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「は…あ‥はぁ‥」
 金波宮、陽子と景麒が見合う禁軍の訓練場より、少し離れた中庭を歩く一人の人影がいた。
 いや‥これは歩いているというより、なんとか立って、身体を引きずっていると表した方がよいのか。歩く身体の線はよれ、不自然に右肩が下がっている。酷い、怪我を負っているのは誰の目で見ても明らかだった。
 呼吸さえもまともに出来ない人影は胸を押さえてがくりと地面に膝をつく。身体を柱にもたせかけながら、その人物は朝の臭いがまじり始めた淡青色の薄闇を振り仰ぐ。結び目がほどけ、崩れた黒髪が幾筋もの線を男の顔に落とした。空に残る月明かりが、人影の顔を照らしだす。

 冷たい女顔をした―一人の黒髪の男の相貌を。

 漢轍に逆らい、妖魔に瀕死の重傷を負わされた楓椿の双眸は、薄い光を湛えていた。
 楓椿は眉根を寄せ、ぐったりと柱に背中を預ける。何もかもが静かな中で、その時楓椿の方に向かって来る気配を、彼は感覚で感じていた。彼目がけて歩んでくる‥人の気配を。そして、今、敵に襲われたら自分の命は無いことは楓椿には十分過ぎるほど分かっていることだった。
(くそ‥私も‥運が無いな…)
 酷い痛みが疼き、楓椿は眉をしかめる。目を閉じ額に浮いた脂汗が低い気温に冷やされるのを感じながら、楓椿は小さく息をつく。重い甲冑の擦れ合う金属音を、その時楓椿は聞いた。
(兵卒達か…?)
 だが、ゆっくりと大股で歩いてくる、足音の数は一人分だけだった。
楓椿は薄目を開け、輪郭を濃くしながら近づくその人影を見つめる。それが誰だか分かった楓椿の目が一瞬大きく開き、そして口元が乾いた笑いを零す。
 重く固い甲冑の線、巨大な長槍、すこし癖のある、こちらを見つめる双眸。
 彼のよく見知った、男だった。

「死んでいなかったか…桓魋」
 楓椿は嗤う。
 呼んだ声とともに、一人の武人が影から滑り出て、その相貌を月影に晒した。
 鈍い光を弾く甲冑が揺れ、それとともに男の双眸も揺れる。気だるく吹いた風が桓魋の零れた前髪を撫でる。
 桓魋は何も表情を顔に出さず、じっと楓椿を見つめていた。
 残念だ と楓椿は吐き捨てるように言って、口元に嘲笑を浮かせた。
「まさか、人生最後に対峙することになるのがお前だなんてな…。殺したくて仕方がなかった男を、最後に見るはめになるとは…。よく主に殺されなかったな、そうなるよう仕組んだ筈だったのに…」

 桓魋は何も言わない。ただ、その場に佇立したまま、じっと楓椿を見据える。

 葉音と虫の音が混ざり合い、光のさす夜の世界を音で彩る。誰も何も言わない中、風だけが低く、二人の間を駆け抜けた。
 鎧で身体を覆い、しゃんと背筋を伸ばして立つ武人と、砕けた鎧を散乱させ、柱に寄りかかって身体を崩す一人の武人。同じ色の瞳が、空中でぶつかる。
 無言だった桓魋は彼を見据えたまま、一言だけ言葉を発した。だがそれは…楓椿の予想もしない――
一言だった。

「礼を言う」

 楓椿の顔に、一瞬唖然とした色が走った。楓椿の目が見開く中、桓魋の真摯な瞳だけがその場から揺らぐこと無く彼を見つめる。桓魋の唇が動く。

「先程、お前は…主上を救ってくれた」

 楓椿は唖然と桓魋を見つめていたが、視線が険を帯び始める。薄ら笑いを浮かべていた表情を翳りが緩やかに覆っていく。無表情の中、深い影を顔に落としながら、楓椿は静かに囁いた。
「お前…見てたのか…?」
 桓魋はその問いに答えなかった。だがその降り落ちる沈黙が、楓椿の問いに対する答えをありありと示している。桓魋は顎を引いて楓椿を見据えた。
 先程、景麒の弓矢が陽子に当たろうとしていた時、陽子を追っていた桓魋はあの場に辿り着いた。その時、目を見開く桓魋は腕を伸ばしたが、陽子に届くはずもない。絶望的な時間の中で桓魋が見たものは、空中に飛び出し、陽子を弓の軌道から抱きかかえて外した楓椿の姿だった。流れるように、幻のように陽子だけを助けて、ふらふらとその場から逃げるよう姿を消した彼の姿を、桓魋は見ていた。
 楓椿は無表情のまま口を開く。
「あのお方は‥気がついてはいないだろうな…」
 その問いに、桓魋が口を一文字に結んだまま、一つ頷いて見せた。

