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霧雨が、音もなく静かに降りしきる。
細かく散った水滴が一つに集まり、それが幾つも葉の表面を滑り落ちていく。振り仰げば、空は所々暗い淀みを見せていたが、大部分は光を透かした柔らかな白の濁りが覆っていた。
 薄い光で覆われた世界。
落ちる影は弱く霞んで、足を地面から浮かせば頼りなく消える。しっとりと雨を吸った風景は温かな空気を吐き出していた。
 輪郭が暈けて淡い光で幻想的に染まるその風光には、大小それぞれの輪郭が揺れる。糸を撒いたような細い雨の中、陽子は思わず足を止め、続くなだらかな斜面を見つめた。後ろから歩む楽俊も足を止め、陽子を見上げた。
「?どうした?何か面白いもんでもあったか?」
「いや―」
 楽俊に視線を落とした陽子だが、一瞬後にその口元に微かな笑みをはいて、そしてまた視線を遠くに飛ばす。
「綺麗な景色だな、と思って…」
 楽俊は笑った。
「そうだなぁ。だが、この丘を超えたらもっと綺麗なもんが見れるぞ」
「え?」
 楽俊は陽子を見上げて含んだような笑みを見せた。
「この丘を超えたら、慶国の首都堯天の街並みが一望出来る」
 霧雨の音が濃さを増す。陽子の纏う蓑には、水粒が数多に散って光をはねる。一粒一粒が宝石のようで、時折耐えかねたように蓑から零れ落ちていく中、楽俊の言葉を聞きながら、彼女は瞬き一つした。陽子は視線を一瞬地面に落として、やがて強く前を見つめる。
「…そうか」
 じゃあ早く行こうと呟いて、陽子は足を前に進める。笠から水滴が零れ落ちて、細かな雨の降りしきる陽子の視野に大きくて透明な水の玉を幾つも見せた。楽俊が付いてくる気配を感じながら陽子は静かに目を瞑る。
 楽俊と旅を始めてからはや五日が経とうとしていた。道中は妖魔に襲われる事もなく、陽子の腰にはいた宝剣は鞘と身を噛みあわせたまま沈黙を保っていた。この人の良いネズミを、自分のせいで危険な目に合わせずにすんだ事に陽子は内心ほっと安堵の息をつく。だが、それは今までそうだったから、と言ってこれからもそうと確証づけられたことではないもので。彼を危険に巻き込むようなことがあるのなら…陽子はすぐに彼の元から姿を消すつもりでいた。
 現に初めて会った時から今まで―陽子は彼に自分の名を名乗っていない。
本当のことを話して彼を自分の問題に触れさせることも、偽名を名乗って偽りの関係を築いて後に彼を傷つけることも陽子は望んでいなかった。それが最初から、関係を築かない、陽子なりの努力だった。
 楽俊もそれを察してか察してないか、「名」について、彼女の素性について、あまり詮索をしようとはしなかった。
 陽子は一人唇から溜息を漏らす。足が水を吸って柔らかくなった斜面を踏みしめる感触がする。微かな負荷が足に掛かるのを感じながら、楽俊の軽い足音が耳に聞こえた。やがて足の裏がちょうど山の頂点の曲線を掴む。
「見えたな…」
 楽俊が隣で呟く声を聞きながら、陽子はうっすらと瞼を開ける。濃い雨の臭いが鼻を伝って胸に流れ込んだ後に、霧雨が弱くなり、薄く張った雲が崩れていく。
 
 切れ込んだ翡翠の瞳に映ったのは眼下一面に広がる広大な首都堯天の街並みだった。

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 降りしきる雨を避けるように人々は屋根の下に潜っているのか、広々とした広途(おおどおり)に道行く人は疎らだった。
歩く堯天の街並みは雨に濡れ、巻き上がる土煙を抑えて普段は人で賑わう表情を静める。
 広がる地面は水を吸い、足元で柔らかくぬかるんでいた。
陽子と楽俊はその白い雨脚の中、二人並んで濡れた町並みを歩いていた。ポツポツと滲むように灯る灯りが目端を過る中、楽俊は地図に視線を落とす。ふと彼が歩みを止めたのに釣られるように陽子も足を止めた。
「どうしたの?」
「いやぁ、今日は確かこの辺りにある宿に泊まろうと目星を付けていたんだが…どうも見当たらねぇなぁ」
そうか と陽子は目線だけを左右にずらして周囲を見渡した。漏れる吐息は、唇から零れた途端、外気で白く凍りついて目の前に広がる。雨に体温を奪われた空気は段々と冷えの色を濃く滲ませ始めていた。
楽俊は横でポリポリと頭を掻く。陽子はそれを見て少しだけ笑って、楽俊の背を軽く叩いた。
「未だ日没まで少し時間がある。もう少し探してみようよ」
「そうだな」
楽俊も笑って頷いた。酷く目に静かな光景は何処までも広がって心を満たす。陽子も微笑んで荷物を背負い直した。
だが、けぶる雨の中、二人が歩み出そうとしたその時―
 背後から耳をつんざく様な轟音が響き渡った。

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「?!」
「な、何だ?!」
 人々の悲鳴が響き渡り、二人は驚いて背後を振り返る。
陽子は同時に、動きづらい蓑を身体から引き毟る様に剥がす。またあの体の中で這うゾロリとした感覚を感じながら、帯刀した剣の柄に手をかけ、戦闘態勢を整える。陽子は久々の襲撃に目を凝らしながら、唇を噛み締めた。
(やはり来たか…!)
