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 遠ざかる金波宮の姿は、光の礫をまき散らしたようだった。

 空駆ける騎獣の背に跨る漢轍は、伝わる脚力の筋肉の動きを感じながら、なめらかに空を滑っていた。急速に遠のいていく金波宮を背に、漢轍は処刑場への行路をひた走る。衣が風に絡んで絡まり合い、叩き合う音が足元から響いていた。
 楓椿も始末した今、漢轍が期待するのは、景麒が陽子を手にかけることが出来たかどうか。
 想像する陽子の屍に、漢轍は口端を釣り上げる。
(王は男王こそが素晴らしい。傀儡(かいらい)にしかなれぬ女王の卑小さは既に明らか。あの小娘に国を担うことなど出来るものか)
 漢轍には、何故景麒が再び女王を選んだのか、不思議でならなかった。漢轍が昔から望み続けた王座。かつて比王が崩御し、この国から王も麒麟も居なくなった時の慶の民の絶望は計り知れないものだった。慶は短命の女王が続き、国は荒れ果て民は疲弊していた。そして蓬山に麒麟の卵果が実ったと聞いた時の喜びを民は皆肌で感じていた。そして、漢轍にとって、新しい慶の麒麟は「麒」であることを風の噂で聞いたのが全ての始まりだった。
 女王は駄目だ。いつしかこの国にそんな考えが根付きはじめたのはいつの頃だったか。漢轍は蓬山の方角を仰ぎ見るたび、次の王は自分だ、と目を細めたものだった。
 だが、景麒が生まれてから、麒麟旗が上がる頃合いになっても、待てども待てども麒麟は一向に自分の前に姿を現さない。昇山しようかとも何処かで思ったが、麒麟の方から自分を迎えに来るのを待った。待って、待って、待って…そして成獣した景麒が選んだのが先の予王だった。その話を誰かの口から耳に入れた時、全身を脱力感が襲ったのを、今でも覚えている。そして、景麒が選んだ予王の政の結果―慶から「女」が消えることとなった。天は怒り、景麒は失道し、最終的に予王は退位を申し出て崩御した。

―そら見たことか…やはり女王は駄目だ
―女を追放するというのがどういうことか分かっているのか
―これ以上女王が続けば慶はもたんぞ…

 飛び交う女王への不信は濃くなって慶国に深く根付いていく。だが、予王が崩御した際、漢轍は異様な高揚感に包まれていた。この滅びかけた国を治める番が回ってきた、と。このために、天は敢えて自分より先に無能な女王を先に王に召し上げたのだと漢轍は一人喜びに震えた。民が疲弊しきり、国が荒れ、妖魔が徘徊する地獄絵図の中に現れた、光り輝く神の如き男王。かつての英君、達王の如く、世界の頂点に君臨し続ける恍惚感はいかなるものなのだろうか。
 漢轍は今度は自分から、景麒の元へ赴こうと昇山の準備を始めた。慶国にもはや女は居ないも同然、景王になれるものはもはや男のみだと漢轍はほくそ笑んでいた。だが…

 だが――景麒が次に選んだのは、またしても女王だった。
 蓬莱にまで渡り――女王を選んだ。

 それを知った時…漢轍は怒り狂った。何故、再び無能な女王を、何故すぐに自分の元に来ないのか。漢轍の内部で渦巻き構築されていくのは王座への執着と、女王排除という危険思想だった。
 王に相応しいのは、自分の他いない。漢轍の頭の中を占めているのはそれだけだった。

(長かったが…遂にこの時が来た)

 暁の空、闇の風を切りながら、漢轍は喉奥を震わせる。手入れされていない眉山を持ち上げ、薄目で堯天の、仄明かりを(まぶ)した街並みを見やった。
 街は今、触れ回った王からの勅命で大変な騒ぎになっているだろう。灯りは堯天の街並みの中でも取り分け今から行く目的地に集まって、強く眩しい輝きになっているように見える。
 輝きを目でなぞった時、周囲を騎獣に乗騎して飛んでいた兵卒何人かが声を上げる。釣られるようにして見れば、呪術で一時的に飼い慣らした蟲雕が舞い降りてくる所だった。
 ―自分は‥妖魔をも従わせることが出来る。
 漢轍の口端が上がり、だが、ふとその時違和感を覚え、漢轍は懐を探る。指に触れた黄ばんだ呪術の札を引っ張りだした時、漢轍の顔が見る間に曇った。

