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 しばらく、呆然と空を見つめていた玉葉は我を取り戻した。ゆっくりと彼女は恐る恐る床に転がる御璽と目を合わせる。
 呼吸が浅く速く目まぐるしいかった。目は相変わらずいっぱいに開いたまま震える指でそっと御璽を拾い上げた。本来自分が決して触れることは無いものは、御璽の重さも手伝って、指の間を滑り落ちていきそうだった。
「陽…光…」
 何故、これをあの少女が持っているのだろう。御璽は王がいつも手元に置き、何人たりとも触れることを許されぬ刻印だ。王にしか使えず、王が崩御すれば次王の登極までその印影を失い効力も消える。その間、白雉の足が御璽の代わりになり、それが無ければ国を動かすことはできない。
 御璽はそれひとつで、国の命運さえも動かせてしまう代物だ。
 疑問が脳裏に渦巻く。
 陽光は噂通り逆賊として奪ったから、御璽を持っていたのか‥いや、それとも。

 ―もしくは、元々御璽(これ)の持ち主だったか。

(そんな、わけないわ‥。ありえない)
 そんなこと限りなく否に近い。バカバカしいと思いながら、それでも玉葉はその可能性を頭から振り払えない。
 思考の死角にあったその答えは、妙に納得できるくらい、陽子に馴染んでいた。
 浅い呼吸を落ち着けようと賢明に手を握りあわせて胸に当てる。鼓動が耳元で太鼓のように鳴っているのがうるさい。陽光が前者だったら御璽を盗んだ時点で死罪は免れるものでは無い、だがもし後者だったら…?今堯天では麒麟の不調が囁かれている。王に宝重が従わないと風の噂が嘆いている。もし真実、これが陽光が所有するべき物だったら…。
 冷たいものが肌に押し当てられた。ゾクリと冷たいものが肌を伝い降りていく感触が生々しい。
 もし、今玉座に在るのが偽王だったら、妖魔が徘徊しているのも頷けはしないか。正当な王が玉座にいなければ国が荒れる。今王が玉座にあらず、目に見えて荒んできているのは人民の心のほうなのではないか。陽光は今世界の秩序から歪んだ者として消されようとしている。だが、実際に歪められているのは秩序の方なのではないのか。

 そして、その時ようやく彼女はあの日、遊蘭と陽子が鉢合わせた日に見せた、彼女の翳りの意味を理解した。

「陽光…!」
 あの少女は無事なのか、随分と酷い顔色をしていた。とろりと深い煌めく翡翠の瞳は今日は熱に浮かされあらぬ方を見つめていた。
 いつもの翡翠の瞳を細めて、嬉しそうに笑うあの笑顔が浮かぶ。
―何もかもが嘘でも、構わない 不意に玉葉はそう思えた。
 だってあの子はいつでも、優しかった。どれだけ陽子が疑惑をかけられた人物だとしても、玉葉にとってはそれだけが全てだった。
 力を込めて、玉葉は御璽を握る。
御璽(これ)は陽光が持つべきものだ。
 震える睫毛を伏せ、玉葉は御璽をそっと荷に押し込んだ。今度は、もう零れ落ちないように結び目をきつく結わえた。
 陽光は一刻も早くここを出なければならない。ここで収まるべき人間じゃない。
 彼女が見つめるべきものは頭を抑えつけられて見る地べたでも、錆が走る冷たい牢獄でも無い筈だ。
 翡翠の目の少女を目指して、玉葉は白く光る出口を潜りぬけ回廊へと躍り出た。

