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 軟風が柔らかく顔に吹きつける。陽子は目を見開いたまま、腕を掴んで佇む青年を見つめた。背の高い青年は何も言わずに陽子を見つめる。風に揺れるその黒髪は空からの星影に濡れ、青めいた艶を放っていた。
 楽俊は陽子から目線を逸らさないまま、静かに唇を開く。それは初めて触れられた、今まで踏み込まれなかった己の核心部だった。

「おまえ…名は何だ」

「…!」
 一番最初に問われたのは違った色を含んだ真剣な問いかけだった。温和で優しい楽俊から初めて聞いた、答えないことを許さない問いかけだった。ピタリと動きを止めた陽子は、ゆっくりと顔を上げる。驚いて見開いた陽子の新緑の瞳から、楽俊は少しも視線を外そうとはしなかった。
「どうして…」
 陽子の息が震えたが、次の瞬間、はっとした彼女は楽俊の手から自分の手をもごうと猛烈に暴れ始める。だが、いくら両手を使って引き剥がそうとしても、楽俊の手はピクリとも動かず、また緩む気配さえ見せなかった。
「…!手を放せ!!」
「放さない」
 陽子は唇を噛みしめ、自分より上にある目線を睨みつける。その顔はネズミの形をしていた時には、陽子よりもずっとずっと下の位置にあった筈なのに、今は陽子が見上げなければ目線を合わすことさえ出来なかった。
 楽俊はじっと陽子を見つめる。彼の脳裏に過る『ヨウコ』の鱗片が心の中で暴れていた。もうあと一歩の所で思い出せないもどかしさが胸元を焦がす。たなびく真紅の髪、褐色の肌、翡翠の双眸。自分がずっと探し続けていた「彼女」としての条件全てを併せ持つ目の前の少女は、今自分との関わりを絶って消えていこうとしているのが、楽俊には分かった。少女の腕を握る楽俊の掌に、僅かに力が籠もる。
「おまえ、名はなんて言う。ちゃんとおいらの目を見て答えてくれ」
「!‥」
 脳裏を、初めてこの少女に出会った時の光景が過ぎっていく。彼はあの時、自分は顔もわからない探し人を探すためにここに来たと彼女に告げた。だが、今になって彼は気がついた。
 違う。
 雁にいたころには既に「ヨウコ」を知らないと思っていた。だが実際は雁にいたころは、楽俊は確かに「ヨウコ」を覚えていたのだ。「ヨウコ」に会うために彼は慶に来たのだ。だが、慶に足を踏み入れた所から、記憶に靄がかかっていることに、彼はやっと気がついた。誰かの都合の良いように、記憶が掠れて消えている。
 しかしそれでも、揺らぐ記憶は、彼が昏睡している間に心の奥底にしまわれた真実の欠片(かけら)を見せた。
 楽俊の瞳は有無を言わさない強く鋭い光を帯びた。目の前の少女の腕を強く握り、陽子が微かにおののく。
「おまえの真実(ほんとう)の名は、何だ…。何故おまえはおいらに名を教えてくれないんだ」
 やめてくれ。
「なぜ、おまえは独りになろうとするんだ。何をそんなに抱え込んでいる。一体何と戦っているんだ」
 頼むから、もう自分に関わらないでくれ。
「なぁ…」
 胸が、苦しい。口を開きかけた楽俊を叩きつけるように、陽子は叫んだ。
「私は…!もう貴方と関わりたく無いんだ!!」
 楽俊の動きが止まった。心にも無い言葉が、陽子の口を突いて出る。頬を熱い物が走っていく。思ってもない言葉を、優しい彼を自分から引き剥がし、ただ突き放すためだけに陽子は尚も言葉を重ねる。
「私は今誰と共にいたいなんて思わない!貴方とだってもう一緒にいたいとも思わない!私は独りでいたいんだ!!」
 陽子は叫ぶ。
「ほっといてくれ!!貴方なんか…大嫌いだ!!!」
 嘘ばかりだ そう思っても、陽子はそれをあたかも真実であるかのように楽俊に突き付ける。どうして そうまでして自分と関わろうとしてくるのだろう 私は…と陽子は胸につかえた物に喉を詰まらせる。最後の(とど)めとして、彼が自分に呆れてしまうような突き放す言葉を言おうと、彼女は大きく息を吸う。
 けれど、最後に彼女の口から出たのは、頭で考えた言葉では無い、自分でも出すつもりがなかった言葉だった。
「貴方を見てると…胸が、苦しい…!」
 言ってしまった言葉に、愕然と陽子は目を見開く。止めるまもなく、唇から言葉が突いて出た。
「なぜ?会ったばかりの筈なのに…!私は貴方に対して嘘をつきたくない…!私に関わって余計なことに巻き込まれて欲しくない‥!」
 最後に飛び出た言葉は‥それは嘘に(まみ)れる言葉の中でただ一つの陽子の本心だった。
「!!」
 僅かに楽俊の手の平が震える。だが陽子が彼が手を放すと思ったその瞬間、彼女の予想を覆し、楽俊は更に手を強く握り、陽子に叫んだ。
「!…だから、何もかもを一人で背負うのか?おいらにするように手荒に突き放してまで、自分に手を貸そうとする人間を遠ざけるのか?その人の意思も跳ね除けてよぉ」
 陽子は唇を噛んで下を向く。楽俊は手を放さないまま、陽子に言葉を続ける。陽子が視線を上げ、見た楽俊の顔は、苦しそうに歪んでいた。思わず息を詰まらせた陽子に、でもよぉと楽俊は自分の気持ちを吐き出すように言葉を繋げる。
「いくら誰も傷つけたくないからって、おいらのことまでおまえが決める権利なんて、無いんじゃねぇのか?おまえは何もかもを背負いすぎている」
「‥!」
 陽子の視線が揺れる。楽俊は顔を歪めながら、陽子とは正反対に、ぽつりぽつりと噛み締めるように言葉を繋げる。
「おいらは自分の意思でここまで来たんだ。どうなっても、それはおいらの自己責任。おまえに非なんて一つもねぇんだ。おいらはたとえ自分の身に何かあったとしても、それでも大事なもんを取り戻すためなら構わねぇ。おまえはおいらを危険から遠ざけたいんだろう、だから無理に嘘ついてでも、おいらをおまえから切り離そうとする。辛辣なことを言うぞ。でもおまえのその行動は、それはおいらの気持ちを取り除いたおまえの自己満足の行動だ」
 陽子の呼吸が速くなっていく中、楽俊は大きく息を吸う。最後にそれは静かな世界に驚く程大きく響き渡った。楽俊はただ瞳を閉じた。