(!…)
 見れば、景麒を縛っていた札に歪な亀裂が走り、文字が札の中で砕けていた。漢轍の表情が渋く濁る。
(景麒…しくじったな…)
 札が破損したということは、景麒の角に刻まれた呪の刻印が消されたことを意味している。もう、景麒の身体をこちらの意思に合わせて動かすことは出来ない。景麒は陽子を仕留め損なったのだ と漢轍は口の中で舌打ちした。しかし、脳裏に陽子の顔が浮かぶ中、だが…と漢轍は思う。
(角の刻印を消したところで、まだ、景麒にかけた呪が解けたわけではないぞ…小娘)
 景麒にかけた呪いはまだ生きている。それは…漢轍を打つことでしか解けぬよう幾重にも施された呪いの掛け網とでも言うのか。現に、先ほどまでは影から遁甲することが出来ていた景麒の使令は、今では影に封じ込められたまま、外に出ることも叶わない筈だ。恐らく景麒自身、転変も出来ない。ふう と唇から息を吐き出し、漢轍は明日の方向に目を向ける。
(ならば、小娘を殺しそこねたが、景麒をもう連れてくるか‥)
 視線の先は叩頭式を予定する処刑場の仄明かりだ。愚民の前で、自分が王たる証を見せつけてやろうと漢轍は瞳に淀んだ炎を燃やす。景麒の頭を下げさせる算段は、既に在る。漢轍が掌の中で、景麒から奪い取った物を転がせば、それは僅かな光を吸って、透明な輝きを零した。

 美しい――翡翠の首飾りだった。

 あまりにも柔らかで、透明で、静謐なそれは、正に王が持つべき品格を兼ね備えている。陽子が景麒に贈った宝玉を手に入れて漢轍はほくそ笑む。背後で分厚い翼の音をひびかせる蟲雕に、漢轍は振り返らずに命じた。
「金波宮に居る景麒を連れてこい。出来たら、その側に居る赤い髪の小娘を殺せ」
 命令を聞いた分厚い翼の音が遠のいていく。探し求めていた「珠翼」と思われる宝玉を握りしめて、漢轍は嗤う。

 轟々と風を切る音が増す中で、大きくなっていく眼の前の光の(つぶて)に‥漢轍は薄く目を細めた。

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 暁の空。上空から見れば、慶国堯天の街並みを、幾つもの光の粒が這って動いているのが見える。夜の濃度が一番濃くなるこの時間帯に、その炎の(つぶて)は痛いほどにさんざめいて見えた。ゆっくりとその光に近づいていけば、堯天の町並み、広通(おおどおり)で松明を掲げる人々の波が確認できた。
 堯天では突如、発布された勅命が大変な騒ぎを巻き起こしていた。

  ――堯天に住まう民は、今明朝、慶国堯天最北に在る処刑場に集うべし。麒麟の叩頭式及び初勅を発布する。来られぬものは死罪なり。

 一体、なぜ。即位式はとうに終わり、国鎮めの儀式も郊祀も済ませている筈だ。今更どうしてこんなことを、そう人々は口を揃えて抗議したが、逆らう者は五刑に値するとの達しに、彼らは口を噤むことを余儀なくされた。
 夜が深くなり始めた時間帯に、人の出入りは多くなり始め、そして暗がりで足元を照らす松明の炎の数は、見る間に増え、広途を埋め尽くす。

