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「お前は…!!」
「主上!!!」
 その空間で、全ての時間が止まった。空中に浮かぶ一人の少女と、舞い散り輝く硝子片。硝子が砕け散る轟音が轟く中で、漢轍と景麒の声は掻き消された。
 陽子の瞳が動き、漢轍にピタリと焦点を当てる。鋭い光を湛えた深緑に、漢轍は意図せず動きを止めた。優美な剣の柄を少女の華奢な手がしっかりと握り締めるのが目に映り、漢轍は思わず叫んだ。
「やめろおぉ!!」
 部屋に鞘走りの音が響き渡る。白刃が闇に光の弧を描く。漢轍は咄嗟に自身の腰から重たい剣を引き抜いて、なんとか陽子の剣先を受け止めた。金属がぶつかり合う甲高い音が響き渡る。
「ぐ…!」
「………」
 身体の重心線が撚れ、漢轍は思わずたたらを踏んだ。陽子の翡翠の瞳はゆらぐことなく、ひたと漢轍を見据えている。漢轍は歯噛みする。
(小娘…!!)
 漢轍は体勢を整えて、重い剣先を陽子に振り下ろそうとした。空を切る、重量感のある刃の音が響き渡る。漢轍が予期した己の勝利に顔を歪めるが、それよりも早く、陽子の右足が空中で円を描いていた。勢いをつけて陽子の脚が振り切られる。刃を振り下ろす前に、笑う漢轍の顔の右側面を、重い衝撃が襲った。

 漢轍の巨体が吹き飛ばされる。

 壁にしたたかに背を打ち付けて、跳ね返った漢轍は床に倒れ伏した。重い音が室内に響き渡る。
その音と同時に、陽子は軽やかに床に着地した。顔に掛かった髪を首を振って払い、刃を鞘に収める。  キンッと澄んだ音が跳ねた。
(主上…)
 景麒は目と口を開けたまま、呆然と陽子の姿に見入っていた。ずっとずっと、会いたくて仕方がなかった唯一人の自分の主を。胸に切なさと嬉しさが込み上げ、彼の喉を焼いた。それがただ単なる、思慕の情で無いことを…景麒は否が応でも認めざるを得なかった。
 景麒の震える唇が、動く。
「主‥上…」
 目の前の少女が驚いて振り向く。彼女に駆け寄ろうと、景麒は倒れるようにして起き上がる。
声に喜びが混ざるのを、景麒は止める事が出来なかった。普段まるで愛想のない、無表情な鉄面皮と呼ばれる自身がこんな声を出せるということに景麒は気がつかないまま、陽子の方へ駆け寄る。
「主上!!」
「…!」
 駆け寄る景麒、だが‥主の顔を見た瞬間、彼は心臓を掴まれた様な気持ちになった。衝撃で、ゆっくりと足の動きが止まる。陽子が景麒を見て浮かべていたその表情に、景麒はその場に硬直する。え と景麒はゆるりと睫毛を上下させた。
 陽子の景麒を見つめる瞳は…それは――見知らぬ他人を見る瞳だった。
景麒から、陽子はゆっくりと後退って、目を見開く景麒に静かに言葉を投げた。


「貴方…誰……?」


 月明かりがゆったりと陽子の表情を照らし出す。それは紛れもなく…不信と懐疑と不安を織り交ぜた表情だった。景麒の喉が、声にならない音を立てた。主から向けられるその表情の意味が、自分がここにいることの意味が、その何もかもが一瞬訳がわからず、景麒はその場に立ち尽くす。
(え…?)
 急速に鼓動を打ち始めた自身の心臓の音がする。彼女と再び出会えた最初の瞬間が景麒の頭を過ぎっていった。あの時も、彼女は自分のことを呼ぼうとしなかった。彼が誰かすら、あの時の彼女は分かっていないような表情だったことに、景麒はその瞬間気がついた。そしてある決定的な事実を悟った。

 ―陽子も記憶を失っているというその事実に。

「そん‥な…」
 声が、零れた。目を見開いたまま、その声だけが景麒の中に沈んでいく。陽子はゆっくりと景麒から距離を取りながら、後ろへ後退っていく。景麒の顔が僅かに歪んだ。陽子が下がった分だけ、景麒は前に足を踏み出す。
「主上…私です。景麒です。貴方に何処までも付いて行くとお約束申し上げました…」
 陽子はゆるりと首を振る。自分よりもかなり年上に見える、青年を見上げながら小さく零した。

