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 その光景を見た人は、それは一輪の花だったと言った。比喩的な意味ではない。本当に、そう見えたのだと彼らは言う。
 目の前にあったのはまさに惨状だった。血に飢えた妖魔が暴れ、のたうち、人々が恐怖に悲鳴を上げながら逃げ惑う、そんな光景が広がっていた。(おぞ)ましい匂いを孕んだ風が低く流れ、胃に入り込んで吐き気を催す。
 そしてそんな中、不幸なことにその場には逃げ遅れていたひとりの男がいた。彼は命からがら妖魔の爪から逃げ出し、影で動くこともままならずに惨状から目を伏せることしか出来なかった。
(なんということだ‥!)
 いつ自分の番が来るかと体を震わせて、男は息を潜めて薄く閉じた物陰の隙間から見つめる。逸した男の狭い視野の中に何かの残骸があった。それは恐らくは荷馬車か何か、巨大な褐狙がその残骸を貪っているように見えた。人がいるのかいないのかは定かでは無いが、もしいたとしてもあの有様では生きてはいないだろう。彼がそう思い視線を外した瞬間のことだった。
 中から一人の人影が躍り出た。
 艷めく緋色の髪が花びらのように広がり、それは空に咲く一輪の花のようにも見えた。
 人影は舞うように白刃を翻す。白銀の光が幾筋も重なりあいながら画面を切り裂いた。流れるような動作の後、画面には血飛沫を吹き上げながら、倒れていく褐狙の骸が残っていた。
「な‥!!」
 男は瞠目する。だがその瞬間、他の妖魔が周囲から覆いかぶさるように少女に向かってなだれ込む。今度こそ終わったと男は思った。
 あの数の妖魔に見舞われて生き残れるはずがない。少女もさぞかし絶望しているだろうと、哀れむような気持ちで目を逸らす。しかし――。
「ふふっ‥」
 驚いたことに、少女はわらった。男が耳を疑ったその瞬間、空高く振り仰いで高らかにわらった。
「あははっ‥あははははははははっ!!」
 獰猛だった。そしてこの状況を心から楽しんでいるわらい声だった。少女の口元の弧が深まり、白銀がきらめく。次の瞬間行われたのは、殺戮。

 淘汰されたのは、妖魔の方だった。

 間違いなく、少女は弱肉強食の食物連鎖の頂点にいた。どこか恍惚とした表情で、彼女は妖魔を一匹残らず骸にする。その迫力に、こちらに向かい来る妖魔の方がたじろぐ。わらい声がピタリと止まった。
 ひとしきりわらった少女の表情から瞬時に笑みが拭われた。
「いい度胸じゃないか‥。今まで腐る程人を殺しておいて、自分は死にたくはないか」
 避けきれずに浴びた返り血が一筋、彼女の頬から伝い落ちていく。凍った表情の少女の瞳には鋭い光が浮いていた。
「無様だ‥不愉快だ」
 少女の姿が掻き消えた。そして次の瞬間には、光る白刃は、一匹の馬腹の喉元に突き刺さっていた。今度はもう、少女は微塵も口角を上げなかった。
(‥!!)
 男の注意は少女に釘付けだった。ろくに呼吸も出来ない。だがつい立ち上がりかけ、生暖かい息が自分の肩を撫でる感触が男を現実に引き戻す。
 あ、と思って振り返ったその時、目の前に広がるのは淀んだ朱色だった。妖魔が自分を食らいつくそうと大きく開けた口内に一瞬で血が凍りつく。開いた口内は透明な粘液でてらつき、幾筋もの糸が引いているおぞましい光景になっていた。
 叫ぶことを通り越し恐怖で感覚が麻痺して、あぁ、喰われるんだと瞬間的に悟った。
 死への振り切れた冷静さが男の頭を麻痺させた。だがその瞬間、不意に目の前の朱色が掻き消えた。腰が抜けたまま、一瞬何が起きたのか分からず目を瞬くと、息絶え口を貫かれた妖魔が倒れていく所だった。
「?!」
 縫い留めていた剣が刺した持ち主によって抜かれる。青みを帯びたその剣は脂と赤い露が滴っていたが、一振りしただけでどこかに払い落ちた。
 そこには妖魔の上に片膝をついてこちらを見下ろすあの少女がいた。逆光が濃い影を落とす。髪が輝き、透き通った瞳が自分を見つめているのを男は呆然と見る。