 寂れた宿屋の薄く開いた窓、僅かに開いた隙間から、虎嘯は路地に向かって目を凝らしていた。

 窓辺に寄りかかる兄に、夕暉が静かに歩み寄った。
「兄さん、お姉さんの姿は見える?」
「いや、見えねぇ…。桓魋も戻ってこねぇ所からして、あいつはまだ金波宮だろう‥。あいつはちゃんと浩瀚に会えたのか…」
 顔を曇らせる虎嘯に、夕暉は唇を噛んで硝子を見つめる。窓に嵌められた硝子は透明なのに、どこか透かす外の景色を濁らせて見せていた。祥瓊、鈴、楽俊も戸口の傍で外に視線を送る一方で、尚隆だけは、卓子に肘を付き、その様子は何やら思案にふけっているようにも見えた。
(お姉さん…)
 夕暉は目を凝らして、濁った景色を見つめる。どこかにあの眩しい紅が見えないか、視線を動かし鮮やかな色彩を探すも、そこには人々が掲げる、松明に灯る鋭い炎の輝きしか見ることが出来なかった。
 強い光の輝きが、闇を一層濃く埋めていく。
夕暉が強く拳を握り締めた時、彼はふと視界の端に、何かが舞い降りる光景を捉えた。しなる騎獣の筋肉の動き、その騎獣を操る、騎乗した人影が、軽やかに手綱を引く姿が一瞬浮かぶ光に照らされる。
 その姿に、夕暉の口から思わず声が漏れる。空中で松明の光を柔らかく受けるその男に、祥瓊達が息を呑んだ。
 三十代位の若さだろうか。少し鷲鼻気味で涼やかな目元、すっきりと整った顔立ちが、闇に眩しい男だった。
 虎嘯が叫ぶ。
「浩瀚!!」
 声が届いたのだろうか。男の顔がこちらに振り向き、その目がすっと細まる。人通りの多い広途を避けて、男は宿屋に繋がる路地裏に滑り込んだ。宿の前に降りたった男はふわりと騎獣から舞い降り、戸口まで駆け寄ってきた虎嘯達と対峙する。
「浩瀚!無事だったか!」
 浩瀚は目を瞬き、ほっと吐息を零す。
「虎嘯‥お前たちもよく無事で…」
 微かに息を切らした浩瀚は虎嘯達を見渡し、その中に陽子の姿がないかを探す。彼の表情に僅かな焦りの色が含まれているのに夕暉はその時気がついた。浩瀚は虎嘯に囁くようにして問いかける。
「主上は…?!」
 その言葉に虎嘯は、浩瀚を見つめ首を横に振る。空気だけが、どこか酸味を帯びていた。
 虎嘯の反応に、浩瀚の瞳が見開き、声が緊張で強ばる。
「まだ、いらしていない…?」
「浩瀚様、陽子とご一緒ではなかったんですか?」
 鈴の問いかけに、浩瀚は白い唇を噛んで顔を上げる。涼しい顔をしている常時とは対照的に、彼は悔しさが滲み出た表情を見せた。
「先程私は主上にお会いした。正気を失くしていた私をお救いくださったのは、主上だ。主上は台輔を救いに向かわれたが、それきり主上とは連絡がつかぬままだ」
「!じゃあ陽子は今、まだ金波宮に…!」
「恐らく…。堯天に降りられていると踏んだが、まだいらしていない…」
「陽子はお前に会いに行ったきり、ここには戻ってきてねぇ」
「そうか…」
 
 声だけが、その場に落ちた。それきりぱたりと言葉は途絶える。

口を噤んだ浩瀚はじっと虎嘯達を見つめる。
 誰も何も言わない、一瞬の沈黙がその場に落ちた。外で揺れていく松明の明かりだけが、虎嘯たちの顔に斑の光を落としていく。
 冷たく、緊迫した静かな一瞬だった。
だが、次の瞬間、予想もしなかった浩瀚の行動に、祥瓊達が息を呑む音がその場に響く。
「浩瀚様…!」
浩瀚は一言も言葉を発しなかった。ただ彼は…


