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 ひとつ取り戻せば、ひとつ奪われる。
今巡り会えた陽子と景麒が、再び引き離される瞬間は、刻一刻と迫っていた。


 金波宮、禁軍の訓練場。優しい夜の世界の中で、抱きあう陽子と景麒は、どちらとも言えずそっと身体を離した。気まずそうにふいと視線を逸らす景麒を見て、陽子は思わず少し笑う。
「景麒‥」
 陽子は指先で、景麒の金糸を撫でる。指先を流れる鬣は柔らかくて、するすると指通りが良かった。撫でられる感触に、景麒は目を閉じ、吐息を零す。陽子は苦しげに顔を歪めて、もう一度目の前の青年の名を口にした。
 彼から告げられた想い、自分の胸に抱えていた想い。その全てが混ざり合って、陽子の胸を締め上げる。
 景麒の鬣を梳いてやりながら、陽子は胸に手を当てた。目の前の青年は酷く美しく、透明で、荘厳な静けさを湛えている。曇りも何も知らない神獣は、陽子にとってはあまりに美しすぎるような気がした。
 指先が、胸が、吐息が、何もかもが、熱い。じっととろめく翡翠の瞳で、陽子は景麒を見つめた。
「景麒…」
「はい…」
 景麒は表情を固くし、揺らす瞳に瞼を被せる。陽子はもう一度、景麒の鬣を撫で、しっかりと彼を見つめて言葉を綴る。
「私も…お前に言いたいことがある…」
 景麒の瞳が大きく身開かれ、透き通った紫水晶の様な珠が揺れた。普段無表情な顔が、一層白く硬くなり、その光景は正に、石像彫刻を見ているようだった。唇を引き結ぶ景麒を見つめながら、陽子は服の下で高鳴る胸を抑えて、言葉を零す。
「私は…」

 吐息が、熱い。

痛いほどに心臓が脈打ち、唇が震える。それは言おうか、言うのをやめようか、あっても良い物なのか、いけない物なのか、かつて陽子はそのことで身をすり減らすほど悩みぬいた。
「お前のことが…」
 景麒の瞳がこれ以上ないほど見開く。陽子の胸元が締め上げられ、口の中が酸味を帯びた。
優しい夜の香りを孕んだ空気が揺れる。どこか湿ったその匂いさえも熱を含んでいる。
 緊張と不安と期待が混ざり合う一瞬の間、空気が膨れて、二人の距離を埋めていく。

 どうしようもないくらい、胸が熱くて痛かった。

「お前の…ことが…」

 震える陽子の唇が――動く。

 けれど 陽子がその言葉を口に出そうとした瞬間、唇が動き出した次の瞬間…


  突風が、二人に向かって、吹き荒れた。


「?!!」
 吹き荒れる、風の嵐。続いて響く、空を羽ばたく分厚い翼の音。
 訳が分からず、瞬間、目を閉じた陽子が風圧に逆らい薄目を開ければ、そこには夜の闇に不気味に浮かび上がる蟲雕の巨体が在った。
「な…!!」
 瞬時に腰元に手を伸ばすが、その時、ふいに陽子は腰が軽くなるのを感じる。驚いて振り向けば、腰に下げていた水禺刀が風に煽られ宙を舞う光景が、陽子の視界に飛び込んできた。

(水禺刀…!!)
 手を伸ばすが、水禺刀は背後に飛ばされ、地面に一度だけ跳ね返って砂の上を滑っていった。陽子の手からは、遠く届かない場所に転がった水禺刀に、彼女の顔から血の気が失せる。景麒が叫ぶ声が聞こえた。振り向けば…
 目を見開いた陽子の視界に広がるのは、陽子目がけて疾走する蟲雕の鉤爪だった。
「主上!!!」

 ――殺られる と動きを止めた頭のどこかで声が走る。

 だが、体は固まったまま、動いてはくれなかった。鉤爪が、大きさを増して陽子めがけて駆けてくる。思わず目を瞑ったその時、剣もない、避ける時間もない陽子を、そばにいる景麒の腕が突き飛ばす。

「?!」

身体が背後に流れた瞬間、蟲雕の翼が起こした爆風に煽られ、陽子の身体が景麒から吹き飛ばされた。
 代わりに蟲雕の鉤爪が景麒を捕らえるのを風の中で陽子は見る。
軽々と蟲雕が景麒を抱えて空中に舞い上がる光景に喉が裂けんばかりに、陽子は叫んだ。

