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 少年夕暉の後をついて辿り着いたのは、顔を並べて風景の一部として溶け合った一見何の変哲の無い宿屋だった。到着するまでは途中一言二言言葉を交わしたが、それ以外は終始無言で歩みを進めた。
 その中でも一言だけ、敬語はやめてくれと言った陽子に、夕暉は一瞬目を丸くして少し微笑んで頷いた。
 夕暉は楽俊を背負ったまま、垂れた暖簾をくぐり中に足を踏み入れる。陽子もそれに習って暖簾をかき分けて中に入った。中は暗過ぎも無く、明る過ぎもし無い、静謐ながらも温柔な光で包まれていたが、その内部の間取りや装飾など陽子の目には留まらなかった。
 彼女は湧き上がる僅かな不安を押し殺しながら、夕暉が楽俊を二階に運ぶのに手を貸す。夕暉が楽俊の身体を湯に解いて、固く絞った布で綺麗に拭いている最中、陽子は一人廊下で膝に頭を(うずめ)めて手当が終わるのを待っていた。
 待っている間水を吸って重くなった衣服が身体に張り付いて体温を奪っていく。同じように雨に打たれた髪は真紅が暗く濡れ、パタパタと止めどなく雫が垂れ落ちていった。体温で温まったぬるい筋が頭皮を流れ額を伝っていくのを陽子は心なく感じる。
 冷え切った指先に、冷たく外気に慣れた雫が毛先を伝って零れた。
夕暉が全てを終えて部屋の麩を静かに開けた頃には、陽子の身体は氷のように冷えていた。けれど、陽子は動かない身体を引き起こして夕暉の服を掴む。
「楽俊は…?」
 夕暉は眸を僅かに見開いて、少し微笑んで自分の手を陽子の手に重ねる。湯を扱っていた夕暉の手は涙がでる程温かかった。
「大丈夫。軽い脳震盪だよ。あの人は突き飛ばされて頭を打ったんだ。今は温かくして眠っているけど、もう少ししたら目を覚ますよ」
「本当?…良かった」
 陽子はほっと安堵の息をついたが、反対に夕暉の顔は曇る。彼女の重ねた手は夕暉が想像もしないくらいに冷え切っていた。
(こんなに体温が下がるまで、ずっとここで…)
 夕暉は重ねていた手を強く握る。
「お姉さん、お願いだから自分のことも大切にして。ここは入浴が出来る。熱い湯を張ってもらうから身体を温めて」
 陽子は夕暉を見つめ、静かに首を振った。
「私は…もうここを出ることにする」
「お姉さん…それは‥」
 押し止めようとした夕暉は、しかし陽子の眸に宿る強い光に言葉を噤んだ。陽子は視線を落とし、廊下の表面に弾かれた、歪な水滴の円を見つめる。陽子はぐっと夕暉の袍を皺が寄るほど強く握りこんだ。顔を下に向けたままポツリと陽子は言葉を零す。
「私は…」
「?」
 夕暉は陽子を支えたまま静かに耳を傾ける。陽子は服を掴んで、顔を持ち上げ夕暉を見つめた。陽子の唇が開き、言葉を零すように彼女は囁く。
「私には…記憶が無いんだ」
 夕暉の眸が大きく開いて、肩が僅かに揺れた。陽子は彼の黒眸をひたと見つめたまま静かに言葉を続ける。
「何もかもが分からなかった。目が覚めた時自分がどこにいるも分からない。説明されても、全く覚えがない。気がつけば、私はこの国の王に半旗を翻した逆賊になって殺されるためだけに生きていた。追って来る者は、周囲に居る殆ど全てが、そして自分でさえもが敵だ。こうしている今でも、自分が誰か私には分からない」
 夕暉の眸を新緑の眸が捕らえる。陽子は蒼の悪夢を思い出しそうになるのを賢明に抑えながら手の甲を額に押し当てた。自分は何を言っているんだろう、と心のどこかで感じていたが、それでも静かに動く唇は止まろうとはしなかった。
 夕暉は微動だにせず、彼女の声に聞き入っていた。
そして陽子も自身が気づけなかった、一番言いたいこと、その全てを理性が追いつかない内に唇が言葉として紡いでいく音を、夕暉と共に聞くことになった。声が震える。
「私は‥私は彼―楽俊をそんな私という危険人物に関わらせてしまったんだ。やっと出会えた大切に思える人を私はいつか間接的に殺してしまう。今の立場の私と関わっていたら彼は重罪人扱いだ。私を助けてくれた彼が、何の言い分も聞かれない内に重要罪人の隠匿をしたと殺される!」
