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―陽子の目の前で繰り広げられるのは、親しい者同士が顔を合わせて思ったままを言い合う光景だった。
 その中にある、騒ぎながらもどこか慣れ親しんで、当たり前みたいに形作られた絆を‥不意に陽子は目の前で見た気がした。
 

 陽子は騒ぐ三人の横で顔を伏せた。こんな風景を、自分も持っていたのだろうか。楽俊との関わりさえ、今の自分は思い出せない。胸の内で何かが動いたが、それに陽子は―気が付かない振りをする。それは胸を突く痛みと‥もどかしさと‥羨ましさと‥諦め…?

(私は‥何を望んでいる‥?)

 心で呟いた誰かの言葉を陽子は押し隠す。羨望の眼差しを僅かに送っても、得られる物なんて無い。結果的に自分のせいで傷を負ってしまった楽俊に一瞥を送り、陽子は唇を噛み締める。今、自分が出来ること‥。それは彼らとこれ以上関わらないようにすることだということを陽子は直感的に感じ取っていた。押し黙る陽子に押されるように会話は少なくなっていき、やがて視線はただ一つ陽子に集まっていく。こちらを向いた三人に、陽子は目を逸らし、口を開いた。
「‥名乗っていなかったが、私は‥陽子だ。陽気の陽に、子供の子で陽子」
「陽子…」
「あぁ。もっと色々自己紹介をしたいが、それ以外は…何も言えない。何も…覚えていないんだ。私には記憶がない。自分の名だって、楽俊が居たから取り戻せたばかりだ。他に今分かることは、私は楽俊の友人で、そして逆賊として国から追われていることくらいかな‥」
 自分の声が淡々と空間に響いていく。先ほどまでの空気が徐々に薄れて重みを孕んでいくのを感じながら、陽子は口を噤む。じっと陽子の側に腰掛けて、彼女を見上げていた夕暉は堪えきれないように口を挟んだ。
「でも、お姉さんは…」
「いいんだ、夕暉」

 空気が停滞する。

 陽子はそっと手で夕暉を遮る。夕暉の、何か言いたげな表情を浮かべた眸を見た陽子は静かに目を伏せて言葉を続ける。
「事実であることに変わりはない。私は逆賊として、国の敵に位置する立場だ」
 鈴、祥瓊、虎嘯は無言のまま、陽子を見つめる。視線が自分に注がれているのを肌で感じながら、陽子はそれでも喋ることを止めなかった。顎を引き、翡翠の瞳を持ち上げて、陽子は彼らを見渡す。自分の望む物を持っている彼らが‥陽子の目には眩しかった。けれど、彼らの領域にまで自分が踏み込んでしまうつもりは――無かった。
 冷えた空気を吸い込んで、そして陽子は簡潔に「事実」を言い放つ。

「貴方達は国の中枢の人間だ。私と関わることで、貴方達の立場は今、危ぶまれる物になっていると思う。ここに追手が来るのも時間の問題なんだ。私と共に居る所を見られたら不味いと思う。それは貴方達だって分かるだろう?」

「でも…そんなこと‥」
鈴が我慢しきれない様口を開いたが、陽子はそれを片手で制する。
 足元を見つめながら、だから‥と陽子は足先で床を叩く。一瞬口に出すのを戸惑っていたが、だが陽子は緊張した空気の中、含めるようにその言葉を―言った。

