back index next




 妖魔と向かい合う赤い髪の少女。所々から聞こえる悲鳴にも、視線を揺るがすことなく、陽子はひたと妖魔を視線で射抜いていた。唸りを上げる妖魔、緊張が膨れ上がったその瞬間、自分の腕が勝手に動くのを陽子は感じた。同時に響き渡る鞘走りの音と、闇夜に翻る澄んだ白刃が―光る。
 睨み合う両者。ギリギリで耐える力の均衡を破ったのは妖魔の方だった。
「!!」
 襲い来る衝撃。
 気がつけば、刃と牙が噛合い、目の前で揺れていた。陽子は衝撃に弾き飛ばされ無いよう、足を踏みしめる。
(まずい…!)
 渾身の力を込めて、陽子は刃を横に薙ぐ。陽子が自身の意思で動かすよりも早く、あのぞろりとした感覚が駆け抜けて、陽子の身体を動かしていく。打ち合い、弾き合い、力がぶつかるその音だけが野外に響き渡る。
(強い…!)
 力任せに牙を押し込まれたその時、悲鳴を裂くように、陽子の耳に声が入り込んだ。
「陽子ー!!!」
「お姉さーん!!!」

 負けるわけには、いかない。

 ぞろりとした感覚が駆け抜けて、陽子の刃を翻す力が、速さが増す。
「あああああぁああぁあ!!」
 牙を弾いて、陽子は背後に飛びすさぶ。向かい合う大型犬のような妖魔と、真紅の髪を靡かせる少女は空中で睨み合った。

 負けるわけには、いかない。

 瞳に力が宿る。その瞬間、妖魔の身体がビクリと跳ね、思わず妖魔は後ろに後退る。その一瞬の隙に、ぞろりとした感覚が陽子が判断するより先に駆け抜け、陽子は走りながら刃を振り上げ、妖魔目がけて振り下ろす。
(終わりだ…!)
 振り下ろされる光の筋。だが、妖魔はなんとか身を捩って、その刃をすり抜け、刃先を牙で弾く。
「!!」
 掌から剣の柄がもがれていく。
 あ と思った時には剣は弧を描きながら背後へ飛んでいく所だった。陽子の瞳が見開くのと同時に、遠くから、楽俊達の悲鳴が聞こえた。見開いた翡翠に映る白銀は遠い。

―まずい。

 心で誰かが呟くのと同時に、陽子は妖魔を振り返る。悲鳴が急に体積を増して、膨れ上がる。振り向いたその時、妖魔が足に力を込めるのを陽子は目の当たりにした。
「陽子ぉ!!!」
「逃げろおぉっ!!!」
 ぞろりとした感覚が走る。脳が動きを止めた陽子の足が、勝手に後ろに流れる。妖魔がこちらを振り向き目を細める。

―殺られる。

 「死」という感覚が陽子を満たす。響く仲間たちの声に、無差別な、危険から逃れようと騒ぐ人々の声が耳につく。声という声が撚り合わさる中で、自分の鼓動だけが嫌に大きい。
「陽子ー!!!」
 陽子は息を呑んで後ずさる。だが、身構える妖魔に、もう駄目だ と直感が駆けたその瞬間陽子は目を瞬いた。

「え…?」

「?!!」
「え?!」
「な、何だぁ?」
 虎嘯達の声に動揺が混ざる。陽子は驚いたまま、その場に硬直している。陽子の喉元を掻き切ろうとしていた妖魔、大型犬に似たその妖魔の薄く光る(まなこ)が細まった。殺されるというその直感が陽子を襲った瞬間、同時に誰一人として予想もしない出来事が起こったのだ。

 起きた出来事に―陽子は反応することが出来なかった。

 目を瞬く陽子の目の前で、巻き上がる砂煙が、風に煽られ晴れていく。
 唖然とする虎嘯達と呆然と妖魔を見つめる陽子の姿が浮かび上がる。
驚くのも無理は無かった。先程まで、牙を剥いて襲いかかってきたその妖魔が…


 陽子に向かって頭を下げ、深く深く―額づいたのだ。

:::::