 陽子の顔にあったのは恐怖、だった。微かに指先がこわばり、唇が震える。夕輝は静かにそんな陽子を見つめる。やがて沈黙が訪れたその時、彼は大丈夫と囁いた。そんなことはさせないよという声は淑やかで優しい。陽子は蹲る様に丸めていた身体をのろのろと起こす。夕輝は目線を陽子に合わせて、静かに言葉を落とした。
「お姉さんの話は…酷いと思う。何もかもを奪われてしまったんだから、貴方はそれを取り返す権利が有る」
「私は…記憶を奪われた‥?」
「恐らく。でもそれは奪われたと言うよりも、上から蓋をして忘れさせているということなんじゃないかと思うんだ。きっと蓋が取れれば思い出せる。そのために…僕はここに来た。記憶が消えている人は本当は沢山居る筈なんだ。だけどそれに気がつけている人は少ない」
「!そういえば楽俊も…自分には記憶が欠けているって言ってた」
夕暉はゆっくりと頷く。きっと彼もその一人だ と言葉を続けた。
「だけど彼は自分に異変が起こっていることに気づいてる。僕は、最近のこの不可解な件について、この故郷に戻って真相を知りたかったんだ。そして色々な人達から話を聞いて、文献を粗方漁ってみて一つ分かったことがある。僕はそれを、一番重要な何かを持っているだろう貴方に聞いて欲しくて、貴方をずっと探してた」
「…逆賊の疑いがある女を?」
「そういうこと」
 二人は顔を見合わせて小さく吹き出した。クスクスと笑う陽子を見ながら夕暉は続ける。
「その話は、ちょっと長くなりそうなんだ。でも、貴方にとってこれは聞かなくちゃいけない話だ。すぐに出たい気持ちは分かるけれど、今出ても狩られに行くようなものだよ。今の時間帯から深夜の交代の時間までは警備の壁が厚い。狙い目は一瞬の警備に穴が出る警備交代の時間だ。だからお姉さんはそれまでに体力を回復して、事件の鍵を手にいれて手札を増やしてから此処を出るべきなんだ」
「でも…」
 陽子は軽く唇を噛み締めて夕暉を見上げた。煌めく(うぐいす)色にも見える瞳に困った色を溶かしたまま左右に揺らしていたが、少しして彼女は観念したように小さな溜息を漏らした。
「…分かった。じゃあもう少しだけここに居る。でも、真夜中になる前にはここを出る」
「僕も出来る限り力になる」
「‥ありがとう」
 くるりと踵を返した陽子は、楽俊の眠っている部屋に続く麩に手をかけた。だが途中、思い留まったように夕暉を振り返る。その顔には夕暉が今まで見た中で、最も真摯な色が浮かんでいた。
「どうか…この事は楽俊には伝えないでくれないか」
 夕暉は一瞬ためらった風情を見せたが、やがて陽子を見つめて短く頷いた。
「…ありがとう」
陽子は、ほっと安堵の表情を見せ麩の奥に消えていった。夕暉はそれを微かに微笑んで見返し、表情を静めてその場に佇む。
 やがて彼は廊下を歩き出し、暗く闇が微睡む階段の上部に辿り着いた時、彼は足の歩みを緩めた。静かに止まり、その場に腰を下ろす。雨音だけがやけに耳に大きく聞こえるような気がするのは気のせいなのか。夕輝の白い顔は青白く浮かび上がって、項垂れる。
 唐突に、頭に手を当て夕輝はきつく眉根を寄せて膝に頭を埋めた。唇を噛んで、成長の色を見せた今の背中はどうしてか僅かに暗い。強く目を瞑って、夕輝は益々膝の合間に頭を押しこむ。
 先程まで話していた少女の赤が、目の前から消えなかった。
 言えなかった。彼の中にも、何かを無くした喪失感が胸に疼いていることを、先程の少女は知らない。夕暉も彼女や楽俊と同じように記憶の一部が陥落している事を先程の少女は知らない。自分に関する記憶が侵されていない夕暉は彼女の何倍もまし、なのだろうと夕暉は思う。だがその感覚は夕暉にとって、自分の中で消えてはいけなかった誰かが決定的に消えてしまった空虚な感覚だった。
 それは灯火が消えた後の虚しさと酷く似ているのかも知れない。
 彼女を見た途端、それが強く疼いて、だから思わず言おうと思っていたその事を言えなかった。

