back index next




 風を切る音が、耳元で吹き荒れる。空が急速に引きちぎられて、陽子の目の前から消えていく。

 全ての物が陽子を擦り抜け去っていく。もがこうにも、もはや疲労で陽子の身体は動かない。急速に近づいていく雲海、全身を満たし始めた「死」の感覚に陽子は息が止まるのを感じた。
(死ぬのか…)
 空へ吹き飛ばされた陽子は、死を覚悟して強く瞑目した。だが混乱する頭のまま、目を瞑ったその時、身体の下に何かが滑りこんだ。温かくて柔らかい毛並みの感触と締まった筋肉の感触がした。
(…?!)
 上に向かって陽子から流れていった景色が止まり、緩やかに横ばいに流れ始めた。
 空中で弾む身体に、口元から咳が零れる。ぐらりと身体から力が抜けるのを感じた。
(何だ…?)
 朦朧とする意識のまま、陽子は自分を受け止めた生き物を確認しようと身を捩る。優雅に空を駆ける靭やかな筋肉の動きを感じた。何処かから、声がした気がしたが、陽子の朦朧とする意識では、それを鮮明に聞き取る事は不可能だった。声が呼んでいるのは自分の名の様な気がしたが、定かではない。陽子は呻く。
「景…麒…」
 また、声がした気がした。陽子が乗っている―妖獣にしてはあまりに上品な―生き物は緩やかに高度を下げていく。どこかの木々が茂る、森の輪郭を陽子は上空から見た。もうはっきりと葉の形が確認できる程近くなった景色を見ながら、陽子は無我夢中で身体を動かした。景麒を救う、それだけが今の彼女を支えている全てだった。
「景麒…!」
 獣の背から、陽子の身体が滑り落ちる。何かの声が獣からした気がしたが、陽子の耳には届かない。陽子の身体は投げ出され、再び空中を舞う。何かの叫び声のような物と、獣が焦る気配がしたが――陽子はそのまま空中を落ちていった。

 最初に落ちた場所は、森の中、葉の生い茂る巨大な大木の枝だった。
 身体が木の枝に掬われ、肌を葉で掻かれ、陽子は森の中の大きな大木の根本に落ちる。側でこんこんと湧き出る泉は水面を鎮めたまま、ただ陽子の事を見つめていた。
 陽子は身体を動かそうとするが、彼女の意に反して、少しも動いてくれようとしなかった。視界が暗くなっていく。景麒の元に行きたい その想いが陽子の中で揺らめいた。
(景麒…)
 我武者羅に身体を動かそうと陽子は藻掻く。だが身体は重くて言う事を聞いてくれない。落ちていく瞼の感触に陽子は小さく呻いた。いくら仙と言えども、溜まった疲労は陽子を確実に蝕んでいた。陽子を嘲笑うように視界に幕が下りていく。 先程自分が引っかかった、不思議な獣のことまで思い至るだけの力は彼女には残っていなかった。
(くそ…)
 呟く心の声さえ弱々しい。

 緊張が切れ、彼女は意識を失った。

:::::


