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 静かに日が傾き始めた昼時、祥瓊は回廊を衣擦れの音を響かせながら横切っていた。
ここで黄昏時にこの国の台輔と話をしたのは何日前だっただろうか。歩く祥瓊の藤棚のように美しい色合いを放つ髪はゆるく括り上げられ、簡素ながらも趣味の良い(かんざし)が揺れていた。
 光が溢れるその道はあの時とはまるで正反対の光景な筈なのに、彼女にはそこには何ら違いが在るようには見えなかった。
 それがなぜかは――分からない。
 様々な色合いを並べながら存在を主張する周囲の景色に、祥瓊は目もくれず、ただ一点を見つめて歩みを進める。何度か彼女の長い睫毛が緩慢に上下を繰り返したが、やはりその視線に振れは感じられない。
 やがて目的地に着く手前、最後の曲がり角を曲がり、彼女は歩調を緩めて静かに止まる。
 その場に充満する()えた汗と、錆びついた鉄の匂い、そして拭えきれずに微かに残る…臭気に近い血の臭い。一毫(いちごう)に眉根を寄せるそこは祥瓊にとって、普段ほとんど足を踏み入れるのは皆無と言っても良い場所だった。

 慶国禁軍の訓練場

 何故、彼女がここに足を運んだのか――
 唐突に吹いた風が、その場に蔓延(はびこ)る不愉快な臭いを掻きだして逃げていく。
 通り風に髪が(さら)われて、木々の葉が擦れ合う音だけが響く中、祥瓊はここまで赴いて来た目当てのもの、その一点だけをじっと見つめる。

 訓練場に一人佇む 背の高い男の後ろ姿を。

 砂塵が舞い上がって、一瞬男の姿を霞ませて、そして砂粒が消え去った後にまたあらわになる、身体を形どる甲冑の固い輪郭。
 男の纏う鎧は、鈍い光を弾いて揺れていた。
 男は、指をピクリと動かす。声を発そうとし唇を一度湿らせ、小さくその二つの山が割れる。
 ゆっくりと振り向くその表情はどこか疲れて憔悴していてそして―――優しかった。
「祥瓊―か…?」
 男の喉から発せられた掠れた、穏やかな声。一人の娘を見つめる男の優しい眸は、武人とは酷く不釣り合いに穏やかな物で、祥瓊は思わず男の名を呼んだ。
「桓魋」

慶国 禁軍左将軍 青 辛 名を桓魋
 
 桓魋はゆっくりと憔悴したように首を横に振った。
「此処には…いや、俺には会いに来るなと言った筈だ」
 伏し目がちに鬱ろう瞳には翳が揺れる。静かに向けられたその瞳が祥瓊を映しだすが、(ひる)むこと無く、祥瓊は強く拳を握りこんで、慶国の将軍を見据えたまま、彼に一言言い放つ。
「嫌よ」
 険しさを増した桓魋の目の色を無視して、眉根を寄せたまま祥瓊は彼の元まで歩み寄る。疲れきった優しい青年の顔にみるみる険が刻まれていくのを見つめながら、ずっと胸に(つか)えたこの(わだかま)りを言葉にするのは(いささ)か勇気の要ることだった。だけど、彼女はこのために此処まで来たのだ。 祥瓊は叫ぶ。
「貴方、ここ最近自分がどんな顔をしているのか知っているの?始終一人で何かと戦い抜いたような、戦乱の中から抜けだしてきた様な顔をして!」
 最近の桓魋は何かがおかしい。異変に気がついたのは何時だっただろうか。目の前にいるのは、いつもの何処か飄々(ひょうひょう)とした明るくて優しい武人では無い。桓
を見るたび時折欠片として現れる、彼の瞳に浮かぶ何かを狩るようなその渇いた揺らぎは、祥瓊を震え上がらせた。
 ずっとずっと感じていた目の前の青年への不安、そして自分自身の中にあった筈の何かが崩れた不安。
 祥瓊の声に桓魋の瞳が僅かに見開いて、今まで閊えて出せなかったその言葉が出た途端、堰を切ったように祥瓊はまくし立てる。
「放っておける訳無いじゃないの!貴方は近頃虎嘯以外に誰にも自分の側に寄せようとしない!部下も、官達も、私や鈴さえも近寄らせようとしないわ!貴方は何かを隠している…それを言えない程、貴方は私達を信用出来無いの?!」
 言い終えて、紅潮した頬に外気が冷たい。ぎっと桓魋を睨んだまま、気の強い祥瓊は肩で大きく息をする。握りしめた拳に爪が食い込んで痛みを走らせたが、それでも祥瓊は握る力を緩めようとはしなかった。
 暫くの、沈黙。
桓魋は何度か瞬きをして少し寂しそうな、顔をした。
「祥瓊」
 先程よりも更に角を落とした柔らかい声音に、祥瓊は唇を噛み締めて桓魋を見つめる。
「心配をかけさせてすまない。そんなつもりじゃ無かったんだ」
 光が上空から、優しく差し込んでいた。
桓魋は少し首を傾けた。
「今まで、言えなかった。悪かった。俺は…今主上からの、他言厳禁の命令に従っている」
「命令…?」
 ああと桓魋は頷く。
「状況は前と違う。俺は今好きに動ける状況じゃ無い…命令には絶対服従。今では部下に指示を出すのも俺の判断では任されない。半獣に人権はないと、そう言われた」

