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  空中を舞う一つの人影。衣をなびかせ、乾いた地面に降り立った陽子が見たものは恐怖に震えながら逃げてくる人の群れだった。
 砂塵が舞い上がり、時にそれを霞ませ、時に晴れ渡り惨状を目の前に映す。逃げ惑う人の群れ、奥から黒い塊が点として幾つも迫ってくる。
「何だ…あれは‥!」
 呟く声は風に流れて吹き消えた。そうしている間にも人々の悲鳴は近づいてくる。迫ってくる点は今見ると点から線が滲み出ていた。水を含んだ紙面に垂らした墨のようにも見えた。
 溶けた輪郭をはっきりと形作っていくそれは狒々の形をした妖魔で、群れをなして、美しい朱の灯りが灯る街の上から血色を塗りつけていく。時間が経てばどろりと淀む赤褐色だった。
 横に視線を走らせれば、そこには木片が砕けて散乱していた。地面で馬がのたうち、白い砂は赤い血溜まりを吸い込んでいく。馬車の残骸が目に入り、かろうじて人や物が積み込まれている箱の部分だけが形を保っているのが確認できた。
 陽子は肌がそそけだつのを感じた。塗り壁の向こうは兵が蠢く。目前には逃げ惑う人々と迫り来る妖魔の群れがある。
(逃げ場が無い…!)
 迫る妖魔も溢れ出してくる兵も待ってはくれない。身を隠すのに迷っている暇はなかった。忘れていたあのゾロリと何かが体を這う感触が足を走り、陽子は馬車の残骸の中に飛び込む。かろうじて形を保ってい巨大な箱の壁を陽子は蹴破り、割れた隙間に身を転がり込ませた。木くずと籠った物の匂いが混ざり合い鼻を突いた。
 木の板の僅かな割れ目から漏れ出る光の筋が、中に入っている金銀の輝きを浮き上がらせる。
 そこに積み込まれていた財宝の山に陽子は息を飲んだ。破られた隙間から流れこむ空気の中、一瞬唖然とした彼女。だがその時影で僅かに動く人影を目に捕らえた。
「誰だ!」

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不均等に穴の開いた上空から、光の筋が幾つも差し込む。鈴は暗闇の中、朦朧とする意識で瞼を押し開けた。体中から鈍い痛みが滲み、鈴は思わず唇から呻き声を漏らす。かろうじて震える輪郭を保つ馬車の中、彼女は自分が瓦礫の山の中に埋もれていることに気がついた。外では轟音が轟き、馬車の中にまでくぐもって聞こえてきた。
 小さく悪態をつきながら、鈴は自分の上に重なる瓦礫をどかそうと、手を木片の残骸に重ねる。びくともしない重みに眉をしかめた時、馬車に外から大きな衝撃が走った。
(何…?!)
 相変わらず轟音と悲鳴は混ざりながら外で轟いていて、空気が揺れるたびに軋んだ天井からは木片がパラパラと降り、砂煙が流れ落ちてくる。
白い砂と煙が床を跳ねて流れた。
 思わず目を瞬いた瞬間、板の軋む嫌な音が響き、馬車の側面の板が蹴破られる。溢れ出す光の眩しさに鈴は小さく悲鳴を上げて目を糸のようにする。光と共に人影が転がり込んだ。その人が体勢を整えた時、天井から漏れた燐光が、人影を照らし出した。

 それは、すらりとした人影だった。佇まいのどこかに、何かを孕ませ、人を惹きつけずにはいられない雰囲気に思わず鈴は目を見張った。

 その人は鈴とは反対に、馬車の内部の薄暗さに目を細める。小さく鈴が身動(みじろ)ぎした瞬間、さっと此方を振り返った。
「誰だ!」
 鈴はその人影の纏った迫力に、思わず押されて言葉を詰まらせる。だが、彼女はそれでも精一杯、その人を睨みつけた。
「わ、私は王宮の使いの一人よ。…鈴っていうわ。そういう貴方こそ何者なのよ?いきなり飛び込んできて!」
 鈴は精一杯視線を鋭くして目の前に立つ人影を見据える。
目の前のその人は何も答えなかった。
 睨みつけながら鈴は立ち上がろうともがくが、瓦礫と化した木材が動きを封じる。手は虚しく宙をかき、ささくれた木片が足を痛める。
 皮膚が削られる痛みに彼女の顔が歪んだ。
「逃げられないのか」
 静かな声が頭上から降り落ちる。鈴は目を潤ませて暗い人影を睨み上げた。
 ここに到着したのは予想より少し遅れた正午過ぎだった。逆賊らしき人物がこちらに潜んでいるとの情報提供を元に、兵士たち戦力はそちらに向かった。
 残ったのは御宝を守るために留まった僅かな兵士と足手まといの鈴だった。うららかな陽気が広がる中、鈴が覚えているのは小さくなっていく兵士たちの背の塊。頼りになるその背が見えなくなった途端に、身の毛のよだつようなその事件は起こった。
 漢轍の命により、遁甲して一行をついてきた妖魔たちが道という道を血の海に浸した。まるで戦力が消えるのを待っていたかのように、逃げ惑う者を掻き切りその身を貪る。つたう血を啜る飢えた瞳、だがそれよりも鈴の記憶にこびりついたのは、すくみ上がった馬の緊張した瞳だった。
 恐怖にいななく馬が駈け出し、暴れ馬と化した馬車が道々や木々に叩きつけられながら駈け出したのが、はっきりと覚えている最後の部分だった。

