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 雨が降り続く音だけが、耳を叩いて過ぎ去っていく。
陽子は楽俊が眠る部屋の窓辺に腰掛けて、過ぎ去る白の雨脚を目でなぞる。雨に染まる景色は暗さだけを溶かし込んで、表情を刻々と変えていた。
 陽子は外の景色から目を外し、眠る楽俊をじっと見つめる。少し前まで、(うな)されるように彷徨っていた手は今は布団の中に収まっている。時折彼は何かを口走ったが、それは意味有る言葉として陽子は聞きとることが出来なかった。ただ何かを捕まえようと藻掻く小さな掌を、陽子は両手でそっと包んで落ち着くのを待っていた。今は布団をかけられた楽俊の胸は規則的に上下を繰り返し、静かに眠っている。その吐息が穏やかな物である事は陽子を何よりも安心させた。
 そっと、窓辺から滑るように床に降り立ち、ひたひたと陽子は楽俊の元へ歩く。素足には些か冷たすぎる床は足裏からしんしんと体温を奪っていった。陽子は彼の枕元に屈んで、頭を垂れる。牀榻に肘を着き、両手の指を噛みあわせて項垂れた。陽子は眠る楽俊に言葉を落とす。
「…巻き込んで、すまない」
 心からの謝罪だった。陽子は一度楽俊を見つめてから静かに牀榻から身を離した。
 ――だが、もう彼は自分と関わることも無い。
 心の中で呟いた声には応えず、陽子は瞳に静謐な光を灯し、楽俊を見つめる。雨音だけが耳をあやす中で、少々乱暴とも言えるノックが陽子の耳に届いた。野太い男の荒れ声が響いた。
「湯が張れたそうだ。後が(つか)えるから早く入んな」
 あぁ と陽子は答えて立ち上がる。最後にもう一度だけ、陽子は楽俊を見つめ、静かに牀榻に背を向けた。雨音が響く中、陽子は扉を押し開け廊下に出る。
 