 一瞬の 空白

「は…?」
 柔らかく言われた言葉の意味が分からず、祥瓊は目を瞬いた。桓魋は祥瓊から目を逸らさずに、穏やかに、淡々と続ける。
「元々将軍は王に従わなくてはならない物だけどな…置いてやる代わりに要求されたことをやらなくては示しが付かない。何をしているのかは…悪いが言えない。だけどそれをする度に…」
 一旦言葉を切った桓魋は地面に向けていた顔を持ち上げる。
「俺は俺の制御が効かなくなっていく」
 静かに佇む一人の男と、少女の間を風が吹き抜けて流れていく。
彼の言いたいこと、その真意を汲み取る以前に祥瓊の目は見開いたまま、その青年の姿を瞳に映し出していた。彼女はのろのろと口を開く。
「どういう…こと?」
 疲れを振り払って、少しだけおどけた風に桓魋は肩を竦めた。
「その命令に従っている影響か…自分が今何をしてしまうか俺には想像がつかないってことだよ。ただ何か…自分の中の何かを掻き乱されるような…とにかく俺が俺で在る事を放棄させるような…あぁ悪い、うまく説明ができない。だがとにかく自分が本当に獣に変えられるような感覚なんだ。理性が、掻き消える。だから俺は今…お前たちが俺の側に寄ることを許すわけにはいかない。虎嘯が今俺の側に居るのは、あいつだけが俺を止められる男だからだ。だから…」
 ふとおどけた感じが消えて、今は 俺の側に来ないでくれ と視線だけを落として囁く桓魋。
 その時桓魋の鼻先を、嗅ぎ慣れた麝香(じゃこう)のような理性を蒸らす香りが掠めた。思い出すだけで自然と眉根が寄った酷く気分の悪くなる、「自分」の主導権が奪われていくようなあの臭い。浩瀚を通して伝えられた王からの勅命は不思議な香を焚いた部屋で半日を過ごすことだった。
 獣は何をするか分からぬから、とその部屋に入れられることになったが、その臭いは逆に桓魋の感覚を麻痺させていった。苦痛以外の何ものでもない命令に従うたびに、その蝕まれる症状が悪化の経路を辿っていくのを彼は一人感じていた。その弊害は時折現れる。それも不意に、自分の中に植えつけられていく何かが牙を剥こうとするのだ。
 何も答えない祥瓊を近くに感じて桓魋は思わず身を強張らせた。千を超える猛者を従えて、百戦を交えてきた戦士である彼もこの彼女にだけは、どうしても頭が上がらない。小さく彼は息をつく。
「半獣に――人権はない…?」
 唇から零れた祥瓊の声が、ただただ静かに地面に落ちた。石のように固いその顔の、ふと見たその目元が濡れているように見えたのは―気のせいか。

「しょ、祥瓊?」
 祥瓊は顔を固くしたまま何も応えない。桓魋は狼狽した。
そして動きを止めた彼に、桓魋、という呼び掛けの後に祥瓊の口から静かに言葉が囁かれた。

「ここを…慶国(このくに)を出ましょう」
 桓魋の瞳がゆるりと見開く。
震える唇から言葉は漏れなかった。ぐっと祥瓊は顔を上に上げ、彼女の顔に静かに現れるその強い決意の色に彼は言葉も無くその場に佇むしかなかった。軽い目眩のような物を感じながら 何を と言いかけたが、声は水気を失って出なかった。唾を飲み込んで桓魋はもう一度言葉を発する。
「何を…言っているんだ…祥瓊」
 ぐるぐると彼の頭の中で渦巻く様々な出来事、思考が動きを止めている中、彼を動かしているのは理念と叩きこまれて骨の髄まで染み込んだ武人としての(さが)だ。乾く口の中からやっと搾り出した言葉は、自分でも笑ってしまう程――酷くありきたりで有り触れた言葉。
「それは…出来ないって分かってるだろ?」
 口から零れた言葉は止まらない。
「俺はこの国の将軍だ。勝手な真似は出来無い…」
 風がざわめく 音がする。