「私はもうここを出る。ここでの私達の関わりは無かったことにして欲しい。次に会った時は‥私を全力で捕らえようとしてくれて構わないから」

「?!何を言ってるの?!」
「そんなの嫌よ!」
 鈴と祥瓊が口々に異論を申し立てる中で、陽子は口元に力を込めた。虎嘯の顔の表情に少しずつ、厳しさと怒りが流し込まれていくのに気がついていたが、こうするしか無いんだと陽子は唇を噛んだ。
「すまない…お願いだから、聞き入れてくれ」
 楽俊が教えてくれたことが活かせていないな‥と陽子は苦い想いを噛み締める。だけど、楽俊を巻き込んだ今の陽子にとって、彼女達まで危険に晒すことは出来ないし、したくないことだった。何よりも‥と彼女は途切れかけた言葉を継ぎ穂する。
「私は楽俊を‥巻き込んでしまった」
 だけど楽俊はきっと、別に良いと言ってくれる‥。いや絶対に言ってくれると陽子は思った。楽俊はそういう人だった。陽子は声を引き絞るようにして言葉を続ける。
「彼は気にするなってきっと言ってくれると私は思う。けれど、やっぱり私は私が許せない。今回のようなことはもう二度と起こってほしくないんだ…。貴方達が怪我をしたり命を落としてしまったら私はもう耐えられない‥」
 誰かが傷つく光景を見る、それだけで陽子自身が身を抉られるような気持ちになるのだ。だから、陽子は親しい人をもうこれ以上作るわけにはいかなかった。そうなる前に陽子は姿を消すつもりだった。ここにいる人々とは目を合わせずに、陽子はもう足早にその場から踵を返す。
「だから私は‥もう行く。また、この事件が終わったら、今度こそ普通に、会えたら良いな」
「!待って!!話はまだ‥」
「じゃあな」
 鈴の引きとめる声が背後でしたが、陽子はすり抜けるようにして、宿屋の出口に向かって足を踏み出す。許してくれと心の奥底で呟いて、その声を沈める。
 目の前に広がるのは虚空の暗闇だ。暗闇に身体を潜らせようと陽子は歩みを止めない。
 だが戸口をくぐり抜けようとしたその時、陽子の目の前を、筋肉質な腕が塞いだ。
「…?!」
 陽子は見上げた虎嘯の表情に思わず口を噤む。じっと見つめる彼の真剣味を帯びた顔は、有無を言わせない何かが有った。だが、陽子も負けじと、視線を鋭くして虎嘯を射る。
「‥どけ」
「嫌なこった」
「どけ!」
「行かせねぇ」
 すんなりとこの場を去れると思っていた陽子は面食らった。虎嘯も陽子に負けず劣らず、視線を鋭利に尖らせながら口を開く。
「ちょっと待てよ、お前それは横暴なんじゃねぇのか?自分の言いたいことだけ言って、そんで消えちまうのか?それじゃあ俺たちのためって言っておきながら、俺たちの意見は無視じゃねぇか。俺たちを気にかけて案じてくれるんなら、ちゃんと俺たちの意見をふまえて、双方が納得出来る結論を出してくれよ。俺たちは皆、お前のことを行かせたくねぇってこと、お前分かってるのか?」
「でも…!」
これでは、先程の楽俊のように巻き込んでしまうかもしれない‥もっと酷いことになるかもしれない‥その思いが渦巻いて陽子を焦らせる。正論なんか、いらない。早くこの場から一人消えてしまいたかった。だが、そんな陽子とは裏腹に、虎嘯は決して彼女を通す気は無さそうだった。何故、と陽子は歯噛みする中、虎嘯は珍しく淡々と続ける。
「楽俊にも同じことを言われたんじゃねぇのか?巻き込まれたかもしれねぇけど、でも、あいつはちゃんとお前の気持ちを汲んでるじゃねえかって俺は思うぞ。あいつはきちんと約束を守ってる。お前に対して命張って、それでもって、ちゃんと生きてるじゃねぇか‥お前のためによぉ」
「‥!」
 虎嘯は息を吸い込んで、揺れていた瞳の動きを止めた。