「…そしてそれが時として、人を一番傷つけるってことを、おまえは分かってやっているのか?」

 陽子の瞳が見開いて、丸くなった翡翠が震えた。目の前の少女の呼吸が止まるのを見て、厳しいことを言っている、と楽俊は自分を呪いたい気持ちになる。
だが、それでも――言わねばならない。
 陽子は目の前に立つ青年に、何と言ったら良いのか分からずその場に佇むことしか出来なかった。彼を自分と関わらせないことが、一番彼にとって最善の道だとばかり思っていたから、それを楽俊自身によって否定されてしまった陽子は、ただただその場に立ち尽くす。
 楽俊は一度深呼吸をし、しっかりと陽子を見据えて続けた。
「おまえがしていることは、おいらの意思を無視した行動だ。おいらがどうするかなんておいらが自分で決めることなんだ。これだけは譲れねぇ。おいらが知りたいのは真実だ。何が起こっても構わねぇ、何かを背負っているお前を一人で行かせることが、おいらにとっては正直一番きついんだ。ひょっとしたらこれは今おまえに言ったような、おまえの願いに負けず劣らずのおいらの利己的な願いかもしれねぇけど、でも出来る限りお前の力になることがおいらの一番の望みなんだよ」
「楽…俊…」
 楽俊は一つ息を吐いた。地上の星がさんざめいたような気がした。
上空で綿雲が剥がれていく中、ふと砕けた様に楽俊は笑う。
「お前はおいらを危険に巻き込みたくない、おいらはお前の力になりたい、どっちも自分勝手な望みだけれどきっとおいらもお前もその願いは譲らねぇ。自己満足の願望はお互い様だ」
 笑う楽俊を掌から感じ、陽子は項垂れる。
楽俊の言葉が一言一言心に刺さり、やがて静かに沈んでいく。それは人と関わらなければ生まれない痛さなのかもしれない。その自分を思ってくれるその気持が痛くて、辛くて、苦しくて、嬉しくて、泣きたくなる。ごめん と小さく陽子は呟いた。
 陽子にとっては目が覚めてからは独りきりが、普通だった。誰かと秘密を共有しあうことは出来る限り避けてきた。そしてそれが良いことなのか、悪いことなのか、記憶の無い陽子にとって計り取る事は不可能だった。

 ―彼になら、この胸の内を話しても大丈夫だろうか。彼は死んでしまったりしないだろうか。

 陽子の中で音を立てているこれは一体何なのだろう。それはひょっとしたら一種の不安なのか。心で渦巻く様々な色の想いを感じながら、陽子は強く瞑目する。辛かった記憶が逆流して、喉の奥に詰まって、陽子は声にならない声を出した。手を緩めた楽俊は優しい顔で陽子を見ている。目に僅かに盛り上がる透明な物を感じながら、陽子は声を押し出した。