 どんよりと深く暗い闇が、周囲にゆったりと満ち溢れていた。

 風だけが、低くその場を駆け抜ける。金波宮の外廊一つの柱の影に(たたず)む一人の髭面(ひげづら)の男、漢轍は背後から走った気配にじろりと視線をずらした。低く唸るように彼は言葉を吐く。
「楓椿‥お前いつからそこにいた」
 ふっと気配が揺れる。コツ…コツと足音を響かせながら姿を現した背の高い男に、漢轍は顔をしかめてみせた。柱の影から現れた楓椿は表情を変えぬまま、ただじっと漢轍を見つめる。闇の中、薄暗い光を放つ楓椿の瞳に、漢轍はふんと鼻を鳴らした。
「お前、命令は‥ちゃんと遂行したんだろうな?私には期待した結果が出ているとは思えぬが‥」
 楓椿は無言で眼光を鋭くする。低い月が揺らめいて、二人の影を霞ませる。僅かな灯りの中、一瞬の間の後、楓椿は小さく言葉を吐いた。
「言われたことはやったさ。…お前が言ったように、彼女に手を貸した共謀者も斬った。もう一つのこともな‥」
 漢轍が胡散臭そうに楓椿を見ながら、顎を持ち上げる。
「本当に、斬ったのか?私が聞いた情報では、あの娘と一緒に十六、七の少年がいたという話だったんだぞ。聞けば妖魔からその少年を救い、その少年はこの国の内情について嗅ぎ回っていたと私は聞いたんだが…。ちゃんとそいつを斬ったのか?」
 楓椿の脳裏に、二人の人影が過る。一人は自分が斬った二十代の楽俊と呼ばれていた青年、もう一人は自分の存在に気がついておののいて見つめていた十六、七の夕暉と呼ばれていた少年だった。自分は斬るべき人間を間違えたのか。直感のまま斬ったあの時の感覚がふいに腕に蘇る。楓椿はうざったそうに目を細めた。
「私が斬ったのは二十代の半獣の男だ。そんな情報を聞いたのは私は初耳だぞ」
 半獣?と漢轍の顔が残念そうに歪んだ。だが しばしの後、まあよい と彼は小さく息を吐く。
「もう一つの方は‥ちゃんと遂行したんだろうな?」
「日が昇る刻限に、堯天の人民は閉鎖された堯天の公開処刑場へと集まるよう、集まらねば死罪だとも触れ回っておいた。もうあそこは今、人で溢れている筈だ…。何をするのかは知らんが、私はお前の要求を全て飲んだぞ」
 漢轍は何も言わずに楓椿を見つめていたが、やがてふんと鼻を大きく鳴らした。
「まあ…よいだろう。浩瀚は、どうした。捕らえたのか?」
「逃げられた。深追いもしてない。血なまこになって追う理由も無かったからな…」
 顔を(しか)める漢轍に、顎を引いた楓椿は問いかける。
「それよりも、お前はあんな場所に人民を集めて何をしでかす気なんだ…?」
 漢轍の目が細まった。楓椿が不審そうに眉根を寄せる目の前で、くつくつと笑いながら、漢轍は身体を震わせてみせる。
「公の戴冠式とでも言ったら良いか…。景麒を民人の前で叩頭させるのだ。その時私は真の景王となる。もし叩頭式に逆らうものが居たのならばその場で処刑するまで。丁度良いとは思わんか?この近辺で大量の人数を収容できるのはあそこくらいだからな」
「やはりそんな下らないことか…」
「景王に対しての口のききかたでは無いな。言葉遣いを改めよ」
 楓椿は白い目で漢轍を見ながら嘲笑した。
「私にとってあのお方以外、皆同じだ。下らん期待はしないことだな」
 顔を曇らせた漢轍は楓椿を睨みつけた。だが、感情を押し隠し、楓椿に向かって、漢轍は声をかける。
「そろそろ行くぞ。夜が明けるまでに、王が晴れ場に居なければ話にならんからな…。随分恨まれたからな、小娘は私を殺しにそこまで来るだろう。その時に、お前はあの小娘を煮るなり焼くなり好きにすればいい。出発するぞ」
 漢轍は大股でその場から歩き出す。 楓椿は不信な眼差しを向けたまま、僅かに歩き出す。背後で佇む楓椿に、漢轍は侮蔑混じりの一瞥を投げた。
(馬鹿なやつ‥お前が気付く頃には、あの小娘は既に骸だ…)
 楓椿を利用するだけ利用して、漢轍は陽子を殺害するつもりでいた。全て計算し尽くして、計画を構築している自身の目論見は、誰にも悟らせない。楓椿の態度を思いながら、漢轍は冷笑を零す。
 (くつ)音だけが響く。
 だが、途中、漢轍はその足音が自分一人だけのものであることに、気がついた。楓椿の足音が消えたことに漢轍はいぶかしげに後ろを振り向く。
 後ろからは、一向に楓椿がついてくる気配は無かった。
なぜついてこない‥と漢轍は眉を跳ね上げる。
 振り返った漢轍が見たものは先程会話した場所から一向に動こうとしない楓椿の姿だった。

