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 風が逆巻いて、尚隆と陽子の髪を掻き乱す。陽子は叫びながら剣を大きく振りかぶり、上空から落ちる斑の光に刃を透かしていた。正気を取り戻した尚隆の瞳が光で溢れる。
(陽子…!!)
全ての景色が彼の目の前で鮮やかに着彩されていく。その時になって尚隆は、自分が刃を振りかぶって、彼女目がけて刃先を薙ごうとしている事実に気がついた。
(!!俺は…何を…?!)
 尚隆の動きが音を立てて止まるが、反対に、向かい来る陽子の刃は既に走り出していた。彼女の刃先が空中を滑るのを、なんとか尚隆の刃が止める。響く、轟音。
「ぐ…!陽…子!!」
 尚隆は切れ切れに彼女の名を呼ぶが、陽子は何も反応しない。自分を見つめる鋭い瞳に、思わず彼の動きが止まる。陽子が見知らぬ他人を見る目で自分を見ていることに尚隆はその時気がついた。
 陽子 と再び彼が口を開こうとしたが、その時陽子を乗せた獣は後ろに向かって飛び、大きくその場から跳躍する。刃を鞘に収めた陽子は、既に彼を見てはいなかった。尚隆をゆうに飛び越え、獣は陽子を乗せたまま、低く、速く駈け出す。
「!陽子!!」
(何故だ…?俺が分からんのか…?!)
 正気に戻ったばかりで、彼には何が何だか分からない。とにかく尚隆は、その背を追おうと駆け出そうとした。
(陽子…!!)
 だが彼が走りだそうとした次の瞬間、背後から締め上げる筋肉質な腕、細い腕、柔らかな腕、腕という腕が尚隆を羽交い絞めにした。消えていく小さな赤を見ながら、彼は進むこと叶わずその場で仰け反った。
「んな?!いでででっ!!」
 驚いて振り返ろうとする尚隆の後ろから、幾つもの声がした。
「行かせるかあー!!」
「延王様‥お気を確かに!!」
「陽子の所には行かせないわ!」
「みんなしっかり抑えるのよ!!」
「お、お前ら?!」
 彼を羽交い絞めにしていたのは、虎嘯、夕暉、祥瓊、鈴、だった。更に後ろでは楽俊が消えていく陽子の後ろ姿を見つめているのが確認できた。そして驚いた延王のすぐ側で聞こえる、虎嘯の荒い鼻息に振り向けば、尚隆は殺気だった虎嘯の顔を間近で見た。
「あんたも正気を無くしてんだな?!よおし、王だか脳だか知らんが、俺が今から元に戻してやる、さあ歯ぁ食いしばれ!!」
「延王様、しっかり!!」
「ちょっとの辛抱ですよ!!」
「んな゛?!待て待て待て待て!!俺は至って普通だ!!」
「嘘よ!!いきなり陽子を斬ろうとした時点で、普通じゃないわ!!」
「虎嘯、早く!!今のうちに!!」
「よし来た!!」
「待てぇ!!」
 虎嘯の力の籠った筋肉の山に目を見張りながら、尚隆は必死に首を横に振る。一同を見渡しながら、尚隆は力の限り声を上げた。
「俺は今は正気だ!!確かに先刻までの記憶は無い‥。だが、今は自分のことも、この国のことも、陽子のことも分かっている!!お前らこそ、陽子が真実誰なのか、ちゃんと分かっているのか?!」
 ピクリと楽俊の動きが止まる。
 力強い眉の内、片方を跳ねあげた虎嘯が尚隆を掴んだまま、しゃあしゃあと言い放った。
「知らん!!!だが逆賊だとかなんとか言われようが、俺たちは陽子を守る!!友達だからな!!国のためにならんとか、そんなことを忠告しようとしても無駄だぜ?あんたが陽子を手にかけようってのなら俺たちはあんたをここから一歩も動かさせないだけだ!!」
「!お前達…」
 尚隆の黒眸が見開いたその時だった。
「ちょっと、待ってくれ…」
 少し遠くからこちらを見ていた楽俊が口を開いた。虎嘯が声を上げようとしたが、楽俊は目で彼を制する。楽俊の顔は真剣で、静かな色を含んでいた。ゆっくりと含めるよう彼は言葉を吐く。
「延王様…貴方は陽子が誰だかお分かりになっていらっしゃるんですか」