 彼女は獣のような形相をしていた。だけどそれでも‥美しかった。

 なぜだろう。それは、その瞳がどこか傷ついたような澄んだ光を湛えていたからか。淀みも醜さも感じられる荒削りな危うさが、彼女から流れていた。同時に彼女からは、何か荒波を超えたような達観した雰囲気も感じられた。
 不思議な矛盾だった。
「大丈夫か」
 低く澄んだ声がした。声が耳を通り過ぎ、最初それが自分に対して向けられている言葉だと、男は認識出来なかった。体に残る恐怖に蝕まれながらも、男は首を縦に一度だけ振る。
「そうか」
 ふっとその人は笑みを見せその場を飛びすさった。少女がその場を去った時に、男は自分が礼を言いそこねたことを知った。


 陽子は道々を駆けながら暴れる馬腹をその剣でないでいった。厚い肉を突き通すたび一拍置いて血飛沫が跳ね上がり、陽子は空気に飛び出た赤色をかわす。
 その感触が酷く手馴れた物であったことに陽子は自嘲気味に笑みを漏らした。
―これは逆賊と疑われても文句は言えないかもしれない
 獣と同じだ と陽子は自分自身に呟けば、どこかで、誰かが分かっていると答えた気がした。人々の悲鳴が上がり、それが途絶える前にと、陽子はその足を速め妖魔という妖魔を斬り捨てる。
 陽子は吠えた。
 以前にもこんなことがあった気がしたが、思い出せなかった。
 人々が目に残したのは風とともに駆けて妖魔を斬り倒していく一人の少女の後ろ姿だった。
 飛びすさって止めの一撃を蠱雕の喉元に突き立てた時、陽子の目の端にあの湯屋の崩れた壁が飛び込んできた。その僅かな隙間から見えるのは、今にも喰われようとしている玉葉の身を庇おうとする必死の仕草だった。いや、あれは荷物を庇おうとしている。陽子の頼んだあの荷を。
「玉葉!!」
 声に顔を上げたその娘、陽子の顔を見た瞬間に浮かんだのは安堵と絶望が織り交ざったような表情だった。少女に向かって陽子は低く駆け出す。
 目前で流れていく映像の方が、自分の足が辿り着く速さより、遙かに速く流れていくことを陽子は直感的に悟った。
―速く!
 足に走るあの違和感が強くなる。流れる時間の速さに向かって吐唾したい。硬い地面を懇親の力を込めて蹴り上げた。
―もっと速く!!
 娘を喰らおうと褐狙の牙が反射光を放つ。玉葉の側で腰を抜かした人々が悲鳴を上げた。同時に――舞い込んだ一枚の花びらのようなものが褐狙の脳天に降り落ちた。
 玉葉が恐怖で声を上げる。目を見開いたままの周囲が見たものは、脳天を貫かれて倒れていく褐狙のしなった体だった。その時になって人々はその花びらが人だということに気がついた。褐狙の歪む体から青光する筋が引き抜かれ、風に舞った花びらのような人は地上に舞い降りる。
「陽光!!」
 その声に振り返った陽子は傷の無い玉葉を見て安堵する。まろぶように走り寄った玉葉が荷を陽子に手渡した。
「ありがとう‥玉葉」
 少女は笑った。
 泣き笑いのような、遠くの人に笑いかけるような顔で。その儚げな表情が風に吹かれて消えてしまいそうで、陽子は目を細めて彼女の顔を見つめた。
 淀んだ雲が流れ空を薄く覆い隠してゆく。一気に空からの光が遮断され、陽子は自分と目の前の少女の顔が翳りで隠されるのを感じた。
 別れは寂しい。けれど、もう惜別の時は迫っていた。楓椿が陽子の姿を目にとらえ、彼女目がけて駈け出す。舞い上げた白刃が鈍い燐光を放ち、その身を大きく振り上がる。
(見つけた‥!!)
 楓椿は刃を力をかけて薙ぐ。殺気が、左斜め後ろから差すのを感じて陽子は腰に帯びた剣を引き抜いた。玉葉の悲鳴が聞こえた。