 灰色の表情をした空間の中、楓椿はただじっと――漢轍を凝視していた。

「‥どうした?」
 冷たい黒眸が漢轍を映し出す。彼は漢轍の内情を読み取ろうと顎を引く。
 楓椿は目だけを動かさないまま、疑心の表情で、漢轍に口を開いた。

「あのお方が来るのは、処刑場ではなく、金波宮なんじゃないのか‥?」

 風だけが、低くその場を駆け抜ける。その瞬間、笑みを湛えていた漢轍の顔から、口元の弧が消え失せた。
 楓椿の言葉の尻を、揺れる木の葉のざわめきがかき消していく。楓椿は怯むこと無く薄目で漢轍を見つめる。

 楓椿が見つめる漢轍の心情は、暗闇から見て一切読み取ることが出来なかった。

 ただ、顔に暗い翳りが落ち、表情をかき消した虚空の顔が、楓椿を見つめ返す。もしここで楓椿以外にこの表情を見た者がいたら、震えあがるような表情だった。だが、楓椿はぴくりとも柳眉を動かさず漢轍を見つめる。漢轍は指の腹で、自身の髭を撫でながら、ゆっくりと問うた。
「‥なぜ…?」
 楓椿は毅然と漢轍を睨んだ。彼は警戒するように後ずさりながら、無表情の漢轍に、噛んで含めるように言葉を重ねる。
「お前を殺すことと、景麒を救うこと‥あの方だったら紛れもなく‥後者を選ぶはずだ。あの方にとっては、お前の命を消すよりも、景麒の命を救う方が大切だからだ。本当は…あのお方、陽子様が‥処刑場に来る予定なんて無いんじゃないか…?」
 ピクリと漢轍の表情に動きが混ざる。その事実こそが、楓椿に答えを教えていた。彼の双眸が薄く光る。
「やはりそうか…。お前が‥はなから私との約束を守るような人間では無いことは分かっている。処刑場に行きたいのなら、一人で行け。あの方は、麒麟を取り返すために、ここに来るはずだ。私はここに残る」
 漢轍は何も言わない。黙ったまま、一歩も動かず楓椿を凝視する。その場に不似合いな澄んだ月明かりだけが低く差し込んでいた。光の差し込む角度が手伝い、濃い影を顔に落としながら、漢轍は懐に手を入れる。
 暫くの沈黙の後、睨む楓椿を見据え無表情のまま…漢轍は小さく息をついた。
「そうか…残念だ。このまま素直に付いてくれば、もう少し長生き出来たものを…。ここで死ぬことを、お前は選ぶのか」
 殺気立って漢轍を睨んでいた楓椿は視線を冷やす。自分の読みが正しかったことに、彼が驚いている様子は微塵も感じられなかった。口元の線を楓椿は歪める。
「やはり…殺す気だったか。私も、あのお方も…。桓魋を送り込んだ時だって、お前は私との協定を破り、本当は最初からあのお方‥陽子様を殺す気だったんだ」
「見抜いていたのか…」
「見抜けぬ奴は愚鈍だ。お前は、はなから桓魋を陽子様を捕らえるためではなく殺すために送り込んだ。だが、残念だったな。実質お前の読みは外れた。桓魋は何があっても陽子様を殺せない。これは一種の賭けだったが、あいつが死んでくれたら私も嬉しいんでね。だから私は止めなかったんだ」
 漢轍の顔に衝撃が走る。
「‥私の趣旨を読んだ上で、更に自分の目論見を達成させようとしていたのか‥。頭の回る男だ。実に惜しい。お前はあの娘が欲しかっただけではなかったのか‥?お前はいったい何者なんだ…?」
 楓椿は‥何も言わなかった。
 だが、と漢轍は口元を歪め、楓椿を見透かした。
「お前がいくら立ちまわった所で小娘は死ぬ。あやつの一番愛しいものの手によって‥。そしてお前もそれを見る前に‥死ぬ」
 漢轍が言い終えたその瞬間、楓椿は背後から突如、風を切る音と、生暖かく、生臭い吐息を肌で感じた。漢轍の声だけがとうとうと響き渡る。
「何も考えずに付いてくれば良かったものを…。残念だよ、楓椿。もう少しお前を使ってやりたかった。さらばだ」
 漢轍が不気味な笑みを浮かべ、懐の呪符を握りしめる。まさか と振り向いた楓椿の目が捉えたものは、巨大な嘴を鳴らす、妖魔の全容だった。楓椿の目が見開く。
 まずいと思った時には、遅すぎた。

 殺せ という声が――夜の空間に響き渡った。



back index next