back home next




 静かに陽光は降り注ぐ。差し込んだ光の帯紐が陽子と手に持った本を浮き上がらせていた。その本を抱き抱えたまま陽子は動くことが出来なかった。
 自分の中の無表情な場所に急に色が付けられたような心地がした。だが、何か衝撃を感じただけで、思い出せることは何一つとしてなかった。
 もどかしさだけがせり上がってくる。
のろのろと立ち上がると陽子は片付けを終えていない書庫から体を押し出した。無性にここにいてはいけない気がしたのだ。いや、正確に言うとここでは無いどこかに別に居場所があるというような奇妙な感覚なのだが。
―ここにいてはいけない
―どうして?
―帰らなきゃ
―…どこに?
 陽子は頭を抑えながら部屋への道を辿る。
何かやり残していることがあるのではないか。―それが何かなんて分からないけれど。胸の内を針先で何度も重ねて引っかかれたような細かな痕が蓄積していく。
 忘れてはならないことがあったのだ。それなのに忘れてしまった。それはもはや無念や辛ささえもまるで感じないものにしてしまった。心から拭い去られたものが何なのか分からない。必死に目を凝らしてみてもそこに染み付いた痕はただ空中を睨んでいるだけだった。
 必死に思い出そうと記憶の扉を探すがその形跡すらどこか分からない。ただ、酷く思い出したくて、そして同時に思い出したくない気がするだけだ。
 小さく呻いた陽子の脇を二人の下働きの娘たちが通りすぎていく。楽しそうに話に花を咲かせている娘達の声を耳に拾った。
「ねえ、今日は王宮から宝物の山が運ばれてくるらしいって噂聞いた?」
「え、何その話?」
「ここだけの話よ!くれぐれも内密にとのことなんだから」
「極秘の通達ということかしら」
「そうなのよ、でもただどこかへ運送するための通り道として使われるだけらしいけれど」
「でも王宮の金銀財宝なんて夢のような話だわ 景王君はよほど美しい財宝をお持ちなのねぇ」
「そうに決まっているでしょ 仮にも一国の王よ 何でも王の御物を狙う不届きな輩が多いから、手の届かない場所に移転させると聞いたわ。つい最近話題になった逆賊の情報をかき集める目的と兼ねあわせているらしいわよ」
「無理もない話ね…王なんて神に等しいお方だもの。御命も狙われるわ。きっとその王君に身につけられるためにある御物なんて筆舌に尽くし難いくらい神々しいものよ」
「宝玉を運び王を祀る仕え人達がここに来るのね‥王宮の人と考えるだけで美しい人たちなんだと思わない?」
 私も一度でいいから宝玉を身につけてみたいわ と笑いながら去っていく娘達。その潮騒のように遠のいていく笑い声を聞きながら陽子は酷くなる体調の異変に耐えていた。
 ふらふらとよろめきながらなめらかな木の欄干に体を(もた)せかけた。血の気が引いていく。今の話が真実なら…まずい。それは王宮から追手が来るのと同じことだ、と陽子は青い顔で表情を曇らせる。
 不可解な頭痛に耐えながら視界が霞むのを感じた。ぐったりと汗ばんだ顔を腕の中に埋めていると、遠くの方から足音が近づいてくるのが聞こえ、回らない頭を叱咤しながらそちらに顔を向ける。
 こちらへ来るのは、汚れた洗い物を一揃い抱える玉葉だった。この湯屋の中でただ一人親しい娘を捉えて足が砕けそうになる。娘玉葉の瞳が陽子を捉えて大きく開かれた。
「陽光!どうしたの?酷い顔色をしているじゃない!」
「何でも…無い」
「何でも無いわけ無いでしょう!本当にどうしたの?」
「大丈夫だ…ただ思い出そうとして…頭が痛んだだけだから…」
「お、思い出す?何を?」
 その問いかけには陽子は口を開かなかった。深く空気を胸に吸い込み呼吸する。穏やかな空気が肺を満たしていって、痛みがじわじわと引いていく感覚がした。だが依然足元はおぼつかない。
「すまない…玉葉、お願いがあるんだ」
「何?何でも言って頂戴」
「私の牀榻に行って、―ああ、牀の下に私の荷がまとめてあるから、それを持ってきてくれないか」
「勿論構わないけれど…」
「―頼む」
 この娘なら信頼に値する、そう陽子は思った。早く、一刻も早く手を打って気付かれぬように姿を消さなければまた追手の手を意識しなくてはならなくなる。ためらいながら、玉葉は陽子を支えていた手を離して言われたとおりに陽子の牀榻へと姿を消していった。
 薄く陽子は息を吐く。
―ここを出よう
 出る時が来たのだ。
 少々無理があるかもしれないが、もはや迷っている時間はない。荷をもらって、実はいつものように無理難題を言われて、手に入れなければならないものがあるから少しここを出ると言おう。そして、そのまま姿を消す。すぐに逃げ出せるように、陽子は荷の整理を常時するようにしている。誰にも言わずに姿を消すよりも、誰か一人にでもしばらく留守にするとでも言付けをしておけば、その分偽の行き先の方に手が回る。逃げ延びるだけの時間が増える。体をふらつかせながらも、陽子は自分の懐具合を確かめ、息をつく。
 待遇は途中から悪くなったが、もう大分金銭も貯めることが出来ていることは、確かだった。重い瞼を垂らして、陽子は腕に頭を埋め、暗闇の中一人思案にふける。
 それに…と陽子は手元に意識を集中し、服の上から重たい感触を抱きしめた。誰にも知られず陽子のもとに流れてきたそれを。
 また軽い足音がして、妙に返ってくるのが早いと思って陽子が目を開く。唇から掠れた声が漏れた。
「玉葉…?」
 振り返る陽子。だが、そこにいたのはあの黒髪の娘ではなかった。
 立っていたのは下働きの家生達、特に酷く陽子を蔑む内の者達だった。中心に立つ女の冷たい寒色の髪が見ていて目に寒い。陽子を見て冷ややかに笑みを浮かべていた。どうしたというのだろう。
 出来れば放っておいて欲しいというのが本音の陽子と裏腹に、その女は口を開く。
「やっと見つけたわ陽光…お嬢様がお呼びつけてらしたわよ?随分埃まみれだけれど、まさかそれでお嬢様にお会いするつもり?」
 そういうことか。陽子は何も言わずにその軍団を見据えたが、ふいと興味を無くしたように瞳を外した。
「ちょっと、聞いているの?!」
 気怠げな視線を投げてよこす陽子、だが突如として視界が激しくぶれ、織り交ざったいくつもの色線の撚り合わせになった。横から衝撃に突き倒されたと気がついた時には、彼女は砂を吹く地面と頬を合わせていた。柔らかな頬を石礫が傷つける。
 口の中に砂利の味がいっぱいに広がり、陽子は顔を顰めた。
「…!!」
 突き飛ばしたのはその中の男で、肩で息をしながら、頭上から陽子を見下ろす。
「生意気なんだよ、てめぇ。見ていて吐き気がするんだその面はよぉ…!地に頭を擦りつけてるのが新入りの定めだってことを忘れているみたいなんだが?」
 僅かな血と混ざり、鉄の味が染みた砂利を吐き出す。立ち上がろうとしたが、顎を捕まれ無理やり上を向かされ、逆光で影に染まった男の顔が目の前に広がった。前にも…前にもこんなことがあったような朧げなデジャヴが陽子の中を満たした。男はその陽子に言葉を落とす。
「お嬢様がお呼びになられてる。今すぐ俺達と共に来い」
 髪が根元から引き抜かれるような痛みに陽子はくぐもった声を漏らす。微かに意識が薄れるのを陽子は感じた。
 腕を掴まれて陽子は無理やり地面から引き剥がされた。

