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 夜明けに向けて、ゆっくりと夜空の上部から滑り落ちた月が、空の下部にぶら下がっていた。湧出る泉の音に起こされるよう、陽子はゆるりと重い瞼を開く。低くなった月の位置を見て、どれだけ自分は意識を無くしていたんだろう、と陽子は呻く。身体を起こそうとするが、回復が追いついていないのか、節々から走る痛みに、陽子は顔を顰めた。
「う…」
 身体は未だ重く、言うことを聞かない。なんとか体幹を捩って、持ち上げた上半身を幹に凭せかける。それ以上体を動かすことは、どうあがいても今のところ望むことが出来なかった。陽子は吐息をつく。
 動きを止めてしまえば、そこはあまりにも静か過ぎる空間だった。
 熱かった陽子の頭が冷やされていく。記憶を奪われた自身、御璽を渡した玉葉のほっとしたような笑顔、蒼い燐光、語りかける楽俊の顔、陽子を好きだと叫んだ虎嘯達の声、自分を呼び続ける必死の形相の景麒が――浮かんでは消えていく。とにかく喉が塩辛かった。俯いたまま、つま先を土に埋める。
 噛み締めるように空を振り仰いだ時‥ある事実に気がついた。
暫く無言で、樹の幹に寄りかかったまま水面を見つめていた陽子はやがて目を閉じ、小さく自嘲の笑みを零した。何を思ったのか陽子は自身に向かって、囁く。
「冗祐…居るんだろう…?」
 身体の中で何かが揺れた感触がした。うっすらと目を開け、陽子は口元を歪めた。
「居るんだろう、冗祐。私が記憶を無くしていた時から…私の中に」
 ふっと身体を何かが駆ける感触がして、どこからともなく声がした。
「はい」
 陽子は目を閉じ、深く幹に凭れ掛かる。
「今まで気配を消していたのは‥景麒の主命か」
 一瞬沈黙が訪れる。表情を消した陽子の中で再び声がした。
「はい」
 冗祐の声が静かに響き渡る。
「主上がお気づきになられるまで、存在を隠して主上にお付きするよう、御命をお守りするよう、申し付けられました」
 そうか…と陽子は呟いた。俯いた陽子の中をある記憶が駆けていく。それは班渠と対峙した瞬間の記憶だ。あの時に掌に走った感触を思い出すように、陽子は拳を開け閉めした。冗祐 と短く陽子は囁く。
「お前、班渠が私の元に来た時のことを覚えているか」
「はい」
「お前は私が自分の意思で剣を振るうより先に、私に剣を握らせた」
「はい」
 その時 と言いかけ陽子は一瞬口を噤む。瞳の中の翡翠の珠だけを動かし、中に居る冗祐に視線を向ける。その目を陽子は―細めた。泉の音さえも消え去ったその時、陽子の唇が動いた。静寂だけが陽子の声を濃く浮かせた。

「お前…班渠を殺すつもりだったな…」

 完全な無音が、陽子を包んだ。冗祐は何も答えないまま、静かに陽子の中で身を潜める。永遠とも思えるほどの短い時間が過ぎ去って、冗祐が口を開いた。

「それも‥主命で御座います」

 陽子の目が震えながら見開く。冗祐の脳裏に、主命を下された瞬間が過ぎっていく。
「あれは‥丁度、主上と台輔が喧騒をなされた直後の事でした」
 風が吹き抜ける中、冗祐が静かに――「その時」のことを語り始めた。

 

