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 肩に乗せられた手の温かさに、陽子は眼の奥が熱くなったのを感じた。
 目の前で笑う太陽のような笑顔、その顔に、陽子は瞳の奥から雫が零れそうになるのを、口をへの字にして耐える。肩に広がる温かさと、心に広がる温かさが融け合って波のように打ち寄せる。楽俊と出会ってから、涙腺が脆くなったのは気のせいでは無かったか。楽俊と出会うまでの自身はあまりにも「独り」であったことに、陽子はその瞬間気がついた。虎嘯の輪郭が涙で緩むのを見ながら、たまらず陽子は俯いた。
「?!何だ?何か気にさわったか?怒鳴っちまったからか?お、俺ぁただお前のことをだな…」
 虎嘯は何も飲み込んでないかのように目を白黒させ慌てている。陽子はくすくすと声を上げた。小さく漏らしたありがとうという言葉、陽子の顔がほころんだのを見た虎嘯も釣られて笑う。
 だが、笑っているその時には、再び枕が二つ、空を切って飛んできていた。虎嘯の顔面に枕がぶち当たって跳ね返る。
「げっ?!!」
「「ところでいつまで、触ってんのよ、虎嘯!!」」
 再三、枕とは思えない衝撃力に吹っ飛んだ虎嘯は、鈴達を見て叫ぶ。
「そ、それだけで枕投げたのか?!お前ら何でそんなに怒る?!そもそもこいつは男じゃ…」
 訳が分からないと虎嘯は二人を見る。正論を言っていると彼が思ったその時、二人の目が逆三角形になる瞬間を、虎嘯は目の当たりにした。
「「陽子は女の子よ!!」」
「お、女ぁ?!」
 目を飛び出しそうな位見開いた虎嘯の顔を見て、陽子が盛大に吹き出した。声を上げて笑う陽子の隣で、祥瓊が白い目を虎嘯に向ける。
「陽子は私達の英雄よ。英雄(ようこ)に触れる者が居たら消すわ」
「そうね。ましてそれが虎嘯や桓魋だったら瞬殺モノよね」
「待て!!どういう事だ!?嘘だろ?!!勘弁してくれ!!」
「どうしようかしら…(莫迦ね。そのつもりは無いわ)」
「しょ、祥瓊 お、お前本当は微塵も迷ってねぇだろう…俺には真意が透けて見えるんだが…」
「あら、気のせいじゃない?(よく分かってるじゃない)」
「鈴…お前ら…」
「…っあはははっ」
 冷や汗を幾つも浮かせる虎嘯の横で、陽子は笑う。焦る虎嘯に、笑う陽子と逆三角形の目をした祥瓊と鈴に、夕暉は小さく笑った。 
 そして騒動がひとまず落ち着いた時、夕暉は、兄の顔を見上げながら首を傾げる。
「それにしても、今回の事件の黒幕はどんな風に手を回しているんだろう…?叩こうにも、まず誰を叩けばいいのか分からなきゃ。闇雲に動くことこそ最も危険で愚かなことだ。さっきの兄さんは僕が誰かを認識してなかったみたいだった。ただ、誰かに命令されて、意識を奪われてそれに従っている‥そんな感じがした。桓魋さんも、そう。…兄さんはその時のことは覚えてないんだよね?」
 虎嘯は眉尻を下げ、しょんぼりと項垂れた。しゅんと巨体が小さくなる。
「す、すまん‥何も覚えてないんだ‥。ここに来る前に、桓魋を助けてくれって浩瀚に話をつけに行った所までは覚えてるんだが‥」
「浩瀚…?元麦州候 冢宰の‥あの「浩瀚」?」
「お、おう。めちゃめちゃ頭良いんだ。あいつの言ってることは筋が通ってて、それに公平に物を見てる。仁道に外れるような奴じゃ無いって断言出来る。徳と知識、能力全てを兼ね備えた奴だと思うんだ。でも、ここ最近あいつも様子がおかしいんだよ」
「…?どういうこと?兄さん」
 鼻から息を吐いた虎嘯を鈴、祥瓊、陽子が見上げる。
「浩瀚様‥確かに最近姿を見かけなかった気がするわ」
「そうね」
「…?」
 虎嘯は腕を組み合わせ、顎を引く。
「浩瀚…あいつは頭が切れる奴なのに、今起こってる状況も分かってなくて、桓魋に何が起こっているのかも分かってなかった。自分の思考もまとまってない感じだった。何だか‥覚醒してないような‥。あいつに限って、そんな事態本来だったらありえねぇ。かと思ったら、急に、別人みたいになって、いつもの饒舌に戻ったんだがあれは浩瀚じゃ無かった。あんなの‥違ぇ。俺はそんなあいつと目を合わせた所から記憶がねぇんだ。そんで気がついたら、俺は倒れてて、夕暉達がいて…陽子と桓魋が戦い合っていたんだ」
 虎嘯は瞳の中にある珠を右上にずらし、思案顔になる。
「浩瀚も、桓魋と一緒だ。本物のあいつは奥深くに閉じ込められて、良いように使われてるとしか俺は思えねぇ」
「そんな…」
 静寂が静かに降り落ちる。暫くして、顎に手を掛け、思案していた夕暉が、はたと視線を上げた。
「そうか…。彼は慶国で最も有能だと言われる官だ。しかも、冢宰。浩瀚を自分の物にすれば、王宮内部の権力状態はほぼ全て把握出来る上に、掌握も出来る。浩瀚も鍵となる人物の一人なんだ。逆賊の疑いを掛けた人間一人を消すのに、禁軍まで出す必要は無い…。慶国の軍のほとんどを実際に動かせるのは、王を除いて彼だけだ。犯人が浩瀚を、操っていたのなら、全てに合点が行く」
「じゃあ、私達はどうすれば良いの?」
 夕暉は顔を上げた。
「やらなくてはならないことは分かってきたよ」
 見つめる視線を感じながら、夕暉はゆっくりと言葉に真意を含ませる。
「僕らは浩瀚を正気に戻さなくちゃいけない。彼を救い出せたら一番良いんだろうけど、状況が状況だけに難しい可能性の方が高い‥。浩瀚は頭の切れる人だ。とにかく、彼を正気に戻せば、きっと彼は自分の判断でその場を乗り切る。下手をしたら、僕達が考えている以上の策を編み出せると思うんだ。それだけ能力の高い人だ。僕たちはまず、浩瀚と接触しなくちゃいけない」
 目を伏せていた陽子が小さく呟いた。
「こうかん‥か」
 声は小さく溶けていく。視線をずらせば、 深く澄んだ夜の闇に、月だけが、光の雫として落とされていた。本当に分からない事だらけだな‥と陽子は苦虫を噛み潰したような顔をする。

