オツベルと象 |
春の日差しは、柔らかくて暖かい。透き通った日差しの中で、新緑が萌え始めている。 そんな景色の中、有島邸の外壁によじ登る、僅かに青い顔をした桓魋が、下にいる浩瀚に向かって叫んだ。 「ほ、本当にやるのですか、浩瀚様!」 「やれ」 有島邸の正面口を訪れた時、そこには白樺伯爵からの使いの者たちが既にいた。有島夫人は扉を固く閉ざしたまま、決して彼らを邸宅の敷地に入れようとはしなかった。 それは浩瀚たちもまた然り。 彼らは今、屋敷の裏口に周り、あの子息の部屋のバルコニーが見える大きな木に移り、侵入を試みていた。 肩をすくめた桓魋は持ち前の身体能力を活かして、一気に外壁の頂点から、内部の木に飛び移る。 大きく枝がしなり、鳥が一気に鳴き声を上げて飛び立った。 その瞬間、防犯ベルが一気に鳴り響く。ふむ、やはりここからは無理か、と呟いた小さな声がした。 ポカンとする桓魋が、木の葉のあいだから、首を出す。眼下では涼しい顔で、浩瀚がさらりと微笑む。 「逃げるぞ、桓魋」 「はぁあ?!」 名探偵は鹿追帽を抑え、恐ろしい速さでかけ去っていく。ベルを叩く警報音が鳴り響くさなか、桓魋は叫んだ。 「ふざけんなよあんたぁあ!!」 わらわらと蟻の群れのように人の頭が駆け寄ってくる。桓魋は必死に飛び降り、殺気じみた表情で、既に点となっている浩瀚の後ろ姿を追った。 今日も長い一日が、騒々しさとともに、幕を開ける。 ::::: 足を踏み入れた空間は、先ほどとは程遠い、昼のかんかんとした強い日差しが差し込んでいた。桓魋は襟を直しながら、ジロリと浩瀚を睨めつける。 「まいどまいど身が持ちません。どうしてくれるんですか浩瀚様」 「お前が丈夫な奴で本当に良かったよ」 既に二人の服装は正装へと変わっている。白樺邸は、午後の時間を持て余すように、優雅な異国のクラシック音楽が流されていた。鈴は横で、そんな二人のことなど気にもせずに、爽やかなライムグリーンのドレスの裾を翻している。桓魋はため息をつく。 「それにしても昨日は晩餐会の後、ここで残って何をされていたんですか。あの後、あなた一人で梅林館の中をうろついていたでしょう」 「捜査の一環だ。この白樺邸は有島邸とよく似た構造をしている。洋館の造りが気になってな。気になる点をいくつか洗い出しておいた」 またお前か、そうため息をつくような声がして振り向けば、そこには白樺伯爵と、体を縮めている籠の姿があった。浩瀚がにやりと笑って、籠を指差した。彼の協力のおかげか、と桓魋は肩をすくめた。 「片しておくんだぞ」 「へ、へい」 白樺伯爵が後にする中、肩を落として、籠は落とした荷物を拾い始める。桓魋と鈴が、手伝おうと彼に駆け寄った。籠は浩瀚たちの姿に嬉しそうな表情をした。 「あ、探偵さんたちじゃないですか」 「舞踏会の時も仕事とはご苦労だな」 浩瀚の言葉に、籠は笑う。 「こういう時こそ俺の出番ですよ。怪しい奴がいたら片っ端からとっちめてやれますからね!」 「踊りたい、と思ったことはないのか?」 籠は、ふっと遠くを見るように目を眇めた。 「いやぁ俺には遠い世界だ。俺ぁ赤ん坊の頃、親に捨てられたところをこの白樺伯爵に拾われて、今日までやってきた。本当なら死んでたところを、助けられただけで、俺はもう満足してるんだ」 その時、あ、いけね。と籠は思わず口に手を当てる。 「昔っから俺は口の利き方がなってねぇって言われるんです。それで伯爵様からは何度も注意を受けるんですが、いかんせん治らねぇ。頭の方もあんまりよくねぇから、取り柄は腕っ節だけなんですよ。