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 それは金波宮の中から顔を見せる風光が、鬱ろいを見せ始めた頃合いだった。
 中庭を漢轍と共に横切っていた景麒はふと足を止めて、視線の先を見つめていた。視線の先に在るのは慶国禁軍の訓練場。そこでこの国の左将軍と、先日話をした一人の女史が何か会話をしていたのだ。何を話しているのかまでは分からなかったが、唐突に左将軍が頭を抑えて屈み込んで、女史が駆け寄ろうとした場面を最後に、景麒は自分より先を歩いていた漢轍に再度呼ばれて視線を外した。もう一度視線を戻した時に見えたのは、一人取り残された女史の後ろ姿と何かを振り払うようにその場から駆け去った将軍の姿だった。
 
 彼らの間に何があったのか、遠くから見ていた景麒に計り取る事は不可能だった。

 景麒は行く先で自分を待っている漢轍に向かって、敷き詰められた石畳の上に足を乗せる。彩色に乏しい今の風景に、コツ コツ と規則的に響く自分の足音だけが彼の世界を彩る全てだった。
「どうした景麒、遅いじゃないか」
 漢轍に、景麒は無表情を崩すこともない。ただ静かに申し訳ありませんと口を割る。漢轍はチラリと景麒が見ていた方向に目配せをした。
「お前は先程しきりに何かを見ていたが、何か面白い物でもあったのか」
「青将軍と女史の祥瓊殿が話をしておられただけです」
 ほう?と漢轍は手入れもされない好き放題に荒れた眉山を上げる。
「なんだ、たかだか半獣と女史か…そう面白い物でもなかったな」
 景麒は一瞬ピタリと歩みを止めたが、漢轍はそれに気づかず、景麒は先程より少し距離を離して漢轍の後ろに続いた。
「お前が気に止める程のことでも無いだろう?お前は麒麟。この世の中で王の他に最も尊い生き物なのだから、下賎な半獣や一介の女史など気にも止める事では無い。そう思わぬか?」
 くつくつと嗤いを含む上機嫌な問いかけ。眉を寄せて景麒はばっさりとそれを切り捨てた。
「思いません。私と彼らの立場の違いなど何ら関係は御座いません。私も彼らもこの国と向かい合っている、その姿勢に違いがあるのでしょうか」
「国と向かい合う姿勢‥?」
 はい、と景麒の瞳が光る。
「それに‥彼らは優秀という話を、私は様々な者達から聞いております。尊敬に値する人物達だと私は認識しているつもりですが」
 漢轍は一瞬チラリと景麒を見たが、それ以上は何も言わずに足を進めた。景麒は口から薄く息を吐く。
「貴方と私は気が合わぬようです」
「フン…直に私の考えに賛同するようになるさ。麒麟は王のもの。その王の色に染まっていくものだ」
 景麒は何も応えなかった。漢轍はそんなことになど気づかずに、その後も一人、言葉を繋いで話を進めていく。
 彫り出された冷たい大理石が足音を弾くのを聞きながら、景麒は指を眉間に滑らせ、嘆息した。
 繰り返すやり取りは噛み合ったことがまるで無い。一体何時からこんな状況だったのだろう と漢轍の話す声を耳に透かしながら、景麒は鈍く光を弾く足先を見つめる。確定的でない何かを決定的に奪われたこの状況下で、景麒は今の王と言われる漢轍に興味を抱くことさえ出来無い。 

 沈んで波風立たない彼の心を時折苛立たせるのは、時折聞こえる「声」だけだった。

 穏やかで少し低い、優しい女性の潮騒の声。
その声がふと耳を過るたびに、声の主がどこに隠れているのか探してみるが、やはり其処には誰も居なくて景麒はいつも口に苦いものを感じる。
 誰なんだ、隠れているのなら出てこいと言っても、声が消えた時には「その人」はもう姿まで溶け消えているようだった。
確証を手に入れられないことに景麒の心は益々苛立ちを募らせていく。
(一体…誰なんだ)

「……景麒?」
「…はい」

 一瞬訝しげに景麒を振り返った漢轍は、景麒の声を聞いて満足気に顔をまた正面に向け、話を続ける。
 何かに対して胸が焦げるほどの切なさを、景麒はただただ心に感じる。掻きむしって、忘れ去ってしまいたいほどのもどかしさは時として人は蝕んでいく。
 景麒が息をついて眉根を益々苦しげに寄せたその時…