 だが眉を顰め、考え込んでいたその時、彼女は―どこかから自分目がけて殺気が走ったのを感じ取った。

(?!)
 周囲を見渡しても、何もない。仲間たち以外に人影一つ見えなかった。鈴が首を傾げる。
「陽子?」
「い、いや…」
(‥気の…せいか…?)
 陽子は僅かに眉を寄せ、自分の不安を抑えようとする。
 だが彼女の予想は外れていなかった。

「ハッ‥ハッ…」

 闇夜を裂く銀色めいた輝きが視界に筋を創る。それは金波宮から放たれた、一匹の獣だった。その輝きがある二つの命令の下、陽子達のいる場所駆けてきていることを、今の陽子達は未だ―知らない。

 空の彼方の月、翡翠の瞳に浮かぶ金色の雫に‥陽子は静かに目を細めた。

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 とても遠くて、近い場所から、声が重なって聞こえてきた。横たわったまま水の中に居るような不思議な感覚だけが楽俊の身体を満たす。藻掻くように彼は身を捩る。
(早く…起きねぇと…)
 伝えなくてはならないことが有るのだ。彼の大事な人に大事な真実を。自分の思い出した本当のことを。意識だけの世界で、楽俊は顔を歪める。何故、陽子がこれ程までに苦しまなくてはならなかったのか、知ってしまったその理由と重さ、彼女の役割の大きさに、自分の口から呻き声が漏れる。
(何で…陽子なんだ)
 楽俊の脳裏に、その役割は自分では出来ないと、唇を噛んでいた陽子の姿が過ぎっていく。その姿は、普通に生きている少女と何ら違いは無かったことに今更になって楽俊は気がついた。責任の重さに押しつぶされそうになる一人の少女、唇を噛み締め肩を震わせるその幻影に、楽俊は語りかける。
(でも…今になって、やっぱりおまえにしか出来ねぇんだってことも‥おいらは分かったんだよ)
 記憶の少女は僅かに驚いた顔をした。そして、泣き笑いのように顔をくしゃりと歪める。記憶を失う前になぜ自分が慶に足を踏み入れたのか、その理由も思い出した。
 遠くて近い声が、近づいてくるのを楽俊は感じた。
(おいらがずっと側に居てやるから…)
 声が届いたかどうかは、分からない。楽俊の心に残像として残るのは、ただ、嬉しそうに笑う陽子の顔だった。
 楽俊は響く声に釣られるようにして、覚醒の水面へと…浮かび上がった。


 陽子達が「浩瀚」と、彼にどう接触するかについて議論を交わしていたその時―消えた声と入れ替わるように小さな声がした。
「よ…う‥こ」
「え…?」
「!! 楽俊!!!」
「楽俊!!」
「楽俊さん‥!」
 呻く青年の細い声が聞こえる。押し開けられる楽俊の瞼に陽子は目を見開いた。楽俊が、意識を取り戻したのだ。一瞬彷徨った瞳が…陽子を映して止まる。唇が動いて―彼の親友の名が零れる。
「陽…子‥」
「楽俊!!」
 陽子は楽俊に向かって我武者羅に駆け寄ろうとする。
 だが、楽俊の顔を見た途端、陽子の動きが思わず止まる。陽子は困惑したように瞬きをした。

(どうして…どうしてそんなに辛そうな顔をするんだ‥?)