 だが肌寒い息を零し、視線の先を見つめる陽子は、背後で起こっていた事実に気づかなかった。
 
 ゆっくりと目を開いた楽俊が陽子の後ろ姿を見つめていたことに。
 

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 湯浴みを終えた陽子は、髪を拭いながら夕暉と話をする約束をしている、一階へと続く階段を下りていた。時折拭えきれずに髪から零れる水滴が、自分が歩いた所に点々と小さな足跡を残していく。食事所を兼ねた一階、通常の卓子より高く作られた、酒を飲む台に夕暉は一人座っていた。陽子はその隣の榻に腰を下ろす。夕暉は陽子が座ったのを見ると、口元に柔らかい微笑を浮かべる。
「お湯はどうだった?」
「良かったよ、気を使ってくれてありがとう。話したいことが有るんだよね?」
 夕暉は頷いて人が疎らな食堂を見つめた。大事な話を、聞いて欲しいんだと彼は言った。良いかな?と聞く夕暉に陽子は頷いて是の意を示す。それを目で見た彼は口を開いた。
「今まで僕は、小学でずっと勉強をしていた。けれど、ある時、いつものように兄に青鳥を出しても、一向に帰ってくる気配がなかったんだ。不思議に思ったけれど、その時はあまり気に留めていなかった。今思えば僕自身にも、何かの変化が起き始めたのはその頃だったのかもしれない。その時は細かいことは分からなかったけれど、僕はこの国で起こっていることを調べてみることにしたんだ」
 陽子は眉をひそめた。夕暉はそして と言葉を続ける。
「最初はちょっとした好奇心だった。慶国を調べる旅に僕は出たんだ。二ヶ月前のことだ。そしてどこに行ってもそこには違和感しか感じない。試しに幾つか質問をしてみたんだけれど、誰もがこの国の歴史について曖昧な記憶しか持っていなかったんだ。それも近年、一番覚えていなければならない慶国が荒れに荒れた、予青から現代までの騒乱期の記憶を。自分が一番苦労したその時間を、人はそう簡単に忘れてしまうだろうか?」
 陽子は口を噤んで夕暉を見つめる。夕暉は物思いにふけるよう、結んだ唇から吐息を零した。
「人から話を聞き、その地の文献を調べ、そしてある文献に行き着いた時、僕の中で慶国の今の状況下を見て回った結論としての、ある仮説が立った」
夕暉は手元の湯呑みを円を描くように揺する。
「この国は今嘘で塗り固められている。王が玉座に付いて、麒麟も失道なんてしていないのに、日々少しずつ、人が、土地が、妖魔が荒れていっているんだ。こんな事は平常ならば決して有り得ない。誰かが天帝の定めた自然の摂理に反して、何かの均衡を崩したとしか考えられないんだ。そして王が道を失う以外に、均衡を崩された世界に起こっている出来事はただ一つ、それが僕の仮説に繋がる」
 陽子は眉を寄せた。 夕暉のその黒眸に、一際静かで強い光が閃く。
「これは今までと形を変えた景王への謀反かもしれないという仮説にね―」
 陽子は言葉が出せずに息を呑む。一瞬その意味を汲み取れず、彼女は二、三度瞬きをした。
「謀反‥?誰かがバランスを…崩した‥?それが私の記憶にも関係しているということ?」
「うん。そしてそれは恐らく自分の野望のために。そのためにその犯人は禁忌を犯した。だけどその前に、それを犯すのには当然周囲から自分の敵を無くすことが必要だった筈なんだ。周りの人間を自分の味方として取り込まなければ、きっと今回の事件は起こせなかった筈だ」
 夕暉は湯呑みを回していた手をはたと止めた。そして視線を動かさないまま彼は唐突に陽子に問を投げかけた。
「お姉さんは、さっき自分には記憶が無いって言ってたよね」
「あぁ」
「そして、僕は今他にも記憶が消えている人間がいるって言ったよね」
「…あぁ」
「僕は、その記憶操作されている人間が、この国全ての民何じゃ無いかと思っているんだ」
 陽子の動きが止まった。翡翠の瞳が、丸く見開く。
「この国…全ての民…?」
 うん と夕暉は頷く。陽子は困惑したように、手元に出された水の入った湯呑みを握った。 水面が弱く揺れ、映る陽子と夕暉の顔を歪める。
「で、でもそんな事って…」
「出来る」
 夕暉の瞳に光が灯り、陽子はそれに見入った。夕暉は一瞬迷ったように口を噤んだが、彼は言葉を続ける。
「現に、僕もその一人だ。そして今の状況と照らし合わせて調べてみたら古くから伝わる呪具が有ることが分かったんだ。幻馨煌炉(げんけいこうろ)という言葉を、聞いたことがある?」
「いや…」
「それは香を焚ける手の平程の小さな呪具なんだ。幻、香り、煌めく、炉。そんな意味合いがこの呪具の名には込められている。その香り、焚かれる物に触れることで、術者が他者を自分の都合の良いよう記憶操作して操れる」
 陽子は眉をひそめた。
「でも、それは手の平程の大きさなんだろう?そんな小さな物で国の民全員の記憶操作なんて出来る訳が無いじゃないか。それに一体何のためにそんなことを…」 
 夕暉は薄暗い酒代の奥に並ぶ酒瓶を見つめたまま、口を開く。
「一見するとそう思うよね。でも重要な点はその呪具の大きさうんぬんじゃないんだ。…僕はさっき、この呪具の特徴として、その香りに触れた者を変えてしまうと言ったね」
「あぁ」
「この国には凌雲山の奥深くに慶国各部に流れる運河の水源がある。その水源が枝分かれしていき、この国の隅々までその水を行き渡らせることになる。幻馨煌炉の特色として、その焚いた香り、成分はどれほど薄まっても効力を無くすこと無く遠部に居る者達にまで届ける事が出来る。そして、焚いた香りは水に溶かす事が出来るんだ」
 陽子の顔がゆっくりと曇り始めた。
「じゃあ‥その水源を使って…」
 夕暉は頷く。
「そう。犯人は呪術に精通した人間だろうね。お察しのとおり、その凌雲山の水源で、調合した媚薬を幻馨煌炉で焚いて呪具の効力を撒き散らしたんだ。全ての人間を手に入れ、真実をねじ曲げて自分の望みを叶えるために」
 陽子は沈黙したまま肘をついて、皿にした手の平に頬を乗せた。雨はもう止んで、静かな空間で覆われた自分達の場所とは反対に、人が増え始めた食堂では様々な人間が楽しげに食事を摂る音が混ざり合っていた。
 夕暉は頭を(もた)せ掛けるように、額に掌を当てる。
「人々の共通の記憶を(いじ)ってしまえば、人がそれに気づけることは少ない。みんな間違った記憶を持っていたら誰もそれを指摘することが出来無いから。本当は根本から間違っていても、誰もそんなこと考えもしないんだよ。記憶をすり替えられたことが有耶無耶になっている内に、気がついた時にはすり替えられた嘘が「真実」になっているんだ。だから反対に、真実を言っている人が弾かれる。それこそが、犯人の狙いなんだよ。誰にも気づかれずに真実を排除する。だからこそ、これは形を変えた謀反なんだ。人間の性質を本当にうまく利用している。嘘が真実に、反対に真実が嘘に塗り替えられるんだ。人々の偏見を覆してきた開拓者だって、「自分達の考え方と違う」というそれだけで最初は攻撃を受ける。正しい人間が気がついたら悪者になっている」
