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 目の前に輝く、あの金の(さざなみ)を持つ男は誰だ。まるで月が人として現れたようなあの、男は。
 陽子はただ呆然とたなびく白金の波に見惚れていた。深くとろりとした紫陽花色の眼は恐ろしい程純度が高く、闇夜に透ける。月明かりに煌々(こうこう)と溶け入る男の顔は、美しいが能面のように表情の乏しい顔だった。
 男がこちらを向き、その瞳が細い線となる。その双眸を陽子は見返した。こちらは草陰で翳り、上空からは葉が生い茂って垂れ更に陽子の顔に影を落とす。
 一瞬僅かに漏れ込んだ月明かりが陽子の瞳に反射した。
 その瞬間 男の(ひとみ)が水面に石を投げ込んだように揺らぐ。陽子は咄嗟にその月影から体を逸らして、闇に逃げ込んだ。一瞬の光を逃した男の瞳が彷徨い、消えた燐光を探す。
 頼りなげに揺れる紫眸からすり抜け、陽子は息を詰めてその視線に捕まらないよう体を縮めた。

―何を…しているんだ、私は!

 自分の中の海が音を立てて波を掻き回していく。盛り上がった波がしぶいて砕け、陽子は強く瞳を閉じた。

―早くどこかへ行け…!

 握りすぎた拳はもう白くなっている。だが男は微塵も動く様子はなく、陽子の方を未だ見つめていた。
 そろそろと陽子は(にじ)るように後ろへ下がっていく。(もつ)れた足が土に捕らわれ、陽子はたたらを踏むように後ろに(まろ)んだ。
 どれ程地面が硬くても、陽子は男から目を放すことが出来なかった。美しすぎる、記憶を掻き乱すあの男から。

 なぜだか―泣きたい気がしてくる彼から。

 じわりと舌に錆びた苦い物が走る。その時になって、陽子は自分が血が滲む程強く唇を噛み締めていたことを知った。
 月の男は静かに虚空を見つめ、陽子はもぐように彼から視線を外そうとした。だが…
ポカンと陽子は呆気に取られて男を見つめる事になる。
 見開いた碧の瞳が鏡のように目の前の光景を映し出し、陽子はその映像に己の目を疑った。
男の影がどろりと蠢き、中から何かが鎌首を(もた)げるように滑りでたのだ。
 初め陽子はその形すらも認識出来なかったが、やがてそれが大型犬を形取った妖魔だと気がつく。
 滑り出た妖魔は平伏して男の足元に額づいた。
 淡い月光が妖魔の毛並みを照らし、蒼く濡らす。体の動きにあわせて、艶が獣の表面を走った。
「何だ…あれ…」
 丸い翡翠が見開かれた瞳の中心で震える。荒い息が空気に擦れ、静謐な夜の無音を掻き乱す。
 音は煩いのに、目の前の光景は閑静として、それは酷く不釣り合いだった。男が僅かに体を傾げ妖魔の方へ耳を寄せ、妖魔は男の耳元にそっと何かを囁いたように見えた。
 やがて男が静かに頷く。同時にどこかで極微の雫が水面を叩く音がした。
―刹那

その傍らに侍っていた妖魔が高く高く遠吠えを上げた。

 唯でさえ夜を切る声が引き伸ばされて、(いびつ)に途切れながらも、何度も何度も妖魔は繰り返し声を放つ。
 陽子は体の芯から肌が粟立つのを感じた。
 どこからか生臭い息の連なりが聞こえ、風に乗ってその狂気を運ぶ。生物としての直感が感じ取る、遠吠えに呼ばれるようにして引き寄せられたのは妖魔、妖魔、妖魔の群れだった。
 その時はっきりと背後から聞こえた唸り声に、陽子の息は凍りついた。

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 薄闇が夜を浸す中、美しい透ける金の鬣を靡かせる一人の男。慶国の麒麟、景麒。
 背の高い彼が佇むその場所だけが、金の鬣の輝きを受けて景色から浮いていた。
 景麒はゆっくりと荒涼と同じような表情をしている景色を見つめて目を細める。何故、自分は今こんな所に居るのだろうか。ふとここまで来るまでの過ぎりかけた先程の記憶を振り払い、景麒は小さく息を着いた。
 自分でも分からない何かを、景麒は感じる。何故か気になる、闇に紛れた一点を、景麒は困惑したような面持ちで見つめた。
 先程目をこらすように集中しようとした時、ふと煌めいた宝石のような輝きが景麒の目の前を一瞬過ぎったように見えたが、驚いた拍子にその輝きは逃げこむように消えた。その後にいくら目で探しても、もうその輝きを景麒は見つけることは出来なかった。
 不思議に引き寄せられたこの土地。人の気配一つしない土地に、景麒は些か困惑する。
 僅かに眉根を寄せる景麒の横で、するりと影から班渠が滑り出た。
「台輔、ご報告が…」
 景麒は声を掛けられても何も反応はしなかった。ただ視線を逸らさずに、ある一点を見つめているだけ。少しして景麒は一言だけ言葉を落とした。
「…何だ」
「逆賊と言われている人間がこの辺りに居ると…報告が入りました」
「…そうか」
「捕らえますか?」
「そうだな…まずここに人間が居るのか、それを確かめたい。だが無闇な殺生は避けよ」
 空気はひんやりと冷えを孕んで流れていく。
 淡い燐光が滲む中…班渠は静かに首を縦に振った。