「ケイキ‥?知らない…貴方が、『タイホ』という人なのか」

 景麒の表情が険しくなる。こんな顔を自分はどこかで見たことがある気がした。
「そうです。私は貴方を探していた…。ずっとずっと、貴方だけを」
「どうして…」
 目の前の金色の青年に陽子は懐疑の表情を向ける。崖で(まみ)えた忘れられない彼が、陽子の目の前にいた。でも、ずっと心に残っていた彼と会った今、何故か陽子の中から湧き上がるのは――僅かな恐怖だった。

 踏み込まれたくない、踏み込みたくない、踏み込んでしまったら‥自分の深い部分を抉られるような感覚が陽子を包んでいた。それが何故かは―分からない。分からないまま、陽子は思わず更に後ろに下がった。

「貴方は私の主です。そしてこの国の…王。慶国の王です」
「聞きたくない…」
「初めて私達が相見えた時のこと、そして再び出会った時に誓約を結ばれた事をお忘れか…!貴方しか、私の主は居ない…!お願いです、思い出して下さい!!私からお逃げにならないで下さい!!」
 胸の奥が、今までに無いほど掻き乱されていく。何も、何一つとして覚えがない。陽子は夢中で目の前の金色の青年から遠ざかろうとした。声を聞くたび、顔を見るたび、自分の中の何かが音をたてる。この青年を見るたびに、自分の奥深くが叩かれる。叩かれた先にある感情の深さを感じて、陽子は思わず目を逸らした。開けてはならない何かがあると…陽子は直感的に感じたのだ。
 自身から逃げる気も無いし、起こった事実からも逃げる気もない。でも、その扉を開けてしまったら、これから戻れない何処かに行ってしまう、そんな恐怖が彼女を襲った。

 自分の中にある何かの存在が陽子の中で体積を増す。目の前の青年を見る度に、陽子はその存在を感じざるを得ない。それが何かなんてことは分からないが―思い出してしまったら、もう自分は引き返せない…不思議な恐怖だった。
(嫌だ…!!)

 その瞬間、セピアがかった景色が、陽子の脳裏に浮かんだ。

 自分の見慣れた場所のように思える、場所だった。周りに居る自分と同じような背格好をした女子生徒達だ。不愉快そうに顔を顰める教師。忘れていた溜息をつく厳しい男性、悲しげに眉を垂らす女性。何もかもがわからない中で、その光景と出てきた人々の顔が歪んでいく。陽子が残してきた人々の顔が過ぎ去っていく。
「‥!!」
(何だ…これ…)
 それは陽子が初めて見た、自身の記憶の断片だった。呆然としていたその時、潮の臭いが陽子の鼻先を撫でる。
 海の香りに振り向けば、そこに―金の髪の青年が居た。じっとこちらを見つめ、ゆっくりと歩み寄って、陽子に向かって…跪く。不思議な恐怖が湧き上がり、景色が流れて、音が流れて、気がつけば陽子は――叫んでいた。
「やめろぉ!!!」
 ドクドクと血液が脈打ち、陽子は胸に手を当てる。景麒の顔が歪んだ。一気に陽子との距離を縮めて、その腕が、陽子の腕を掴む。
「思い出して下さい、主上!!お願いです、貴方は中嶋陽子‥景王赤子…この国の唯一人の君主で、私の唯一人の主なのです!!」
「…人‥違いだ…!」
「主上!!!」
 陽子が手を振り払って、壁際に逃げる。その顔は引きつって、景麒から逃げることだけを求めていた。景麒は必死に彼女の元へ行こうとする。だが、その時、部屋の扉が開け放たれ、幾つもの声がその場に飛び込んできた。
「な…?!」
「?!」
 景麒と陽子が驚いて振り向く。現れたのは騒ぎを聞きつけ、駆けつけた兵卒達だった。陽子と景麒を見た彼らは口々に騒ぐ。