 日が傾き始めた金波宮の回廊。金色を溶かしこんだ夕日が、柱を擦り抜け、上空から斜めに差し込んでいた。日差しを浴びた柱は濃く影絵の様に浮かび上がり、地面にも同じよう太い影を落としている。光と影が交互に織り交ざったその回廊を景麒は無言のまま歩いていた。歩くたびに交差する、明るさと暗さ。 光に弾かれ、闇に溶ける景麒の横顔は、どこまでも端整で無表情だ。けれど、彼の後ろ姿はどことなく哀しそうに見えた。
「台輔――台輔」
 声が響き渡る。景麒はゆるりと足を止めた。止めた場所は回廊の中でもちょうど光に濡れる部分だった。
「…何だ」
 夕日の濃さで、白金が金色の輝きを強くする。光が景麒の姿を美しく浮かび上がらせるが、それはかえって彼の顔に濃く影を落とすことになった。柱の影の闇にいるよりも、ずっとずっと深い翳りを景麒の表情の中で浮き彫りにする。姿も何も無い影から、低い、班渠の声が響いた。
「主上と話をなさらなくて‥よろしいので?」
 景麒の表情は動かない。その顔には質問される前と全く同じ場所に、同じ濃度の光と影が落ちていた。何もかもが動かない中で、白い唇だけが言葉を形作る。
「…よい」
 班渠は何も言わなかった。景麒の表情は少しも動かない。光の中の主人の顔の表面はそれ以上何も語りはしなかったが、その目の奥深くから流れる感情を、冗祐は見た気がした。
 景麒が独りで抱えている 主人を、王を傷つけた悲しみ、自身への怒り、拭い用もない後悔を冗祐は影の中から見た。

 決して、言ってはならぬ言葉だったのだ。景麒はそれを言ってから、自分の口を離れて、陽子を突き刺した後に気がついた。言葉は時として人を癒し、励まし、包み、温め…決定的に突き刺し、打ちのめす。気付くのが――遅すぎた。

 声がぱったりと止んで、景麒は項垂れて歩き出す。
響く足音は軽くてどこか寂しかった。陽子が落とした翡翠の首飾りを握って、景麒はうつむく。
 普段のこの時間帯ならば、下仕えの者達がせわしく動きまわっているはずなのに、誰もいないことに、目の前の浩瀚の自室から、普段聞こえる柔らかい紙の擦れる音が聞こえてこないことに…景麒はその時気が付かなかった。今になって思えば、その時既に―事件は始まっていたのに。
 甘く仄かな香りがたゆとうその時、景麒の頭の中を占めているのは陽子のことだけだった。
 萎れた景麒の背中を、その時冗祐は存在しない眉を潜めて見つめていた。徐々に徐々に音を無くしていく周囲の景色。光の濃度だけが濃くなって、景麒の目の前を霞ませていく。
 
 日差しが流れるのと、景麒の身体を何かが駆けたのは同時だった。

「台輔?」
 景麒の濃く澄んだ紫陽花色の瞳が大きく見開かれる。
芥瑚の声が響くよりも前に、景麒は疾風の如く駈け出した。面食らった使令達が遁甲したまま、主人の後を追う。どうしたのか、と冗祐が疑問に思うよりも先に、景麒は凄まじい速度で今まで来た道を戻り始めた。
(台輔…?!)
 見上げる景麒の顔は、冗祐が今まで見たことが無いくらいに強ばって見えた。遁甲して、景麒の後を追いながら冗祐は、景麒が王の私室に向かっていることに気がつく。使令達が景麒に呼びかけても、景麒の耳には何一つとして届いていなかった。景麒は常人では追いつけない程の速度で駆け抜けていったのだ。冗祐の記憶に残っているのは白金を靡かせる主の後ろ姿だけだ。

(今になって思えば…)

 冗祐の思い描く記憶の回想が消えていく白金と共に、其処で一瞬薄れる。陽子に経緯を話しながら、冗祐は自分の声が呟くのを聞いた。

(きっとあの時…異変に気がついたのは台輔だけだった)
 陽子が記憶を取り戻した今、冗祐は陽子の中で、その瞬間の景麒の顔を思い出して、視線を落とす。
その時、冗祐は知らなかったのだ。