―さよならだ
 少しだけ視線を玉葉に投げると陽子は髪を翻し、向かってくる女兵士 楓椿の斬撃を受け止めた。日が翳ったせいで顔まではよく見えない。それは向こうからしても同じだろうが、寸分違わず陽子目がけて刃を振り下ろす。女の狂気に浸った目が燃える。少女玉葉から飛び退って離れ、陽子は女を睨み据えそして―ふと笑みを零した。
「それ程私を殺したいか」
 武人は口元に弧を描く。
「御命頂戴致したい」
 剣を流し身を地面に流して斬撃を避ける、その時後ろから体を押さえつけられる感触がし陽子はそれを力任せに振り払った。
 振り返り一睨みする、陽子が睨み据えていたのは湯屋の娘 遊蘭だった。
「逃げられるなんて思ったら大間違いよ!あんたをここから出すもんですか!」
 斬撃が陽子目がけて走りだす。その軌道と刃のぶつかり合う音が響いた。この中庭にもう妖魔はいない。陽子は振り下ろされる刃を飛びかわし、崩れかけた湯屋の高い塀に足を下ろした。薄暗く紗が掛かる中、陽子は上空から視線を落とす。
「貴方という人は…」
 陽子と遊蘭、その二人に周囲から視線が集中する。遊蘭は手の届かない陽子に向かって甲高い声を張り上げた。
「汚い逆賊!あんたなんて死ねば良いのよ!!」
 陽子は何も答えない。口を噤んだまま、陽子は薄く遊蘭を見つめていた。罵倒される薄汚い逆賊、そういう不躾な目が幾つも自分に興味津々と張り付いていることを陽子は感じ取った。薄暗くて影しか見えない陽子を何の遠慮もなく人々は見つめていた。何処かから、遊蘭に賛同する声が聞こえてくる。
 遊蘭は尚も言葉を続けた。
「逆賊の分際で、王位を欲しがった汚い女!格差って物をちゃんと受容すべきなのよ、あんたが私に頭を下げなかったのだって、私のことが(ねた)ましかっただけでしょう?あんたと私とじゃあ天と地程の差があるのよ!!そんなことも認められないなんて、なんて無様な女なの!!」
 だが、陽子は冷め切った瞳のまま、何も答えなかった。遊蘭が言葉を切った途端、光が流れて人々の目の前に罵倒されていた人影を映し出す。
 透き通った光が差し込み、人々に照明を当てて行く。野次馬たちは照らされる薄汚い逆賊をしかと見ようと目を瞬いた。

―今まで男の振りをしてきた少女の、その、全容を。

 だが、光を浴びた彼らが見たのは予想したような見窄らしい人影などでは無かった。

 わいわいと逆賊を卑しめていた周囲がその瞬間静まり返った。薄汚い逆賊、王を誣いてまで玉座を狙った欲に塗れたその人物だと思って、目を凝らした彼らの予想が大きく覆されたのを楓椿は周囲から感じた。そして楓椿自身も、少女の姿が現れると同時に、その衝撃の大きさに瞳を見開く。

 人々の目の前にいたのは、一人の、あまりにも美しい少女だった。

 少女から流れるのは、荒々しい獰猛さとそれを御する静謐さ。その場にいたものが感じたのはある種の不思議な畏怖だった。
 陽子の表情は少しも動きを見せていない。ただ、真っ直ぐ射ぬくようにその場を翡翠の瞳が見つめている。流れこむ光が陽子の真紅の髪を、なめらかな褐色肌を、深緑の瞳を照らし出した。
 ぬるい風が吹きすさぶ。風は耳元でうなりを上げて陽子の髪を巻き上げ、空中で揉み散らす。流れる風が雲を押し流し、また太陽が顔を覗かせた。
 静まり返る周囲の中

―陽子は瞬き一つした。



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