 喜びも束の間、全てを思い出し、苦しそうに歪む楽俊の瞳に、陽子は胸を締め上げられた。

 彼は、一体何を思い出したというんだろう。

 知りたくても、彼の心は透かして見える訳ではない。心のどこかで古い傷が疼くような感触がして、陽子は思わず手を胸に当てる。何故楽俊は辛そうなのか、分からなくてもその事実は陽子の胸を、心を、締め上げる。
 楽俊の唇が、何かを伝えようとするかのように動く。だが、その震える唇の動きは、陽子にはその時読み取ることが出来なかった。
(え…?!)
 陽子は瞬きして、楽俊を見つめた。だが、陽子が彼の唇の動きを追おうとしたその時、窓硝子に黒い影が浮かぶ。
 まるで図ったように、楽俊の声がかき消される程けたたましい、硝子の砕ける音が響き渡った。
「?!!」
「何だ?!」
 白く濁った硝子が―弾ける。煌めく礫の中から現された姿に、一同は騒然とした。
「嘘…?!」

 そこに飛び込んできたのは、夜の闇に毛並みを濡らす大型犬の様な妖魔だった。

「班渠…!!」
「どうしてこんな所に台輔の使令が?!」
 陽子の動きが止まる。楽俊を見て、そして、妖魔を見る。妖魔の輝く眼に自分が映っていて、固まった表情の自分が、自分を見返しているのが見えた。
「陽子…!!」
 陽子は息も出来ないまま、目を見開いて妖魔を凝視していた。心で小さな声が呟く。
 
 楽俊に駆け寄りたい。

 でも、妖魔の目当ては自分だということを、陽子は瞬時に悟っていた。
「陽子!!」
 楽俊は必死の形相で、陽子に向かって何かを伝えようとしていた。側にいたいという想いと、彼らを守りたいという想いが渦巻いて、陽子の顔が歪んでいく。
「陽子…!!陽子!!!」
 傷を押さえて叫ぶ、楽俊の声が響き渡る。伝えなくてはいけない、そう楽俊の中で声が駆け抜ける。
「お前は‥本当は…!!」
 どうか、届いてくれ と楽俊は渾身の力を込めた。

慶国の、王だ。

 唯一無二の、この国を統べるべき者だということを、なんとか伝えようと楽俊は傷を抑えて声を張る。一際大きな硝子の割れる音が広がって、楽俊の声が、途切れ途切れに流れていく。その声は――掻き消されて、陽子には…届かない。必死の楽俊の顔と見つめる陽子の額には汗が浮いていた。 
 陽子は唇を強く噛む。

 楽俊の心を知りたい。でも、彼女に迷っている時間は無かった。

(ごめん…楽俊)
 楽俊が何と言っているのか、陽子には聞き取れなかった。陽子に出来たのは、楽俊を、鈴達を守るため、近くの窓硝子を割って外に飛び出ることだった。硝子の砕け散る音と共に、すかさず、妖魔も陽子を追いかけ彼女の軌跡を辿る。鈴達が叫ぶ。
「陽子!!」
広途(おおどおり)だ!!追うぞ!!」
牀榻から転がり落ちるようにして、楽俊が地面に足をつく。
「陽子…!」
顔面蒼白な楽俊に、祥瓊が驚いたように叫ぶ。
「楽俊!貴方は…!」
「行かせてくれ!!」
叫ぶ楽俊の必死の形相に、叫んだ言葉に鋭さに、祥瓊の目が見開く。それ以上は何も言わず、祥瓊は楽俊の肩に手を回した。
 吹き荒れる風の通り道に逆らい、彼らは目の前の広途に飛び出した。

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 外に飛び出した陽子の顔を、交錯し、吹き荒れた風が叩いていた。

 どこまでも続く長く大きな大通り、陽子は一匹の獣と睨み合うようにして対峙していた。
鋭い視線を投げ、陽子は妖魔を睨みつける。緊迫度を増していくその空気、騒ぎを聞きつけたのか、家々の窓から所々灯りが灯り始めた。疎らに点き始めた灯りが道に斑の光を落とす。真夜中の空間、外の様子を見た誰かが甲高い悲鳴を上げる声を、陽子は聞いた。
 顔に不可思議に落ちた、窓から漏れた光だけが、固い陽子の表情を浮かせている。そして今にも襲いかかろうと足に力を込める妖魔を見据えながら、飛び出てきた虎嘯達が駆け寄ろうとするのを陽子は手で制する。


 ここで、殺られる訳にはいかなかった。


 連鎖するように聞こえ始めた悲鳴の中で…陽子は自分の内部に―ぞろりとした感覚が走るのを感じた。 



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