「居たぞ逆賊だ!!台輔をお守りしろ!!」
「台輔が危ない!!」
「台輔、早く逆賊から御離なさって下さい!!」
「台輔を救え!!」

 傾れ込む兵卒達。失礼 と言うまま、景麒の身体を掴んで、陽子から引き離して扉まで引きずっていこうとする。背後から引きずられる強い、力が景麒を陽子から引き剥がし、景麒は腕を振り払おうとする。
「やめろ!!」
 身体に腕が掛けられて、強い力が景麒を引く。見れば顔には汗が幾つも浮き、僅かな怯えが見て取れる。兵卒も必死だと言うことに―彼は気がついた。景麒は引きずられながら、声を張り上げる。
「やめろ、離さぬか!!」
「ご辛抱を、台輔!あ奴は危険です!!御身に何か有れば国の大事!!」
 景麒は目を見開いた。
「?!何を言っている…?!逆賊はあのお方では無い!!あのお方こそが真の…!!」
 景麒は陽子を振り返る。陽子は壁際で、呆然と景麒が連れて行かれるのを見ていた。どんどん離されていくその姿に、景麒の胸がくしゃりと潰れる。
「主上!!主上ー!!!」
 景麒は必死に身を捩り、兵卒の腕をすり抜け陽子の元へ駆け出す。思わず身を引いた陽子の前で、他の兵卒によって景麒は上から押し倒された。腕を掴まれ、地面から引き剥がされる。
「主上ー!!主上ぉ!!」
「抑えろ!!」
「連れ出すんだ!!」
 だが、景麒の目には陽子しか映っていない。手を振り払い、身体を捻って、景麒は少しでも陽子に向かって手を伸ばす。引き摺り出されていく景麒。指が必死に床の(さい)の目に爪を立てるが、それも力に勝てずにその場から外れ、流される。
「主上!!主上ぉ!!っ…主上!!!」

―シュジョウ。

 その言葉が呆然と目を見開いた陽子の脳裏に反響する。立ちすくむ陽子の頭の中で―何かが動く。小さくなっていく金の青年に走馬灯のように流れていく仲間たちの顔が瞳の奥に浮かんだ。瞬間、様々な景色が目の前を駆け抜け、ポツンと一つの単語が頭に浮かんだ。

――ケイキ。

(…?!)
 ゆっくりと目を開く陽子。次の瞬間、聞き覚えの無い色褪せた音の羅列が、怒涛のごとく彼女に向かって押し寄せる。


 ヒンマン スイグウトウ ヘキソウジュ オウ タイホ ヨオウ キンキ カイタツ キンパキュウ コウカン ハンジュウ ラクシュン カンタイ ショウケイ スズ セッキ コショウ ランギョク ケイケイ エンホ ショウジュク ホウライ オカアサン ジーンズ カエリタイ ショチョク セキラク フクレイ ハイス キリン ハンシン――ケイキ。


 陽子の呼吸が速くなっていく。目の前で身を捩って、喉から血が出る程自分に向けて叫ぶ青年が陽子の目に映る。誰かの必死な訴えを陽子は初めて全身で受け止める。
「主上ー!!」
 顔を歪めて自分に向けて叫ぶ青年は、何度も何度も手を振り払い、陽子の元へ手を伸ばしては引き戻されて身体を床に打ち付ける。それでも、彼は陽子に向かって手を伸ばす。
「主上!!主上!!主上ー!!!!」
 紫眸と緑眸が…見つめ合う。その二つが絡んだ瞬間――陽子の中で、光が溢れた。それは先程の意味の分からない音の羅列が…突然陽子の中で意味を持った瞬間だった。記憶が陽子に押し寄せる。


 賓満   水禺刀   碧双珠   王   台輔    予王   禁忌   懐達   金波宮   浩瀚  半獣   楽俊   桓魋   祥瓊   鈴   夕輝   虎嘯   蘭玉   桂桂   遠甫   松塾  蓬莱  お母さん  ジーンズ  帰りたい  初勅   赤楽   伏礼   廃す   麒麟   半身―――景麒。


―――景麒。


「!!!!」
 衝撃で、陽子は声にならない音を立てて空気を吸い込む。雷に打たれた様に全ての記憶が駆け巡り、陽子の翡翠の瞳が丸く見開く。見開いた瞳に映るのは―景麒。それは彼女のかけがえの無い‥半身だった。思い出す全ての思い出。そして陽子の彼に対する気持ちが押し寄せ、彼女は思わず喉を詰まらせる。

