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ふわりふわりと柔らかく立ち上る湯気が上がっていく。上りきった湯気は天井に溜り、陽子の上に広がる空気を湿気らせる。陽子は盥にはった湯を体に何度も注いだ。 熱い湯で体を濯ぐのは生き返るような心地がし、思わず口からはため息が漏れる。まぶい紅を伝って落ちていく水滴が透明なことが陽子には不思議だった。 お湯で温められて香りを撒く、花びらを練りこんだ石鹸の香りに癒される。 熱い湯が体を伝い流れていき、体からこそげ落されていく泡を惜しそうに見送る陽子。全てを終えた彼女は体から熱く湯気を立ち上らせながら、置いてあったタオルのような厚い布で体をくるむ。 (気持ち良かった‥‥) 着替えに袖を通すだけの着こまない状況で髪の水気を取る。髪を拭く布から零れた真紅の束がいくつか床に水滴を散らした。跳ね飛ばされた毛先に付いていた幾つもの水滴はまばらに飛んで散っていく。ふと見る外は暗い闇夜が少し透けていた。 雨は止んだのだろうか。 それとなく窓に手を掛け少しだけ開けば、籠っていた湯気と熱気と水気がそこから流れるように吹き出ていく。 室内には雨の上がった夜の香りと涼しい月夜の明かりが差し込んだ。 光を見つめる中、壁を伝ってあの家主の女と誰かが話す声がうっすらと聞こえた。何を話しているんだろうとふと耳を立ててみるも籠って意味のある言葉には聞き取れず、濁った音がただ反響しているだけだった。 陽子は遠くの白の真円を見つめる。 まん丸の純白の月が雫を落としたように闇夜に浮かんでいた。 月を見ているとどこか不思議な気持ちになる。月は心が暗くなった時にも静かに照り輝き優しく寄り添う、そんなさりげない夜の だが相変わらず陽子の中の海はうんともすんとも言わない穏やかな状態のままで。彼女は溜息を零した。女と話していた時、記憶の扉を叩かれたような気がしたが、何で叩かれたのかももう覚えていない。 なまじ記憶が抜け落ちているのがつらい。もう一度縋るように月を見つめるも月はほんのりと笑みをはいているだけだった。 しばらく月を見つめていたが、不意に外気で冷やされた水滴が手の甲に弾かれる。 髪を拭うことを忘れていた陽子はがしがしと髪を拭きはじめた。気づけばもうあの女の話す声はしていなかった。 一体何の話をしていたんだろう。 眉根を寄せていたその時だった。 髪の束を散らしている最中、突如空気が痙攣するような激しい音が陽子の耳を突きぬいた。 (何‥?!) 振り返ると部屋の扉がびくびくと痙攣し、そこから音がしていた。瞬時に激しく扉を叩かれているのだと理解する。 着物を直す間もなく扉が軋んで開け放たれ、驚いた陽子の口から思わず悲鳴が漏れる。 そこにいたのは先程の男達だった。 それぞれが顔に満面の笑みを浮かべて、陽子の浮き出た輪郭の線をじっとりと視線で撫で回す。 一瞬その意味が分からず彼女は目を瞬くしかなかった。きょとんと瞳を丸くする陽子を見て男たちは顔の破顔を深くする。 「おぉ〜、おぉ〜さすがに若い娘の風呂上りはいいなァ」 「たまらんな。これは実に旨そうだ」 「もうしばらく女は喰ってないからなァ」 下卑た笑いを浮かべる男たちに陽子は思わず後じさった。 その連なった卑猥な言葉が陽子の方へ這ってゆく。 ――まさか 顔が凍りつき冷えてゆく。鈍い彼女でもその言葉に含まれた真意が透けているのが目に映り、陽子は自分の顔から血の気が引いていくのを感じる。 ――何で あの物柔らかな微笑を湛える女の顔が頭に浮かぶ。今思い出せば先程あの女が送り出した男達の顔はどこか下卑た色が浮かんではいなかっただろうか。陽子の顔から血の気が落ちた時、あの女とグルだったんだ と繋がった思考回路が囁く。 最初に疑問に思うべきだったのに、記憶が落ちて、警戒心までもが鈍っていたのか。 なぜ生活に苦しい男たちがわざわざ陽子を拾って面倒を見てくれるのだろう。 今親切に男たちが自分をここまで連れてきた理由が嫌でも分かり、肌を舐めまわすような視線が嫌悪感を呼び起こす。 陽子は吐き気が込み上がってくるのを感じた。 ::::: 悲鳴が口をついて出て身をよじった。窓枠に手を掛けようとした陽子の細い手首を汗ばんだ手の平が掴む。軽い体は男の腕の中に引き寄せられ陽子は喚きちらした。 「放せ!