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バタバタと、衣が吹き荒れる風に絡まり音を立てる。
「大切な…話…?」
 祥瓊は風に髪を揉まれながら、自分をひたと見つめる友の顔と見合っていた。自分の口から出た言葉が珍しく、あまりに戸惑っていることに祥瓊は一瞬恥ずかしくなったが、鈴はそんなこと関係なしに小さく、だがしっかりと頷いて見せた。
「ええ。私と貴方と…そしてこの国に居る全ての人間に関わる話だわ。私たちはその中でも最も深く関係しているだろう話‥」
「?…どういうこと…?」
 風が声を攫って行く。言いながら、祥瓊は心のどこかでその答えを知っている気がした。鈴は祥瓊からふいに視線を逸らし、はためく衣を見つめた。鈴は一瞬言葉を噤んで、祥瓊に背を向け欄干に指を這わせる。しばしの沈黙の後、月明かりを浴びた白の指先を見つめながら、鈴はまた唇を開いた。
「この国は…何か異変が起きているわ‥。誰も何も気が付かないけれど…何かがおかしい。私も、貴方も、台輔も、虎嘯も、桓も…浩瀚様も…本当は祥瓊だって気がついているんじゃない?」
 祥瓊は眉根を寄せて鈴を見つめる。その勝気で整った顔に、不安の色が流れ込んでいく中で、祥瓊は鈴の言葉が胸に沈んでいくのを感じた。自分の中で感じていた違和感を、この目の前の友は今見抜いている。不安の裏側を突き抜けて唐突に―何か美しい赤色が…見えた気がした。
「祥瓊…」
「‥何‥?」
 白の月明かりが―流れる。祥瓊は鈴を見つめたまま、自身の中で濃くなっていく違和感を内側に抱いていた。鈴は虚空を睨んで、その核心部に指を伸ばす。鈴のその唇が僅かにわななく。
「私達って…どうして慶に来たの?」
 祥瓊の喉元が声にならない音を立てた。言葉なく立ち尽くす祥瓊を、鈴は勢い良く振り返り、その華奢な肩を掴む。
「覚えてないでしょう?!一番大切な事の筈なのに、どうして私達が出会ったか、なぜここに私達が来たのか、虎嘯達との関わりが私はまるで思い出せない…!私たちは何か決して忘れてはいけなかったことを忘れてしまっているのよ!!」
 大切なことを忘れている―その言葉は、幾重にも重なりあいながら祥瓊の胸に反響する。先程脳裏に過ぎ去った赤が―一層濃さを増して目の前を横切った。鈴は尚も言葉を続ける。
「私達は何も分かってなんかいない…。こんなおかしな話が有ると思う?誰かが何かの均衡を崩したのよ。今の私達は何者かの掌の上で踊らされてる操り人形だわ。自分の頭で考えなきゃ、周りの状況を鵜呑みにしないで自分の目で見た世界の姿を受け止めなきゃ!ただ、流れに押し流されてるだけじゃ、それこそ私達の記憶を奪った人間の思う壺なの!」
 祥瓊は鈴の顔を呆然と見つめる。私ね と鈴は囁く。肩を上下させた鈴は唇を噛み、視線を落として、押し出すように呟いた。
「旅に出た先で…とても不思議な人と会ったの…。とても綺麗な‥赤の髪をした私達と同じ年頃の人だった」
 赤の髪 その言葉に祥瓊の瞳が―大きく見開いた。鈴は崩れるようにして、地面にへたり込む。
 目を閉じれば瞳の奥に焼き付いた、美しい赤を持つ少女。滑らかな褐色の肌、光を弾く緋色の波、そして…人を魅了する輝きを閉じ込めた深緑の双眸。優しくて、澄んでいて―深い。あの人に会いたかった。今度会えたのなら、もう見失いたくなくなるようなそんな光のような、少女だった。
 自分のことさえも分からない、そう自嘲するように笑った彼女の顔は鈴の胸をざわつかせた。何故、あんなに悲しそうだったのだろう。何故、あんなに傷ついた顔を‥していたのだろう。
 あの人は、一人現れて、そうして独り去っていった。
そう思った瞬間胸に突き上げるような痛みが走る。そして同時に何かが、自分は彼女を知っていると鈴に囁く。
 今度会えたのなら、側にいさせて欲しかった。大したことなんて何も出来ないが、それでも、あの人が独りが辛いのならば、許してくれる限り側にいたかった。何かと戦っているのならば、その冷えた身体を温めてやりたかった。
「取り戻さなきゃ…ならないのよ…」
 今思えば、何もかもが幻だったようにさえ思える。セピアを帯びた砂舞う風光。鞘から抜き放たれた翻る白銀の刃が脳裏を過ぎ去る中で、こちらを振り返る、澄んだ翡翠の双眸だけが鈴の心を現実に引き戻す。
 鈴はくずおれるようにして、両手の中に顔を埋めた。外気が目に染み、強く瞳を閉じたその時、顔を覆った腕が強く握られ、鈴は驚いて目を開く。
 視線を上げた時、そこには真剣味を帯びた表情をした、祥瓊の顔が目の前にあった。記憶の奥底で動き始めた胸騒ぎに、祥瓊は目を閉じる。静謐な静けさだけが二人を包む中、貴方の言うとおりだわ と彼女は口の中で呟いた。
「詳しく聞かせて、その話。私も、知りたいことがある。その話が終わったら‥」
 祥瓊の顔つきは、先ほどまでとは違い、何かを決断した色を出していた。今度は鈴が祥瓊を呆然と見る。
 金波宮の寂寞を帯びた景色だけがその場に佇む。目の前に浮かんだ美しい赤、思い出せない自分の一部。変わりゆく友人達。脳裏に過る、様々な異変を振り返りながら、鋭い光を帯びた目付きで鈴を見つめる。そして祥瓊ははっきりとその言葉を囁いた。
「真実を探しに行きましょう」