 一瞬、世界から音が消えたのは気のせいなのか。

 陽子は呆然としたまま、自分に向かって深く額づく妖魔を見やる。
「え…?」
 訳が分からない と陽子は困惑した表情で、虎嘯達を振り返る。虎嘯達も、状況を飲み込めていないらしく、ぽかんとした表情をしていた。妖魔を振り返った陽子は声を絞り出す。
「何の…真似だ」
 返答なんて有る訳無い、そう思っても聞かずにはいられなかった。静かに、傍らに突き刺さる、剣の柄を目でなぞる。妖魔は顔を上げ、目を細めた。答える筈が無いと思っていた妖魔は、陽子を見上げて口をきいた。
「私の名は班渠。台輔と王の命により…私はここまで来た」
「?!」
 衝撃で陽子は思わず後退った。目を見開いたまま、陽子は浅く呼吸を繰り返す。脳内を駆け抜けていくその単語に激しく動揺した。
 タイ‥ホ…?
「タイホ…?何のために‥どういう目的で‥貴方はここに来たんだ」
 そんな陽子の様子を気にするまでもなく、低く唸るように、班渠は声を落とす。
「‥探していたものがあった」
「?探す…?何を…?」
 翡翠の瞳が揺らぎ、陽子は班渠を目を細めて見る。班渠も陽子を見つめ返す。
「つかえるべき人物と…殺すべき人物」
「?!」

 『お前なら、従うべき人間が分かる筈だ…』

 班渠の脳裏に浮かぶのは、囁いた己の主の顔だった。あの時、真摯な表情で、景麒は班渠を見つめた。そんな と反論しようとした班渠の意見は聞き入れられなかったのだ。そして、その時同時に浮かぶ漢轍の顔が班渠の表情を曇らせる。忠誠心の欠片も持ち合わせていない、男王、漢轍。景麒が捕らわれた際、彼もまた、班渠に使令を下していた。

 『赤い髪に、緑の目、褐色の肌の娘を殺してこい。殺せなければお前の主人がどうなっても知らんからな』

 班渠は足元に視線を落とし、目を閉じる。
 漢轍と景麒の命令、両者の使令の間板挟みになった班渠は金波宮から飛び出した。景麒の使令には絶対服従、だが、王の使令に背くことも出来なかった。

 班渠はどちらの使令も達成しなければならなかった。

 目を閉じた班渠の瞼の裏に、陽子と対峙した瞬間が目の前を過ぎっていく。つかえるべき人間など、いるわけが無いと、心のどこかで思っていた自分がいた。主人の命令と、王の命令。仕えるべき人間と殺すべき人間、両者を探していたその時、何かに引き寄せられるようにして対峙した一人の少女こそが、陽子だった。
 班渠は目を細めたまま、身構える陽子の姿を瞳に映す。陽子は妖魔の瞳に映った二人の自分と向かい合った。
 困惑する陽子をよそに、班渠は低く言葉を続ける。
「台輔は‥私の従うべきと思った人間に従えと仰った…。私の目で見て判断した、私が従うに相応しい人間をその目で見極めろと」


 刃を交えて、伝わる何か。翡翠の瞳のその強さと美しさ、奥深くにある惹きつけられる何かを――班渠は確かに見たのだ。 


 陽子を瞳に映したまま、班渠は小さく声を漏らす。一目見た瞬間、殺すべき人物の特徴を全て兼ね備えていることに気がついた。殺すべき人間は同時に、彼にとって唯一無二の仕えるべき人間だった。
「王に従うべきか、主に従うべきか…。台輔に従えば、台輔の御身が危険に晒される。王に従えば、台輔も私も何かを失う。だから…」
 班渠はそう言って目を伏せた。
 陽子に出会った時点で、王と台輔どちらの使令も達成することは出来なくなった。どうするべきか―。彼の中では、既に一つの決断が下されていた。
 だから…ともう一度彼は呟いて、陽子を真摯な顔で見つめた。
「私は私に従う。私は―貴方に従う。だから、頼む。台輔の御身を…漢轍から守っては貰えないだろうか

 陽子は浅い呼吸を繰り返しながら、その場に立ち尽くす。やがて陽子の中でゆっくりと世界が回り始めたのを、上空の窓々から落ちる斑の光と、揺らぐ悲鳴が教えてくれた。
 陽子は乾いた唇を押し明け、言葉を紡ぐ。
「私は私に出来ることを…する。貴方は…貴方に出来る範囲なら、私に手を貸してくれるか…?」
 降り落ちる沈黙。声は自分と、目の前の班渠にしか、聞こえていないだろう。虎嘯達が陽子の元へ駆け寄りたそうにしているのを陽子は感じ取っていた。虎嘯が動こうとしている所を、夕暉の腕が止めている。 だが、それには敢えて気づかないふりをしたまま、陽子は班渠をひたと見据えた。暫く班渠は目を細めていたが、陽子の目の前で、静かに頭を垂れる。
「仰せのままに」