 夕暉が強い光を湛えた目で陽子を見る。彼は静かに口を開いた。
「そして僕は特に、お姉さんがこの事件に深く関わっていると思うんだ」
「‥え?」
「記憶を根こそぎ奪って、それを良い事に逆賊としての汚名を着せてまで、なんとしてでも捕らえて処刑したい―僕は犯人のその意図が痛い程に今回の事件から感じられる。お姉さんは、目が覚めた時何か違和感が無かった?危害を加えられたような形跡とか」
 陽子は指を顎に当て目を閉じる。過る当時の景色で、陽子はふとあることを思い出した。
「―そういえば、服が妙にボロボロで、何か鋭利な物を避けて出来た様な穴があったな」
 それだね と夕暉は断言する。
「犯人は貴方を殺したがっている。犯人に殺されそうになった時、貴方はきっとなんらかの形でそれをかわして逃げ延びたんだ。でも、今回の手口、今の状況を見る限り、犯人は計画性を持って貴方を襲ったように思える。だから、もし何かの不備があっても手を回せるように、まずは何かの真実を知る貴方の記憶を消してから、恐らく襲った。もし殺しそこねても、貴方が何も覚えていなければ、そして周囲の人間すべての記憶を自分の都合のよいように書き換えておけば、罪人の罪を着せて簡単に捕まえられるから。貴方は只者じゃ無い」
 陽子は眉根を寄せて戸惑ったように眸を揺らす。唇を軽く噛んで、陽子は言葉を漏らした。
「私を…狙った?私は一体何者だったんだ…」
「分からない。だが僕は貴方が犯人にとって、不都合な人間だったんじゃないかと思う」
「‥たとえばどんな風に?」
「自分こそが正義となるよう、自分の都合に合わせて成り立たせた世界と自分の立場を決定的に覆してしまう人間。せっかくここまで人々を操作してやってきたのに、野望を一気に打ち砕いて、人を従えてしまうほどの権威を持った人間」
「そんな…」
「いや、そうとしか考えられない。現に今、民が消されている記憶は犯人にとっては不都合でしか無いが、彼らにとっては生活に支障をきたさない程の部分記憶だ。僕も細かいことまでは分からない、けれど少なくとも僕だって違和感が無く生活が出来る位、「自分」に関する記憶までは侵されていなかった。お姉さんは「自分」に関することも、それ以上に「世界」に関する事まで思い出せないようにしてある。お姉さんのその存在自体が、犯人にとっては脅威なんだ。だからこそより一層強い呪具を使ってお姉さんの記憶を消した。そしてきっとお姉さんに関わっていた全ての人間に対して、誰もお姉さんのことを思い出せないようにした」
 陽子は押し黙ってうなだれた。ふと頭をあの金の髪の男が過ぎった。あの彼は―誰も自分を知らないこの世界で自分を知っていたのだろうか。敵だと思ったが、敵には見えなかった不思議な彼。酷く切なくて、苦しそうなあの表情が、自分の頭にこびりついていたことに陽子はその時初めて気がついた。
 ―彼は一体、何者だったのだろう
だが、疑問に思っても、誰も陽子の心の問に答える者はいなかった。今まできゃらきゃらと耳障りな応えを返していた蒼猿は斬った時からふつりと途絶えていた。
 薄く目を開ければ、俯いて零れる髪束は真紅の鮮やかさを増して垂れる。水を吸って濡れていた髪は、もうしっとりと手に馴染む程に乾きを見せ始めていた。頭を乱暴に掻き毟った陽子は小さく息をつく。
「私が知りたいのは真実だ。ひょっとしたら私は本当に罪人だったのかもしれないぞ。とにかく出来ることをして、私は最善を尽くしたいんだ」
「じゃあ、この国を元に戻す手伝いをして欲しい」
「?元に戻す…手伝い?」
「そう。お姉さんが記憶を取り戻すこと。それがきっとこの国を有るべき姿に戻す鍵になる。少なくともこれが幻馨煌炉の呪力の仕業であることは間違いない。僕の兄も、連絡がないから恐らく同じように記憶が消えているんだと思う。王宮にいる人間の方がその害がより大きい」
 陽子は髪を束ね上げながら夕暉を見上げた。
「呪術で消えた記憶を取り戻すのに、何か必要な条件というのは有るのか」
 夕暉は頷いて、ピッと指を三本立てて見せた。
「実行できる可能性が有るのは二つだと思って欲しい。一番手っ取り早いのは、まず術者を叩くことだ。これをすれば全ての人間が忘れた記憶を思い出す。勿論お姉さんもね。そしてもう一つが記憶を無くした人々、個人個人に対して、彼らの忘れてしまった記憶に直接揺さぶりをかけること。これはショック療法と言っても良いのかもしれないね。個人の眠らされた記憶を無理矢理呼び起こす。だがこれはその人が忘れてしまったその記憶を大切にしていたかどうかが、思い出せるか否かの鍵になる。これが考えられる方法だ」
 待って、と陽子は口を挟んだ。掌を夕暉の前に突き出す。
「今、夕暉は三本指を立てたよね?と言う事は方法はもう一つ有るんじゃ無いのか?」
 夕暉は僅かに渋い色を顔に見せた。有るには有るけれど…と夕暉は眉を寄せる。
「だけど最後は…これはちょっと現実的じゃ無いし、恐らくはただの作り話の可能性が大きい」
「どういう物なんだ?」
夕暉は少しためらっていたがやがて決心したように口を割る。
「『鵬珠翼』を使うことだ」
 陽子の動きが止まる。どこかで聞いたその響きが頭の中を木霊して、陽子はそれをかつて武人更夜から聞いたお伽話だったという事に思い至った。
「それは…」
 夕輝は首を横にふるふると振る。
「現実味が無いと思うかもしれないね。その様子だと実物について話くらいは聞いたことがあるのかな?これは僕も最近知った話なんだ。各国それぞれにあるという王が持つべきその宝玉は、持ち主によって形を変えて存在する。それは真実、世界の在り方を示した輝きを纏って王の元に現れ、その宝玉に触れることが出来たものは全ての妖かしの術から解かれると言われているんだ。だけれど、この話はお伽話に尾ひれを付けた物であると誰かが言っていた。僕も、その話は信憑性が薄いと踏んでいる。僕はそれ珠翼(それ)よりもまず、確実な方法を取ることを優先したい」
 陽子は唇に指を当てながら頷いた。
「…そうか。そうだな…最初の二つの方法を考えておくよ」
 夕暉はうん と言ってほんのりと微笑んだ。陽子もぎこちなく笑って席から滑り下りる。そのまま夕暉と別れ、横目に入る外の景色は、もうとっぷりと暮れた闇に浸かり込んでいた。
 月は今は出ていない。
暗さだけが重みを増して、全ての景色を飲み込んでいく。その暗闇の中滲むように灯る明かりが、闇が濃くなる程に美しく輝きを纏い、地上を彩っているのが見えた。色彩豊かなその発光色は、もっと高度がある所から見れば夜目に鮮やかな地上に輝く満点の星々として見ることが出来るだろう。
 