飯も馬鹿にならねぇくらい食うから、本当に置いてもらってありがてぇんです」 ぐっと腕を盛り上げる。確かに籠の体は筋肉がしっかりとついて、そこらの用心棒じゃ太刀打ちできなさそうだった。桓魋がウズウズとした様子で籠を見る。 「随分と体力はあるみたいだな。今度俺と武術の稽古の相手をしてくれ」 おう、と籠は朗らかに笑った。 「また用があったら言ってくれ。これでもこの屋敷の中には詳しいから。いつでも呼んでくれ、探偵さん!」 豪快に笑いながら、影の方へ籠は消えていった。浩瀚はそのたくましい背を目で追いながら、何やら思案するように顎に手を当てていた。 「どうですか、解決できそうですか。今日のことから、何か得られたことはありますか」 浩瀚は唸る。 「今日あの外壁から侵入したのは、外からの侵入者の可能性を確かめたかったからだ。あの状況では、厳しいな。ただでさえ、十年以上前の事件で、証拠はもうとうに雨風にさらされ、かき消されている。だけどその中で、確認できたことがあった」 桓魋は眉根を寄せる。浩瀚はうなった。 「やはり子息は…あの部屋から出ていないぞ」 げ、と桓魋は後ずさる。 「げ、現に消えているじゃないですか!それこそ怪奇現象だ」 浩瀚はため息をつく。 「落ち着け。私が言いたいのは、彼が自ら部屋を出ていないということ、そして鍵のかかった扉と、あのバルコニーは使用されていないということだ」 桓魋はほっと汗を拭う。浩瀚は白い顎に手を添え、唸るように言った。 「昨日の籠の協力のおかげで…可能性は…幾つか絞られた。殺人事件…失踪事件。だが、まだ…腑に落ちない部分がある。こういった場合はたいてい決定的に見落としていることがある。名前のない依頼人のことも、絞り込みたい」 トントン、と軍靴のつま先を揺らしながら、桓魋は目を閉じて呟いた。 「二人の人物から贈られた、同一の事件の招待状」 桓魋は、浩瀚に向き直る。 「一人は名前のない依頼人ときた。浩瀚様は、一体どちらの依頼を受けてらっしゃるのですか」 浩瀚は、何もこたえなかった。 桓魋は、何かを迷うような素振りを見せた。だが、彼が浩瀚に向かって口を開きかけたその時、彼らに向かって、美しい声が投げかけられた。 「こんにちは」 現れたのは、紺青の髪を結い上げた、美しい少女だった。鈴が嬉しそうな顔をし、桓魋が、お、と声をあげる。 「孫仲韃の娘、祥瓊ですわ」 透けるような紫の瞳をすがめ、瞳より淡い紫のドレスの裾を持ち上げた少女は、優雅に浩瀚にお辞儀をする。昨日仲良くなったの、と嬉しそうに笑う鈴に、浩瀚は目を丸くする。 「こんにちは、鈴。桓魋。やっと見つけたわ。今日はあの子も来ているのよ。ほら、昨日の晩餐会で出会った…」 祥瓊が、言葉を言い終える前だった。 ホールを横切り、目の前に現れた人物に、浩瀚の動きが止まった。 「恒魋…」 「はい、何でしょう」 だけど浩瀚の瞳は、恒魋ではなく、その人に向いていた。 「後で…白樺庭園の桜の木の下で会おう」 止める間もなく、浩瀚の背は、現れたその人に向かって、消えていく。 真紅の髪が翻る。瞳と同じ、青にも見えるほど深い翠のドレスが、日の光を柔らかに弾く。 令嬢中嶋陽子が、その場に現れた。 メイドの格好をした少女の方が、くすくすと少女に微笑む。 「みんな見てるわ。お嬢様、って呼んだ方が良いのかしら」 「やめてくれ蘭玉」 少女――――陽子は呻く。蘭玉はさみしげに微笑んだ。 「冗談よ、陽子。まさかあなたと…舞踏会に来れるなんて…思ってもみなかったから」 蘭玉の顔には、かすかに痛ましげな表情が浮かぶ。