 陽子は力の限り―叫んだ。

「景麒!!!」
「主上!!!」

 駆け寄る陽子。手を振り払って陽子の元へと駆ける景麒は手を伸ばす。指先と指先が絡もうと、交錯しようと伸ばされる。だけど、その指が触れる前に‥陽子は衝撃が自分の身体を襲った事に気がついた。突如として前方から暴風がから押し出され、風の衝撃波が、彼女目がけて押し寄せる。
「!!?」
「?!!主上!!!」
 陽子は吹き飛ばされる。絡もうとしていた指は離れ、陽子は飛び込んできた窓硝子を超えて風に押し出された。驚いて目を見開く陽子の視界に映るのは、意識を取り戻し、呪符の様な札を手に持つ漢轍の姿だった。何処からか現れた妖魔の翼が先程まで居た場所で羽ばたいていた。陽子の耳に夕暉との会話が再生される。
『謀反の犯人は、呪具を使っている。人に効くもの、妖魔に効くもの、それぞれに効くものをよく知って、精通してる。それで妖魔も一時的に従わせることが出来るんだ』
(おのれ…!!)
 班渠が壁から飛び出して、陽子を咥えようと身体を伸ばした。吹き飛ばされながら、陽子は漢轍を殺気立って睨む。漢轍は不気味な笑みを浮かべて陽子の視線に応えた。
 突然現れた妖魔の存在に、兵卒達が大きな悲鳴を上げ、景麒が陽子に向かって叫んだ。
「主上!!今、参ります!!っ…?!!」
 だが、景麒の身体は陽子の方へ向かおうとした途端、崩折れる。驚いて振り向けば、漢轍が後ろから呪符を景麒の額に押し当てていた。陽子を乗せようとしていた班渠が苦しんで、その場から消える。
「…!!班渠!」
 景麒の声だけが虚しく響く。陽子は景麒目がけて手を伸ばすが、届く筈もない。自分の身体が、重力に抱き取られていく感触を陽子は感じた。
(景麒…!!)
 陽子の半身は目を見開いて金糸を風に靡かせる。

 見つめ合う程の時間も無く、顔を歪ませた陽子の身体は真っ逆さまに雲海目がけて落下していった。

「主上ー!!!」
 駆け出そうとする景麒の鬣を、漢轍が強く引く。
鬼のような形相で振り返った景麒を見て、漢轍は満足気な笑みを湛えた。
「安心しろ、あれくらいじゃああの小娘は死なん…」
 強い光を湛えて、景麒は漢轍を睨み据える。漢轍は面白そうに景麒の様子を見ながら、愉しげに続けた。
「何を送り込んでも、あの小娘は一向に死なん…。ならば、最後の手段を使う他無い。とっておきを、あの娘に贈ることとしよう…」
 漢轍はすっと視線を景麒に移す。光輝を湛えた景麒の瞳に、薄ら笑いを浮かべる漢轍が歪んで映った。
「あ奴は必ずお前を奪い返しに戻ってくる。必ず、だ。それを迎え入れてやらないのは無礼だと思わんか。きちんと相手をしてやらなくてはな…」
 漢轍は愉しげに手元の呪符を仰いで見せた。弱い風が巻き起こり、景麒は背筋が寒くなっていくのを感じた。この男は―何をするつもりなのか。漢轍は視線だけをずらして景麒を見つめる。
「最高の舞台を用意せねば…。最高の物を。人が聞いて涙する様な舞台が良いな…」
 ぬるくて不気味な湿気を孕んだ風が吹き抜ける。目を見開いた景麒の鬣を掬って、風はじっとりと肌を撫でていった。漢轍は言葉を続ける。
「そう…例えば悲恋の舞台など良いと思わぬか…?一番、あってはならぬ舞台、一番涙を誘う舞台。一番、何もかもを奪い尽くせる舞台」
 漢轍の顔を濃い影が埋めていく。瞳だけが薄く光って、景麒唯一人を映し出す。
「兵士も駄目。妖魔も駄目。将軍も駄目。半獣も駄目。他国の王も駄目。どれを遣わしてもあの小娘を殺せぬ…、ならば、あの娘が絶対に殺せぬ者を送り込むのが最適だ…。それが、あの娘の命に関わる麒麟など良いと思わぬか」
 景麒の息が止まる中、漢轍はゆっくりと笑みを浮かべた。
「麒麟は王の命を担う。麒麟が死ねば王は死ぬ。王が死んでも麒麟は死なぬ。小娘はお前を殺せぬ。殺し合いの相手が自分の半身、自分の愛しい男というのは、どのような悲恋物の舞台をも超えると思わぬか」
 夜の静寂が、薄ら寒い。誰も何も言わぬその空気に孕むのは―狂気。漢轍が呪符を景麒の額に押し当てる。

 景麒の顔に衝撃が流し込まれていく中、漢轍は声を残忍に染め上げた。


「お前が小娘を殺せ、景麒」


声はただ淡々と―その空間に…響いた。



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