 真夜中まで、後もう時間はどれ位残されているのだろうかと  ふと陽子は灯る明かりを翡翠の瞳に揺らめかせながら―思った。

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 時刻は間もなく、宵の刻限を示そうとしている。匿われた宿屋の屋上で、陽子は一人緩い風に吹かれていた。風が顔を洗って、目の前の景色を揉んでも、地上に煌めく無数の星明りは揺らぐことさえしない。夕暉にも、そして楽俊にも何も言わずに陽子は一人風が吹き流れるこの場所に佇んでいた。真夜中に向かう時間を感じながら、陽子は無表情に並ぶ鉄の手摺に手をかけ、超えようとその手に体重をかける。だが、ふと後ろで走った気配に、陽子は動きを止めた。
「誰だ」
 振り向けば、ゆっくりとこちらに向かう一つの影が見えた。そして、聞こえる聞きなれた声が耳を撫でる。
「おいらのことはまだ覚えてくれてねぇのかい?」
「…!」
 暗闇に慣れた目に馴染むその輪郭、いつも毛皮でほたほたと歩きまわるその姿は、今は見慣れない簡素な衣を纏っている。地平線から上り始め、雲影に隠れていた月がほんのりと顔を覗かせて光を落とし、彼の全映を映し出した。
「楽俊…どうして」
 陽子の呟く声は小さくなって消えていく。だが、はっと正気を取り戻した陽子は慌てて彼から後退って手摺に向かって手を伸ばす。だが一度離した手摺をまた掴もうとしたその手を、一回り大きな手が後ろから掴んだ。
「?!」
 何をする と叫ぼうとした陽子は、しかし振り向いた時言葉を失った。振り返ったその時其処に居たのは、自分より小さなネズミでは無かった。

 それは陽子よりもゆうに背が高い、一人の男。

 優しげな整った顔立ちが月影を吸って、白く淡く光を弾いていた。陽子はただ驚いて、目の前の男を見入る。男は陽子を見つめながら少しだけ首を傾げて、静かに唇を開いた。
「どこに‥行こうとしてるんだ?」
 陽子は瞳を見開いて、掠れる声で言葉を零す。それはやっと喉の奥から搾り出した一言だった。

「楽‥俊…?」

  青年――楽俊は静かに目を細める。


 ひとつだけ、思い出したことがあった。


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