「私には…記憶が無い」

 零れた声は闇夜に震えた。
それは初めて心から彼に話す陽子自身の本音だった。名前なんて、教えたくても最初から言える筈も無かった。誰よりも弱さを乗り越え、強さを身に付けてきた彼女の口から吐息が漏れる。
 楽俊の息が止まる音が小さく聞こえた。けれど、それでも陽子の口は止まろうとはしなかった。それは事実を話したこととは違う、隠してきた彼女自身の「心」を打ち明けることだった。一度口から零れた言葉は留まる事を知らずに溢れでてくる。もう誰にも止められない何かが零れて、陽子は瞳から雫が伝っていくのを感じた。
「誰のことも私には分からない。気がついたら罪人として追い立てられる毎日だ。私は過去に一体何をしたのか、誰かに聞こうにも誰一人として私の中には居ない。だから自分のことさえも何一つ私は知らないんだ…」
「…!」
「何一つとして‥何一つとして、わからない。本当に、過去に私は存在したのか。本当は私は唐突に世界から生み出された異分子なんじゃないか。莫迦みたいだけど、私には自分がそう思えてならない」
 陽子の口元がへの字を書くように、強い傾斜を描く。僅かに見えた白い歯が彼女自身の柔らかい唇を必死に噛み締める。陽子は唇の隙間から搾り出すような声を押し出した。

 なぁ。

「私は一体、誰なんだ?貴方は一体、誰なんだ?ここは一体、どこなんだ?」

 答えてよ。

 目を細める楽俊に向けて、次に溢れたのは嗚咽だった。堪えきれずに次々に零れるを、陽子は乱暴な仕草で拭う。月明かりだけが燦々と二人を照らす中、楽俊は陽子の背中をあやすように穏やかに撫でた。
「泣くな…おまえはよく頑張ったよ」
 陽子はぶんぶんと首を思いきり横に振って、涙声で叫ぶ。
「頑張っても…それでも私のせいで誰かが傷ついたらそれに何の意味がある!!何故、人の言うことにはこれ程の差があるんだ!みんな自分の好き勝手なことばかり言って!一体何を信じれば良い?何が正義で何が悪だと言うんだ!私はどうすれば良いんだ!!」
 普段滅多に泣かないであろう、少女は、今はただ声を上げて楽俊の側で泣きじゃくる。大きな涙の粒が次から次へと溢れ出してくるのを、指で拭ってやりながら、楽俊は陽子の背を摩る。しゃくりあげながら、陽子は掠れて途切れ途切れになった声で楽俊に一言ずつ伝える。
 それは涙で歪んで、時に嗚咽で消えながらも、楽俊の元に行こうとする陽子の心なのか。
「私には‥何も分からない。世界も貴方も…自分自身も。…でも、それでも、私は…!今は分からないけれどいつかは必ず分かりたいんだ‥」
  楽俊は陽子の背を撫でながら、唇を噛み締め、何度も何度も 頷いた。
 陽子は嗚咽をこらえながら楽俊を見つめる。その美しい顔が、くしゃりと歪んだ。
「お願いだ‥友人として、私から離れないでくれ。側で支えてくれ。頼むから死なないでくれ。そしてどうか‥一緒にいて」
 空からは月明かりが流れ込み、雲間が大きく開いていく。その隙間で散りばめたような糠星が各々の美しさを主張して、(きら)めく白銀の粉を夜空に塗していた。

 黙って陽子を見つめたまま、楽俊は一つだけしっかりと頷いて見せた。

 

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 楽俊はずっと陽子の背中を摩って、陽子が落ち着くのを待ってくれた。やがて呼吸が楽になった陽子は何度も何度も深呼吸して息を整える。何故か急に、陽子は気恥ずかしい気持ちが込み上げてくる。
「あ…ありがとう…」
 陽子は安心したようにぎこちなく笑う。ふと照れくさそうに目を擦り、綻ぶように彼に笑って見せた。
「私は…貴方と会ってからありがとうと言う事が増えた気がする」
「そうか?」
 大きく伸びやかに息を吸って、陽子は月と星の明かりを胸一杯に受け止める。
「ああ。私もまだまだ至らないな…。本当なら、人の心に違いなんて殆ど無いのに、気が付くまで忘れてしまう」
 楽俊は目を丸くする。陽子は楽俊を振り返り、不思議そうに小首を傾げた。
「?私は…何かおかしなことを言ったか?」
いや…と楽俊は首を振る。
「おまえは面白いことを考えてんだな、と思ったんだ」
「そうか?だが、これは事実だと私は勝手に思ってるぞ」
 陽子は小さく微笑んだ。一度部屋に戻ろう そう言った陽子は楽俊の背を押して歩き出す。そして…当たり前の事を言うように「その言葉」を続けた。