 すっと尚隆の瞳を光が駆けた。楽俊の全映をしっかりと瞳に映しながら、尚隆は ああ と答える。
 楽俊が思わず身を乗り出した。
「!じゃあ、思い出したおいらの記憶に間違いがなければ、あいつは‥陽子は…!」
 必死の声色の楽俊の言葉に、不思議そうに虎嘯達は彼を振り返る。尚隆だけが顔色を変えずに真摯に楽俊を見つめる。
(何…?)
 祥瓊は不安そうに眉に傾斜を付けながら楽俊を見ていた。陽子の真実、それを楽俊が思い出していたことに、その時になって、彼女は気がついた。
「陽子は…!」
 だが、楽俊が重要な真実を口に出そうとしたその時、彼は急に胸元を押さえた。傷口が開いたのか、走る激痛に、楽俊は身体をくの字に折り曲げる。
「うっ…」
「楽俊?!!」
 額から吹き出した汗が頬を滑っていく。あまりの痛みに彼はたたらを踏んで蹌踉めいた。身体が崩折れる。
(言わなきゃ…ならねぇ…!)
 だが、痛みは容赦無く楽俊の喉元を焼く。
(うぅ…!)
「楽俊!!」
 楽俊の膝が折れそうになった時、彼の体を誰かの腕が支える。祥瓊達が息を呑む音が聞こえた。楽俊一人の体重を支えながらびくともしない固い甲冑の感触を、楽俊は服越しに感じた。朦朧とする意識の中、楽俊は顔を持ち上げる。
(‥?)
 ぬるい風が顔を洗い、人々の髪を撫でていく。身体を凭せ掛けている人物に瞳をずらした時、楽俊の視界に幾つもの髪の線が出来た。
「…!」
 しゃんと背筋を伸ばして立つ一人の人物。
 澄んだ月明かりが彼の顔立ちを浮き上がらせる。まっすぐな部人特有の視線、すっと伸びる眉、僅かに顔に零れる黒髪が眩しい。
 それは先ほどまでとは違う、凛とした光を瞳に湛える―― 一人の武人だった。
「桓魋!」
「桓魋!!気がついたか!!」
「桓魋さん!!」
 彼は何も言わないまま、片方の腕で楽俊を支え、もう片方の腕には一冊の本「慶国赤書」と、陽子の荷物を掛けていた。片手で軽々と楽俊を起き上がらせる。
「桓魋‥殿…」
 皆が自分を呼ぶ中、桓魋は真摯な表情を見せた。
「迷惑をかけて、すまなかった‥」 
「桓魋、正気に戻ったのね!」
「おかげ様でな…」
 苦笑を零す桓魋は楽俊を見つめ、その表情を押し込んだ。彼を支えながら、桓魋は口を開く。月明かりに濡れた顔が、歪んだ。
「全て‥思い出したんだ。この国の事も…、俺の一番大切なものも…」
「一番‥大切な物…?何だ、そりゃあ…」
 桓魋はその問いには何も答えなかった。
 話せるか?と桓魋は楽俊を見つめる。胸を押さえながら、楽俊は一つしっかりと頷いて見せた。桓魋に寄りかかりながらも、楽俊はしっかりと立ち、口を押し開けた。
「おいらが‥話します。おいらが思い出したことと、桓魋殿が思い出したこと、そして延王様が、仰ろうとしていることっていうのは全て同じことなんだと思うんです。共通するそれは一番忘れちゃならねぇことで、おいら達の重要な部分を占めることなんです」
「…?」
「…どういう意味?」
 祥瓊を見つめたまま、乾いた唇を湿らせて、楽俊は声を出す。
「それは‥陽子のことだ」
「陽子…?」
 延王と桓魋が楽俊を見つめる。騒ぎで目覚め始めた周囲のうるささが、逆に楽俊達の静けさを浮かせていた。皆が見つめる中、楽俊ははっきりと言葉を紡いでいく。瞼の裏に浮かぶのは、追われてボロボロになった陽子の姿だ。記憶の中で一人駆ける陽子の姿に、彼は強く瞑目する。
「陽子は‥逆賊なんかじゃ無いんだ」
 音が一瞬の間に押し寄せ、周囲一体を包み込む。
「真実は本当は反対なんだ。あいつは…あいつこそがこの国の…王」
 鈴、祥瓊、虎嘯、夕暉の瞳がゆっくりと見開いていく。月影に浮かぶ「慶国赤書」。四人に記憶として押し寄せる不自然な音が、その瞬間、一気に乾いて消え失せた。
 楽俊の声だけが、形を持って―響いた。