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 ゆっくりと振り向く自分の首が油を指し損ねた鉄のようだった。
体がギシギシとあからさまな音を立てながらも陽子は背後に視線をずらす。そこに立ち並ぶ、飢えた獣達の淡黄色の瞳だった。
 頭数はざっと20頭、更にその倍の数の虚濁した真円の瞳が幽闇(ゆうあん)に浮かぶ。
 息もつけない陽子を目端に入れて妖魔は彼女を嗤う。
「上手くここまで逃げ切れたものだ…此処に呼ばれなければ我らはお前を見つけることは出来なかっただろう…」
 濁る淡黄色の瞳が薄く細まり、陽子はただその切れ込みを見つめる。先程の大型犬のような妖魔によく似ていると、心の何処かで感じた。
「忌々しい…犬狼真君の守護を得たんだな?一体何処で神仙に取り入った。おめおめと生き延びた逆賊め、お前がこれからも生き長らえることを許す程この国は甘くないぞ」
「私には…覚えが無い」
「ハッ 覚えが、無い!」
 どっと火が点いたように笑い声が起こり、夜の空間がさんざめく。
やがてピタリとその声が止んで真円の双眸が陽子を囲み静止した。
「どんな口上を述べようが無駄さ…台輔の命だ」
 ―台輔 そのワードが何時か聞いた言葉と重なり陽子の中で光を灯す。言葉を発しようとしたが、渇いた唇の奥で絡まった言葉は漏れなかった。
 沈黙が陽子を(くる)むのと対象的に、ゆっくりと言葉を舌で慣らして含める様に妖魔は口を開く。
「薄汚い逆賊、半旗を(ひるがえ)して玉座を狙い国旗を血色に染め上げようとした(けだもの)
 じっとりと陽子の周りを旋回しながら声は続く。
 視線だけを妖魔に合わせて、陽子は指一つ動かさなかった。ぬるい微風が吹いて陽子の髪を掬う。
 妖魔がはたりと歩みを止めて真円の瞳を見開いた。
「台輔は捕らえろと言ったが、実際の所、ここで消えるのがお前の一番の償いさ…」
 死んでもらおう と微かな声で妖魔は囁いた。くるくると妖魔が回りながら間合いに張られた緊張は膨れ上がっていく。
 瞬間
 鞘走りの音がしたのが先だったか、妖魔達が躍り上がったのが先か。
 いずれにしても相互共が動き始めた一瞬後には、青光する刃と乳白色の牙が噛み合っていた。
 ぴたりと空中で静止した、絡みあう澄んだ青光と白濁色。ゆらゆら噛みあう二つの物が大気中で揺れる。 その画の奥底では、ぎちぎちと押しては返す、微妙な力の均衡が激しい波の様に揺らめている。
相手の押してくるその力の強さに、陽子は自分が強く歯を食いしばる音を聞いた。
 妖魔は嗤う。
「莫迦が…耐え切れるとでも思っているのか」
 力は益々強くなり陽子を押し潰そうとする。
筋肉に更に高いテンションがかかり陽子は足が柔らかい土にめり込んでいくのを感じた。
 薄く細まる妖魔の双眸を睨み、陽子は唸る。
押し寄せてくる強い力の波に柄を握る手に汗が滲むが、それでも陽子は懇親の力を込めて剣を振り払い妖魔をはじき飛ばした。
 だが無理矢理押しのけた相手の力も強かった。ぶつかり合った力同士が弾き合い、陽子の手から生ぬるい柄がもぎ離されていく。
 剣が弧を描きながら、空に煌めく糠星(ぬかぼし)の合間を飛んでいこうとするのを陽子の眸が捕らえる。
(まずい!!)
 腕を伸ばしても空中高くを舞う青光の閃きに届く筈もない。
手から滑りでた剣は直ぐ側の地面に柄だけを出して深々と突き刺さり、それはまるで地面が鞘になってしまったような光景だった。
 やがて聞こえる押し殺したような呼吸が陽子を現実へ引き戻す。はっと振り向いた陽子にもう抵抗の術は残されていない。
「終わりだな…」

