!」
 周囲一体が、どよめいて少女を見つめる。若者は自分の呼吸が止まるのを感じた。
 同時に若者は、自分に向かって囁かれる 申し遅れた と静かで優しい声を聞いた。少女は静かに口を開く。
「私は、中嶋陽子。そして別名…」

 誰もが音も出せぬ中、少女の声が、処刑場に響き渡って流れる。
紅の波が筋となって流れ、翡翠の瞳が――輝いた。

「慶東国国主 景」



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