 浩瀚は…彼らに向かって頭を下げた。
 深く深く、頭を下げた。


 戸惑いを隠せない鈴が、思わず周囲を見渡す。浩瀚は顔を上げ、じっと真摯に彼女達を見つめる。浩瀚の整った形の唇が歪む。普段の怜悧な彼が滅多に見せることのない、浩瀚の一面を、祥瓊達は見た。
「申し訳ない…。お前たちには多大な迷惑をかけた。謝って許されるものではないかもしれないが、どうか謝罪をさせて欲しい…」
「そんな…今回の事に、浩瀚様に非はありません」
 呟いた声に、彼は僅かに俯いたまま、目を閉じる。
「いや…結果的に主上を窮地に追い込んでしまった一端は私に有る。主上をお守りせねばならぬ立場だというのに、自身が情けない」
「浩瀚‥」
 視線を地面に落としていた浩瀚はふっと顔を上げ、踵を返した。浩瀚の纏っていた絹の裾が地面を掻く音が柔らかく響き、微かな衣擦れの摩擦が砂粒を散らす。
「!お、おい!浩瀚!」
「浩瀚様!」
 驚いて虎嘯は浩瀚の腕を掴んだ。離せ と叫ぶ浩瀚は、鋭い視線で、虎嘯を振り返った。
「私は、金波宮に戻る。主上の御身の安全を確かめる」
「待て!お前が行ってどうするんだ!」
「そうだ、待て浩瀚」
 浩瀚の腕を掴む虎嘯の後ろから、尚隆が静かに足を踏み出した。延王、尚隆の顔を見た浩瀚の顔に驚きが走る。
「!延王君…」
 尚隆は浩瀚を見つめたまま、黒く艶やかな髪を肩に落とす。その黒眸が意味ありげに細まり、周囲にいる虎嘯達も見渡す。浩瀚に向かって尚隆は唇を開いた。
「お前は今こちら側に必要な人間だ。陽子の元には虎嘯を行かせた方が得策だろう。桓魋も陽子の元へ向かっている筈だ。虎嘯、お前は金波宮に向かえ。桓魋と共に陽子を守れ」
「御意」
 虎嘯は踵を返し、風を切ってその場から駆けていった。騎獣が飛び立つ様子を確認した尚隆は浩瀚達に向き直る。
「俺たちは…」
 言葉を紡ぎかけたその時、尚隆は空に金色の光を見る。眉根を僅かに寄せた尚隆を見た浩瀚達も振り返り、空に目を凝らす。徐々に朧げな点から膨らんでくる輪郭に、祥瓊が あ と声を漏らした。本当に小さな、光で目が眩んだ一般人では確認できないほどの、金の輝きが空に光る。白い体躯、空駆ける軌跡、流れる風に揉まれて翻る鬣を持つ獣に、楽俊が呟く。
「あ、あれは…」
 獣は人目につかぬよう廃屋の影に舞い降りる。そして一瞬後には、その獣が舞い降りた物陰から、髪を布で巻きつけた一人の少年が、こちらに向かって駆けてくる。猛烈な勢い且つ鬼のような形相をして駆けてくる少年に、尚隆は思わずぽかんと口を開けた。
「六太…」
 六太は音を立ててその場に転がり込む。そして転がり込むやいなや、開口する祥瓊達の目の前で、清々しいほど音を響かせて、六太は尚隆の頭を(はた)いた。
「阿呆か!!おっさん!!いいようにしてやられてるんじゃねぇよ!!」
「六太!お前仮にも主に向かってなんてことを…」
「やかましい!お前がコロッとやられて陽子に斬りかかったのを俺は知ってんだからな!」
 小さな鼻の穴を膨らませ、盛大に鼻息を吐き出す六太に、尚隆はため息をつく。
「なぜ、ここまで来た。慶国には入るな、と俺は再三言わなかったか?」
「言ったな。でも、お前は『俺が動けるまでこの国に入るな』って俺に諭した」
 六太は顎を上げ、したり顔で尚隆を見る。頭の後ろで腕を組み、片足に重心を預け、もう片方をぷらぷらと空中で遊ばせながら、六太は片方の口角を持ち上げる。角度のついた瞳が、不可思議な輝きを放ち、尚隆を見つめた。
「だったら俺は約束を破っていない。今はもう、陽子のおかげで、お前は思うとおりに動けるんじゃねぇのか?『誰』を叩くべきなのかはもう顕然だ。奴はもう次の伏線を張って動いてる。それに…」
 そこまで言葉を放った際、六太の深い紫の双眸が一瞬翳る。楽俊が不安げに眉根を寄せ、祥瓊と鈴は二人体を寄せて、じっと延麒を見つめる。浩瀚は目を閉じてその話に耳を傾け、夕暉は暗闇の中、沈黙が包むその場を瞳に光を浮かせて静観していた。尚隆は六太に視線を送りながら、首筋に零れた髪の筋を振り払い、首を傾ける。
「それに?」
 口元に僅かに力が籠り、六太は真摯に尚隆に言った。
「それに…あいつは景麒を無理にでも自分に叩頭させる気だ。なんとか…なんとか助けてやってくれ」
「延台輔…」
お前には算段があるんだろう と言う延麒を尚隆は見つめる。
 誰も動く者はいない。
沈黙の中、しばらく無言でその場に佇んでいた尚隆だが、やがて大きく息を一つ吐き出した。
「慶国も面倒な輩を生み出したな…。今回の鍵は陽子だ。隣国のよしみだ、延として景をできるだけ補佐しよう…。この国を治められるのは陽子しかおらん。俺たちはまずは…」
 鋭く、強い光を灯した黒眸が、浩瀚を、鈴を、祥瓊を、夕暉を、楽俊を映し出す。尚隆は松明を持つ人々が向かう先の、遥か彼方を睨んだ。

「逆賊を叩くぞ」



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