だが、陽子が声をあげようとした時には、蘭玉はもう、陽子に向かってくる紳士へと向けられていた。 (あの人は…名探偵の) ふっと蘭玉は浩瀚と陽子を見比べると、含みのある笑みを浮かべて去っていく。 「あ、おい!蘭玉!」 「じゃあね、陽子。せっかくの舞踏会、いい人と楽しんで!」 きょとんとする少女に向かって、声はかけられる。 「また会いましたね」 少女は振り向く。探偵は、再び出会った少女に向かって、手を差し出した。 「私と踊って、いただけませんか」 陽子の息が止まる。真っ白な手袋をはめた紳士が、跪いて自分の手を差し出している。 そこにいたのは青い瞳の王子様じゃない。漆黒が似合う、涼やかな瞳の、和風の顔立ち。王子様なんかよりもずっと目を引く――――誰もが憧れる名探偵。 「浩瀚…様」 和の世界と混ざり合う、きらびやかな宝石の世界。ドレスが急に鮮やかに見えて、目がくらむ。陽子は思わず息をのむ。 遠い昔、異国の絵本で憧れた―――舞踏会が始まろうとしていた。 ::::: 「やっぱり、また会ったね。名探偵浩瀚様。まさか…ここで会うとはね」 音楽が、鳴り響く。ホールには音が響き渡り、天井画の天使たちが震えている。陽子は浩瀚の手を取って、男女が踊り合う広間の中へとともに溶け込んでいく。浩瀚は陽子の髪を見て言った。 「綺麗な髪だ…」 少女は苦笑して、髪をかきあげる。飾られた真っ白なリボンや宝石が不本意そうに動く。 「…私は嫌いなんだけどな、この髪の色。こんなに飾られて…柄じゃない」 「あの友人の少女が、よほど力を入れたようだな」 桓魋から聞いたぞ、そう踊りながら浩瀚は耳元で囁く。 「君は、私が今回の依頼を受けていることを、なぜ知っている?」 浩瀚はつぶやいた。 「君は…何者なんだ。なぜ、私のところへ来た」 少女は、意味深に微笑んだ。さぁね、そういたずらっぽく言う少女から、浩瀚は目が離せなかった。 「私があの時あなたを訪れたのは…あなたに興味があるから」 あとは。 「有島家とうちはそれなりに関わりがあるんだ。私も幾つか気になることがある。有島家の子息…当時は私よりだいぶ年上の男の子。あの子には、いつも遊んでもらっていた。私だって…この事件を解決したい」 「ならば」 浩瀚の瞳が、鋭く光った。 「手伝ってくれ」 陽子はふっと微笑んだ。少女は男に手を引かれるまま、円を描くように鮮やかなドレスを翻した。 「ねぇ浩瀚様。あなたは、説明できない―――不思議な事柄は、存在すると思う?」 浩瀚は片眉を跳ね上げた。非論理的だ。 「認められんな…。私はあいにく、そういったことは信じない本分でね」 馬鹿馬鹿しい。 「解き明かせないことなど、この世に存在するはずがないだろう」 陽子の瞳にいたずらっぽい光が浮かぶ。そうかな。 「世の中には…解き明かせないことのほうが、まだまだたくさんあると思うけどな」 陽子はふっと微笑んだ。気をつけて。そう少女の囁く声が、耳元でする。 浩瀚の息が止まる。眉根を寄せた彼は咄嗟に陽子を見つめた。 陽子は周りに悟られぬよう、その顔には舞踏会を楽しんでいる娘の表情をしていた。唇だけが、羽のように素早く動く。 「不思議な事柄を信じないというのなら…それでもいい。だけど見つけ出して。真実を。それがあなたの武器だから。あなたはもうその鱗片をかき集めているはず。どうかその頭脳で…答えまでたどり着いて」 それだけで、救われる人が、たくさんいるから。 ただ、悲しげに微笑んだ。浩瀚は陽子を見て呟く。 「本当に…不思議な人だ」 バイオリンの音色にハープの音色、美しい楽器の音がより合わさって、聞いたこともない美しい世界を演出する。