 こたえるようにまた…「声」がした。

『景麒…探した』

 呼吸が ひゅ と息にならない音を立てて止まった。
 つられてピタリと足も止まり、振り向けば、一瞬目を過るものが映った。それは―
それは――

 ゆったりと光を吸って柔らかい光輝を纏う―赤。

 景麒の紫陽花色の瞳が大きく見開く。その赤は一度だけ翻って、角に向かって消えていく。景麒は思わず呟いた。
「待て…」
 気がつけば景麒は、喋る漢轍を置いて駈け出していた。風が彼の金糸を攫って吹き過ぎる。
「景麒?!」
 漢轍が会話の途中、驚いて手を伸ばすも、景麒を捕まえることは出来なかった。金の鬣が翻り、淡光を弾いて流れていく。角を消えて行くその赤を景麒は夢中で追いかけた。途中で後ろから叫ぶ漢轍が景麒を道行く宮中の者達に止めさせようとするのが聞こえたが、走る景麒に誰も追いつく事は出来なかった。
何もかもを引き離すように駆ける景麒の周りに、人の気配はしなくなって、ただ一つ確認出来る朧げな人影を景麒は追う。目に見える輪郭は靭やかで引き締まっていながら、どこか柔らかさを含んだ物だった。

 初めて確認出来た声の主。それは遠くを髪を揺らして歩いて行く、一人の少女。
 その姿は酷く――美しくて、景麒は思わず息を呑む。

 滑らかな褐色の肌が景麒の目に止まり、景麒は少女の背に向かって叫ぶ。
「待て!」
 少女の足は止まらない。楽しげに外廊を歩いて行くその姿は、遠い。やっと確認できたその背に景麒は言葉を投げる。
「お前が…お前がずっと―私に話しかけていたのか?答えよ!」
 ふわりと振り返った彼女の顔までは景麒は確認出来なかった。歩きながら、彼女は優しく―微笑んだように見えた。その瞬間、強く心に疼く何かが景麒に爪を立てた。
「待て!聞こえないのか?!」
 やっと見つけた「声」の主。自分の声だけが虚しく響く中、景麒は自分の足を更に速める。少女はゆったりと歩いて、自分は走っているのに、距離は益々開いていく。走っても走っても――追いつけない。
「止まれ!!」
 どんどん、どんどん 少女の姿は遠のいていく。なぜこれ程、あの少女に執着するのだろう。心に湧き上がる憔悴が景麒を焦がして傷つける。
「止まらぬか!!」
 少女の歩みは止まらない。
仏頂面が苦しそうに歪んで、叫んだ声がくしゃりと潰れる。胸元を強く握りしめた手が白くなっているのに景麒は気が付いていなかった。何故か猛烈に胸が痛い。これ程までに走っているのに、何故追いつく事が出来ないのだろう。世界最速と謳われる自分が、何故。
 しかし疑問に思いながら…景麒は心の何処かでその答えを知っているのを感じた。
「お前は…お前は一体、誰なんだ?」
 それでも流れるように歩く少女は止まらない。ふんわりと顔だけ振り向いて、景麒に向かって優しく微笑む。
 「彼女」は後ろ手に手を振った。空気を柔らかく掻くような、その手はまるで景麒に向けて「さようなら」を言い残す様に。
景麒は何かを叫んだが、その声は彼自身の耳には届かない。胸につっかえた熱くて痛いものに堪えるように、景麒は自分の顔が歪むのを感じた。一言、一番言いたいことを叫ぼうとする喉が締め付けられる。
「止まれ!!」
 叫ぶ声は…掠れた。
「頼む…止まってくれ…!」
 暖かな光が降りしきる中、伸ばした掌と相反するように――
 空気に溶けて少女の姿は静かに消えていった。


 景麒の走る足は、気がつけばその場に棒のようになって佇んでいた。行き先を―目的を見失った足は萎えてかくりと膝を地面につく。唇から呻き声が漏れて、景麒は流れ落ちる金糸を自らの手で掻き乱して、頭を抱えて地面に額を押し付けた。消えた少女が確定づけたその事実。
 今追っていた少女は此処には居ない幻影だという、事実。
 暖かな幻が消えた後に、彼の世界に残るものなど何も無かったそのことに、景麒に出来たことは乾いた笑いを地面に零すことだけだった。
 笑わないことで有名な慶国の台輔はひとしきり笑った後、のろのろと、冷たく整った砂粒の上に身を横たえる翡翠を力を込めて握りこむ。外気に慣れたそれは握る景麒の掌の温度を弾いて冷え込んで、それでも景麒は更に力を込めて指に閉じ込めた。景麒は薄く霞んだ青空を遠く見つめる。景麒は自身に問いかけた。

 本当は―初めから分かっていたのではないか。

 「声」を初めて耳にした時から、それが自分の心が見せる幻だということも。自分は何か無くしてはいけない己の全てを失ってしまったことも。あの「彼女」が今ここには居ないことも。それを―認めたく無かったことも。
 それでも追わずにはいられなかった。

 翻る、光を纏う、赤の髪。
それは景麒の無彩色の世界に輝きを与えた。

 失ってはならない物を失って、胸に込み上げる鋭い痛みに目眩がして、彼は強く瞑目する。
 脳裏に残る輝きの美しさは、酷く切なくて景麒をじわじわ苦しめた。何故こんなに、苦しいのだろうか。