「だって現に、今の私と楽俊との距離はたかだか二歩じゃないか」

 うん と伸びをして、陽子は笑う。だが数歩程歩いた時、隣に居た筈の気配が消えていることに気がついた。陽子は不思議そうに振り返る。

 月の光が揺れる中、そこには棒を呑んだように立ち尽くす楽俊の姿があった。

その顔はまるで雷に打たれたような表情をして、目だけをいっぱいに開いたまま、陽子だけを見つめている。
「?楽俊…?」
陽子は怪訝そうに眉根を寄せて、楽俊の元に駆け寄る。小さく呻きながら、楽俊は頭に震える手を当ててよろめいた。
「?!楽俊!どうした?!」
だが、楽俊は陽子の言葉を聞いていないようだった。呼吸だけが速い中、楽俊は目を見開いたまま震える唇で、何か一言だけ呟く。その声は掠れて陽子には聞き取れない。
「え?何だ?」
陽子は耳を近づける。眉根を寄せた時、耳元で小さな、形を持った言葉が聞こえた。
「おいらには…三歩だ」
「…え?」
 戸惑いが浮かぶ陽子の顔を、楽俊は目を見開いてゆっくりと焦点を合わせた。その顔が―歪む。堰を切ったように溢れ出す、記憶の渦が楽俊を飲んでいく。楽俊は頭に手を当てたまま、目を瞑り、うわ言のように呟いた。
「『おまえがおいらに気を許していないことは分かってた。始終おいらが何かするんじゃないかってビクビクしてたことも』」
 彼は僅かに眉根を寄せる。一瞬の間を置いて、何かに耳を傾けていた楽俊は小さく呟く。
「『本当ならおいらが口をきけるようなお方じゃ無い。ヨウコ、なんて呼び捨てにももう出来ねぇなぁ』」
「ら、楽俊‥?」
 それは、何かの出来事をたどるような優しい口調だった。紛れも無く、過去の思い出をそっと撫でるような声。
 陽子の瞳が見開く。―楽俊の記憶が…戻り始めていることに、その時彼女は気がついた。
唐突に、楽俊ががくりと力の抜けた様に膝を折り、陽子は叫んだ。
「楽俊!?」
 陽子のその腕を大きな手が掴む。楽俊が顔を上げ、そしてその顔が何かを堪えきれないような表情であったことに、陽子の動きが止まる。楽俊の顔が苦しげに歪む。記憶が溢れ出し、彼の中で明らかになる事実。
 楽俊はとても大切な者を呼ぶかのように、目の前の少女を見つめてしっかりと―囁いた。

「陽子」

「よ、ヨウコ?」
 楽俊の腕を握る力が強くなり、その瞳が、先程と違った光を湛えていることに陽子は気がついた。戸惑う目の前の少女に楽俊はしっかりと目を見据えて続ける。おまえだったんだな と楽俊の囁く声は―震えた。
「そう、『陽子』。陽気の陽に子供の子で陽子。おまえがかつて、おいらにくれた――おまえの名だよ」
 楽俊の顔が激しく歪む。そうだ。今目の前にいる少女こそが、かつて信用していなかった自分を信用してくれ、離れていこうとした自分を引き止めた『陽子』。彼の無二の親友。話しながら、楽俊の中で駆け抜けていく記憶に彼は小さく嗚咽を漏らす。
 
 陽子の顔にゆっくりと衝撃が走って、そして身体が僅かに震える。信じられない と言うように彼女はゆる と口を開いた。

「陽子…?それが…私の名なの‥?本当に…?」

 陽子は一度言葉を切って、そして繋げた。
「じゃあ、貴方がずっと探していたのは…私‥?そして私の名は…陽子だということなのか…?」
 楽俊は唇を噛み締めたまま、何度も、何度も頷いた。楽俊と同じように陽子の顔も歪んでいく。
 囁く声は掠れた。
「本当に…?こんな…なんで…。私は陽子というのか 私の名は‥陽子」
 支離滅裂になりながら、それでも噛み締めるように呟きながら、生暖かい物が目から伝って流れていく。月が眺める白い屋上で、二人の人影が肩を震わせる。青年は少女の頭を、ガシガシと撫でて、泣き笑いのような、複雑な表情を浮かべた。それは紛れも無く、探していた者に出会えた人間の顔だった。


 消えた彼女自身の記憶は未だ戻らない、だが月が静かに微笑みを落とす、その夜のその時、彼女は自分の名と生涯の友を―取り戻した。



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