 霧雨は、もう形を持った雫として無数に地上に降り落ち波紋を描く。霖雨(りんう)となった雨の音だけが濃さを増す中、硝子から漏れ込む仄明かりが青白く彼の顔を透かす。硝子に散った数多の水滴は、光を遮る影となって夕輝の顔に薄い斑を落としていた。
 
 静かに時間だけが過ぎ去っていく中、夕暉はしばらく動くことが出来なかった。

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『楽俊』
 誰だ。自分の名を呼ぶこの声は。心の中で疑問に思った問い、それに答えるように逆撒いた音が耳元で渦巻いていく。意味もなく歩くただ白く柔らかい世界で、彷徨う楽俊は自分の声を耳に聞いた。
『おいらは楽俊ってもんだ。おまえは?』
 これは…過去の世界の声だ。白かった景色にセピアがかった煤けた色が着彩されていく。自分が対峙している一人の人影。顔貌はよく分からない。だが、その顔に際立つ新緑の双眸だけが、鮮やかに今の楽俊の世界を彩っていた。人影は唇を開く。
『ヨウコ』
『ヨウコかぁ。どういう字を書くんだ?』
 見慣れた筈の自分の家なのに、彼の目に映る光景はとても見慣れない景色だ。これは消えた記憶の欠片だという事をじわじわと楽俊は肌で感じ始めた。目の前の新緑の瞳の人物は警戒心を顕にしながらも、小さくはっきりと呟く。
『陽気の陽、子供の子』
『子供の子?』
 へぇぇ と自分の声を聞いた時、楽俊は自分の肌が粟立つような感覚を感じた。冷水をひっ被ったように頭が冴え冴えとしていく。
 ヨウコ ようこ 陽子
 陽子
これは、自分が探し続けている『ヨウコ』の名だ。じゃあ、この眼の前に居る朧げな新緑の眸の持ち主が『ヨウコ』ということなのか。『ヨウコ』へと増えた微かな手がかり。目の前に居るはずのその人物は徐々に揺らいで消えていこうとし始めていた。
(!待ってくれ‥!)
 楽俊が記憶を捕まえようと手を伸ばした瞬間、たゆとう様に景色は流れて消えていった。それでも、追おうとした次の瞬間 白煙が渦巻いて目の前を吹き荒れていく。
 真っ白な煙が耳元で音を立てて吹き流れる。その白さに気がつけば砂粒が混じり始め、あっという間に濁った黄土色の砂嵐になって視野を奪う。思わず一度目をきつく閉じて、目を細めて辺りを見渡すと、そこには新たな景色が広がっていた。
 巻き上がる砂嵐。暴風を起こしているのは上空から影を落とす八つの巨体。翼。蠱雕。
楽俊は息を飲んで空の巨体を見上げた。不意に横で人が疾風の様に駆けていく気配が走る。楽俊が振り向けば、赤を翻し駆けていく一人の人影が剣に手をかけていた。自分の叫ぶ声がする。
『ヨウコ!無理だ!』
『楽俊は街へ』
 人影―少女は蠱雕の胸元の斑紋を睨みつけながら、こちらを振り向かずに指先で門を指し示していた。
 少女は足を止め、腕を振って剣に巻いた布をほどき、その白銀を西日の下 翻す。
止めなくては そう思うのもつかの間、景色は歪んで消えていく。
 楽俊が最後に見たのは火蓋を切って落とされた人と妖魔の殺戮の光景だった。
 
 景色が全て歪んでねじ消えた時、楽俊は呆然とその場に佇むことしか出来なかった。どれ位そうしていたのかは分からないが、何処からか辺りに何か臭いが満ち始めた。同時に打ち寄せる波の音が耳を洗って聴覚を満たし始める。ふわりと風が吹いてその場所特有の香りを煽って鼻本へと運んでくる。

 それは濃い潮の香りだった。

 ふと誰かに呼ばれた気がして振り向けば、そこには先程まで居なかった『ヨウコ』が立っている。
瞬きを一度だけすれば、煌めく大海原を視界に広げ、気がつけば白い石畳の上に二人は並んで立っていた。
 自分が何かを話し、そして彼女が自嘲したような顔で言葉を返す。潮騒の音が濃くて、何と言っているのかまでは分からなかったが、ゆっくりと少女の低くて柔らかい声が聞こえ始めた。
『誰かと旅をするのが怖かった。誰も信じるもんかと思っていた。こちらには敵しかいないんだと思っていた』
 自分の目元が、砕けたように笑ったのを楽俊は感じた。
『おいらは今も敵なのかい』
『ヨウコ』は首を思い切り横に振る。
 楽俊は自分が だったらいい、行こう と『ヨウコ』に言う声を聞いた。二人の背中は降り注ぐ柔らかな陽だまりの中薄く消えていく。今までのようにいきなり攫われていくのではなくて、徐々に徐々にうっすらと消えていく。
 周りが白く染まっていく中、楽俊は自分の意識が浮上するような感覚を感じた。覚醒が―近い。これは、自分の心が見せた記憶の断片だったのだという考えは彼の中で確信に変わっていく。光が目の前を覆い、透明な白が世界を包み込んでいく。

 途中『ヨウコ』の背中が震えて、唇を噛み締め、瞳から雫が零れたように見えた最後の光景は――

 あれは楽俊の見間違いだったのだろうか。



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