音に合わせて、男の手を取る女人たちは、色鮮やかな天女のような、軽やかなドレスという異国の衣をまとって回る。 風に吹かれた花が踊るように。一斉に、ドレスの裾が真紅のカーペットの上で螺旋を描く。陽子は引き寄せるように、浩瀚の首に、しなやかな腕を回した。 だけどその中で一人、浮かぬ顔をする男がいた。 桓魋の複雑そうな瞳には、普段鹿追帽を被り、事件を追いかける探偵が、燕尾服を纏い踊っている。 彼が、浩瀚をなんとも言えない厳しい表情で見つめていることなど、誰も気がつくこともなかった。 舞踏会は続いていく。 一人壁際へと離れた時だった。タバコに火を点けようとしたその時、背後から走った気配に、軍人は咄嗟に振り返る。そこにいたのは、スーツに身を包んだ、ひとりの老爺だった。 「青辛 桓魋様ですね」 老爺の目は、どこか強い色を帯びていた。 「何か、助手をされている探偵様に、ご不満でもお有りですかな」 桓魋は何も応えず、ジロリと老爺を睨んだ。にっと嗤う。 「どうぞこちらへ。私はある方の使いのもの。お話したいことがございます」 「…何を目論んでいるのかは知らないが、断る」 「何か…浩瀚様が見落としている手がかりがあるかもしれないのに?」 どこか下卑た笑みを浮かべてみせた。 「あの方は…皆が思うような方ではありませんよ。修羅…修羅…修羅…その言葉の本当の意味。冗談の裏で…あんたがそれを一番疑っているくせに」 恒魋は、雷に打たれたような表情をした。どうぞ、こちらへ。その言葉に引かれるまま。桓魋は――――老爺に続いて、足を進めた。 ::::: 昨晩のことが、何度も、何度も、繰り返し頭をよぎる。 桓魋は一人難しい顔をしながら、まだ火を点けていないタバコの吸い口を噛み潰し、上下させて歩いていた。 さっきから、繰り返されるあの時のことは、いつも自分の間の抜けた声から始まる。 『…嘘だ』 昨晩の晩餐会のさなか、桓魋を呼び出した、軍部の長官。 『あの西南の洋館連続殺人事件があれで本当に終わったと思っているとは、お前もおめでたい奴だな、桓魋。腕っ節だけ。だから半獣は扱いに困る』 桓魋は呆然としていた。先程告げられた内容を反駁するには、桓魋は話された内容に、衝撃を受けすぎていた。 『あの探偵は…怪しい。そもそも探偵なんていうのも、本当はインチキなんじゃないのか。あいつの行くところ行くところで事件が起きる。事件解決のため、というのはただの方便で、あいつこそが…事件を起こしている張本人じゃないのか』 寝耳に水、とはこのことを言うのか。続く言葉を言われた桓魋はまるで冷水を被ったような心地になった。 『修羅…その言葉は―――巷で囁かれているような…正義の味方として、使われていい言葉じゃない』 あの件に関して、警察の方は既に動き始めた、逮捕の準備は整いつつある、そう呟く上官の声に、桓魋は息が止まったのを感じた。 『あいつから、片時も目を離すんじゃないぞ』 春の甘い風が吹く。 かの人は、もう既に待ち合わせ場所としていた桜の木の下にいた。 舞踏会も終わり、人々は徐々に消えていく。そんな中、夕暮れの白樺邸の庭園の中でも、もう満開の盛りを越え、花を落とし始めた桜の木の下で、桓魋と浩瀚はタバコと煙管をふかす。白樺伯爵に、今回の事件の説明をするために、二人の格好は、既に常時のものに変わっていた。 「お早いですね、浩瀚様」 足元には、もう枝から離れた桜の花びらが絨毯のように散っていた。歩けば軍靴が風を落とし、花びらを巻き上げる。軍靴と桜の花。どうにも噛み合わない組み合わせだ、と何の感慨もなく思った。