 陽子はちらりと虎嘯達に一瞥を投げ、そして班渠に口を寄せる。頼む事柄は‥決まっていた。陽子は一度口を噤み、慎重さを含ませたまま言葉を紡ぐ。
「ならば今から私を‥」
 だが、陽子が言葉を紡ぎ終える前に、ピクリと班渠は動きを止める。瞬時に班渠が周囲を警戒しだしたのに、陽子は気がついた。
「…?どうし…」
 不思議そうな顔をした陽子も、思わず声を止めた。空気を伝って肌に触れる、何か。それは‥遠くから、刺すような――尋常の人間では放てない程の殺気だった。
(?!何だ…?)
 今まで幾度と無く殺気を感じてきた陽子でも、特に、この広がる殺気には、竦む物が有ることを肌で感じ取る。禍々しい空気が当たりを満たし始めていた。空気が冷えを増していく。祥瓊が陽子に向かって叫んだ。
「陽子!!後ろ!!」
 振り向けば、遠くから一人の人影がこちらに向かって歩んでくるのが見えた。肩を揺らし歩く‥あれは成人の男性だろうか。陽子は即座に、地面に刺さった剣を引き抜いて構える。
(何者…?!)
 殺気は濃さを増していく。それは畏怖を感じさせる強さを持つもので、陽子は肌が粟立つのを感じた。こちらに一歩一歩近づいてくる人影に、じっと目を凝らしていた陽子は、はっきりと顕になっていく輪郭を見た途端、息を呑んだ。

 上背のある、筋肉質な男がこちらに向かって歩んできていた。

 一言であらわすのならば、堂々たる偉丈夫とでも、言えばよいのか。迫力のある覇気を纏い、歩くたびに括り上げた黒髪が艶をうって靡く。畏怖を抱かせるだけの威厳を、その男は持っていた。陽子の背後で、鈴が口を押さえて後ろに後退る。
「延王…!!」
「どうして、延王がこんな所に…!」
「延王様!!」
 動揺の波紋が広がる背後の様子を肌で感じながら、陽子は刃を身構える。
「…!!」
 陽子の背中を一筋、冷えた汗が伝っていった。少し翳る男のその顔立ちには、深い闇が浮いている。