 嘘だ。

「景麒ぃ
ーっ!!!」
「主上…!!」
 陽子は手を伸ばすが、景麒の姿はあっという間に小さな金色の粒になっていく。同時に蟲雕の喉元から、呪術だろうか、漢轍の声が暗闇に余韻を引いて響き渡った。

『景麒は貰うぞ、小娘!額の呪印を消したところで、私を叩かぬ限り景麒への呪は消えぬ!!お前が自らの命を差し出した時、こいつの呪は解いてやる…!慶国 堯天の処刑場まで来るが良い!!』

 一瞬呆然と世界が音を無くす。悔しさと怒りで、陽子の瞳の奥が白く焼かれた。
(畜生…!!!)
 吹き出す怒りの炎に焼かれて、陽子の喉が焼かれる。吹き飛ばされながら、景麒と引き剥がされながら、空中に小さくて透明な粒が飛んだ。陽子がそれが涙だと認識する前に、景麒の姿は完全に見えなくなった。


 どうして。どうして引き離されなくちゃいけないんだ。どうして、一番大切な物を奪われなくちゃいけないんだ。なぜお前に、私の全てを奪う、権利がある…?半身も、友も、部下も、私自身も、何もかもを、どうしてお前に奪う権利がある…?自分の欲望のためだけに人を傷つけるお前が…!人のことなど何一つとして考えてないお前が…!!人を人として見ていないお前が…!!!


 背後に感じた気配に、柱に叩きつけられる と陽子は思わず目を瞑る。体が砕ける感触を、陽子はどこかで覚悟した。無表情で、固く、冷えだけを含んだ石柱に陽子の体が吹き飛ばされていく。
「主上!!!!」
 鈍い音を立てて、陽子の身体がぶつかって止まる。
 だが、陽子の身体を受け止めたのは、冷たく固い石柱などでは無かった。温かく、がっしりとした何かが陽子の身体を支えた。予期した衝撃が無かったことに、陽子は驚いて、目を瞬く。

 誰かの腕が、吹き飛ばされた陽子の身体を受け止めていた。

 しっかりと空中で抱きかかえられた自分の身体、支える腕が目に入り、陽子はその腕から伸びる線を目で辿る。硬い鎧に、伸びる長槍、優しげな瞳。それが誰か分かった瞬間、陽子の唇から言葉が漏れた。

「桓…魋‥」

 陽子を抱きかかえる男は、何も言わずに優しい眼差しで彼女を見つめる。

 吹き飛ばされた陽子を受け止めたのは、この国の禁軍左将軍、桓魋だった。

:::::


 たった今この場に駆けつけた桓魋の腕は、陽子一人を抱えた所で、僅かも下がる気配を見せなかった。景麒を奪われ音を無くした世界、そっと陽子を地面に下ろし、桓魋はその場に跪く。息を呑む陽子に、桓魋は悔しさを滲ませた声で言葉を発した。
「申し訳ありません、主上。参上するのが遅くなりました。どうか御寛恕下さい」
「桓魋…」
驚いたまま、呟く陽子に、桓魋はそっと面を上げる。
 その黒眸は一度陽子が対峙した時とは変わり、穏やかで澄んだ光を湛えていた。
「全て、思い出しました…。主上には多大なご迷惑を‥おかけしました」
「正気に、戻ったんだな‥。私も、全て思い出せた。無事で良かった。桓魋」
はい と頷く桓魋は辛さと、自分の中から吹き出す何かに耐えるような表情を湛えていることに陽子は気がついた。跪く桓魋の目線まで膝を折り、陽子はそっと囁く。
「来てくれて…ありがとう」
 その言葉に、桓魋の瞳が押し開く。桓魋は強く唇を噛み締め、顔を伏せ叩頭する。陽子はそっと彼の肩に手を置いた。


 景麒を奪われ、桓魋が戻ってきた。ひとつ取り返せば、ひとつ奪われる。
 誰かに何かを奪う権利なんて本来欠片も無い筈なのに。


 陽子が悔しさで痛いほどに唇を噛めば、舌の上に錆びた味が流れた。あの逆賊は、陽子から桓魋をも奪い取ろうとしていた。陽子自身の手によって、彼を消させようとしていた意図が、今になって彼女には痛いほど分かる。陽子は桓魋の肩に置いた手にきゅっと力を込める。
「お前を取り戻せて…本当に良かった」
「この命有る限り、お供させて頂きます‥主上」
桓魋が顔を上げて、陽子を見れば、その瞳には真摯な色が浮かんでいた。その顔を見て、陽子はありがとうと微笑む。