 景麒だけがいつも感じていた温かな王気がその瞬間―揺らいだことを。そしてその時には既に―陽子はこの金波宮から‥姿を消していたことを。

 思い出す内に、冗祐の脳裏に景麒が私室に辿り着いた時のことが浮かんでくる。
景麒は扉をぶつかるようにして開け放った。
「主上!!!」 
 飛び込んだ景麒、だが、そこで振り向いたのは陽子では無かった。見知らぬ髭面の男が振り返り、品定めをするように景麒を目に入れ、満面の笑みを浮かべた。
「お前が…景麒か…」
「…?!お前は…?!主上はどこにおられる!!!」
 景麒は必死に視線を走らせ、陽子の姿を探す。割れて砕けた硝子が目に入り、景麒は絶句する。男は質問には答えぬまま、ゆるりと景麒に歩み寄った。
「中々見目の良い男だ…。慶国の麒麟…麒麟はやはり美しい生き物だな。王の側に(はべ)るのに相応(ふさわ)しい姿だ」
 漢轍はくつくつと笑いながら景麒の周りを一周するが、景麒は目を見開き、言葉を失くしたまま、割れた硝子と硝子片だけを見ていた。ゆるりと漢轍を振り返り、震える声で景麒は言葉を絞り出す。
「主上に…何をした…」
「?何だと?」
「主上に何をしたと聞いている!!逆賊!!」
 景麒は鬼のように叫ぶ。だが同時に景麒の身体を衝撃が襲った。気がついた時には、吹き飛ばされた景麒は壁に身体を打ち付け、崩折れる様に咳を零した。怒った使令達が影から飛び出すが、それよりも先に漢轍が何かの呪符を景麒の額に押し当てる。
 瞬間、身体から…力が抜けるのを景麒は感じた。使令達の顔が歪み、景麒の影へと溶けて消えていく。見上げた漢轍の顔には角度がつき、冷酷な暗さが落ちていた。薄ら笑いを剥がした、漢轍は景麒を見下ろす。
「何故、再び女王を選んだ…景麒。何故私の元に来なかった…。時代は今こそ変わる時なのだ。愚とした女王などではなく、勇ましく賢なる男王の時代が再び来る。お前は王を選びなおす時が来たのだ」
「…?!!」
 景麒の顔に衝撃が流れこむ。漢轍は顔に落ちた闇の深さを変えぬまま、口元を歪に曲げてみせた。
「お前の二度目の主は私だ…。何もかもを無かったことに…あの小娘の存在を、お前の中から消してやる。お前の『主上』は…私だ」
「な…?!」
 言葉を失う景麒をよそに、漢轍は視線を自身の懐へと落として何かをまさぐる。だが、その時視線を逸した漢轍の指が押さえつける呪符が僅かにずれる。呪符の効力が弱まるのを感じた景麒は、その瞬間咄嗟に、漢轍に聞こえぬ声で影に語りかけた。
「冗祐…いるか」
 影から景麒の耳元に声が囁く。
「ここに」
「主上の元にお付きしろ、遁甲して、主上に憑依して、手足となって御身を守れ。主上に問われるまで無きものとして振舞え」
「御意」
 景麒は漢轍に視線を走らせる。漢轍は満足気な顔で、懐から別の呪符を取り出したところだった。先程よりも更に小さい、けれど其処から発せられる禍々しさを景麒は感じ、寒気が彼の背を駆け抜ける。
 景麒は尚も押し殺した声で続ける。
「何が起こっても、主上の御身を優先するように。何があっても、だ」
 漢轍の手がゆっくりと景麒目がけて迫ってくる。景麒の瞳に漢轍の手の影が落ちても、景麒は尚も言葉を止めない。冗祐は身をひそめ、無言で是の意を示す。
「主上を危険にさらすもの…全てを薙ぎ払え。それがどれだけ親しいものであっても、主上の御命が危なければ…斬れ。どれだけ主上に近い者でも、どれだけお前に近い者でも、迷うな。必要であれば、たとえそれが‥私や私の使令だったとしても…」
 言葉が最後まで続くまえに、景麒は白い顎を漢轍に掴まれ上向かされる。徐々に白く消えて行くその景色、冗祐の記憶の中から景麒と漢轍の姿が消えて行く。その時、冗祐が息を呑む中、目の前に大きく広がっていく呪符を見る景麒は最後の一言を…言い放った。