 唇を震わせた太い声に、想いが、混ざる。

「自分ばっかり犠牲にして、人を守るのか。俺たちはお前を行かせたくねぇ。これから色々お前のことを知れると思ってた矢先、いきなり 私は貴方達を危険に巻き込みたくないから消えます って言われて、はいそうですかって俺たちが言うわけねぇだろう。行くんだったら俺を倒して行け。俺はお前のことを守れるんなら、何だってしてやる。お前が俺らが傷つくのを見たくないのなら、絶対に傷を負わないって約束してやる。お前を悲しませないって約束してやる。その約束を死ぬ気で守ってやる」
「…!!」
「私も力になりたい。同じことを約束するわ」
「私も!」
「僕もだ」
虎嘯は含んだように陽子を見下ろした。
「…これが俺たちの意見なんだけどな?陽子」
「でも‥それじゃあ貴方達‥!」
 言葉をつまらせた陽子は、驚いて周囲を見渡した。冗談の色を抜いた空気の中で、陽子は思わず立ちつくす。狼狽する、陽子の目に見えていた紺青の波が艶を放って、仄かな花の良い香りが鼻をくすぐる。ずっと黙っていた祥瓊が静かに陽子に歩み寄れば、柔らかくて、爽やかな上品さを放つ、香水のような香りがした。そして陽子の耳に気が強くて、尚且つ優しい声が流れる。
「陽子…貴方が私たちのこと考えてくれているのは分かるわ。でも私たちだって貴方を危険な目に合わせたいなんて思ってない。それに、王宮に仕えているのは本当だけど、私たちはどうしてあそこに仕えているのか…まるで記憶が無いの」
 え…?と陽子の顔に衝撃が流れ込む。驚く陽子に、祥瓊は不器用に口元を曲げてみせた。
「それもまた、事実なのよ。実際の所、私たちは今の王に対する信頼も、忠誠心も生憎持ち合わせて無いわ」
 狼狽して口を開け閉めする陽子に向って、鈴も笑みを零す。
「そういうことよ。貴方が心配することなんて無いわ。王宮に仕えてるなんて今はもう唯の肩書きみたいな物なのよ。私たちは、私たちのやりたいようにやるわ。免職されたって構わない。そんな事で根を上げる程、私たちはやわくも幼くもないの。それよりも、あそこに何も考えないで居続けることの方が問題だわ。そう思わない、夕暉?」
 夕暉は何も言わずに陽子たちを見つめていたが、ふふっと小さく声を零す。静謐な光を湛えていた瞳が濡れて、口元が弧を描いた。
「その通りだね。さすがだ」
「夕暉…!」
「お姉さん、僕は今回ばかりはこの人たちの言い分を聞くべきだと思うよ。お姉さんは捕まっちゃいけない、それに国の中枢の人間に直接会わなきゃならない。それを一人きりで出来ると思う?兄さん達の協力が有るのと無いのとでは雲泥の差だ。それに心配しなくても…」
「俺たちは強ぇぞ」
「虎嘯…!」
 虎嘯はニッと不敵な笑みを口元に浮かべる。顔の造りは弟と全く似ていないのに、この二人が浮かべている笑みが恐ろしく似ていることに、その時陽子は気がついた。
「なぁ、力にならせてくれよ。俺は今暴れ足りなくてウズウズしてんだ。俺はお前に迷惑もかけちまった。その詫びをさせてくれ」
 固まっていく周囲の様子に、陽子は目を左右に揺らす。何故、こんなに自分に良くしてくれるのだろう。一体、どうして…とほとほと困り果てた陽子は小さく息をついて、言葉を零した。
「どうして…こんな私にそこまでしてくれるんだ…。私たちは初対面の筈だ‥。何の関係も無い筈だ!私を庇っても何も貴方達に良いことなんて無いのに…!」
 そうだ。何の利益も無い。初対面で義理もない。彼らの身を危険に晒すだけ。それ以上の何があって、彼らは陽子の側に付いてくれると言うのだろう。
 陽子の言葉に、虎嘯はきょとんと目を丸くする。陽子は僅かでも虎嘯が怯むだろうと、彼を見つめていたが、反して虎嘯は一拍置いて、豪快に笑ってみせた。 
 鈴と祥瓊、夕暉が微笑む中、陽子の肩を温かくて大きな手が包む。意味がわからず益々困惑する陽子に、簡単な理由だ と虎嘯は少しだけ笑いを押さえて、いたずらっぽく彼女を見つめる。そうだな と虎嘯は呟いた。
「俺たちがそうする義理も無いのにって思うよな。繋がりを持つ前に消えちまおうってお前は焦ってた。でもなぁ、いくらお前が焦ったところで、俺たちがお前を助けるだけのたった一つの決定的な理由はもうちゃんと出来ちまってたんだよ」
 え?とまん丸く開いた瞳に向かって虎嘯は笑う。
「人が人を好きになるのなんてあっという間さ。人が本当に人に惚れ込むのに、べらぼうな時間も、男か女かも、年取ってようが若かかろうが、そんなもん関係ねぇんだ」
 彼は陽子を瞳に映す。消えようとした所残念だったな と虎嘯は口元に笑みを浮かべた。
「今の俺たちはもうお前の事、気に入っちまってるんだよ!だからお前を引き止める、お前を一人にしたくねぇから!だからお前を手助けする、俺たちはお前の事が好きだから!それ以外の理由?悪ぃがそんなもん他にねぇ!!!」



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