 うっすらと口が苦いのは滲む血のせいか。鋭く睨みつけたその視線の先には、何も無い光景の一瞬後に、角を持った様な巨大な牛の様な妖魔が、丁度角を曲がって向かってくる光景が広がる。楽俊の息を呑む音が隣で聞こえ、陽子は腰の剣の鞘から刀身を抜き放った。人は雨のせいで少ない方だったが、それでも相当数の人数が阿鼻叫喚しながら此方に逃げてくる。陽子は逃げる人には目もくれず、妖魔に視線を集中させながら口早に言葉を放った。
「楽俊さん、何処か安全な所へ」
「え?!」
 陽子は楽俊の言葉を待たずに妖魔目がけて低く駆け出す。周囲からは悲鳴に押されてか、所々から人の頭が建物の窓から覗いて通りの様子を伺っていた。その数ある内のいくつかが、人並みから逆走する赤い影に気がついて指さす。楽俊は急激に遠のいていく少女の背中に向かって叫んだ。
「待て、無理だ!!相手は妖魔だ 死んじまうぞ!!」
 翻る真紅の髪の持ち主の姿は小さくなっていく。楽俊が手を伸ばして追おうとした時―猛烈な既視感が彼を襲う。呼吸が止まり、消えていく眼の前の赤に何かが重なった。
 それは記憶に沈んだようなセピアがかった翻る赤。
(?!何だ…こりゃ‥)
 だが、それを考える間もなく、楽俊は(なだれ)れ込む人の一人に突き飛ばされた。
「退け!半獣!!」
 突き飛ばされ路肩に倒れこんだ楽俊に、妖魔に集中する陽子は気を回すことは出来なかった。被っていた笠は、とうに自分が起こした疾風に引き剥がされ、薄い雨粒が剥き出しの顔を叩く。視界が雨に濡れ、頭の中で瞬時に立てた、妖魔を倒す算段だけに集中し、陽子は剣を振りかぶった。白銀の筋を翻したその時、陽子は妖魔に踏み潰されそうになっている一人の少年の姿を目に捉える。
(人…!!)
 陽子は低く駆けながら、少年を踏み倒そうと間近に迫った妖魔の足を剣筋で突き抜いた。陽子は思わず顔に腕をやった少年の上空に飛び上がり、傾いだ妖魔の身体を薙ぎ払う。吹きつける様に散った血しぶきを身体を翻して避ければ、倒れるその妖魔は、後ろから迫っていた別の一匹に倒れこんだ。それに足を取られ、次々にだまになった妖魔たちはその場に転倒していった。陽子は一匹残らず急所を一突きして動きを止めさせていく。やがて妖魔の屍が累々と道に積み重なり、最後の一匹を切り払ったのを終わりに陽子の身体は動きを止めた。
「はぁ・・!はぁ・・!」
 肩で息をしながら、静かになった広途で陽子は立ち尽くす。拭う間もなく、刃から次々と溢れていた血の雫の筋は、降り注ぐ透明な霧の雨に洗い流されていった。
 辺り一面の地面には鮮血が張っていたが、これに人の血が混ざっていない事がせめてもの救いだろう。陽子はもう命が抜けて、ただの物となり積み重なる生物の欠片(かけら)を見つめる。やがて耐えかねたように振り返って、何かを探すように視線を周囲に走らせた。今の彼女が気にする人物はただの一人しかいない。
(ちゃんと…逃げてくれたよね…?)