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 時刻は、陽の光が少し落ちはじめた頃だった。暑いまどろみの時間が空を焦がす。
 家生達に引き立てられるようにして連れてこられた陽子は、なだれ込むようにして湯屋の娘遊蘭の足元に体を倒していた。
 陽子は勝ち誇ったような顔で頭上で顔を綻ばせている遊蘭を、無表情に見上げる。上空ではうららかな雲がたゆとい、冷気を帯びた風が地面近く流れる。
 遊蘭の激しい声がした。
「いちいち来るのが遅いのよ!本当グズね、ただここに来ることすら満足にあんたは出来ないの?」
 陽子は何も答えなかった。見上げようとしても焦がすように降り注ぐ陽の光が目に染みる。
「今日は良いことを教えてあげるわ。今までのあんたの愚行を許してあげる機会を作ってあげるんだから感謝なさい。その地面に頭をすり付けて許しを乞えば、あんたの生意気な態度も影を潜めたって認めてあげるわ」
 白々しい。陽子は反応をすることさえもせずひんやりとした風が流れていく青白い空を見つめた。当たり前のように無視を決め込まれたその対応に破顔していた遊蘭の顔に血の気が昇る。目を剥いて遊蘭は地団駄を踏んだ。
 周りに侍る家生達が怒鳴り声を上げ唾を吐き散らかした。野次罵倒が浴びせられるながら陽子は静かに視線を上げる。
「この状況下でそんなことをするつもりは無い」
「なんですって?!あんた、この私がせっかく許してあげるって言ってるのに何様のつもりよ?!」
 益々遊蘭の顔が怒りの色に染まる。開いた手の平を振り上げかけて、だが、ふと遊蘭はそこで動きを止めた。何事かと思って、陽子が眉を潜めると同時に、遊蘭は意地の悪い笑みを唇をひん曲げて描いた。
「そうだわ…あんたはそんな強い態度に出ていい身分では無かった筈よ?あんた、知ってる?今この湯屋に逆賊が紛れ込んでるって噂が在るんだけれど…」
 陽子の肩が目に見えて強張った。それを視野の端にいれながら、遊蘭は今にも笑い出しそうに楽しげに続ける。
「その逆賊は赤い髪の娘らしいって知ってる?そーんな人間なんて知らないんだけれど仮に噂としてもそんな人間がこの湯屋にいたら困るわねぇ」
 この娘は‥何が言いたい。陽子の事など見向きもせずに、だから‥と遊蘭の唇が歪な曲線を創った。
「今日いらっしゃる王宮からの使者の方々をこの湯屋にお招きしたの。逆賊がいないかをきちんと、隅から隅まで調べ上げて下さるそうよ?これで安心よねぇ」
 高らかに遊蘭は笑った。ふつ ふつ と何かが煮立つ湯のようなゆらめきが、陽子の中で沸き上がってくる。制御が効かなくなるような、危険な黒い何かが揺らめいている。それが何なのか、陽子自身にも判断はつかない。震える陽子の肌を恐れと受け取ったのか遊蘭はさもおかしそうに鈴を転がすように笑う。
「それにしても間抜けよね。王の命を狙ったはいいけど失敗して逃げ出すクズなんだもの。まぁ実際に今いる男王もどうかと思うけれどね‥」
 まどろみを湛えた風が吹きすぎてゆく。男王‥そのどこかで聞いた言葉が陽子の中で響いて不思議な余韻を残した。
「今いる王は正当な覇者では無いわ」
「お嬢様!」「何という畏れ多いお言葉を!」と周りの家生から悲鳴に似た声が上がる。だが遊蘭は薄く笑って、白けた笑みで空を振り仰いだ。くすくすと葉のすれ合うような音を出して陽子を見下ろす。
「今の男王は王として従うべきものが何一つとして御することが出来ないと風の噂が嘆いていたわ。麒麟を丸め込み、宝重も王を認めていない。宝重を扱える資格がないのなら、それは王とは言わないんじゃなくて?偽物なのよ。どこかに正当な王がいるのよ。麒麟が頭を垂れるべき唯一無二の存在が。王としての資格を持つ人物が。そうだとしたら‥慶国の麒麟、宰輔である景台輔、いいえ景麒が主として選ぶのは…」