 その時、陽子は桓魋が何を想っているかまで、知る由は無かった。

桓魋がその瞳の奥に、何を閉じ込めているのか、陽子には分からない。桓魋自身分からせるつもりもない。
風に煽られた砂の礫が、二人の間を吹き抜けた。
 彼の声だけが、静寂の中静かに響く。
「…この国の王は、貴方以外におられません。俺の主は貴方唯一人です。他の誰でもない、台輔が選ばれたのは紛れもなく、主上、貴方だけなんです。慶国を、どうか…。俺たちの故郷を、どうか…」
「桓魋…」
桓魋はすっと視線を引き、地面を見つめる。一瞬の沈黙。陽子が顔に疑問符を浮かべて、桓魋を見た時、彼は顔を上げ、陽子を見つめた。
「どんなことがあっても、俺は貴方を守り通します。命ある限り、主上にお許しを頂ける限り―」
 どこまでも、貴方に付き従います。
 そう桓魋が心で囁いた声は、陽子に届いたのだろうか。目を大きく開いた陽子は、息を呑んで桓魋を見つめる。二人のあいだに、優しい風が流れていく。
 桓魋は目を閉じ、陽子の声を待った。心のどこかで、桓魋自身の声が囁いた。

 自分の想いが陽子に伝わることなど、きっと生涯ありえない。

 けれど、それでも、陽子がいてくれる限り、桓魋が望むたった一つのことは果たされる。
 
 雲海を流れる風だけが、潮の匂いを打ち上げる中、陽子は彼に囁いた。
「私は…皆が幸せに笑える国を作りたい。こんな私だけれど、やれることがあるのなら、私はそれを喜んでやらさせてもらいたい。私に仕えてくれるお前も幸せであるような国を―私は作りたい。お前はまだこんな至らない私に…力を貸してくれるのか…私は全てを、取り戻す」

 桓魋の目に映る陽子は、一人の王だった。そして同時に、支えを必要とする一人の少女だった。
 桓魋は目を見開く。
 背後で辿り着き、陽子たちの姿を捉えた虎嘯がこちらに駆けてくる音がする。
 
 じっと真摯に見つめる少女王の翡翠の瞳を見返し―――桓魋はしっかりと一つ頷いて見せた。

:::::


 堯天、路地裏。
 尚隆達が広途に躍り出る光景を横目で見ながら、顔を布で隠した若い人影が深い夜の闇の中、そぞろ歩きに処刑場を目指す人の波に目を細めていた。
 そのうち、歩く一人の民人の農夫が、その人物に気がつき足を止める。じっと、不思議そうにその様子を見つめる農夫は、布で顔を隠して柱の影に(もた)れる人影に歩み寄った。
「あんた、処刑場には向かわなくて良いのか?」
 人影は振り向いて、農夫を見つめる。漆黒の黒眸が松明の明かりを弾いて、濡れたように光を湛えていた。老成した輝きを纏う瞳とは対照的に、布の隙間から零れる柔らかく、若い輪郭線が目に眩しい。
 まだうら若い武人のように見えたが、不思議と彼から感じられるのは初々しさではなく、生を達観したある種の不思議な落ち着きだった。
「もう少ししたら、様子を見に行くつもりです」
 布で顔を隠した少年は少しだけ笑ってみせる。洗練されたその動作の美しさに、農夫は思わずほうけて武人を見つめた。
「そんな、お前さん…様子を見に行くなんて悠長なこと言ってる場合じゃねぇぞ?一刻も早く移動した方が良い。新しい王様は待ち望んだ男の王様だが、どうやら気の荒いお方のようだ。少なくとも、堯天の人間は明朝までに処刑場に行かねぇと死罪にされるらしい」
「そう…それは酷い王様だね」
 農夫の顔がギョッと目を向いて少年を見る。彼はすぐさま薄汚れてふしくれた指先を唇に当て、周囲の様子を伺った。だが幸いにも、人々は皆自分のことに手一杯で、彼らのことにまでとても気を回している風情は無かった。冷や汗が農夫の顔に一気に浮くのを、少年は見る。
「なんてことを言うんだ…!そんな言葉役人にでも聞かれてみろ、あんたの命はねぇぞ!」
 押し殺した声に、大丈夫です と少年はふふ と軽やかに笑ってみせた。農夫はその様子に呆れたように肩を落とした。
「仮にも、麒麟が選んだ‥天意が王と示した御方だ。物騒な事は口にしねぇ方が身の為だぞ、坊主」
 若い武人は物柔らかな笑みを湛えるだけで、そのことについては何も言葉を漏らさなかった。布の下で、少年の唇が動いた気がしたが、彼がなんと言ったのかまで、農夫には聞き取れなかった。
 額の汗を手の甲で拭いながら、農夫は疲れたような声を漏らす。
「とにかく、今からは処刑場に集まらねぇと、俺たちの身が危ねぇ‥。坊主も、今みたいな言葉を役人に言ったりするなよ。命が幾つあっても足りねぇぞ。早くお前も処刑場に向かえ」
「ふふ‥そうですね。ありがとう」
 じゃあな と農夫は手を振り、人ごみの中に足を踏み出す。不思議な若い武人に狐につままれたような気分で農夫は歩き始めた。
(坊主らしくない…坊主だったな)
 何故あんな布を甲冑の上から纏っているのか、何故あれ程若いのに自分より老成した何かを感じさせるのか、農夫は不思議でならなかった。
 瞳の奥に巣食う静けさと、荘厳な何か。
 それが何かなんて解るはずもなかったが、畏怖の念さえ抱かせる不思議な武人だった。
 胸の内に疼いた何かに押されるようにして、もう一度武人の姿を見ようと農夫はその場で振り返った。
 だが…