 先程疑問に思った空中で起こった事実も、その瞬間楓椿が息絶えそうになっていることも、今の陽子は知らない。
 空中で誰かに助けられたと感じた陽子の感覚が間違っていなかったことも、彩度をなくした夜の世界、実は地面に陽子と景麒以外の人間が落とした、鮮やかな赤い染みが地面に描かれていることも、陽子は――知らない。


「命を投げ売ってまで、お前は主上を救った。何故、本当のことを、お前はあの人に言わない…
 桓魋は楓椿に問いかける。一瞬楓椿の動きが止まるが、楓椿はすぐさま、背筋の凍るような冷笑を浮かべて桓魋を見やった。そんな事私の勝手だろう と楓椿は地面に向かって吐き捨てた。深い闇の中、楓椿は薄ら笑いを濃くし、残忍さを纏わせた声を投げつける。
「私は、欲しい物は必ず手に入れる主義でね‥。そのために死なれてしまわれては困るんだよ。あの方を手に入れるために私は…」
 言葉を並べていたその時、楓椿の声を遮って、桓魋の声が残酷なほど刻銘に響いた。

「本当に、そうなのか?」

 楓椿の表情が固まり、その顔から思わず毒気が消える。ゆったりと空気が湿り気を含んで流れ始めた。 
 ざわざわと擦れ合う葉の音と、楓椿の心情が重なって、消えていく。
 桓魋は驚きで声を失くした楓椿を見据えたまま、ゆっくりと噛んで含めるように、同じ質問を繰り返した。
「本当に…そう思っているのか?」
 楓椿は何も言わない。誰も何も言わないその空間で、桓魋の声だけがはっきりと響いていた。少しだけ、彼は首を傾げてみせた。
 
「お前が望んでいたことは‥本当はもっと、お前が口に出していることよりも…ささやかなことだったんじゃないのか…?」

 木の葉のざわめきが、桓魋の声を攫っていく。楓椿は呆然と、作った薄ら笑いを顔に張ることを忘れたまま、じっと彼を見つめていた。それは毒気を抜かれた、仮面を剥がされた素の彼の顔とでも言うのか。
 唇を開いた楓椿は、身体に走った痛みに顔を歪め、口元に傾斜を創ってみせる。
「何だと…?お前に私の何が…」
 抗議の言葉を言いかけて、楓椿ははたと口を噤む。そして、何か言いたげな憂いを帯びた視線で、桓魋を上から下まで見つめ、小さな声を漏らした。
 くつくつと楓椿は喉の奥から音を漏らす。
「いや…分かるか…お前なら」
 楓椿は痛みの中、顔を挙げて視線だけを強くする。黒くなめらかな瞳の表面に桓魋を映して、楓椿は顎を引き目を細めた。
「お前も…私と同じ立場だからな…」
 桓魋は顎を上げ、楓椿を見下ろす。
「‥どういう意味だ」
 その問いに、楓椿は哀れなものを見るように桓魋を見た。
「本当は、分かっている筈だ。私と同じ、決して報われない‥立場」
 表情を顔に出さない桓魋とは対照的に、痛みに喘ぎながらも楓椿は懸命に口元に円弧を描いてみせた。全ての音が乾いて、その場から消えていく。

 お前だって… と言う楓椿の言葉だけが‥刻銘に浮かぶ。


「あのお方、陽子様を…愛している」


 木霊を残して、声が消えた。
桓魋の瞳は僅かな乱れも見せず、ただ楓椿をじっと見据える。楓椿は視線を受けながら、くつくつと喉からこみ上げる薄ら笑いを漏らす。佇立したまま、桓魋は動かない。吹き過ぎる冷たい風だけが、踊る。
 そうだろう、と楓椿は嗤う。その点はお前だって同じだ。報われない立場のにがさも苦しさも。ただの忠臣なんて、そんな綺麗なだけのところにはいさせない。
 桓魋の持つ、闇を弾く長槍だけが、澄んだ月明かりをのんで柔らかな光彩を放っていた。桓魋の目元が少しだけ動き、口元に力が籠もる。
「何故…」
 ふっと息を吐いて、楓椿は空を振り仰ぐ。唇から笑いが零れたが、それは今までのような嫌味な色は欠片も見えなかった。本当に疲れたような、共感するような、もう一人の自分を前にしたような‥そんな掠れてよれた笑いだった。
「…気づかないわけが無いだろう…?」

