氷と後光

 ノックの音がして、白樺伯爵は振り返る。
 入口にいたのは、着物に着替えた鈴と、令嬢祥瓊、そして―――浩瀚だった。
「浩瀚様…!」
 その場には、浩瀚たちを除けば、何人かの使用人と白樺伯爵がいた。浩瀚は、カツカツと革靴の音を響かせながら、部屋の中央へと足を進めた。
「事件の真相をお伝えしましょう」
 白樺伯爵は身を乗り出す。
「わかったのですか…?!」
 えぇ、と浩瀚は涼やかに微笑む。
「あなたはこの事件を殺人事件だ、と仰っていましたね」
 探偵の、口にくわえた煙管からは煙がくゆる。だけど、違ったんです。そう言った浩瀚の瞳は、鹿追帽の影で光る。
「この事件は本当はただの子どもの家出失踪事件でも、殺人事件でもない。その実質は誘拐、監禁事件だ。―――今に続くな」

 答え合わせをしましょう。そう言った浩瀚は、にこりと笑む。

「どういうことです…?じゃあ私が見たものは…!」
 白樺伯爵は、うろたえたように唇を噛む。それを手で制しながら、浩瀚は続ける。
「この事件の本質は、身代金目当ての誘拐事件だ。まずは、殺人、失踪云々以前に。どうやって実質的に密室だった部屋から、有島家のご子息が消えたのか。そこから始めましょう」
「バルコニーには、血痕がついていたのではないのですか?そこからの足取りが全くわからなかった、と私は聞いていますが…」
 白樺伯爵の声に、あぁ、と浩瀚は足を止める。
「実は…有島家に訪れたあの日。私はあの手すりにわずかに残っていた血痕のついた木片を持ち帰っておいたのです。私が独自に調べた結果、わかったのはそれは猪の血だということ。血痕…それは警察の捜査を混乱させるダミー…フェイクでしかない。あそこから、子息は連れ去られたように見せるためのね。その実、彼を連れ出すために使われたのは別の場所だ」
 歌うように、浩瀚は続ける。
「使われた形跡のない高い位置にあるバルコニー。バルコニーのそばの木を伝った形跡もなく、固く閉ざされたままの、開けられた形跡のない扉。考えられる全ての経路は、とても子供を連れた大の大人が突破できるものではなかった。恒魋でも無理だったんだ。いっぱしの人間など限りなく不可能。ならば…論理的に不可能なら、これは本当に怪奇現象で、あなたが言う通り、何かの呪いに子息は殺されたのか」
 違う。そう浩瀚は言い切る。
「…もう子息が部屋から抜け出るのに可能な場所がないというのなら。それはまだ、見落としている出入り口があるということだ。そして部屋の外に出た形跡がないのなら、答えはただ一つ。彼は扉もバルコニーも使わず、すでに部屋の中にある通路を使って消えた、そうとしか考えられません」
 浩瀚はぐるぐると部屋の中を歩き回りながら、その場にいる人々を見渡す。
「それは…暖炉だ。先日、もうひとりの有島家の子息の方の協力を元に、あの邸宅の、ご子息のお部屋の暖炉が壊され、その奥から大の大人が通れる程の大きさの、隠し通路が作られていたことが明らかにされました。犯人は、子息を誘拐するために、その経路を人知れず地下から作り上げていた。あの打ち付けられた板は、事件の後それを知ったご主人が、犯人が再びこの家に入れぬように打ち付けた、犯人とこの家を繋ぐ通路を塞いだ跡だったんだ」
 初めて暖炉を見たあの時、浩瀚は隙間から石を投げ込んだ。跳ねた石の響く音は、遥か下で響き渡った。暖炉の下に穴が開けられ、通路が作られていることは、音を聞くだけで瞭然としたことだった。ふるふると白樺は頭を振る。
「わからない…ではなぜ、それを有島夫人は言わなかったんだ!あの人は一体、何を考えているんだ…!」
 浩瀚は気だるげに煙管を回す。