:::::



 陽子にまとめた荷を持ってくるように頼まれた玉葉は古びた回廊を一人駆けていた。
 回廊は奥に進むにつれて暗くまどろんだ闇に浸されている。響く足音は耳に木霊を残していく。
 玉葉はひたと遠くを見つめた。
 陽光。不思議な翠の目の少女、初めは少年かと思っていたが後になって女であると分かった時には、驚いたと同時に正直少しだけ落胆した。
 だが、実際に彼女が女であることを知るものはことの外少なく、何を思ったのか湯屋の娘遊蘭はその事実を自分からわざわざ明かそうとしなかった。まるでそうすることでわざと陽子をなぶることを楽しむ獣のように。
 過ぎった嫌な考えを頭から振り払い、玉葉は足を早めることに専念した。
 目的の陽子の牀榻を目指し、湿気た角を曲がった時玉葉の耳に誰かの話す声が聞こえてきた。
「ねぇ、お嬢様のお話って本当だと思う?」
「分からねぇな…お嬢様は御自身のお言葉はたとえ間違っていても‘真実’に無理にでも為さるお方だから…」
 二人の人間が話している。声の太さと高低差から男と女だろうか。ここで働くものに間違いは無いだろうが、その声は互い男女共押し殺した色を出していた。
 片方の女が恐怖で上ずった声を漏らす。
「でも、怖いわ!だって、紛れ込んだのは褐色の肌に赤い髪をした緑の目の逆賊なんでしょ?本当にここにいたら…」
 ピクリと玉葉の動きが止まった。男が吹き出して軽く女の肩を叩く音がする。
「大丈夫だ、心配しすぎだよ。第一それは女だって話じゃないか。そんな女なんてここにいないだろう?」
 大丈夫じゃ、ない。玉葉の顔から血の気が引いていく。まさか…いや、そんな筈ない。陽光のことを指している筈がない。
 でも、そう言い切れるだろうか?玉葉は頭の中で条件を恐る恐るなぞってみる。
 赤髪、緑の碧眼…陽光の瞳は新緑の深い澄んだ色をしている。日に焼けたなめらかな肌が美しいといつも感じていたのだ。