 記憶を失くしていても、桓魋が心の奥底で陽子のことを想っていることを、楓椿はどこかで気づいていた。

 楓椿が初めて陽子を目にして戻ってきた時に見た桓魋の目、それは自分と同じ何かを持つ者の目だったことを、今でも楓椿ははっきりと覚えている。
 忘れた筈の紅ばかりを目に追う桓魋の姿、少しでも赤みを帯びた髪の女官を見る度、彼が切ないようなたまらない表情で、じっと何かに耐えているのを、楓椿は見ていた。
 ――同じだ、と楓椿は思った。
 それは自分と同じように、たまらなく何かに焦がれている者の瞳。強く不思議な光を湛えて、大切な何かを慈しむ、不安を湛えて―熱を(はら)んだ瞳。桓魋を見るたび、楓椿は自分の中に苛々(いらいら)とした感情が蓄積するのを、抑えることが出来なかった。
 それが何故か‥。答えはとうに分かりきっている。楓椿の顔に痛みと苦しみが混ざりあい、歪に力が籠もる。
「私はお前が嫌いだ。…大嫌いだ」
 毒々しさを含んだ声が、その場に落ちた。
強く優しく、飄々と明るい。禁軍の頭としての力量を兼ね備えているのに、決して出張らない桓魋のことが楓椿は大嫌いだった。
 何か一つ共通する同じものを持った人間達が並ぶだけで、両者の違いが浮き彫りになる。
 桓魋を見るたび、自分が途方もないくらい汚い生き物に思える。そのたび、自身への侮蔑が楓椿を()いて惨めに(しぼ)ませる。彼を見ているだけで憎しみが吹き出る。
 

 楓椿にとって、桓魋は眩しすぎた。
 憎くて、苦しくて、腸が煮えくり返るくらいに腹が立つ、大嫌いな―――憧れだった。


 楓椿は力なく目を閉じる。
  桓魋と楓椿は全く同じ、決して報われない、立場だ。桓魋と楓椿は同じだけれど、同時に両者は途方もなく違っていた。どこまでも、自分は桓魋に勝てないのだと、思い知らされる。
 心のどこかで吹き出した何かに押され、唐突に楓椿は、苛立ちを押し込めた視線で桓魋を睨みつける。吹き出した感情に押され、気がつけば楓椿は桓魋に向かって吐き捨てるよう言葉を零していた。
「何故、今、私の目の前に現れた…」
 身体を灼く、何かに耐えるよう、楓椿は唇を噛みしめる。それは瀕死の重傷を負った身体からくるものなのか、桓魋を見ていることで吹き出してくる憎しみと苛立ちと羨ましさの感情からくるものなのか、はたまたその両方か、楓椿には分からなかった。

 楓椿はぼんやりと自分の人生を思う。

 七つの時に、父母を亡くした。幼い妹がいたが、その妹も親を亡くし里家に引き取られてしまって以来、一度も会いに行くことさえ叶っていない。もう今更、会えるような立場にないことくらい、楓椿は十分理解している。だが、それでも とこうして楓椿は時折思う。自分だって生きるために必死だったのだ。身よりもない、味方なんて誰ひとりとしていない。今日の飯にありつけるのならなんだってした。金を稼ぐために、どんな役も演じた。だが、その一方で、いつか妹を引き取ろうと、生活を擦り切らせながら小金を貯めていたのだ。僅かな金を狙われて、一度殺されかけた時に、誤って相手を殺してしまったことが、全ての始まりだったのかもしれない。
 
 漢轍は、楓椿を何者だと問うた。これまで何人も、漢轍と一言一句違わぬ問を、楓椿に投げかけてきた。だが本当にその答えを知りたかったのは楓椿自身だった、なんて一体誰に言えるだろう。もう今では自分が何者なのかも、彼には分からなかった。
 こんな風によじれてしまう前に桓魋に、陽子に会えていたのならば自分の人生は変わっていたのだろうか。誰も頼れる者が居ない中で、殺戮者となり、狂気の仮面を纏って、道化師の振りをしなくても、良かったのか。 自分の心を読ませず守るために使った手法はいつしか彼の一部として染み付いてしまっていた。
 楓椿の顔がゆがむ。
 狂気を演じる楓椿にとって、桓魋は自分とはある意味正反対の陽子を守る憎い男、だけど楓椿は本当は…