『景麒』

 景麒は強く目を瞑って唇を噛み締めた。過る優しい声。面影も朧げで、名さえ分からない、それなのに

――どうしてこれ程会いたいのだろう

 誰かが呼ぶ声がして 景麒はゆっくりと地面から身体を引き剥がす。少女の幻影を見てから…景麒にはっきりとした変化が訪れていた。それは前は感じることが出来なかったうっすらと、疼くように灯る角の熱さだ。そのほんのりと灯るような熱が強くを彼に何かを教える。
 
 それは遠くで息づく…温かな灯火のような気配だった。

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 それから、どれだけそうしていたのだろうか。一瞬だったようにも、はたまた永遠だったようにも感じられる奇妙な感覚だけが景麒を満たしていた。
 景麒は俯いていた顔を静かに持ち上げた。疼くような、温かみを持ち始めた自身の角にそっと指の腹を当てる。
 その方角にゆるりと顔を向けた景麒。もう空は薄く金が流れこんで濃い橙色と馴染んでいる。南風がゆるく吹きすぎていく中、景麒は運ばれて混ざり合った風香に目を細めた。
 後ろ手から、人の駆けてくる、気配がする。それでも景麒は振り向かなかった。景麒、景麒 と呼ぶ声がその中から野太く聞こえる中、景麒は騒がしい後方のことなど気にも止めずに、すぐ側で佇む燕寝に少しだけ視線を投げた。駆けてきたここは今気がつけば禁門の目の前だった。
「景麒、見つけたぞ!」
 何人かの足音と、後ろから響く野太い男の声に、景麒は頭を揺らすことさえしない。彼らが益々距離を縮めて来ている中、景麒が見つめているのは、何歩か先でただ広く口を広げている禁門ただ一つ。その何の飾り気のない場所は今の景麒の視野の殆どを占めていた。
 漢轍は佇む景麒の背を視野に入れる。やっと見つけた自身の物とした、鬣の流れる麒麟の背は黄昏に染まって酷く美しい輝きを帯びていた。漢轍は近づいていく景麒を見てほくそ笑むが、景麒は漢轍に向かって何の反応も示していない。彼が見つめるのは、口を広げる禁門の、その先。ふと、景麒の口元がうっすらと綻んだ。
「景麒?!」
 漢轍は上ずった声を漏らした。

それは――景麒が突然彼らを残して、禁門に向かって走りだしたから。

 慶国の麒麟はあっと言う間に縮まっていた漢轍達との距離を押し広げていく。漢轍は一瞬呆気に取られた後、焦りを含んだ声を張り上げた。
「どこに行く!…ええい!兵卒共何をしている!!景麒を止めんか!!」
 景麒は走りながら耳元から声が遠のいていくのを感じた。 
 風が耳元で、唸りを上げる。衣が巻き上げられ、溜まっていた袍の裾が揉まれて暴れながら、僅かな空気の抵抗を作っていた。それでも景麒の走る速度はゆるむ様子さえ見せずに、彼は流れるようにその場を突っ切る。一点だけをひたと見据えて突き進んで、その後ろから風がまろぶように駆けていく。
 漢轍が叫んだ。
「景麒!!止まれ!!…勅命だ!!!」
 金の鬣が、濃く輝きを増す西日を受けて、黄金に光を走らせてその場から消えていく。
 自分に向けられる声が千切れて剥がされていく。
 勅命、と言われるものに景麒が従わないことが出来たこと、それが何を意味するのかまで今の景麒は気を回していなかった。彼の心を満たしていたのは遠くから感じる温かい灯火のような気配ただ一つ。様々な物が視界を遮ろうとしてくるが、景麒は縁り出す崖先を一心に見つめる。止めようと、景麒に伸ばされる手と手と手と手。
 景麒はそれらの全てをすり抜けながら、自分に向けられる幾つもの手をくぐり抜けて逃げるのが、これ程楽しいことだったと言うことを知った。これが今まで自分が一度も犯したことがなかった規則を破る楽しさなのだろうか。逃げるのもまた、悪くない。

 眼下で一面に敷き詰められた雲海は見渡すかぎりの紅色だ。紅に染まった雲の海は光を浴びて所々に黄金の輝きを見せる。

 風が耳を切る音を聞きながら…そういえば、自分はいつもここを通るのを止めるほうの役割だったような感覚を感じて景麒はうっすらと微笑を浮かべる。向かう先は、ただ一つだった。

 景麒は全てを振り払って空中に身を躍らせた。

 彼は美しい紅雲にさえ目を向けず、その先の景色だけを見つめる。景麒が気づかないほどあっという間に、漢轍や兵士達は遠のいていった。

『景麒』

 空に広がる黄金の輝きを纏う紅雲。雲の海はたゆといながら、天から降り落ちてくる輝きを受け止める。

 その輝きは夕日を浴びながら舞い降りる金色だった。


 
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