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 桓魋の身体が崩折れる。陽子は彼が地面に倒れる前に、彼の身体に手を回し、身体を支える。陽子に桓魋の体重全ては支えきれないが、それでもゆっくりと巻き込まれるように足を折って地面に膝を着くことで、彼が石畳に激突するのを避けた。
 桓魋はもはや、ぐったりと意識は無い。自分に寄りかかる武人、彼が最後に自分を見て言った言葉、その意味が分からず、陽子はただただ眉根を寄せる。
(しゅ、じょう…?)
 どこか掠れて、それでも何か大切な者を呼ぶような声だった。意味を聞こうにも、今の彼は意識がない。自分の中で疼くもどかしさを潰すように、陽子は強く唇を噛み締めた。
「お姉さーん!!」
 その時、陽子の耳に二人の人間の声が聞こえる。振り向けば、夕暉ともう一人、少女が駆けてきていた。
 駆けてくる黒髪の少女を見た陽子の瞳が大きく見開く。
「貴方は…」
 鈴は息を切らしながら、しっかりと陽子を見据えた。
「私は鈴よ。ずっと、貴方の事を探してたの…」
 そうか と呟けば、中から騒ぎを聞きつけて出てきた人々に運び込まれていく楽俊の姿が見えた。陽子の顔が歪む。
「楽俊…」
 そしてそこには、紺青の髪の少女がいた。少女は戸惑い心配したような眼差しこちらを見ていたが、やがて意を決したように、楽俊が連れていかれた方へと彼女も姿を消した。
 彼女の元まで駆けてきた夕暉が息を弾ませる。
「お姉さん、楽俊さんは大丈夫だ。彼を斬ったのは…」
 武人を体全体で支えながら、陽子は手で遮った。
「分かっている…。この彼が楽俊を傷つけたわけじゃない‥」
 夕暉の目が僅かに見開く。
「じゃあ…お姉さんどうして‥。分かっていて、わざとこの人と打ち合ったということなの?」
 一瞬、沈黙が緩く夕暉と陽子を包んだ。陽子は視線を落としたまま、重たい口を押し開く。
「…いや、途中までは本気だったよ。でも本気なのになぜか…殺せなかった。なぜだろうね。楽俊の時の感覚と一緒だ。もどかしかった」
 陽子は瞬く。低い声が続いた。
「だけどそれで良かったんだ。夕暉の声が聞こえた瞬間‥私は貴方同様、楽俊を傷つけた犯人を‥見たんだから」
「…!」
 衝撃が流れ込んだ夕暉の顔を見て、陽子は唇を噛み締めたまま頷いた。その顔には辛さが浮き出ている。楽俊が消えていった方向を見ながら陽子はきつく目を閉じる。
「楽俊は…生きていた。私とした約束を守って、生きていてくれた。 だから私は自分を取り戻せたんだ。その時に、気がついたんだ。正気を失くしているこの人じゃあ無い、この人は操り人形としてここに送られてきただけ、そしてこちらを見ていたあの犯人の存在に気がついた。楽俊が、私に本当の犯人を‥教えてくれたんだ。この人の相手をしながら、あいつを斬ることは無理だった。あいつを斬るか、この人を救う…。今は正気を取り戻させてこの人を救うことが先決だと私は踏んだんだ。きっと楽俊もそれを望んでいると思ったから」
「お姉さん…」
 陽子はますます強く唇を噛み締める。自分の存在を認めてくれた楽俊の嬉しそうな顔が胸に焼きついている。二人の絆とそして脳裏に広がる…澱んだ赤の花びらが不意に脳裏を過ぎった。うっすらと滲み始めた、錆びた鉄の味が舌を汚していくのを感じながら、陽子は でも と声を絞り出す。
「私は楽俊を傷つけたあいつを決して許した訳じゃ無い‥!何としてでもあの犯人を追い詰める。そしてその上にいる黒幕も引きずり出してみせる。楽俊を傷つけ、そしてこの人に無理矢理こんなことをさせるような人間達を私は許さない…!!」
 怒りと悲しみを固めた表情のまま、陽子は掌を握り締める。
 月の燐光が降り注ぎ、陽子の顔を美しく浮かび上がらせる。陽子の顔が美しく見えるのは、その表情の奥に揺るがない何かが隠されているからかもしれない。それは誰かのために―生まれた何かなのか。
 夕暉は陽子を見つめたまま、言葉なく頷いて見せた。その時、遠くから響く声が三人を包む。
「夕暉!鈴!桓魋!!」
 振り向けば、楽俊を抱えていた背の高い男が、こちらに向かって駆けてきた。
「兄さん!」
 声を上げる夕暉の横で、陽子は僅かに眉根を寄せる。恐らく、今まで自分が見てきた中で、誰よりも背が高い男だった。筋肉質な身体は男の強さを物語っている。
「大丈夫か?!」
 駆け寄った男は夕暉を見て、そして思わず足を止める。
「…!」
 桓魋を支える一人の少女、凛とした美しい少女の見つめる瞳に―その時彼は気がついた。虎嘯の動きがピタリと止まって、陽子を凝視する。
(こいつ…)
 唐突に心に湧き上がる不思議な感覚に、虎嘯は何も言葉が出なかった。だが陽子はそんなことには気がついていないようで、意識のない桓魋を虎嘯に預ける。
「楽俊を、ありがとう。この人を‥頼んでも良いか。楽俊の元に行きたいんだ」
「?!お、おい!」
 待て そう心が呟いたが、崩れそうになる桓魋を支えながら、虎嘯は陽子の背に叫ぶことが出来なかった。言葉を交わす間もなく、陽子は立ち上がり、階段を駆け下りていく。陽子の頭の中は楽俊のことで溢れていた。虎嘯はただ、何も言えずに陽子を見つめる。