なんのつもりだ!?」 何をするつもりなんてすでに分かり切っていることだった。陽子の両の手首をしっかりと押さえながら男の一人が滑らかな首筋に顔を近づける。饐えた雄の匂いがして陽子の肌が粟立った。 「どんなことがしたい?何でもしてやるよ‥‥お前の存在はもう無いも同然さ」 「え…?」 「あそこで俺たちが何をしていたと思う?“狩り”さ。“狩り”は大体が妖魔に襲われたり行き倒れた骸の所持品を追い剥いで換金するために行くんだが…今日はいつものように“狩り”に行って生きた生身の女が手に入っただけで幸運だ。役所の記録簿を調べていって驚いたさ。お前さん戸籍のない人間だ。消されたのか? 一体何をしでかしたんだ?景王君と景台輔御自ら逃げ出した逆賊を始末されようとしている。紅い髪に褐色の肌、緑の目の娘だそうだ。」 「な‥に‥?わ、私はそんな‥‥!」 「おーおーそりゃそうだろうとも。今はなーんも覚えてないんだもんなァ?運よく逃げ出してこれたんだろうがその運もここまでのようだぜ、お嬢ちゃん」 「たっぷり可愛がってやった後に役所に連れて行くさ。おれ達は女も喰えて国にも貢献できるって訳だ」 違いねぇ と男たちは ‥‥逆賊?私が? 呆然としている最中も男たちが待ってくれる訳ではない。男が陽子の膨らんだ二つのまろみの一つに手を伸ばす。太い指が繊細な柔らかい山に近づいてきて頭の中にまで鳥肌が逆立った。身を焼くような嫌悪と怒りが織り混ざり合って目の前が一瞬白く焼かれる。 ――喰われる‥‥! 頭から冷水をかけられた様な恐怖が襲ったその時 ――体をぞろりとした感覚が走った。 気がついた時には陽子は体を捻り掴まれていた腕を男の手の平からもいでいた。言葉が出るより先に腕が空気を裂き、男の首筋に手刀が食い込む。首が折れるぼきりとした鈍い音が肌を伝って響いてきて、倒れていく男を尻目にそのまま体をかがめると、前に突っ立っていた別の男を固めた拳で突き倒す。 「こいつ‥‥!!」 あと一人。陽子は殴り掛かってきた最後の残党の拳を避けると、地面を蹴り上がり、そのまま顔面に回し蹴りを食らわした。右足が空中で美しい円を描き終えた時、最後の男が倒れる音が妙に大きく響いた。床に積み重なった男たちを肩で息をする陽子は見つめる。 最後の回し蹴りを食らわし、男が倒れた時点でぞろりとする感覚は体から引いて行った。最初に首を折った男のうめき声がした。あれではしばらくは何も出来ない生活となるだろうが、そんなことは知ったことでは無かった。 陽子は小さな自分の手の平を見つめた。 一番初めに彼女の中に浮かび上がってきたのは男たちへの怒りでも助かった安堵でもなかった。 ただ単純な自分自身への疑問だった。 何故こんなことが出来る? 助かったが陽子の中に別の意味での悪寒が駆けていく。 いまは綺麗さっぱり消え失せたあの感覚を思い出すように指を開いたり閉じたりするがいつもと変わり映えしなかった。 確かめるようにパンパンと掌で体を抑えてみても、それでも尚特に変わった様子も無くて。 直感的に危険だと自分の中の警鐘が鳴り響き始める。加えて今の音を聞きつけたのか遠くから人が来る気配がした。 耳を焼く先程の女の、声。 「どうしたんだい?娘はちゃんと抑えてんだろうね!金の元を逃したりしやがったら承知しないよ!!」 ふつりふつりと湧き上がるのは騙した卑怯者達への侮蔑と嫌悪だ。噛み合った歯が歯ぎしりの音を立てたが、逃げてしまうことが彼らへの一番の返報のような気がした。彼らとこれ以上関わるだけの時間は無かった。 ――私の、人を見る目が無かったんだ うっすらと、遠くから足音がこちらに向かって来ているのが聞こえてくる。 早く、一刻も早くここから逃げ出さなければ。乱れた着物を手早く整えた陽子は、自分が先ほど着ていた着物を漁る。何か自分は持っていなかったか。着ていた物はとにかく高級な素材だということが触れた指ざわりで分かる。 滑らかで細やかな水のような素材がするすると指の合間を潜りぬけて、地面に落ちて山を創った。 こんな物を着ていたら狙われるに決まっている、と舌から浮き上がってきた苦い味に陽子は眉根を寄せた。 遠方で薄かった足音は徐々に徐々にその濃さを増してくる。 うっすらと浮かんでくる焦りを無視して、着ていた物を漁る陽子の指先に何か固いものが触れた。それを掴み引きずりだすと、それは硬い、金の印のような物だった。 