「至極当然なことだと思いますよ。あのご夫人は外から監視されている。見える位置にいるときは、特に。―――もうずっと。下手なことは口には出せないからです」
「じゃあ、坊ちゃんは今どこに?坊ちゃんは、生きていると…いうのですか」
 はい、私の推察が正しければ。そう浩瀚はにこりと微笑む。
「今はもう立派な成人の男性となっているはずです。そして彼は今では、自分が有島家の子息だということさえも知らないでしょう。だって彼が生きて犯人の手元にいなければ…犯人はこの十三年間、有島家から蛭のように身代金を吸い取り続けることなど不可能なのですから」
 浩瀚の横では、鈴と祥瓊が厳しい表情でこの部屋にいる全員を睨んでいた。
「あなたは…もう犯人が、わかっているのですか」
 えぇ、と探偵は鹿追帽を深くかぶる。
「ですが、きちんとそれを明かす前に…私の推理と、この事件の詳細をもう少し整理させてくださいな、白樺候」
 ふむ、と腕を組みながら白樺は唸る。
「確かにそうですな。確かにあなたの推理は聞いていて納得がいくが、ただいくつか納得がいかないことがあって、聞きたいこともありますからな」
 そう言いながら、白樺は顎を揉む。
「犯人は人質とした坊ちゃんを、手元に置き続けている、と言いましたね。それは犯人は坊ちゃんを、十三年間も鎖でつないで…どこかに監禁しているということですか?」
 いいえ、そういいながら、浩瀚は窓ガラスの傍へと歩いていく。窓ガラス越しの外の景色はもう深い闇に落ち、目を凝らしても何も見えない。代わりに鏡のように、部屋の内側の景色をガラスにはじき出していた。
 ガラスに写った浩瀚は顔を歪める。彼は頭を振った。
「私の言う監禁というのは、体の自由を奪うことではない。犯人は実にうまく、手元に置いて人質としながら、さらった子息を利用しています。今でもね。監禁もされていない御子息が有島家に戻らない理由。それは―――記憶を失っているからです。そして、マインドコントロールをされている。以前私が犯人と接触した時に、甘い香りがしました。私の記憶違いでなければ、あれはダチュラと呼ばれる印の有毒植物から採られる麝香の一種です。配合を変え、強く焚けば、意識障害を引き起こすことができる。犯人は攫った子息にそれを使った。そして、記憶障害を起こさせ、一から彼を手元においておけるよう洗脳した」
 卑劣な手法です、そう言う浩瀚の表情は静かながら、瞳は氷のように燃えていた。
「私はこの事件に関して、二人の人物からの依頼を受けました」
 そう言いながら、男は振り仰ぐ。
「一人は私の所に直接訪れた。そしてもう一人は、郵便受にたった一枚入っていた、真っ白な便箋に依頼をしたためました。ひとりはあなた、そしてもうひとりは、名前のない依頼人」
「名前のない依頼人…?そんなの、正式な依頼人として成立しないのでは…」
 白樺の言葉に、普通ならそうでしょうね、そう浩瀚は唸るように言う。
「ですが、私にとってはそうでもないのです。大事なのは…その内容。面白いか、どうか。だってそれは…どちらも事件に絡みがある、立場の違う人間からの、同一の事件への招待状だったのだから」
 白樺伯爵は不審そうに眉根を寄せる。
「彼が名前を残せなかったのは、自分の存在を犯人に知られるわけにはいかなかったからだ。その時犯人は私に接触している。私の元に直接顔を出すわけにもいかず、かと言って依頼状に名前を残すわけにもいかず。それでも彼は必死に、私にこの事件の解決を依頼したのです」
 翳る視線は、記憶の中の春を見据える。
 二人の人物から送られた、同一の事件への招待状。
 桓魋の声が、蘇る。