 桓魋のように‥なりたかった。
 ―なれなかった。


「お前と私は同じだ。だけど同じものを持ちながら私達は決定的に違う。お前は、守るばかりだ…。何があっても、決してあのお方が傷つかぬよう、何が何でも守る。どれほど自分が傷ついても‥守る。報われないと知りながら、お前はあのお方の幸せを…自分が抉られても守り通す。バカみたいにな…」
 自分は奪うことしかできなかった。目の前に佇む桓魋と、今の自分があまりにかけ離れていることに、楓椿は嗤う。桓魋の表情が微かに動いた。命を奪う傷口が彼を蝕んで、力を毟りとっていくのを楓椿はぼんやりと感じた。少しずつ遠のき始めた意識の中で、疲れきって重い瞼が視界の中に落ちてくる。何もかもが薄暗い。
「お前は…」
 何かを言いかけて、桓魋は口をつぐむ。ゲホゲホと楓椿が咳き込む中、桓魋は苦い笑みを浮かべた。
「俺はお前が思っているような人間じゃない。遠甫老師の様な聖人君主でもなければ、浩瀚様のようにずば抜けた頭も持ってない。家事だって何も出来ないし、虎嘯にはいつも助けて貰ってばかりだ。それに…」
「それに…?」
 ふっと桓魋は下げていた顔を上げる。楓椿の目線まで、桓魋は膝を折って屈んだ。口を噤んだその顔には悔しさが滲みでている。
「俺は――――」
 その瞬間、風が吹きすぎる。
 言葉の続きを聞いて、楓椿の瞳がかすかに見開く。楓椿は無言で桓魋を見つめ。彼は悔しそうに顔を歪めながら、楓椿を見て少しだけ笑った。
 桓魋の先の言葉に対して、彼は何も言わなかった。口を噤んでいた楓椿は小さく口を開く。
「早くあのお方の元に戻るがいい…。私はここまでだ…。まだ、何も終わっていない。漢轍は、処刑場で民人の手前、叩頭式とかいう…下らない‥代物をやる気だ」
「何?何故そんなことを‥?台輔は主上以外には頭を下げることなんて…」
「あぁ…馬鹿馬鹿しいだろう。だが、あいつは本気だ。何を企んでいるのか知らんが‥な。今はまだこちらの手にあるが慶の麒麟が‥危ないぞ。あいつは必ず‥景‥麒を奪う」
 気をつけろ と楓椿は視線を鋭くする。
「あのお方だけは…必ず守れ。お前がそう思うのなら、尚更。景麒も…だ。あの二人に何かあったらこの国は…終わるぞ。もし何かあったら…」
 楓椿は苦しそうに、桓魋の耳元に何かを囁く。最後は途切れ途切れになりながら、楓椿はなんとか首を振る。桓魋はじっとその言葉に耳を傾け、静かに一つ頷いて見せた。
「分かった」
 ほっと楓椿は顔を緩める。
 桓魋は立ち上がり、陽子達が居る場所に顔を向ける。楓椿に背を向け、彼は走りだした。小さくなっていくその背を見ながら、楓椿は目を閉じようとする。
 だが、そうしようとした時、あぁ と声を上げ、桓魋が楓椿を振り返った。不思議そうな顔をする楓椿とは反対にその顔には穏やかな笑顔が浮かんでいた。
「‥?何だ」
 桓魋は思い出したように笑い、楓椿が見る中、優しい声で遠くから言葉を投げる。言い忘れていたことがあった と声が響いた。
「お前は奪うことしかしなかったと言ったな。確かに楽俊を斬ったことは取り返しがつかない。謝る権利も、ないだろう」
けど俺は‥と桓魋は続ける。

「今回はお前のほうが俺なんかよりも立派だったと思うんだけどな」

 声は柔らかく、その場に響いた。桓魋はふっと笑って、向きを変えてそれきり振り返らず、その場から駆けていった。残されたのは、その場に倒れる楓椿一人だ。
 桓魋は自分の人生を蔑み、命を終えようとしていた楓椿が彼の言葉を聞いた途端、どんな表情をしたのか、見ることは無かった。


 その時――
最後の最後、彼が、雷に打たれたような顔をしていたのに、背を向けた桓魋が…気が付くことはなかった。



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