「陽子は、正式な景 赤子 中嶋陽子だ」


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 ふとその時、浩瀚は遥か彼方から遠吠えのようなものを聞いた気がした。

 冷えた明るさが自分の顔を照らしだす。支柱をすり抜け降り注ぐ月影に、浩瀚は目を細めた。
この時間まで、何故かまるで眠る事が出来なかった彼は、この月が一番良く見える回廊で、一人佇んでいた。どれくらいこうしていたのか、もう覚えはない。
 小さく息をついたその時、彼は廊下に落ちて移動する一つの影に気がつく。こちらに向かって人影が歩いてくる。深く淀んだその影の持ち主を見た途端、彼は動きを止めた。
「…!」
 浩瀚に気がついた影の持ち主が浩瀚の元まで歩み、足を止める。
「これはこれは…浩瀚じゃないか」
 手入れされずに好き放題に伸びた髭。いかつい顔つき。太いガラガラ声。
 それは男王、漢轍だった。
 言葉なく立ち尽くす浩瀚に、漢轍がにひるに口元を曲げる。
「こんな時間に…どうした?」
 浩瀚の背筋に薄ら寒い感触が走る。だが浩瀚はそれをおくびにも出さず、顎を引き、彼を見つめた。
「貴方様の方こそ…このような夜更けにどうなされたのですか…?」
「少し‥景麒と話をしたくてな‥。それだけだよ」
「台輔と‥?そのお話は、この様な時間でなくてはならないのですか」
「今だからこそ良いんだ。余計な邪魔が入らぬ内に、確かめたい事が幾つかあってな…」
 余計な邪魔…?確かめたい事…?浩瀚は心の中で首を傾げるが無表情を貼りつけた表情にはそんなことはをさらさら出さない。漢轍は浩瀚を見てふっと鼻で笑う。
「なんなら、お前も来るか。男同士腹を割って話し合わないか?」
「申し訳ありませんが、明日も朝議が早うございますので、ありがたいお話ではありますが、遠慮させて頂きます」
そうか と呟きながら、漢轍は浩瀚を凝視していた。
「残念だ…」
「お気持ち、ありがたく頂戴いたします」
 漢轍の視線を受け流し、浩瀚は目を合わせずに礼をして、踵を返す。嫌な感覚しかしない王との会話は実は彼はあまり好きでは無かった。彼のことだから怯むことなど有り得ないが、やはり気分が悪くなるものは人は好きにはなれないだろう。歩いてきた廊下の道を引き返しながら彼は漢轍の視線が自分の背に注がれていることに眉をしかめる。それを振り払うように、彼は足を速めた。
 暫く進んで、自室の前で振り向いた時には漢轍の姿はもはや見えなかった。浩瀚は眉を中央に寄せ、涼やかな細い黒い瞳を、更に細くする。
(何をする気なんだ…)
 ぽつりと彼の中で囁く何か。ふと嫌な予感が彼を過る。
その感覚を頭を振って追い払い、彼は自室に顔を伏せたまま足を踏み入れた。部屋は出た時と同じ表情のまま、静かな闇色に染まっていて、浩瀚は息をつく。
 夜の静寂は、酷く心を開放するように思える。静謐で、全てが無音に包まれる中で呼吸していれば、自分の心の声が聞こえてくるような気がするのだ。静寂に身を浸し、漏れる月明かりに頬を濡らせば、普段の自分よりも、ずっとずっと透明な何かになれるのではないか そんなくだらない自分の考えさえも夜の美しさと闇と静けさは包んで許容の意を示してくれる。
 自室の椅子に腰掛けたまま、浩瀚は薄明かりに染まる石壁の、鋭利な刃先でなぞったような亀裂を目で辿った。あまりにもさり気ない、奥深くまで石壁に残った亀裂を。自分の心の中にも、こんなさりげない亀裂が走っているのかもしれないと、彼は自嘲気味に苦笑を漏らす。

 表面上にはほとんど分からないのに、その裏では深く抉られている自分自身に彼は薄々気が付き始めていた。

(私は‥ここで何をしている…?)
 なぜ自分がここに居るのか、彼は思い出すことが出来なかった。浮かぶ月を見つめながら浩瀚は唇を噛み締めた。隙の無い自分にこんな決定的な記憶の風穴があること事態が信じられなかった。なぜ、記憶が無いのか、それさえも彼には分からない。
(私は…何がしたいんだ)
 欠けた記憶に欠けた何か。そのもどかしさに、彼は思わず眉根を結んで、唇を固く噛み締める。答える者など誰も居ない…筈だった。浩瀚は微かな吐息を零す。
(私は何を…失くしたんだ…)

 応えるように――唐突に強い風が窓から吹き込んだ。

「?!!」
 衣が吹き荒れ、浩瀚は思わず目をきつく閉じる。そして釣られるように、彼は顔を持ち上げる。
(何だ…?!)
 窓は閉めた筈だったのに と浩瀚の内部に疑問が浮かぶ。吹き荒れる風に、顔を上げながら浩瀚はきつく瞼を合わせたままだった。やっととまったその時、彼はゆっくりと瞼を開く。だが…
 風が吹き込んだ窓際に顔を向け、目を開けた瞬間見たものに、浩瀚の呼吸が止まった。散乱する書類に、舞い込む夜の芳香が鼻をくすぐる。ゆるりゆるりと大きく見開いていく彼の黒眸に一つのものが映る。


 先程まで何も無かったその場所に、あまりに美しい少女がいた。


 窓際にもたれるようにして腰掛けているその少女。月明かりに染まった紅の波、燐光を弾く滑らかな肌、そして視線だけずらしてこちらを見つめる―深緑の翡翠。少女の口元の膨らみが動くのを、浩瀚は呆然と見つめることしか出来なかった。膨らみの隙間から流れるのは、優しい、潮騒の声だ。
「貴方が‥『こうかん』‥?」

 強い意思と光を湛えたその瞳、それは浩瀚の世界から一切の音が消えて失せた瞬間だった。



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