 亀裂が入る馬車、光が漏れ込んでくるその恐怖、ごった返して暴れまわる凶器とかした金銀宝玉。

 どうして―自分は生きているんだろう とぼんやりと鈴は思う。取り立てて誰かの役に立つわけでもない、それなのに生きながらえる‥生きて欲しかった人の数は数えきれなかった。
 拭えない喪失感が彼女を襲う。失ってしまった蜜柑色の少年、そして‥だれか朧げな影が鈴の脳裏に浮かぼうとした。自分より濃い肌の色に覆われたその人、何もかもが曖昧で胸を掻き毟りたくなるその焦燥感が鈴を襲う。それでも自分を必要だと反響した声がどこかから聞こえた気がしたが、どこの誰の声だったか鈴には分からなかった。
 その人さえも‥自分は失いつつある。どこの誰かも、鈴には分からないし、覚えていなかった。滲んだその事実は胸の奥から苦いものがせり上がらせ、鈴を苦しめた。
 口の中を這った酸味を震える声で彼女は人影に吐き捨てた。
「そうよ!私はただの逃げ遅れの人間。愚図々々(ぐずぐず)してたら殺されるわよ。ここももう駄目、逆賊を捕らえるために放たれた妖魔の暴走はもう止まらないわ」
 鈴は顔を背けた。だから早く逃げなさいよ と力なく呟く。何処かで悲鳴が上がり、空気が震えて埃が舞い上がる。
 目の前の人物―少年だろうか―は何も言葉を発しなかった。気配が遠のいた感覚がして鈴は息をつく。だが、次の瞬間木の軋む嫌な音と共にのしかかる重さが僅かに薄れて、思わず顔を足に向けた。
 見ると目の前の人影が木片を掴み、瓦礫の山を崩そうとしていた。
「ちょ、ちょっと!あなた‥」
「逃げられないんだろう?だから今逃げられるようにしている。」
 屈んでいる布を巻いた頭が答えた。足にのしかかる重なりあった木材の重さは薄れてゆく。けれど鳴り続ける音からここももう妖魔の手に染まるのも時間の問題だということが、鈴には分かっていた。
「貴方まで巻き込まれるわ!厚意は貰うから早く逃げて!」
 大きな朽ちた角材を後ろへ投げるその人は、ふと暗闇で笑ったように見えた。
「‥そうだな。無茶をしている様にみえるだろう。だけど私にはどうしてだか‥貴方を助けられる気がしてならないんだ…」
 さっきまであれほど余裕を感じなかったのになぜだろうな と人影は笑う。ここに転がり込むまでの焦りは遠のき、ゆったりとした紺青の海が静かに横たわっている感覚が少女を満たしていた。なぜだろう、何かがここにあって陽子を呼び込んだように。
 その言葉をぽかんと聞いた鈴は項垂れて足元を見た。
「何莫迦なこと…」
 また人影が笑った気配がした。そうしている間にも足への重さは無くなっていく。掴んでは持ち上げ瓦礫を浮かして後ろに放る。その単純作業の繰り返しだった。
 何を言っても笑って聞き流す目の前の人物に浴びせる言葉も尽き、ポツリと鈴は零す。
「何かが…おかしいわ。この国には今王が立っている筈なのに、妖魔が出るようになってきた。みんな新しく立たれたのが男王だってすごく喜んでるのに…」
 目の前の人は何も言わず、ただ作業を続けている。遠くで何かが崩れる轟音が響く。
「どうして…王が立っているのに妖魔が出るの?この国が…どうなっているのか私には分からない…」
 そこでやっとその人は唇を割る。
「そうだな」
「あなたには分かるの?」
 いや とその人は首を振った。ふと悲しげに微笑んだように見えた。
「自分自身のことすら、私には分からないよ…」
 淋しげな音だった。優しい低音。その言葉は鈴の中に余韻を残した。ここにいる二人が同じ場所で笑い声を重ねていたことなど互いに知るはずも無かった。ふっと外界から音が遠のき、外から差し込んだ光が中の闇を濃くする。
 鈴の口から言葉がついて流れでた。
「それはどういう…ことなの…?」
 言葉はことのほか大きく響いたが、それは却って虚しさを増した。