鹿追帽をかぶり直しながら、浩瀚が言う。 「浮かない顔をしているな、桓魋。まだ今朝のことを根に持っているのか」 そうじゃありませんよ、と桓魋はため息をつく。 「この事件のことじゃありません。実は昨日の夜遅く…上から命令が下りました。今はあなたに関する、他の事件のことが、頭から離れないんです。あなたが不自然なまでにこだわっている―――あの西南の洋館での連続殺人事件…修羅の事件です」 浩瀚は何も応えなかった。視線をそらす。 「今、その話をして何になる。まだ私の見解は聞かせられないぞ」 桓魋はため息を落とした。 「…あなたは、そう言うと思いましたよ。いいんですか。先程、俺が老人から話しかけられていたのを、あなたはご存知のはずです。なんだったのか知りたいですか」 「多方検討はついている」 「でしょうね…その男…ある方の使い、とか言って、俺に接触してきました」 桓魋はタバコに火を点ける。口に含んだ煙を、上向いて気だるげに吹き上げた。 「その男、俺を買収しようとしてきましたよ。今回の事件の手がかりがあるかもしれない、とか言って俺を誘って、最終的には別室で、浩瀚様を裏切って殺すか、あなたが今手がけている全ての事件から手を引かせろ、と脅してきました。あなたもつくづく敵が多い」 「お前はそれを蹴ったんだろう」 「さぁね」 あなたには、色々と聞きたいことがあるんです。そう言った桓魋は、指先で挟んでいたタバコを落とし、軍靴の踵ですりつぶす。焦げた土と花びらの匂いが、ジュッと鼻先をかすめた。 煙とともに顔を上げた桓魋に、表情はなかった。 「…貴方は有能だ。だから…はぐらかしながら、まだわからないと言いながら、あなたは…本当はもうあの西南の連続殺人事件の真相を知っている、違いますか」 恒魋は振り仰ぐ。 「修羅…。そもそもその呼び名は、浩瀚様が対応されていた、あの、洋館が立ち並ぶ西南の連続殺人事件から派生したものです。俺たちや警察がもう終わりにしても、あなたが終わりとしないあの事件。この事件を受け持つ前から、あれだけこだわっている、あの事件。そして確かに捜査は打ち切りで、事件は終わっています」 巷では、鈴が言った通り、犯人たちは全員失踪したとされている。だけど、先日上官から伝えられた内容は、恒魋が知るものとは違った。 それは、そう呟く恒魋の瞳が、暗く翳った。 「候補に挙がっていた、被疑者全員の死亡が確認されたからだったのですね」 整理するように、要点を繰り返した恒魋は、苦い表情を浮かべる。はじめは皆、事故死だと整理されていた。だけど消えたと言われた被疑者たちは。彼らは、後日、全員が斬り殺されているのが発見されたのだ。浩瀚の供述の下。 だから、この連続殺人事件は、被疑者死亡として幕を閉じているのだ。ただ、浩瀚の持ちの事件から、修羅によって行われた別の殺人事件として切り替わっただけで。 修羅はいまだ、捕まらない。 「それを、修羅の呪いと人は今囁いているのです。事件の鍵を掴んでいるのは、浩瀚様だけですが、如何せん誰が修羅なのか、その答えは警察の前に示されていないまま」 恒魋は静かに浩瀚を見据える。浩瀚は静かに恒魋から顔を逸らした。浩瀚はその視線を受けながら、何も言葉を返さなかった。 刹那、二人の視線が、交錯する。 修羅。 汗が一筋、背中を伝う。恒魋は痛いほどに唇をかみしめた。怪奇現象などではない。あの時は自分も深く考えず、噂としてしか捉えていなかった。よく考えてみたら、鈴の言う通り、初めは消えたと思われていた犯人たちの行く末を知っていたのは、ただ一人浩瀚だけなのだ。