 髪‥自分は…一度でも彼女の髪の色を見たことがあっただろうか?

 顔から益々血の気が落ちていった。いつもきっちりと髪を麻布で覆っている彼女はその方が楽だからと笑う。だけど、それがもし囁かれている髪を隠すためだったら…?
「陽光…!」
 寒気が背筋を走った。押し出されかけた悲鳴を飲み込んで、玉葉はぽつりと見え始めた陽光の牀榻へ転がり込んだ。
 回廊と牀榻を隔てた段差につまづき、つんのめる。あ と思ったときには床に叩きつけられて体は板に弾かれていた。したたかに打ち付けた肌が痺れ、腹部から咳が漏れる。
 鈍い痛みから身を捩る。小さく床の上で丸まった。
 陽光…
 口の形だけでなぞる彼女の名は今となっては頼りなげだ。ひょっとしたらこの名だって、彼女自身の真実の名では無いのかもしれない。
(貴方は…貴方は一体何者なの…?)
 唇を噛み締め玉葉は視線を持ち上げる。床下からの隙間風が彼女を通り抜けて吹きだまった埃を巻き上げた。玉葉は顔を歪めて、首だけ動かして目を凝らす。

 牀の下には陽光が言った通り、小さくまとめられた荷が身を固くして玉葉を見つめていた。

 痛む腕をいっぱいに伸ばして、玉葉はそれを掴む。牀の下から引き摺り出された荷は、埃を纏いながら玉葉の元まで身を寄せる。
 本当に小さな荷だった。必要最低限あればそれでいい、そうぶっきらぼうに言った陽光の性格がそのまま形として現れたようだった。
 きっと嘘ばかりでは無いと思いたかった。自分はしがない家生だが陽子はそんな自分を大事にしてくれた。そこに嘘はきっと、きっと無かった筈なのだ。
 呼吸で濡れた下唇を強く噛んだ。床に腰を下ろした荷物を引き上げる時、玉葉の心の声に返答するように、緩んだ荷の合わせ目の隙間から何かが転がり落ちた。
 コロンと硬い音を響かせてそれは転々と床を跳ねる。
「何…これ…?」
 訝しげに拾い上げるとそれは立方体をした金の塊だった。うっすらと差し込んだ光を跳ね返し、淡く燐光を放つそれは肉厚だ。純金で作られているようでずしりと重さを持って玉葉の手に重さを預けている。
 不思議そうな顔をした玉葉がそれを裏返せば、僅かに朱がこびりついた面が鏡文字になって見上げていた。
(何かの…印かしら‥?)
 ―なんと書いてあるのだろう。早く行かなければと思いながらも、なぜかその印から目を離すことができない。厳しく筋を寄せ合った文字を眉根を寄せながら目で一文字一文字をなぞっていく。
 初めは彼女の眉根は中心に寄っていたままだった。最初は。
 だが、文字が頭の中で浮かび上がった時、ゆっくりと玉葉の瞳が開いていく。
 無意識のうちに震えて、力の抜けた指から印は再び転げ落ちた。

 落ちて身を横たえる印は空中に向かって笑う。

 床に転がったことさえも玉葉は気づかずにただ呆然と目を見開いていた。
 淀む埃が舞い散る中、こんな所に有ってはならない玉葉の足元に転がるそれは高らかに己を謳う。
 朱のはげ落ちた金の溝を光の筋が走り抜け、その存在の意味を投げかける四文字連なりが、玉葉の顔を覗き込んだ。

 景 王 御 璽 ―と。



back home next