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 煤けた夜の色合いが、錆を塗したように見えた。


 光に慣れた目に、外界に広がる暗闇は全てを飲み込むかのように深く、生ぬるい。眼下から金波宮に吹き上げる風は、地上から今日一日の人々の汗や疲れを吸い上げてきたのだろうか。雨上がりの湿気を含む風は重みを帯びていた。先程まで濡れていた、振り仰ぐ空には今日はあまり星は見えない。滲むように弱く瞬いている物が、肉眼で一つ、二つと確認できる程度だ。だが、それに気を落とすように目線を下に落とせば、色合いの違う美しい光の粒が一面に広がって見る者を待ち受ける。それはまるで‥星屑のように。

 地上に広がる満点の星々―それもまた、悪くない。

 金波宮のある外廊、慶国の冢宰として他国の要人からも一目置かれるその男も、今はそんな地上の星に目を奪われている者の一人だった。
 浩瀚は瞬く地上の眼下の光の粒に瞬きを一つする。やがて、さんざめくその美しさが見るに耐えかねたかのように、たまらず視線を手元にずらした。
 繊細な彫刻が施された手摺(てすり)は、外気で冷えていたが、今は浩瀚の手の温みを吸ってやんわりと冷たさを和らげていた。
(そろそろ…戻るか…)
 凝って皺を畳んだ眉間を指の腹で揉みながら、浩瀚は欄干から身体を離す。仙とは言えど、蓄積した過大な疲労は浩瀚を蝕んでいく。その証拠に、ふとした背後の人の気配に、一瞬浩瀚は気が付くことが出来なかった。
 隠そうとしない大きな足音がした時、浩瀚ははっと気がついて後ろを振り返る。
地上の星に目が慣れていて、最初は眩んで見えた影は徐々にはっきりとした輪郭を顕にしていった。なんとか確認できた大柄な岩のような筋肉の線で、それが誰だか気がついた浩瀚は小さく息をつく。
 そこに佇む男はこの辺りでも著名な人物であり、王宮で、彼を知らぬ者は居なかった。彼の輪郭を目でなぞりながら、浩瀚は口を開く。
「虎嘯」
 威風堂々とその場に立つその男。太いしっかりとした形を持った眉、大きな口、強面の中に濃い影を重ねる。