浩瀚の行くところ行くところで、事件が起こる。 こんなことがあるだろうか。探偵という名の下に、不自然な動向を繰り返す男。 そしてついに警察は、浩瀚を星(しゅら)ではないかと調べを進め始めた。 だから容疑が確定するまで、桓魋は浩瀚の動向を探れという命令が、昨晩軍から下った時、彼は雷に打たれたような気持ちになった。もしこの人が修羅だったのならば、自分は彼を捕らえなくてはならないのだ。 桓魋はうつむく。言葉に出せない、この緊張感は、何なんだ。 「浩瀚様、どういうことなのですか」 瞳の奥では、軍人としての気性がちらちらと焦げている。 「本当は、俺の態度の理由には気がつかれているはずです。あの事件の最中、首都の方へ出ていた俺は、事件の詳細も知らず…能天気に、鈴たちが噂する修羅なんて、冗談だとばかり思っていた。なんでもない事件だとばかり思っていたんです。それなのに何故、あなたがあの事件の犯人たちを殺した、連続殺人鬼、修羅として本格的に取り扱われているのですか。あの事件の犯人が言えないのですか、浩瀚様。みんなあなたを連続殺人犯じゃないかと疑い始めているのです」 ようやく、無表情な浩瀚の唇が割れた。漏れた声は、どこか戸惑うような、声だった。 「説明が…できんのだ」 だけど、信じてくれ。 「正直あの事件に触れるたび、俺は自分がおかしくなったんじゃないかと‥気が狂いそうだった。たったひとつだけ…気がついたんだ。修羅の事件…それを解決するためには、この事件を解決しなくてはならないということに」 恒魋の表情は訳が分からない、とでも言いたげに曇る。浩瀚の顔に、ふっと表情に、切なそうな色が出た。 「もうすぐ…すべてがはっきりと繋がりそうなんだ。この事件が終わったら…私なりにちゃんと説明する。本当に…言ってもお前たちは信じないだろうし…私も今の段階では、信じられないのだ」 浩瀚は視線を落とす。 「笑ってしまうだろう…私でも、私が導き出した答えがあっているか、わからんのだ。自分で自分が信用できないほどに」 強い風が吹く。恒魋の前髪が揺れる。 「あなたはもう…本当の修羅が誰なのか、わかっているのですね。そしてそれは、今回の事件にも深く関わってくる…違いますか」 浩瀚はうつむく。ふっと自嘲気味に、彼はわらった。 「死人の‥輪舞か。あながち、彼が言った言葉も間違いではないのかもしれない」 呟いた言葉の意味は、桓魋にはわからない。なぁ恒魋、そう友の名を呼ぶ男の声は、ひょうひょうとした風に吹かれた。 「たとえば…もし、私が修羅だったとしても。お前はついてきてくれるか」 軍人の外套がはためく。長い時間が経ったような錯覚に陥る。地面で踏み散らかされた花びらが吹き上がった時、桓魋はようやくため息をついた。 「…いいでしょう。ただ」 「ただ?」 「覚えておいてください。もしそうだったら。その途中に、俺があなたを独房にぶち込む過程は避けられませんからね」 ふっと浩瀚の口元の弧が長く伸びる。そんな男を見つめながら、恒魋は続ける。 「それでも思ったよりも、人生は長い」 軍帽のつばを男は持ち上げる。影の落ちた瞳には、小さな一点の光があった。 「狂ったあなたに…地獄の果てまでお付き合いするのも、悪くないかもしれませんね」 浩瀚は、ほっとしたように、はじめて声をあげて笑った。 空はとっぷりと暮れ始めていた。その時、そばの茂みで、ガサリという音が響き渡った。浩瀚の瞳が、そちらの方を向く。 「もういいですよ。話は終わりました。…いるんでしょう。出てきてください」 桓魋は驚いて、そちらの方を振り向く。 