『浩瀚様は、一体どちらの依頼としてお受けしているのですか』

 かたやひとりは、次世代の事業の担い手。かたやひとりは、素性さえもわからない名前もない依頼人。
 決めたのは、最後の一文からだけだ。

 バクシュウコウ コウカンサマ ドウカ、ドウカ、タスケテクダサイ

 便箋に打ち込まれた無機質なタイプの中に、浩瀚は声に出せない悲鳴を見たのだ。
「名前のない依頼人は、有島家に関係ある、ある人物でした。あのご夫人は本当に立派な方だった。自らの腹を痛めて産んだ息子でなくても。彼女はずっと母親として、前妻と有島の子どもを守り続けていたんだ」
鏡のように部屋を映し出す窓ガラスに、浩瀚はそっと手を添える。
「確かに悪名名高い有島家には様々な問題がありました。有島本人は様々な悪行をやってのけている。それに変わりはないでしょう。そして、その破天荒な男は様々な家庭問題をも引き起こしていた。前の妻は子を残して出ていき、あのご夫人は有島の後妻として有島家に入ったのです」
 何か思うところがあるように、彼は目を閉じた。
「狼藉ばかりを働く有島、そして男は病を患っていた。彼女の実家は娘に有島に嫁ぐことを許さなかったが、もう既に彼女は妊娠していた。彼女の両親は激怒し、夫人を勘当。生まれた子供も彼女の手から取り上げてしまった。それが…今回依頼してきた名前のない依頼人。消えた子息の、腹違いの弟さんだったのです」
 浩瀚は振り返る。部屋の中にいる全員を見渡した。浩瀚はとんびを翻し、部屋の中央へと足を進める。
「有島家の当主はついに、最近になって亡くなられた。彼女が外界の一切と連絡を絶ったのは、主人が、鬼籍に入ってしまったことを、なんとしてでも犯人にだけは、知られるわけにはいかなかった」
 探偵は、くわえていた煙管をテーブルに置く。ゆらりと溶け出る煙を目で追いながら、男は呟いた。
「身元を掴まれている息子が、生かされている意味がなくなる。もう身代金を送れない、それを犯人知られてしまったら、かならず息子は殺されるから」
 鈴はうつむいてぐっと着物の裾を握りしめていた。祥瓊は厳しい表情で、浩瀚を見つめている。浩瀚は続ける。
「だがいつか限界は訪れる。私たちが訪れた時にはもう。隠し通すのも、もうぎりぎりだった。だからこそ。あのご夫人は、わざと私に言外に主人の死を伝えたのだ。いくら主人の死を取り繕ろっても、それもきっと長くはもたないから」
 ふっと探偵は息を吐く。そして顔を上げたとき、男の言葉は静かにその場に響いた。
「私は最初、彼女は私たちに夫の死を知られないようにするために、私たちに会ったと思っていた。だけど、真相は逆だったんだ。彼女は賭けたのだ。私が秘密を善人の面をした犯人に伝えないことに。彼女は知っていたんだ。真の探偵ならば口は固い、すべての可能性を考慮にいれ、秘密はただ探偵が謎を解くための鍵としかなりえないことを。このままでは遠からず息子の命が危険にさらされる。秘密を周囲に暴露される危険を冒してでも、最後の機会に、彼女は賭けるしか、なかったんだ」
 思い出す。あの時浩瀚は、婦人の瞳の奥に揺らぐ、涙のような光を見た。
「助けて、と」
 そして名前のない依頼人として依頼状を送ったのは、彼女の実の息子。夫の子供を、腹違いの兄を救うため、彼らは必死になって、助けを求めた。
 浩瀚は彼に似合わず、にっこりと人好きのする、女が溶けるような微笑みを浮かべた。
「そして…話は皆さんが最も気になっている、肝心の犯人に移ります。おもしろいご報告があります」
探偵は言う。
「こちらのお屋敷も、有島家とよく似た構造になっていましたので、誠に勝手ながら、お二方の依頼遂行のため、すみずみまで調べさせていただきました。特に…暖炉のあたりをね」
 だけど――――吐かれる声は、針のように鋭い。
 そして昨晩。浩瀚は籠と夕暉の協力のもと、この白樺邸をくまなく調べた。
 白樺邸の書斎の暖炉から見つけた隠し通路。浩瀚と共に忍び込んだ夕暉がそこを通って進めば。
「そこから続いていた隠し通路から、地下道に行き当たり、そこから更に有島邸の暖炉へと続いているのを、確認させていただきました。犯人は私に事件についての依頼をし、殺人事件として話を進め、捜査をかく乱しようとしてきたのです」
 誰も、何も言わなかった。浩瀚の瞳が燃える。雪のような白い肌は、怒りで赤く震えていた。