 楽俊が逃げたとばかり思っている陽子は半ば確認するように辺りを見渡す。だが、視線を更に横に遊ばせた時、陽子が目に捉えたのは倒れているネズミの影だった。陽子の瞳が、物も言えない程大きく見開く。
「!! 楽俊!!」
 陽子は叫んで、真っ直ぐに見つけた楽俊の元へ駆け寄った。だが彼を抱き起こした途端、赤黒いものを吸って、変色した毛色が目に入り、陽子の呼吸が止まる。
「ら…楽、俊‥?」
 どくり と陽子の血が音を立てた。同時に頭を殴られた様な痛みが襲って陽子は悲鳴を上げる。内側から何かがのたうつような、以前にもこんな事があったというデジャヴが陽子の目の前に広がる。だが、今は陽子はそれを頭から振り払い、無我夢中で倒れるネズミの胸元に耳を当てた。
 毛皮は、多少ごわついてはいたが(ぬく)みを帯びて陽子の耳に熱を分けた。そして何よりも、その奥から聞こえるトコトコという生命を刻む心音に、陽子は膝が砕けて地面にへたり込む。胸元の線が緩やかに上下を繰り返している光景が、陽子の目に入った。
(生きてる…)
 陽子は楽俊を抱えたまま、口からゆる と安堵の吐息を漏らした。だが、怪我をしているのか、していたとしたらどの程度のものなのかまでは分からない。気は抜けるような状況下では無く、同時に騒ぎを聞きつけて役人の来る足音が聞こえ始めた。
 陽子は楽俊を抱えたまま、辺りを見渡す。何処か逃げられる所は無いか。せわしなく周囲に目をやる陽子に、路地の影から人影が顔を覗かせているのが目に入った。
 それは艶やかな黒髪をした、利発そうな美少年だった。
 不審な人影に陽子は瞬時に瞳に警戒の色を浮かべ、目を凝らす。整った顔には遠目からでも僅かな緊張が見て取れ、彼は周囲を確認すると、陽子と楽俊の元に駆けてきた。陽子は咄嗟に身構え楽俊を腕に庇いながら、少年に向かって囁く。
「貴方は…」
 駆けてきた少年は髪を揺らして、陽子の元に身を屈めた。
「どうか僕と一緒に来てください。僕は先程貴方に命を救われた者です。連れの方も一緒に、もう王宮からの追手が迫っています」
「!さっきの…」
 それは先程妖魔に踏みつぶされそうになっている所を、陽子が救った少年だった。年の頃は16、7程。丁寧な物言いと柔らかさを帯びた声は彼の年齢以上の知性を感じさせる物で、陽子は思わず彼を見入る。 少年の顔には焦りの色が濃く滲み始めていた。
「どうかお早く。今を逃せば抜け道にまで手が回って抜け出せなくなります」
「だけど、私と関わったら…私は今…!」
 犯罪者の汚名を着せられている と口を開こうとしたのを少年は掌で遮った。もう足音は位置を確認できるほど近くにまで迫っていた。少年は陽子を見つめたまま一度唇を湿らせて口を開く。
「分かっています。僕もこの一連の事件の事実を突き止めるために故国に戻ってきたんです。話は追々に、今はとにかく手の回らない場所まで移動を」
 陽子の瞳が一瞬揺れ、やがて楽俊を見つめた彼女は手短に頷いた。少年も応えるように一つ頷いて見せ、倒れている楽俊を背中におぶせ走りだす。
 陽子もその後を追うように少年の背中について走りだした。細い路地裏に駆け込んで、ふと後ろの様子を伺うために振り向けば、丁度先程まで自分たちが居た所に鎧を纏った兵卒が雪崩込んだ光景が僅かに見て取れた。陽子は目を細めて走る少年に囁いた。
「貴方は一体…」
 少年は僅かに後ろ手に振り向いた。
「僕は夕暉です。以後、お見知りおきを」
 深くて純度の高い黒眸が陽子を見つめる。一瞬目を見開いた陽子は翡翠の眸でその目を見返し、小さく頷いた。
 駆ける二人の足音は、狭い路地裏になぞって立つ石壁に反響しながら、細く道から消えていく。
陽子は楽俊の身を案じながら、ただひたすら前を見て突き走った。



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