現れたのは、あの青年にさしかかろうとしている、書生姿の少年だった。黒髪を簡素に束ね、瞳は理知的な光を帯びている。聡明そうな優しい顔立ちをした、美少年だった。 「この人は…一体」 「この方は…名前のない依頼人…その人だ」 桓魋は驚いて少年をまじまじと見る。賢そうな彼は、すぐに浩瀚に向かって、畳まれた白い手紙を渡した。それを受け取って目を通した浩瀚は、少年に頷く。 「あなたのおかげです。これで…全てがつながりました」 少年は、堰を切ったように話し始める。 「浩瀚様、助けてください」 訳がわからないまま、桓魋は眉根を寄せる。少年は必死に続ける。 「奴に気づかれました。何もかも。事態は…一刻を争うものになりそうです。あの人が…危ない!」 桓魋は目をしばたく。訳がわからない。この事件を解決するために、これまで見てきたものが、目の前を流れていく。 巷を流れる修羅の噂。 和洋折衷の喪服で死者を悼む夫人。 隠された夫人の夫、有島の死。 春を湛えた瞳の少女。 銀河鉄道に例えられた謎とカムパネルラ。 バルコニーと、傷んだ暖炉。 殺された子供と幽霊。 二人の人物からの、同一の事件への招待状。 一気に頭の中を、駆け巡る。一体どこで、何が、つながるんだ。愕然としたまま固まる桓魋は、苦しそうに聞いた。 「どういうことですか、浩瀚様」 「…この事件は初めから…何もかもが仕組まれていたんだ」 浩瀚は桓魋を振り返る。 「このままでは、ことは一刻を争うようだ。この事件、このまま解決が遅れると、死人が出る!」 「で…ですが、事件が起こったのはもう十年も前、とっくに終結した事件のはずじゃ…」 「違う!!過去のことじゃないんだ!!終わったことでもないんだ!!今、ここで!!!事件は起こっているんだ!!!」 訳が分からず桓魋の動きは硬直する。屋敷に向かいながら、説明する、そう言った探偵は鹿追帽を深く被りなおす。浩瀚の表情は鋭い。 「気を引き締めろ桓魋!」 とんび〈二重外套〉を翻す探偵の瞳は、鋭く光っていた。 「この事件…今はもう、人一人の命がかかっている!!」 ::::: 舞踏会は終わり、招待客たちは白樺邸から、徐々に捌けていく、 だけど。 陽子は既に召し物を変えていた。矢羽根の小袖に紫の行灯袴(あんどんばかま)。黒光りするブーツで洋館を闊歩する。 女学生は書生姿の少年を思い出しながら、ふっと口元の弧を伸ばす。 「十年前の事件と追いかけっこ。春を闊歩していく修羅の噂。桜過ぎ行く、春と修羅」 少女はうんと伸びをする。 「春と修羅…ねぇ」 瞳に春を湛えた娘はとんとんと黒光りする革のブーツのつま先でリズムを取る。頭に流れているのは、ベートーヴェンの第九だ。 目を閉じた陽子は、先程までともに踊っていた男を思う。自分と彼が出会ったことには、何の意味があるのだろう。運命なんていう言葉を信じるのには、いささかもう年を重ねすぎた気がしたが、それでもふと浮かんだ言葉に陽子は思わず微笑んだ。 (あなたと会えた…運命) 彼に手を貸そう。あの人は、この事件から全てにつながる真実を、知らなくてはならない。そして自分も、まさにこの事件を解決しなくてはならないのだから。 目が眇められて、まるでその会場にいる〝星〟をあぶり出すように周囲を見渡す。まだ会場には、たくさんの人間がいた。音楽がなり止む。随分とうまく隠れたその人物に、少女は思わず自嘲するような笑みを零す。反吐が出そうだ。 「…あはっ」 十年前の事件にかこつけて。 この屋敷には、修羅がいる。 瞳を引き上げた時には、少女はもう笑ってはいなかった。 |