 目の前のその人は何も答えない。

 ただ薄く光を溶かした闇の中、静かに鈴を見つめる。一筋の光が彼女の瞳の翳りを照らし出す。

 舞い込んだ砂を含んだ風が目の前の人の衣を揺らしていった。

「貴方は…誰なの‥?」

 遠くのどこかで何かが音を立てて崩れていく音がした。

 その人は表情を動かすこと無く鈴を見つめていた。瞳は全く動かない。その人は何も答えない。
 やがてその唇から苦笑するような音が零れた。
「‥誰なんだろうね 誰でも無いのかも…」
 酷く悲しい声音だった。ふと自分の中で唸りを上げる獣の感覚に、陽子はゆっくりと瞼を下ろした。
 ―それは無視できない、陽子の闇なのかもしれない。
 鈴が思わず腰を浮かそうとしたその時、ずっと撤去を続けられた瓦礫はガラリと山が崩れ中から自分の膝が顔を出した。驚いて足を見つめた鈴にその人が穏やかに微笑む。
「これで、逃げられるね」
「貴方…」
 ふと笑うその人の先ほどの翳りは消されていた。
 鈴が言葉を続けようとするが、軋んだ音が空気を走りすぐ側の板壁が大きな悲鳴を上げる。妖魔の爪が突き破り、板から茶けたなめらかな牙が顔を覗かせ、その凶器に鈴は自分が叫ぶのを聞いた。
 陽子はさっと周りに視線を走らせた。どくどくと脈打つような地脈に似た何かを彼女は感じる。それは嫌に大きく、流れでてくる鼓動の音と酷似していた。
 何だ―?何かが…呼んでいる…
 ゆっくりと鼓動が耳元で響く。強く、何かが彼女を呼んでいる。尖るけたたましい笑い声がどこかから聞こえる気がした。陽子は顔を出して転がる一つの木箱に目を止める。鈴はそれを見て叫んだ。
「それは、ただの飾り物よ!何も切れはしないわ!」
 だが陽子は構わず木箱に手を伸ばした。いや、斬れる と心のどこかで誰かが呟く。何が入っているのか分かっている自分が――不気味だった。
 乾いた音を立てて木箱がバラバラににほどけ床に散る。唖然とする鈴と落ち着き払った陽子の目の前にそれは姿を現した。
 青い玉飾りの付いた優美な宝剣。
 繊細な装飾が走り重さを担って陽子の手の中に体を横たえている。その美しさに思わず目が止まった。
 海が泡立つ音がする。
 その柄を握り、迷わず陽子はその身を抜き放つ。陽子はかすかな埃が舞い散る光に掲げ、静かにその剣を見つめた。重いそれは美しい青みを帯びて陽子の手になじむ。血潮がうるさい。軋む空間を睨みつけ陽子はゆっくりと構えを取った。流れる海が沸き立ち耳元で泡を立ててうなり上げる。
 自分はこの感覚を知っている
 陽子は直感的にそう感じた。目の前で瓦礫から解放されたばかりの、黒髪の鈴の青ざめた顔が周りを見渡す。すぐ傍であの湯屋の壁が崩れ落ちていくけたたましい音がした。
 かろうじて形を保っていた部屋のような箱は大きな爪に抉られていく。その僅かに残った隙間に鈴を押し込んで陽子は爪めがけて低く駈け出した。
 何かを鈴が叫んでいる。だがその声は陽子の耳に届かない。
 潮の音がやたらと耳にうるさかった。