―大僕 虎嘯

 大柄なその男は今、唯でさえ強面の顔に更に怒りを流し込んでいた。黒い両の瞳の表面に浩瀚がそれぞれ映し出される。彼の喉元が震え、低い声が発せられた。
「あんた、一体桓に何をした…?」
「? 桓…?」
 その言葉に、自身の部下である優秀な半獣の将軍の顔が浮かんだ。そういえば、最近彼と会話をしていない。強い目眩がして、浩瀚は思わず頭を押さえた。頭が何かに酔ったように、芯が痺れて時折熱さを(はら)む。痺れて動かない頭、舌を叱咤しながら、浩瀚は口を開く。
「あいつが…どうかしたのか?」
 その瞬間、虎嘯の瞳の怒りの炎が燃え上がった。腕の筋肉が盛り上がり、そのあまりの怒りに、声が掠れて、わななく。虎嘯は震える指で浩瀚の胸ぐらを掴んだ。
「どうかしただと?あんた本気で言ってるのか…?」
 浩瀚は言われていることが分からず、眉根を寄せ虎嘯を見つめる。その浩瀚の様子を見、虎嘯の瞳の怒りの炎が更に大きく巻き上がった。
「あんた頭良いんだろう?!自分が言ったことも覚えてないのか?! 桓に何を命じたんだ?!あいつが今どんな状況なのか分かってんのか?!!」
 頭が、痺れる。むっと濃度を増す頭の中の靄が、視界を覆っていく。必死に抗おうとした瞬間、それは真っ白に全てを攫って行く。浩瀚は僅かに喘いだ。
「頼むから、桓に下した命令を解いてくれ!俺はそのためにここに来たんだ!!」
 虎嘯は、彼は一体何を言っているのだろう。声だけが頭に反響していく。浩瀚は最近不可思議に、日常生活の中でも記憶が飛ぶ事が多くなっていた。虎嘯の顔が歪んで見え、浩瀚は頭を振った。
 桓は、贔屓などするつもりは無くても、自分の一番と言って良い大切な部下だ。彼が‥どうした…。何故自分には記憶がこんなにも抜けている…。自分にとって一番大切なことが何故‥思い出せない…? 不可解な白の靄は何もかもを掻き消して、目の前の青年さえも―消していく。
「なあおい…!!」
 がくりと浩瀚の首の力が抜けた。その瞬間深くて甘い香りが風に揺れたことに虎嘯は気が付かない。虎嘯が更に強く浩瀚を呼び、胸ぐらを引き寄せる。されるがままに身体を揺らす浩瀚。虎嘯はもう一度声を上げようと口を開きかけたが、次の瞬間彼の動きは止まった。

 胸ぐらを掴んでいた虎嘯の腕を浩瀚の手が掴んだ。

「な…!」
 その強さに、虎嘯は驚いて、思わず浩瀚を見やる。握る強さは徐々に圧力を増し、鈍い痛みが虎嘯の腕に走り始めた。僅かに俯いていた浩瀚の顔がゆっくりと持ち上がる。整った相貌に微光が当たり、薄く微睡んでいた影を強くする。

