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夕闇は 陽子は全てを振り切るように、ただ足が進むのに任せて山麓を進んでいた。 走っても走っても何かが追いかけてくるのではないか。 振り仰ぐ、とっぷりと暮れてゆく晩景の染め上げられた朱に陽子の背筋は粟立った。 金を 腐食され、闇が斑を描いていくのは味方も何もない陽子自身のまっさらな心だった。 ―どこまで、どこまで逃げればいいんだ その問いかけに答える者は居ない。孤独と寒さに それさへも振り切るように無我夢中で走る足先に何かが引っかかる。あ と気がついた時には 半ば奪うようにしてそのまま持ってきてしまった宝剣だけが陽子に寄り添う。 もう立ち上がる気力もない陽子は倒れたまま、ぼんやりと夕景が去ってゆく虚空を見つめた。 ―それからどれ位経ったのだろうか。 眠っていたのか、はたまた気絶していたのか。目が覚めたのは凍える指先を何か生暖かい物が撫でたからだった。熱を含んだ湿気た空気。規則的な呼吸音が耳元で風を揺らす。 うっすらと目を開けた陽子は首を回してそちらを見つめる。そこにいたのは鳥の 黄金色の鈍い光を放つその瞳を陽子はじっと見つめた。 不思議と恐怖は感じなかった。 「お前も…一人‥?」 ふと口元が綻びその毛並みに手を伸ばす。掌をその毛並みに埋めても妖魔は逃げなかった。ふかふかと空気を含んで温かな手触りが陽子を酷く慰めた。 妖魔は少しだけ首を傾げて、その黄金色の瞳を薄く細める。線になった瞳が暗い闇に光の切れ込みを入れていた。 「驚いた‥まさかろくたに触れようとする者がいるなんて‥」 獣の方から聞こえた穏やかな声に驚いて、陽子は妖魔の方を見つめる。だが、勿論それはこの妖魔が発した言葉ではなく、その時になってようやく陽子は隣に佇む一人の人影に気がついた。 ―若い 女のように細いが、体の線は固い。羽織った布の合間から見える鋭利な光と鈍い陰影が甲冑の形を浮き出させる。 漆黒の髪が零れ、覗く顔は柔和で 「あな‥たは…?」 舌の上で回る言葉はたどたどしい。発した声は自分でも驚くほど掠れて、風に消された。 「…誰だと思う?」 その人は少しだけ含んだような色で陽子をその双眸に映す。何も言えなくて陽子は視線を地に下ろした。 「そうだね―本来は貴方と交わる事も無い者だよ…」 若い武人はほんのりと微笑む。荒み始めたこの景色に、その微笑は酷く優しかった。 ::::: 松明に 色を変えて踊る暖光色の灯りが、 向かいに座る若い武人は火を起こしてそれから何も口を開こうとしなかった。自分と同じように 陽子が手を伸ばした妖魔は今は丸くなり、武人の側で羽を温めていた。黄金の瞳は今は瞼で蓋をされ、緩慢に上下する背は丸い。 炎の音だけが闇夜を彩る中、武人は緩やかに微笑んだ。 「何故、貴方の様な国の重鎮がこんな所にいたの」 きょとんと陽子は目を瞬く。翡翠の双眸に映った武人の姿が一瞬消えて、また映された。 「何のこと…でしょうか」 「貴方自身のことだよ…本来ならこんな所で倒れている筈がない者」 陽子はゆるりと視線を燻る炎に戻した。 「分かりません…」 呟いた声は固く、喜びも悲しみも脱色されていた。武人の柳眉が僅かに片方上がる。 「私は自分が信用ならない…」 「簡単に自分を信用する者の方がわたしは信用ならないと思うけどね」 「けれど…」 武人は薄く口元に笑みをはいて陽子を見つめる。良いことを教えてあげよう と言ったその声は静謐な闇夜に余韻を残した。彼の声が物語を紡ぐ。 ―昔、往古の時代からのこの話を、わたしはある 奏―だったかな、の出身の者から聞いたんだ。 あぁ 面白い話だから、聞いてみる価値はあると思う。この世には十二の国があって、そしてそれぞれ一国に一人、十二の王 そして十二の麒麟が授けられているね。遥か昔天帝は王位を各王に与える時に三つの実が成った枝を渡した。 一つは土地、一つは国、一つは玉座 を意味する実が成った枝をね。王には様々な資質が要求される、その全ての条件を満たしているからこそ天が玉座を与えるのか、細かな天の意図は誰も知る者はいない。知る者は居なくても、天は王を選んで天啓を下し、この世は天が決めた条理に習って進んでいく。―そんな条理の中に、この話は組み込まれているのか、いないのかそれは定かではないけれど、そんなことに関係なく「それ」は効力を持つと伝えられている。 ―気になる? ふふ‥そうだよね、私もそれを聞いた時少なからず興味を持ったよ。私の知る者達もそれを持つ者なのか気になったから‥。 それは、「王」こそが持つと言われている物だそうなんだ。「王」たるものならそれを持つべき資格と品格を兼ね備えていると。 人はそれを 美しい「 ―それが何なのか見当がつかないかな。それはね―宝玉だよ。 え?私の知っている者達はそれを持っていたかって? ―そうだね‥話を聞いた後、彼らを思い返したわたしの応えとしては…是 と言えるだろう。けれど彼らが持つ珠翼は一概に全てが同じものだとは言い切れなかったというのが 持ち主によって、それは姿を変え、同時にその力を変える。人々が珠翼と謳う様々な宝玉をわたしは見てきたのかもしれない。 透き通った清廉な青水晶。深い輝きを放つ漆黒の黒真珠。 