「…犯人はお前だ。依頼人、白樺憲一郎」

 懐から、名前のない依頼人からの依頼状を取り出す。白樺の瞳には、真っ白な封筒が映し出されていた。

「二つの依頼は…事件の加害者と被害者からの招待状だったんだ」

 白樺はよろめく。テーブルに手をついて、男は振り仰ぐ。鈴が叫んだ。
「観念しなさい!もうあんたのことは警察に通報済みよ!」
「今逃げようとしても無駄よ。私のうちから人を寄越している。陽子が駆け回ってくれているわ。この屋敷の周りは、既に包囲網で固められているわ」
 鈴と祥瓊の言葉に、白樺はクックッと肩を揺らして不気味に嗤う。
「…してやられたな。まさか本当に…十三年前の真実にたどり着くとはな」
「お前の動きは全部筒抜けだ。それにしても、くだらんデマを吹き込んでくれたな。何が子息の亡霊だ。そんなことを私が信じると思ったか」
「よく気がついたな。さすがというべきか、浩瀚。噂にも踊らされなかったか」
 浩瀚は顎を煽る。

「…私は自分の目で確認し――論証されたことしか信用しない」

 探偵としての基本だよ。
 浩瀚の言葉に、白樺は顎をさする。
「いつ気がついた?」
「決定的だったのは…お前が川に流されていく子息の姿を見たと言った時だ」
 浩瀚の脳裏に、今年のある光景が浮かぶ。季節はずれの四月の雪が生んだ奇跡、雪桜。今年の春は、季節はずれの雪がふった。そしてそれは、十三年前にも起きていたことだった。
「この時期は春でも、時折雪がちらつくこともある。一度暖かくなり、桜が芽吹いてから、再び気温が落ちて、冬に逆戻りの寒さが訪れた時にだけ見ることが出来る光景。今年それが起きたが、十三年前その時も、その珍しい光景が国中で見られたことが話題になっていた。桜の中で雪が舞うほど気温が落ちた時、水温は氷のようになっていたはずだ。そんな激流の氷水に流されている人間の体…ましてや死体の傷口から、お前が言うように血液があふれるはずがないだろう」
「…恐れ入ったよ。さすがだな、浩瀚…」
 口元の片側が引き攣れたように歪む。
「皮肉だな。お前が―――これ程有能でなければ…こんなことにはならなかったのにな」
 浩瀚は短く鼻を鳴らす。理知的な瞳は、鋭く光っていた。
「お前…他にも事件に関わっているな。お前の警察に知られていない余罪も…すべて炙りだした。名前のない、依頼人…彼の腹違いの弟の協力の下な。今になって私に手を出したのは、私がお前の関わった事件の捜査を始めたからだ。自分にまで行き着かれる前に、この事件を餌として引き合いに出し、お前は私に捜査を依頼した」
 何が修羅だ。何が贖罪だ。白々しい。