―そうサァ 終わりサァ

 誰かが陽子の耳元で囁いた。ゆっくりと歩み寄ってくる先ほどの一匹。くつくつと喉の奥から嗤い声を鳴らしながら妖魔はゆうるりと陽子の周りを旋回した。
「死ね」
 うっすらと茶けた滑らかな乳白色の牙が喉元に当たり、その無機質な冷たさに肌が粟立つ。逃げなければ と心のどこかで声が叫ぶ。だが見を捩ろうと、咄嗟に地面に手を着いたその時――

 一際大きく、甲高い声が響いた。

―別に良いんじゃないかヨォ

 心の奥底で何かがきゃらきゃらと嗤う。呼吸するように水面に浮かび上がる蒼の燐光。少しでも逃げようとしていたが、吹き出してくる何かが陽子の心を覆っていく。疲れていた。蓄積された傷が陽子の中で重さを増していた。
 うっすらと目を開き、陽子は瞳の中心にある碧の玉を目端にずらした。視線の先に何があるわけでも無い。だが、だからこそ、その不気味さが生み出した闇色の(さび)が陽子の心に歪な(まだら)を描く。
 きゃらきゃらと嗤う声は徐々に大きさを増して心の奥底に滲んでいき、反響音だけが何時までも頭にこびり付いた。一度断ち切ったはずの耳障りな声は、陽子の闇。
 陽子の心に蒼が浮いた。

―てめェの命なんてだぁれも惜しんじゃいねェヨォ
―死ぬことでしか周りを幸せに出来無ぇんだからヨォ
―一瞬の痛みで逝ける機会なんてそうそう有るもんじゃねぇのにナァ
―死んだほうが楽サァ
―本当は…分かってんだロォォ?

 陽子は目の前の真っ暗な虚空を睨んだ。
1つだけ確かな事は自分は世界から拒絶されたもの、異分子だという事実だった。いまや陽子は疎まれ、蔑まれ、憎悪を抱かれる対象だった。
(その通りだな)
 ハッと陽子は軽く自嘲する。そう思った瞬間、逃げようと自分の命にしがみついていたことが酷くバカバカしく感じられた。白々しく霞む目の前の光景を陽子はぼんやりと見つめた。不意にそれは意味のないものに見え、大きく開かれた口腔に不思議と恐怖は感じない。
 無表情で穏やかな乳白色を湛えた牙は、一縷(いちる)の月光を弾いて鈍く艶を纏う。
 砕けた心に―一言言葉が浮かんだ。

―別に…いいか

 ポツリポツリと陽子自身の、声がする。

 これ程までに望まれない命というのも…珍しい

 けれどこの命一つで何かが許されるのならば、それはそれで良いのではないか。この先生きていても、何がある。遅かれ早かれ、殺される。

 誰からも必要とされていないことを実感し続けて、何も感じなくなった果てに何が残る。

 何も答えてくれる人が居ないこの世界で、最後に、私に、何が残る。

 その時心の中の浅ましい声さえも、目を向けた瞬間、堰を切ったように溢れる陽子の声に応えようとはしなかった。

 これで(あがな)いになるのなら良いのではないか。
コトリと何かが音を立てて陽子の心の底を転がった。けれど、その硬くて見えない角張った物が何なのか、陽子には分からなかった。
 吹き出す投げやりな闇が薄墨をぼかしたようだった。心の中で微睡(まどろ)む気怠さが濁り眼の前を曇らせる。
 きゃらきゃらきゃらと浅ましい声だけが頭の中で鳴り響くのが心地よくて、抵抗の色を無くした陽子を捉えた妖魔の瞳に色が踊ってゆく。
 薄く膜張る瞳を閉じて、陽子は静かに頭を垂れる。誰も彼もが陽子を見放したこの世界は、ただただ静かで冷たい世界だった。
 陽子は力なく闇を見つめた。迫り来る白濁の牙が目に眩しい。だが誰も何も言わなかった無音の世界で突然


 誰かが陽子に――叫んだ。


『抵抗ぐらい なさって下さい!!』

 頭で強い声が鳴り響く。同時に冷水を掛けられたような心地がして体がビクリと跳ねた。大きく開かれた碧の瞳、頭の中で反響する濁った男の必死の声、突然の声に大きく開かれた陽子の瞳だけが暗天(やみぞら)を映し出す。

 それは牙が喉に沈み込む瞬間のことだった。



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