 彼女とは――いつからこんな関係だっただろうか。


 彼女から寄せられる熱は、どちらも気がついていたのかもしれない。そしてその垣根を超えないことはどちらから作られたとも言えない暗黙の了承だった。
 それは互いの間に引かれた、予防線。
 恋人という段階へと、甘い関係へと進まないための、予防線。
 互いに踏み込み過ぎないための傷を恐れた――予防線。


 それは彼女だって、十分過ぎる程分かっていることでは無かったのか。

 その瞬間、心の奥底で誰かの声が響いた気がしたが、その声の主の面影を、桓魋は捕まえることが出来なかった。もう一つ、何か大切なことを忘れている気がする虚ろな感覚と、心の中でせめぎ合う感情の渦に、桓魋は瞑目する。ただ胸が苦しい。祥瓊は口を開いた。
「半獣に人権がないですって…?何よ、それ。人を何だと思っているの。王族の汚さなら、私は十分過ぎる程知っているわ…。そんな王なんてすぐに倒れる。倒れるのならば、倒れればいいわ。そんな人間にはもう何を言っても、人の言葉に耳を貸そうとしない。彼らは人を駒としてしか見ていないのよ」
 堪えきれずに瞳から零れた水滴が、彼女の衣に不均等な染みを創り上げていく。整った祥瓊の顔がくしゃりと歪む。でもね と気の強い彼女に似合わない、少し潤んだ声が続いた。
「貴方が『人』として扱われないこと…それが私は許せないのよ」
 桓魋が言葉を聞いたその瞬間――喉元まで迫り上がる、熱くて痛い塊が喉を強く締め上げた。
 目の前で澄んだ瞳を赤く染めた大切な友人。
 心の奥底から消えてしまった、誰か。
 ゆっくりと這い登ってくる麝香(じゃこう)(もたら)した何かどす黒い物が徐々に理性を焦がしていくのを感じながら、桓はその場に立ち尽くす。
 殺戮を求めようと「桓魋」を消そうと何かが彼の中でもがき始めた。
 そして心を焼くような想いが彼を苦しめて、言葉の代わりに祥瓊の方へと押し出した足が止まる。
 唐突に速度を増して、祥瓊の元へ行こうとした彼を蝕み始めた。
「う、あ」
 桓魋は思わず両手で顔を覆う。理性が揉まれて描き消えていく感覚が桓魋を襲う。
「桓魋?!」
「駄目だ、寄るな…!」
 友人の手前、どす黒く桓魋を覆い始める「それ」のその正体。それは‥香により焚き染められ、植えつけられた獣の本性。
 理性さえも記憶さえも信念さえも想いさえも掻き消されながら桓魋は賢明にそれに抗って己自身を握り締める。目の前の祥瓊、そして記憶の奥底に消えた誰かがいた。ここを去ろうとしないのは、武人としての本質だけではなく、
 自分は かつて、誰かと何かを約束したのだ。

 慶国を、民を、全てを守ると。大切な人を守ると。出来る限りの、力を尽くして。 今はもう消えた約束の中に、それは確かにあったのだ。

『頼んだぞ 桓魋』

 側にいて欲しい人達 桓魋を飲み込み始めた獣の本能 過る誰かの優しい声

 彼は思わず地面に膝を着いた。自分の中の何かの制御が効かなくなっていくのを感じながら。
乾いた揺らぎが浮かび始めた桓魋の瞳に、意識が薄れ行くその一瞬、何か幻影が過ぎっていく。
 それはどこかで見たことがある幻影だった。少年のようにも少女のようにも見えたが、それが誰だったかは…思い出すことは出来無くて、薄れる記憶の中で幻影は楽しげに消えていく。

 最後にたなびいて消えたのは、まるで――真紅の髪が翻るような 赤 だった。

 
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