 まっすぐにこちらを見つめる黒眸はただ一人、赤い髪の少女だけを映していた。
 風が吹き抜ける中、延王尚隆の顔からは、一切の表情が色褪せている。

「陽子ぉ!!逃げろぉ!!」
「…!楽俊…!!」
 振り返った楽俊が必死の形相で叫ぶ。
「お前は死んじゃいけねぇ!!あの人は強すぎる!!逃げろぉ!!」
「でも…!」
 こちらに向かいくる偉丈夫と背後で叫ぶ仲間たち。双方に視線を送る陽子は声を上げる。陽子に向かって、虎嘯が叫んだ。
「逃げろ!!俺たちがなんとかする!!お前は浩瀚の所へ行け!!!」
「…!虎嘯…!!」
 睨む男は徐々に歩む速度を上げ始めていた。風が緩く吹き抜けて、男は上体を低くする。その足が、陽子目がけて―駆け出した。 視線を揺らす陽子、そしてこちらへ走りだす男の距離が縮まっていく。唇を噛んで、陽子は班渠に向き直る。
(私は‥一体何をしたい…?)
 答える者などいない中、陽子の脳裏に浮かぶのは仲間たちの姿。陽子が自身を信じ切れない中でも、陽子を信じ、全力を尽くしてくれる仲間たちの姿だった。
(みんな‥)
 どうしようも無い、不甲斐ない自分を信じてくれた、彼らの想いに陽子は応えようとその時思った。それこそが、陽子の出来る全てだった。陽子の唇が動く。
「班渠‥」
 目にも見えない速さで、男が自身の腰から刃を抜き放つ。刃の滑る金属音と同時に、陽子は班渠に先程言えなかった望みを叫んだ。
「私を、『こうかん』の元へ連れて行ってくれ!」
 御意 と言う声を陽子が聞いた時には、彼女は班渠の背の上に乗せられ、低く流れていく地面の表面を見ていた。流れる景色、一瞬にして遠のいていく仲間たちの姿。そして、急激に近づく刺客の全映。
 偉丈夫―延は大きく慣れた手つきで刃を振りかぶる。陽子は見も凍る殺気を目の前で見た。
(強い…!!)
 男の目に映る自身の姿は、班渠の脇腹を太ももで掴み、上体を起こして刃を構えていた。男の瞳に自分の姿が映る。だがそれは決して、陽子を「見て」いる訳ではない。瞳の表面に「映して」いるだけだということに、その時、陽子は気がついた。
 何の心もない、技能だけを持つ剣先が弧を描く。それは、自分が決して一朝一夕に追いつける物では無い、決定的な高い剣技の腕だった。
(…!でも…!!)
 陽子は白刃を目の前に振りかぶる。駆ける班渠の、地面を掴んで伝わる振動と舞い上がる土煙の中、陽子は翡翠の瞳を見開いた。
(ここで殺られるわけには…いかないんだ!!!)
 男が目の前に立ちはだかり、陽子は刃を握る腕に力を込める。闇に濡れた黒い眸と見開かれた翡翠の眸。交錯する瞬間、陽子は力の限り叫ぶ。陽子の視界から小さくなる仲間たちと、消えた記憶、自身の自我統一性、放たれてくる刺客の数々の残穢が脳裏で渦巻く。
 陽子は全てを凌駕する。
「どけえぇっ!!!」
 急速に縮まる距離。流れる二つの白銀の輝き。それが噛みあう瞬間、男の双眸と少女の双眸がぶつかり合った。

「!!!」

 尚隆の瞳を捕らえたのは翡翠の珠だった。その瞳がかち合った時、尚隆の瞳が大きく―見開いた。

:::::


 陽子と対峙するその時まで、彼―尚隆にとって、そこは深い闇の溜まり場だった。

 何かを仕留めようとしていた尚隆の腕。振り上げていたその腕を透かして、その獲物が彼目がけて弾丸のように駆けてきていた。彼の剣を握る腕に力が籠もる。 ここがどこかも分からない。自分が何をしているのかも分からない。ただ、たゆとう世界の中で彼はゆらりと身体を任せていた。何も分からなくて、どれだけの時間が経ったのかもその空間では分からなかった。
 だが深くて柔らかい闇の中、唐突に光の筋が差し込む。意識を乗っ取られ止まる筈のない男の動きがその瞬間止まった。
 漏れ込む光の筋を透かして、その時、尚隆が認識したもの、それは力強い、覇気を湛えた翡翠の瞳だった。

 男―延王、尚隆の黒い瞳が大きく広がる。

(?!!)
 翡翠の瞳を見た瞬間、暗く閉じ込められた世界から一気に引き摺り出されるような強い感覚が尚隆を襲う。強い目眩を感じ、現実の世界の彼の刃が迷った。

「ぐ…!」

 意思を湛えた翡翠の強さにその時彼の自我が引き摺り出される。尚隆は思わず暗闇の中でたたらを踏んだ。陽子の瞳を見つめることで、吹き出す記憶と尚隆の意思に、操られた彼の身体が動きを止めた。眩む頭を振って、尚隆は瞬きをする。

 白刃を翻す、真紅を靡かせる一人の少女。凛としたその立ち姿を尚隆ははっきりと認識した。

(…!!!)

 風の嵐が吹き乱れる。巻き上がる砂煙と揉まれる真紅と漆黒の波。目の前の少女の鋭い声が聞こえた。
「どけえぇっ!!!」

「!!!」

 慶国の王に関する記憶の全てが尚隆を駆け抜ける。
 腐敗した政、荒れ果て、誰もが見捨てた痩せた国土、飢餓に苦しみ今日生きる命さえもままならない何万という民‥そんな腐りきった国を抱く、赤子と言う名の下、自分と同じ立場を掲げる革命の女王の記憶が噴出す。

 (陽…子…!)

 全てを思い出す延王、尚隆。瞬きをする自身に向かって刃を振りかぶるのは、輝く翡翠の持ち主。

 尚隆を向かいうち、髪を靡かせるその姿は、それは紛れもなく――彼と同列に並ぶ、一人の覇者だった。



back index next