「え…?」

 その時、先程まで若い武人が居た場所には、もう誰もいなかった。

 困惑する農夫は、慌てて左右を見渡して、先ほどの武人の姿を探すが、その姿はもはやどこにも確認することは出来なかった。目を見開く農夫の周囲は彼をそのままに、何の淀みも無く流れていく。農夫だけがただただその場に、立ち尽くす。
 彼の周りを流れていく人の波、人々が掲げるゆらゆら頭上で揺れる松明の熱も明るさも、時折足を踏んで聞こえる怒鳴り声も、先ほどと何も変わらない。

 そんな何も変わらない時間の中ただ一つ、闇空に赤い天犬の影が頭上を掠めていく光景に、農夫はその時――気がつくことは無かった。



「ろくた…?」
 闇空を切る赤の獣。滑空し、風を裂きながら、更夜は獣の深く柔らかい毛並みに指を埋める。風圧でたくしあげられた布がよれ、鎧に絡みついている玉の肩巾がとろりと淡い光を帯びる。獣の毛並みの毛足の長さに、少年の指先は埋もれて見えなかったが、更夜がそっと撫でてやれば、不機嫌そうな声を漏らしていたろくたは幾分か声を抑えた。堯天の上空を滑る更夜は、少しだけ目を優しく垂らす。
「人間と交わってしまったことを怒っているの…?でも、久しぶりには良いだろう…」
 更夜の下から、返事ともつかない くぐもった唸り声がした。更夜は笑う。
「景王の時は大人しくしていたのに…。やっぱり人ごみは駄目か…様子が気になってここまで来てみたけど…」
 そろそろ決着が着きそうだ と更夜は静かに呟いた。さんざめく眼下の星々に、更夜はうっすらと目を細める。地面に塗された灯りの数々は、それは更夜にとっては何百年かぶりの、人が肌を寄せ合う人里の象徴だった。ろくたの翼が空を掻く感触を、毛並み越しに感じながら、更夜は空を仰ぎ見る。鈍い光、鋭い光が一堂に会し、上にも下にも、輝く星々の煌きが、更夜とろくたを包んでいた。
 どこに行くのか と更夜を見上げて唸ったろくたに、更夜はそっと微笑んだ。
「堯天の処刑場上空まで、行こうか。誰にも見つからない、様子がよく見える場所がいいね。僕たちは姿を現すわけには、いかないから…」
 風が流れる。
 彼の相棒の天犬は、心得たように向きを変え、空を低く滑空し始める。更夜は口元に薄く笑みをはいたまま、もう一度空を振り仰ぐ。

 その中に混じった微かな潮の香りに、更夜は目を細めた。



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