「お前が私を探偵としてここに呼び出したのは…最初から私を殺すつもりだったからだ」

 白樺の目は糸のように細まる。鈴が叫んだ。
「動かないで!あんたをここから逃すわけにはいかないわ!」
 おやおやと白樺は肩をすくめる。
「威勢のいいお嬢さんだ。だけど…いいのですかな?私のことばかりかまっていて。あなたたちがこうしているあいだに…肝心の彼の生死は…間に合うかな?」
 浩瀚の表情は厳しい。鈴や祥瓊は、はっとして振り返る。深い闇に呑まれていた景色にぱっと鮮やかな灯りがともる。いや、灯りなどではなかった。窓ガラス越しに見える、庭の片隅では、粗末な小屋が墨となり、脆く焼け落ちていく光景が広がっていた。
 にやにやと笑いながら、白樺は肩を揺らす。
「火が上がったぞ!さぁ…あそこにいるのは、誰かな?」
 白樺の言葉の意味を察した二人の少女は、悲鳴をあげる。浩瀚の表情は変わらない。
「もうこの国は変わった。これからは西洋に取り入らねば。強いものこそ、生き残る世の中なのだから。邪魔なものは消えてもらう」
白樺はでっぷりとした胸を仰け反らせ、甲高く嗤う。

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 桓魋は必死で駆けていた。
桓魋の脳裏に、浩瀚の声が蘇る。
『こちら有島家の、もう一人のご子息の方だ。失踪された子息の弟さんだ』
 賢そうな瞳が、まっすぐに桓魋を見つめている。その意志の強そうな瞳の輝きを、桓魋はどこかで見た気がした。
『夕暉といいます』
『幼いころから、祖父母に育てられて大きくなりました。ある時、僕は自分に両親がいること、そして腹違いの兄がいることを知りました。僕は有島家の敷居を堂々と跨げなかったけれど。兄はいつも抜け出して、僕とずっと遊んでくれました。僕を自慢の弟だと、言ってくれました』
『兄は、僕のことを…本来の記憶をなくしています。あなたたちももう会っているあの人です。どうか、どうか兄を助けてください』
 そう話す彼の声を聞きながら。物静かな彼と対照的な、人の良さそうで、豪快で明るい笑顔が彼の脳裏を焼く。
彼は悟った。事件の本質を。誰が今危険のさなかにいるのかを。

 このままでは、籠が殺されることを。

 視界の端では既に、金色の業火が閃いている。煙は、死にゆく人の魂を天へと還すように伸びていく。粗末な小屋にかけられた火は、着々と大きさを増していく。
 桓魋は吠えた。


 籠は、粗末な小屋の中、自分の寝床に倒れるように横になったまま、動けないままでいた。あの人に呼ばれたから、ここまで来たのだが、充満していた不思議な香りに、頭がしびれたようになって、急に体が動かなくなったのだ。くらくらとして、黒い煙が室内に満ちていく。逃げることさえ脳裏に浮かばず、彼の頭にはぼんやりと、先程の浩瀚の声だけが木霊していた。

 わからない。

 それでも浩瀚の声は、彼の耳について離れない。先程の舞踏会が終わった直後、彼は籠の元に来て、そのたくましい肩を掴んで、こう言った。
『君の名前は、籠なんかじゃない』
 浩瀚の鋭く燃えた、苛烈な瞳が、彼を貫く。