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 妖魔が―来る。その恐怖に頭が痺れる。棒を飲んだように突っ立ったままの自分を、爪の届かない場所に押し込んだのは目の前の腕だった。同時にその人は妖魔目がけて突っ込んでいく。王宮で誰も使えなかった飾りの剣を携えて。
「駄目!戻って!!」
 だが鈴の声は崩れていく木片に飲み込まれただけだった。駆けていくその人の耳には届いていない。
 その人は剣を弧を描いて振りかぶる。白刃が残像を残しながら煌めき、光の筋が入ったと思った瞬間、床が、壁が、天井が、音を立てて切り落ちた。日光が流れ込み仁王立ちするその人の背中に濃く影を落とした。爪だけしか見えていなかった妖魔の全容が日の光にさらされる。
 誰にも仕えようとしなかった剣をその人は体の一部のように扱い従わせ、舞う。妖魔との乱舞に吹き出した血潮が彩りを添え、その画面を飾り立てた。
 斬り上げた妖魔の爪がなめらかに切り落とされ、暴れまわる。
 痛みにのたうつ妖魔がのけぞり、爪を引き剥がす。後ろへ体重を引きずられて一瞬その馬車の残骸から体を離した。
 一瞬の 空白だった
 乱舞の間に流れ僅かに生まれたその時間、空白は目の前の舞人を朱の画面から切り離す。引きとめようと鈴が声を上げかけた時

 陽の光に照らされたその人が振り向いた。

 流れるように。鈴にはそれがとてもゆっくりとたゆとうように見えた。
その瞬間、鈴の息が、時間が、止まった。
 凛とした美しい少女。褐色の肌が滑らかに続き、翡翠の深みが光の奥で煌めく。髪布が緩み、ほどけて紅の髪が零れた。
 鈴は心臓を掴まれた気がした。
 音という音がひしめき合い、揉みあう中その人は笑った。
「さよならだ。次に合う時まで―どうか無事で」
 頭痛が―酷い頭痛がして鈴はその場にへたり込んだ。その人は背を向け足に力を込める。
 胸の中に何かが湧き上がり、鈴の胸が詰まった。何か、大切なものが指の隙間から溢れていく感覚を呆然と鈴は感じる。
 その背を力なく見つめる鈴の口が小さく呟いた。
「待って…」
 自分でもどうして引き止めるのか分からない。それなのに口から言葉は滑りでた。
「待って!!」
 行かないで。だけどその言葉はその人まで届かなかった。伸ばした腕が空を掻く。
 声が捕らえる前にそこから飛び出したその人の、緩みきった髪布が風に揉まれ、自由になって紅の髪が空に流れる。もうその人の顔つきは、鈴と対峙していた時とは変わり、鋭く引き締まっていた。爛々と燃える瞳は、それは正しく「狩る者」としての双眸だった。
 鈴は頭を押さえる。何故…?何故行かないで欲しい…?自分が何か大切なことを忘れてしまったという考えは彼女の中で確信に変わっていく。
「う…あ…」
 あの言葉が…女兵士から言われた言葉が鮮明に頭を過ぎった。自分の中を、音を立てて亀裂が駆け抜けてゆく。
―あんた、何も分かってないのね…
 残っているのは小さな蜜柑色の髪を少年を失った悲しみの痼。何か大きな音が近くで響く、だがそれは自分の口から漏れる叫びだった。
「うあ、あああぁあ!!」
 そういえば‥どうして自分は今慶にいるのだろう。清秀と出会って、祥瓊と出会って、そして夕暉達と出会うために抜け落ちていた重大な何かにようやく彼女は気がついた。
 視界が霞んでいくのは砂埃のせいだろうか。巻き上がるは砂塵、四方八方から響くは高低様々な悲鳴と滲む血の香りが鼻をつく。
 埃が舞い散る中、怒号が遠のいていくのにも気づかずに、鈴はその戦場にくずおれた。

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陽子は切り倒した木片を散らして空に舞い出る。唐突に瓦礫の中から人が飛び出した、その光景に周りを逃げ惑っていた者達は驚いて彼女を見つめる。だが陽子の瞳に写っていたのはただひとつ、目の前をのたうつ褐狙だけだった。
 自分はどんな風に彼らの目に写っているのか、そんなことはどうでも良かった。
 褐狙目がけて土を蹴り、ギラリとその瞳が光って口端が上がる。心のなかで誰かがケタケタと笑い声を上げ、それに呼応するように陽子の口からも乾いた笑い声が漏れた。
 褐狙の喉元目がけて刃が大きく弧を描く。陽子は空を仰いで敵を見下ろし、白銀の刃を閃かせた。

 自分が相手をしてやろう。空間を満たす赤い色、鮮やかなその色に染めたいのならば――自分たちの血だけで染めれば良いのだ。関係ないものを取り除いた、獣性を持つ者同士だけの野蛮で獰猛な濃い色で。陽子は恐ろしい程顔に笑みを深く刻み、次の瞬間には一切の表情を取り払う。

―私は…

 鋭く締まった顔つきの、その眸に乾ききった炎が踊った。

―獣だ!!!


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