―誰だ。

 目を見開いたまま、虎嘯はその場に立ち尽くす。虎嘯の中で、紅の色を見た瞬間、何かが蠢く感覚がしたのは気のせいか。それは胸に疼く‥何かのように感じた。 
 鈴も慌てて彼女に続き、階段に足を掛けた陽子の背を見ながら、虎嘯が 夕暉、と言葉を漏らす。
「俺は‥今何かを忘れてる気がしたんだが…お前は気のせいだと思うか」
 虎嘯のその目はずっと陽子の後ろ姿を見つめていた。
 冷えを含んだ風が虎嘯の顔を撫でて流れていく中で、月明かりに濡れる兄の顔を見上げながら、夕暉は寂しそうに首を横に振った。

 過ぎった不思議な感覚だけが手元に残っていて、虎嘯はそれを握り締める。

 先程の紅が翻って、虎嘯の脳裏に‥焼き付いていた。
 

:::::


「楽俊!!」
 牀榻に横たわる優しげな顔立ちの青年を見た途端、陽子は迷わず駆け寄った。ここは一階の奥の臥室の一つだ。開け放たれた部屋の中は簡素な造りながらも丁寧に掃除がされていた。中にはいくつか牀榻が有り、その一つに楽俊は介抱され寝かされていた。
「楽俊…」
 見つめる楽俊の表情は穏やかだった。手当をされた彼の胸元は今規則的に上下を繰り返していて、陽子はそこにそっと掌を当てる。小さく息をついた陽子の耳に、はっきりと輪郭を持ちながらも、優しくしっとりと艶を帯びた声が聞こえた。
「大丈夫よ。命に別状は無いわ。きっともうすぐ目を覚ますと思う」
 振り向けば、先程の紺青の髪の少女が立っていた。その少女の美しさと、品の良さに陽子は思わず呆ける。陽子を見つめて、少女は少しだけ笑んでみせた。
「私は、祥瓊よ。鈴を‥桓魋を、助けてくれて…ありがとう」
 陽子は何も言えずに、彼女を見つめる。鈴や、桓魋、楽俊達と出会った時と似た感覚が陽子の中を駆け抜けていく。
「ありがとう…。貴方が彼を介抱してくれたんだね」
 じっと陽子の顔を食い入るように見つめる少女に、なんとなく気恥ずかしい陽子は視線を逸らした。少女はそれでも陽子から視線を逸らそうとしない。これ程目鼻立ちが整った、見目麗しい少女を陽子は見た事が無かった。
 少女、祥瓊は肩を竦めてみせた。
「大したことじゃ無いわ…本当に。彼は私にとっても大切な友人なの。それに貴方は桓魋を救ってくれた…」
 桓魋、そう言った瞬間、少女の顔に堪えるような何かが浮かぶ。瞳を伏せた彼女は酷く透明で美しくて、陽子は思わず言葉を失う。
 陽子が声を掛けようとした時、上から武人を抱えた虎嘯達が降りてきた。その姿を見た途端、祥瓊が桓魋!と声を上げて駆け寄る。
「大丈夫だ。気ぃ失ってるだけだから、すぐ目は覚ます」
「虎嘯…」
 横たえられた武人の表情は憔悴しきっていたが、どこか優しげで穏やかなものだった。
 降りてきた夕暉は、陽子に視線を向ける。
「お姉さんは、怪我は無い…?」
「あぁ…。なんとか‥な」
 口元に不器用な弧を陽子は描いた。その表情を食い入るように見つめていた虎嘯は、気がつけば思わず彼女に手を伸ばしていた。