「斬れ」

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 樹の葉がざわめいて、陽子の頭上を通り過ぎていく。時だけが過ぎ去っていく中、陽子は何も言えずに、その場で固まっていた。項垂れる様にして、益々陽子は頭を垂れる。眉根を寄せて、陽子は苦しげに呻いた。
「景麒が…そう、言ったのか…?本当に…?」
「はい」
 陽子は息を吐いて膝に頭を埋める。赤の髪が一房首筋に垂れ、滑り落ちた。
「そう…か」
 瞳には憂いが滲んでいた。それを押し流すように、陽子は強く目を閉じる。記憶の端に滲む、最後に出会った景麒が首から掛けていた翡翠の首飾りが、思い出すだけで陽子の胸に刺さった。ふっと陽子は苦い笑みをはく。
 その時、喧嘩をしたあの時と、柔らかい薄桃色の花びらが散る光景が陽子の脳裏に静かに浮かんだ。 
 心の中で、ひとつの約束が、鳴り響く。

「ほんとはね…景麒に上げたあの首飾りには…私達だけの意味があるんだよ…」
「意味…とは」
 陽子はふっとはにかんだ。
「内緒だ」
「内緒…ですか」
 陽子は笑う。だけど、少しだけ表情を翳らせてまた口を開く。
「春になる前のまだ寒いこの時期に、咲く花の木があるのを‥お前は知っている?」
 いえ と答える冗祐に、陽子は心なしか哀しそうに空を振り仰ぐ。その時、かつて景麒と訪れた場所が鮮明に陽子の記憶に描き出された。そこから連想するように、翡翠の首飾りと、薄紅の衣を纏った大きな大木、金色の景麒の鬣が脳裏を過ぎり、陽子は目を細める。淡々と噛みしめるように、陽子は話す。
「その木がまるで、日本に居た頃に並ぶ桜の木にそっくりなんだ。何もかもが違う筈なのに‥何もかもが似てて、私はその木が苦手で…大切だった。名前も知らない、ひょっとしたら誰も名前さえつけていないその木が」
「それは…初耳です」
「ふふ…やっぱりそうか。そんなの、変な話かもしれないけれど、その木の固かった蕾が膨らんで、花開いた場所に居た時、私は故郷に帰った気持ちになるんだ‥でも、本当は全く違うもの。美しさ、懐かしさ、帰郷感に呑まれた時に、本当はこの樹は桜じゃない…全く別のものだってことが耐えられないくらい辛いことに思える。だから、辛くて苦手だ。でも…同時に私はその木が、好きだ。まだ、故郷を思い出させてくれる‥あの木が」
 冗祐は何も言わずに、話を聞いていた。陽子は小さく笑って、言葉を続けた。
「一年前…丁度この時期に‥私と景麒、二人だけでその木が根付く場所まで、行ったんだ」
 口に出したとたん、脳裏に描かれる鮮やかな景色に陽子は微笑んだ。
 薄紅の花びらが舞い散る中、使令も付けず、本当に二人きりで景麒と陽子はその場所に訪れた。その時、今と同じ事を、陽子は景麒に言ったのだ。黙って聞いていた景麒、だが全て聞き終えた景麒が零した言葉が陽子は未だに忘れられない。景麒はじっと陽子の瞳を見つめながら、こう言ったのだ。