 唇が益々傾斜の強いカーブを描く 私よ と唇の端を遊蘭は歪めた。
 彼女の瞳は昼ざかりの太陽の下、光っていた。青白い陽炎が揺れ、歪んで消える。ゾッと背筋が粟立った陽子が見上げているのは娘遊蘭を透かした自己陶酔感の恐ろしさなのかもしれない。
 誰も彼女の言葉の接穂(つぎほ)を遮るものはいなかった。
「私が景王になったら何もかも思いのままだわ。そうしたらここにいる身の程知らずな誰かさんのような人間を作らないよう、人間には格が有るということを国民全体に教育させるようにするのに」
 誰も何も言わない。どこかで馬車の回る木の車輪が、地面に溝を掘る音が響いていた。薄く砂塵が舞い上がった。湯屋の石壁に塗り込められたこの中庭にまで舞い広がる煙が流れこんできて、目の前に紗を掛けた。
 だが、そんな目の前に広がる光景は陽子にとって何の意味も持たない。鈍色(にびいろ)の膜が彼女の心を覆っていく。
 遊蘭はフンと鼻で笑うと陽子の頭に手を伸ばす。
「だからあんたはここで頭を上げる権利なんて無・い・の。その頭でも理解できたかしら?」
 周りの者達の空気のさざ波に交じる陽子に対する失笑、嘲笑が耳につく。陽子の中にまばらに散らされ、点った炎が大きく舞い上がった。クスクスと笑いながら その手が布の巻かれた緋色の頭に迫ってくる。
 頭を掴もうと、遊蘭の手の平が触れようとした瞬間、陽子の中で、何かが爆ぜた。
「やめろ!!!」
 ビクリと遊蘭の手が止まった。思わず周りを見渡し、視線が目の前の少女で止まった。ゆらり と陽子が立ち上がる。
 爆ぜたその時になって、陽子はようやくそれが激しい怒りだということを知った。だが――もう遅い。
 遊蘭は慌てて陽子を抑えていた筈の男に目をやるが、男は地面に転がって呻いていた。
 立ち上がり自分よりも高くなった目線から落とされる、その冷えた迫力に、遊蘭は思わず息を飲んで数歩後退った。
―下らない
 そんな様子になど興味も示さず、陽子は気怠そうにに翡翠の瞳を遊蘭から逸らして壁を睨んだ。
 暗く沈んだ廊下の向こう側から、耳に僅かに残るような音が陽子の鼓膜を叩く。先程からこちらに近づいてきていた馬車の音が、すぐそこの壁を透かした向こう側で止まっていることを陽子は気づいていた。
―追手が、来た。
 淀んだ暗闇を越して人影が見える。幾つも、幾つも。闇に更に濃い影を落として近づいてくる。自分に残されている時間が少ないことを陽子は悟った。
 今から走って間に合うか。
 軽く舌打ちをすると身を低くして遊蘭の横を突っ切る。驚いた遊蘭は捕まえようと咄嗟に手を伸ばしたが、その手はかすりもしなかった。
 そしてその瞬間、兵士、兵士、兵士の雪崩が、廊下の奥から溢れ出してくる。
 先頭切って踊り出したのは気怠げな表情を貼った女兵士だった。
 いかにも面白くなさそうな、どうでも良さそうな顔で標的の後ろ姿を目で捉える。
 彼女の唇の端が歪み、鞘走りの音が腰から滑り出た。
 陽子が振り返らずに走り抜ければ、体の中で沸き立つ海の海面が泡立ち波が砕ける。
 空気と触れる目の表面が乾いた。それでも、ただひたすら陽子は目的の塀に走る。
 追いつかれるのと逃げ切るのと どちらが早いか。
 陽子が塀にたどり着き、弧を描いて白の石壁を蹴り上げるのと、振り下ろされた刃が石を噛むのは同時だった。
 遊蘭は金切り声で叫ぶ。
「逃げたわ!あいつが…あいつが逆賊なのよ!!」


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