 その顔は酷く冷たく、一切の表情が消えていた。

「…?!」
 虎嘯の目が見開く。先程痺れたようだった浩瀚の顔つきが変わり、鋭く引き締まった口元が歪んだ。
「桓が‥どうした…?」
 滑りでた浩瀚の滑らかな声は、冷え切っていた。先程とは打って変わった雰囲気に虎嘯は僅かに身じろぐ。凍てついたその黒眸は、虎嘯と同じ黒色をしている筈なのに、まるで違うように見えた。その無表情な冷気が這い登り、虎嘯の背筋にゾクリと悪寒が駆け抜ける。浩瀚の唇が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「手を…離せ」
「?!う…っ!!」
 鈍い痛みが鋭い痛みと形を変えて、虎嘯の腕を締め上げる。思わずその強さに力が緩んで浩瀚の胸もとの衣が指からすり抜け、浩瀚は虎嘯を突き放した。たたらを踏んだ虎嘯の衣の胸もとを、今度は襟を直した浩瀚が掴む。彼の瞳が薄く細まった。
「私に対し、桓への命令を止めよとお前は言うが、これは主上からの勅命なのだ。王の仰ることは絶対。逆らうことは許さぬ…。お前にも働いて貰う…」
「?!何だと?俺は言いなりになんて…!」
 いや と浩瀚の瞳が光る。すっと顎を引き、口端を上げる。角度がつき、陰翳を濃くする顔に更に深く落ちた影。
「お前は自分から私の言うことを聞くようになる…」
 その不思議な光を宿した黒眸に捕らわれ、意図せず虎嘯は動きを止める。何故か視線が逸らせなかった。
 見合った温度の違う、明度の違う、彩度の違う黒い瞳。それでも紛れも無く―同じ濃度の黒い瞳。

 この男は、誰だ。

 心で呟いた声に、答える人間なんて居なかった。だが少なくとも と虎嘯はなんとか後退ろうとした。この男は…自分の知っている浩瀚では無い。不思議な光に捕らわれ、動くことが出来無い虎嘯は痺れたように只々浩瀚を見つめる。浩瀚は虎嘯の胸ぐらを引き寄せ、その耳元に囁いた。
「お前が来てくれて、調度良かったよ…。先程は忘れていたが、実は私の方から赴こうと思っていた所だったのだよ‥。今…堯天に、追跡中の逆賊が紛れ込んでいると言う話は、お前は知っているか?」
 だから…何だ。
 冷たくて、滑らかな声と対照的に、耳を撫でる吐息は生ぬるい。だが、それが一層、頭の中に入り込む声を鋭くし、刻み込まれる切り込みを深くする。浩瀚の物でありながら、「浩瀚」では無い声がゆっくりと頭の中に響く。虎嘯は動くことが出来ずに瞳を捕らえられたまま、その言葉だけが只々頭に刻まれていく。
「赤い髪に、褐色の肌、翠の瞳。年の頃十六、七の娘…。それを捕らえるなど、お前達には造作も無いことだろう…?」
 身体が動かせず、そして徐々に表情の消えていく虎嘯。背後からする気配に、虎嘯はもう振り返ることは出来なかった。彼を尻目に入れ、その背後に目をやりながら浩瀚は締まっていた顔つきを柔らかく解いた。虎嘯のその背後に、浩瀚は優しく微笑みかける。
「なあ、 桓。お前もそう思わないか?」

 固い足音が、響く。その場に影を纏って立っていたのは、一人の武人だった。


 その目は浩瀚を見つめていながら、何も見てはいなかった。ただ、乾いた揺らぎだけが彼の理性、心を掻き消し、飲み込んで殺戮へと誘う。


 景観に、三人の人間を含めた景色は静止したまま、土の匂いだけが鼻を突く。
それは丁度、陽子達が堯天に足を踏み入れた日、その時の彼女はここで起こっていることなど知りもしない。
 そこに佇む男達はもはやなんの変哲もない唯の景色の一部だ。何かに捕らわれたように動きを止めた大柄な男と、彼を引き寄せたまま、薄く笑みを浮かべる怜悧な男。そして一言も言葉を発する事無く、髪を風に靡かせる一人の武人。

 彼の瞳には―どろりと淀んだ炎が揺れていた。


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