『私は…翡翠の玉を見る度に、主上と同じような心地が致します』


 え?と思わず声が漏れた時、景麒は不器用に視線を逸らして呟いた。
『主上と同じ瞳の色をして、主上を彷彿させるのに‥どれだけ美しくてもそれは決して主上になり得ない。でも、私はそれを見るたびに、主上を思い出さずにはいられない‥。違うけれど、主上と繋がっていられるような気持ちにさせられる翡翠の玉が‥私は‥好きです』
 本当に、心に思っていることを、彼は言葉にして言ったのだろう。驚いたようにぽかんと目を開いていた陽子だが、自分の顔が綻ぶのが、その時分かった。気がついたら、自分よりも高い背の景麒に向かって背伸びをして、金色の鬣を思いっきり撫でていた。遠慮無く顔を(しか)めた景麒だったが、それでも陽子は撫でた。そして顔を綻ばせたまま、陽子は景麒に向かってある約束をしたのだ。

『じゃあ、一年後‥私お前に翡翠の玉で出来た何かをプレゼントするよ』

 その時、景麒は聞きなれぬ異国の言葉に首を傾げた。
『ぷれぜんと?』
『そう、プレゼント。…贈り物、という意味の蓬莱に流れてきた異国の言葉だ』
『そう…ですか』
『浩瀚から聞いたんだ、国慶節の日、大切な人に、その人が大切に思う何かを渡すことが出来たなら、その人に幸福が訪れ、願いが叶うっ…て。この世界に神頼みなんてものは無いから、こんなジンクスが有ること自体に驚いた。浩瀚も苦笑いしてたしね。私がこの世界で聞いた、ただ一つのおまじないかな…。もう、今年の国慶節は過ぎてしまったから‥来年。もし、渡せたら‥私はこれから毎年、お前とここに来れるよう、願いを掛けてみたい…』
 少し霞んだ青空の下、薄紅の花びらが柔らかく吹き荒れる。表情の無い、景麒の口元が僅かに緩んだ。それは優しい微笑で、陽子もつられて思わず口角を上げる。景麒は穏やかな声で 楽しみにしていますと言った。無表情な中に滲んでいたあまりに優しい微笑みだった。
 そしてその微笑みを最後に、急速に、記憶の情景が遠のいて、陽子を真っ白な世界に引き戻していく。
 思い出した陽子の唇から乾いた笑いが漏れた。

 不器用な景麒の姿を想い、陽子は思わず苦笑する。不思議な縁で絡みあった自分たちの運命。自分を王として慕ってくれる景麒が純粋に陽子にとって可愛かった。景麒のことを考えるたび、先程冗祐から聞いた話が陽子の胸を締めあげてくる。
 それ以上でも、以下でも無く、本当にかけがえの無い自分の一部だと、ずっと陽子は思っていた。
  祥瓊や、鈴、桓魋や虎嘯の様にかけがえの無い自分の一部だと、純粋に思っていた。

 でも、実際は…違ったのだ。

「主上…」
 冗祐が気遣わしげに囁く声がする。すぐに応えようと思ったのに、何故か声が詰まって、喉が腫れて音は出なかった。瞬きすれば、雫が滑り落ちることに、陽子はその時になって気がつく。陽子は…泣いていた。ぼろぼろと瞳から雫が流れ落ち、嗚咽が唇から漏れ、堪えきれないような嬉しさが滲んだその声と、こちらを見つめる、記憶の中の濃い紫色の澄んだ瞳が陽子の胸を焼く。陽子は嗚咽を漏らした。
 
 秘めごと、と人は言う。

 他人に知らせず、自分ひとりの枠の中でその感情を持て余すことを。だけど、自分にさえも秘めることになってしまったこの想いは、なんと言えば良いのだろう?陽子は絡めた腕に顔を埋め、瞑目する。何もかもから逃げ出したくなるような、切なくて泣きたくなるような気持ちが、陽子の胸の奥で暴れていた。今になって苦しいくらいに分かるのに、その時、陽子は気がついていなかったのだ。もし気がついたとしても、きっと、認めなかった。


 自分がこの時既に――景麒に、恋をしていたことを。
 痛いくらいに、その気持ちを胸の奥底に抑えていたことを。

気が付くはずが、なかった。認められるはずが、なかった。



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