真紅の燃え上がる力を秘めた紅玉。柔らかな仁の光を湛えた琥珀。 磨き上げられたように星影を散らした青金石。 そうだね― それだけは、確かだ。 目の前の武人が口を閉ざす頃には、暮夜に 小さく溶けていく灯りを見つめたまま、陽子は呟いた。 「私はとてもそんな人間にはなれないですね…」 「なぜ?」 「私は…自分の浅ましさ、自分の内側に牙を向うとしている獣の存在を知ってしまいました。自らの醜悪さを。ただ無邪気に自分にもそういった可能性があると信じられる程、私は幼くはない」 武人はその漆黒の眼差しを陽子に向けて‥僅かに首を傾けた。 「…貴方は、世の中の人間が美しいものだと思っているの」 陽子はその問いかけに苦い笑みを浮かべた。 「…分かりません。正直な所、人は関係無い。唯、私が唯一分かっているのは自分は愚かな面を持っていて、ひょっとしたら、それが人を傷つけていたかもしれない ということくらいでしょうか。もし そうだったのなら私はそれを償わなくてはならない。ひょっとしたら死ななくてはならないかもしれない。だけど世界がどれだけ美しくても、どれだけ汚くても、それを言い訳にした逃避を私は私に許すつもりは無い」 夜風が影となった葉を揺らしてざわめきを掻きだしていく。 葉が砕けて散っていく景色の中武人は優しく微笑んだ。貴方は‥ 「人の上に立つ以前に、自分自身の覇者であれる人のようだね」 夜風に紛れ、武人は立ち上がる。重い甲冑を付けているのに、それを感じさせないような軽やかな動きだった。 より合わせた布が解けかけ、その合間から見えたのは見事な輝きを纏って並ぶ美しい五色の 思わずその美しさに見とれた陽子は若い武人を見上げる。 「そろそろお別れの時間だ…最後にもう幾つか、貴方に良いことを教えてあげよう」 「良い…こと?」 「貴方は自分は醜さを持っていて、私が話したような美しい珠翼を持つ者達にはなれないと、そしてその醜さに世界は関係無い、人は関係無い、と言われたね」 でもね と彼は柔らかにその言葉を繋ぐ。 「醜さなんてのは貴方のためだけに在るわけでは無い。人間なんていうのはそういった輝きと淀みを混ぜて作られたような生き物だよ。 世界が、人間の全てが、そう。そしてその条理は貴方の中にも流れている。」 彼は 「そして…私が知っている王君達にもその条理は流れていた。彼らもまた暗部を持っていたんだよ‥それはきっと現在も変わらず。併せ持った輝きと共にね。そうじゃなきゃ、光なんてどこにあるのか分からないだろう?」 陽子は少しだけ困ったように小首を傾げた。 それを見て武人は軽く笑うと、立ち上がろうと足を着く獣の耳を掻いた。自分の言葉に、彼は苦笑する。 「ちょっと臭かったかな?でも、これくらい許してよ。そしてあともうひとつだけ言わせて。‥貴方にとっては世界も他人も関係ないのかもしれない、けれど、世界は人は貴方を必要としている。関わって、貴方に変えられることを望んでいる。条理だけに流されない自らの力で跳躍できる貴方を」 「記憶…戻るといいね」 武人の言葉に陽子は言葉を失い目を見開いた。 そんな陽子を瞳に入れて武人は微笑んでまた歩みだす。呆然と陽子はその背を見つめ、叫んだ。 「貴方、何者‥?人では無いの…?名は…持っているの?」 足を止めた武人は振り返る、流れる風と共に。その振り返った瞳が細くなり、目元が綻んだ。 それはごくごく当たり前の若者の笑顔だった。 「勿論人間だよ…少しばかり長く生きているね。私の名は…」 零れた黒髪が彼の頬を撫でて線を創る。その唇が 動いた。 「更夜」 柔らかに笑んだ彼―更夜は歩き出す。笑みを口元に残したまま、もう後ろは振り返らなかった。 薄暗く闇に浸かる虚空を見つめ、目を閉じた。 黄海の守護者 犬狼真君 人は彼をそう呼ぶ。 それも、また悪くないのかもしれない と彼は微苦笑する。新たな出会いを紡ぎ出し、紡がれた糸の先にいる者をその名の通り守護する力になるのなら。 出来る限り、わたしは貴方の庇護をしよう。 更夜は 「これ以上は彼女に踏み込めない。彼女の真実は、彼女自身が自力でたどり着かなくてはならないんだ」 口に出したとたん、声は闇夜に消えた。空には 風は更夜の顔を撫でていく。風は呟く声を星々の煌きの隙間に埋めていくようだった。美しい輝きを瞳に映しながら、更夜は――微笑んだ。 「幸運を。 慶東国国主 景」 ::::: 不思議な若者、更夜が去ってからも陽子はその場を動くことは出来なかった。 やがて夜の底冷えが彼女を蝕み、ようやく陽子はのろのろとその場を立ち上がる。 冷え切った指先は しばらく足を引きずるように山道を進むが、その時になって、陽子は周りに人の子一つの気配もしない事に気がついた。 普段なら ―何も、ない。 ここに生命ある者の気配は肌で感じ取ることは出来無い。 そう思いながらゆっくりと視線を泳がす中、一つの物に目が留まった。それは少し離れた崖の上に佇む影。 月夜に 一瞬見間違いかと思い翡翠の瞳が細い線となる。 だが見間違いでは無かった。 はっきりとその姿が闇に浮かび上がり、陽子はただ息を飲んだ。 背の高い金の髪を風に流している男だった。 透ける月明かりの金の |
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