焦燥に追われている陽子は正体不明のそれを懐に遮二無二押しこむ。色濃く大きさを増してくる足音を一瞬振り返り、陽子は窓枠に手を掛け体を乗せた。 流れるようにふわりと開け放った窓から体を滑り出させ、土に足を落とす。細かな土塊を散らしながら陽子は月夜の光の元へ小さく姿を消していった。 陽子は走る、その彼女の後を幾つもの疑問が追いかけ、縋る。意識を取り戻してからこれ程無頓着でいられたことが不思議でならなかった。 その場を少しでも離れようと闇の中をこけつまろびつ走る中、今まであまり顔を出そうとしなかった一番の疑問が陽子の心の中で焦げ付いて暴れ始めた。 それは 空白になった自分自身に対する、強い恐怖。 口から、自分でも気づかずに誰にともなく言葉が漏れた。 ―私は‥‥‥誰? ::::: 冷えた月明かりが陽子を照らす。付いてくる影は濃く歩く足元を闇につからせていた。こうして闇夜を進んでいるが行く先がある訳でもない。 月影から身を隠し、ただ安全に落ち延びれる場所を探すよう進み続ける。 どこからか獣の唸るような声が響き、赤ん坊の泣くような微かな声がするが、彼女は気のせいだと自分に言い聞かせて足の震えを抑えようとした。 足元から滲む土の音。まるで自分の居場所を主張しているようなその音に陽子の神経は逆立った。 自分の鼓動ばかりが嫌にでかい。鼓膜を突き破るような血潮の波打つ音が今の陽子が鳴らす音だった。だが不意に、その音さえかき消すような唸り声が彼女の耳を揺らした。 今までよりも鮮明かつ生臭い音に、陽子の動きが凍りつく。 足が止まりそろそろと周りを見渡した陽子が見たものは―暗闇の中丸く光る幾つもの眼だった。 「…!!」 反射的に手が動き何かを掴もうと腰のあたりを彷徨った。たがもちろん何もないので手はただ空を掻くだけに終わる。陽子自身にも一瞬自分が何をしようとしたのか分からなかった。 ただいつもはある筈の何かを掴もうとしたおぼろげな感覚だけが手に残り、同時に腰にある筈の馴染んだ重さがないことも彼女の体は感じていた。妖魔が唸り陽子は思わず後じさる。柔らかい土に足がめり込むのを感じながら、なるべくじりじりと後ろに下がっていく。 何よりもおぞましいのはその容姿だ。 獣のようなその風貌に吐き気と目眩が混ざり合う。 埋め込まれ、好き勝手に瞬きを繰り返す眼球ががキョロキョロと周囲をまさぐっていた。 逃げなくてはと陽子は自分に言い聞かせても、膝は笑いっぱなしでその場でよじれていて、それでも何とか足を空気に乗せて後ろへ泳がせていく。 その時ふいに途切れず続いていた声が止まった。 ぴりりと空気が膨れていく。 少しずつ身を捩りながら後ずさっていく陽子。もう少し、もう少しだけと足をずらした瞬間 緊張がぷつりと切れる音がした。 瞬間的に目の前から光っていた眼が消えた。あ と思った時にはもうそれは上空で巨大なの影を陽子の上に落としていた。 考えるよりも先にあのぞろりとした感覚が駆け抜け、足が勝手に動き出す。ただただ我武者羅に脱兎のように駆け、幾つもの細い道に潜り込む。もうただ前を見て自分の足に命を任せるしかなかった。 後ろから濁流として迫ってくるメキメキと木が折れ葉がすり潰される音に血が凍る。体内で掻き回された内臓が口から飛び出しそうだった。 いつまで持つのだろうか。 自分自身に対する問いかけが冷たく心を撫でまわす。あれに捕まった末路など目に見えているからこそ、変に考えないですんでいるのか。 音は益々迫りくる。 だが一瞬、もう駄目かもしれないと直感がせり上がってきた時、急に世界がぐらついた。そう認識した瞬間、足元で岩石の割れる嫌な音の反響に気づいた。 「?!」 脆い足場が悲鳴を上げて陽子を振り落とそうと身をよじったのだ。岩の表面が瓦解していき、迫り来る轟音が直接届く前に、陽子は奇妙な浮遊感が体に湧き上がるのを感じた。 だが、その時― 恐怖に染められるその一瞬の間に、陽子は目の端に小さな金色の光を捉えた。 それは落ちていく寸前に捉えた淀んだ闇夜に浮かび上がる金の綻びだった。 光…いや、違う。あれは…人――? 確認する間もなく冷気が体をせり上がる。 寒気を覚えたと同時に、陽子は闇夜を転がり落ちていった。 |
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