「?!な、何だ?」
 手首を捕まれ、陽子は虎嘯の方へ引き寄せられる。たたらを踏んで、陽子は彼を見上げた。虎嘯は僅かに眉根を寄せたまま、じっと陽子の瞳を見つめる。その表情に浮かんだもどかしさが彼の口元を歪ませていた。
「お前…」
 言葉を口に出したものの、虎嘯はそれ以上言う言葉が見つからないようだった。虎嘯は眸を揺らす。視線が陽子の澄んだ緑眸と噛みあうたび、虎嘯の眸に何か色が浮かぶ。陽子は不思議そうに小首を傾げている。
「ど、どうかしたのか?」
「!いや‥」
 虎嘯はじっと陽子の顔を見つめて、きつく眉根を寄せた。
(何か…思い出せそうなんだ…)
 見つめる少女の、深い深い碧の奥に、何かが詰まっている気がする。それが何かなんて分からないが‥それでも見つめていたら、見つかるような気が不意にしたのだ。それは水源に潜るような深く滲んだ感覚と似ていた。
(わ、分からねぇ…)
 ガンガンと頭が痛みを訴え始める。もっとよく見ようと、虎嘯は深緑の瞳をなんとか覗き込もうとする。
「お、おい?!」
 更に強く腕を引かれて、陽子が上ずった声を漏らす。虎嘯が更に陽子を引き寄せようとしたその時、「ふざけるんじゃないわよ!」と共鳴した声と共に、背後と側方から枕が二つ飛んできた。
「ぶっ!!」
 枕は美しい弧を描きながら、破壊力を伴って虎嘯の顔面を直撃した。衝撃に虎嘯の陽子を握っていた手が緩んで、彼は後ろに吹っ飛ぶ。後頭部をしたたかに床に打った虎嘯は痛みに悶えながら叫んだ。
「いってぇっ!!な、何するんだ、お前ら?!!」
 突然の出来事に、虎嘯はただ目を白黒させている。見れば殺気立った鈴と祥瓊が、どすどすと足を鳴らして、虎嘯の元まで来て彼を見下ろしていた。虎嘯の抗議に対し、顔を怒りで真赤に熟れさせた鈴が叫ぶ。
「それはこっちの台詞(せりふ)よ!貴方一体何やってるの!!口説けるなんて思ったら大間違いよ?!私達の目の黒い内は、この人に触れられると思わない方が身のためよ!!」
「見損なったわ、虎嘯!」
 仁王立ちする鈴と、祥瓊の殺気に、口説いてねぇよ!と虎嘯は必死に頭を振る。
「なんでそんな風に見るんだ!」
「「そうとしか見えないわ!!」」
 何でだよ?!と虎嘯は間の抜けた声を出す。小づき合いながら、やいのやいのと言い合っている三人に、見ていた夕暉は仕方ないなと目を細めた。
(まったく兄さん達は…)
 お姉さんも呆れちゃうよ といつもの兄達の姿に夕暉は小さく笑みを漏らした。だが、視点を陽子の方へ向けた時、夕暉は思わず動きを止めた。
(え…?)
 言い合いを続ける兄達の姿を陽子は見つめていた。だが彼女は夕輝が予想したような表情は何一つしていなかった。見つめる陽子のその横顔に、夕暉は呆然として見入った。


 夕暉が思わず顔を緩ませたのとは反対に…陽子は彼らを見つめたまま、あまりにも切ない顔をしていたのだ。



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