『虎嘯だ』

 それは、誰の名前なのだろう。有島家の失踪した子息の名だと言われても、彼にはまったく何の感慨も沸かなかった。
 つい昨日、再び数年ぶりに浩瀚と共に現れた、自分を兄と呼ぶ不思議な少年。調べたいことがある、そういう彼らに、ついつい手を貸してしまったことは、主人への裏切りになるのだろうか。浩瀚の顔が消え、ふわりと別の景色が浮かぶ。
 これは、五年前の記憶だ、と彼は気がついた。だって、あの少年と初めてあった時のことだから。
新緑がまぶしい、初夏の頃だった。緑が萌え、空の青さは深みを増して、ただ、風が気持ちいいと思っていた。
 その時、後ろからかけられた、押し殺したような声に、虎嘯は振り返る。そこにいたのは、白樺邸の裏口の柵ごしに身を乗り出す、見知らぬ賢そうな美少年だった。
『兄さん!やっと…やっと接触できた…』
『?誰だ、お前…?』
 書生姿の少年の表情が固まった。
『僕だよ、夕暉だよ』
『…人違いだろう。俺は捨て子だ、親兄弟なんていねぇ』
 あり得るはずがない。幼いあの日、布団の上で目が覚めた時から、自分が誰だかわからなかった。最初に目に映ったのは、白樺伯爵の顔だった。自分は親に捨てられ、白樺伯爵に拾われた人間のはずだ。目の前で、自分を兄と呼ぶ年下の少年は、自分とはかけ離れた優男だった。
 少年は、呆然と呟いた。
『兄さん…僕のこと覚えていないの…まさか、記憶が…』
 どうしてそんな、ぶたれたような顔をするのか、わからない。せっかくの綺麗な顔が台無しだ。そんな顔をしないでくれ。
『逃げよう、兄さん!もうここに居る必要なんてないんだ!』
『そんなことできるか!俺を拾ってくれた恩人の家だ!』
 炎にすべてが包まれる。薄れる景色の中で、虎嘯は目を閉じて、あの少年を思った。
(嘘でも…何か言ってやった方が…よかったのか)
 あんな顔を、させたかったわけじゃない。だけど、すまない。


 何一つして、覚えていないんだ。


 炎に巻かれながら、ぶれた記憶が、一瞬だけ浮かんだ。誰かの頭をなでる、自分の手の感触。嬉しそうについてくる幼い淡い笑顔を、虎嘯は刹那、見た気がした。

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「虎嘯…!!」
「兄さん!!!」
 間に合うか。間に合わせろ。桓魋は決死の思いで、燃え盛る小屋めがけて駆けていく。夕暉の悲鳴が耳に痛かった。
 目の前では炭になった柱が、小枝のように細くなって焼け落ちていく。もう人が入り込むのは不可能なほど、火の巡りは速かった。不動明王がたたえる怒りのように、金色の蛇は熱を吐きながら、救うべき男を飲み込もうとしていた。
 桓魋は歯ぎしりする。悔しさと憤りが、炎のように業火となって胸を渦巻く。どうして、彼が犠牲にならなくてはならない。この華やかな世界に、時折こうして怒りが吹き上がる。
 士農工商
 かつてただ役割を分け、それぞれの個性を尊重していたこの言葉は、この時代になってから、いつの間にかヒエラルキーを表す言葉へとすり変わってしまった。
華族 士族 平民 半獣 
あまりにもきらびやかに語られるこの時代。だけど桓魋は軍に属するものだからこそ、誰よりも深く知っていた。
 百年を超える調和の思想が薄れゆき、外国からの思想の流入は、平和なこの国を着実に戦争へと進め始めているということに。
西洋諸国の何もかもが進んでいるなど、思い上がりも甚だしい。
ピラミッド社会。弱者排斥、強いものこそが生き残る。


その思想のどこが進んだ思想だ。
 
 
この国で当たり前のように調和して、暮らしていた半獣たちは、次第に西洋諸国からの獣という烙印を押されてきた。そして知らぬ間にこの国の人々は、少しずつその思想を受け入れ始めている。差別と支配の思想が、平和な国を飲み込み始めている。
 このままでは、いずれこの国は、取り返しのつかない傷を負う。
桓魋には、それがわかっていた。
 だけど、同時に彼は、思うのだ。

そんな今だからこそ、半獣として生まれた力を果たす時だ。
 
目の前には、地獄の業火。この国のために、救われなくてはならない男が中にいる。炎に向かって、桓魋は吠えた。
「必ず…!必ず救ってみせる!」
 男の体が膨れ上がる。どん、という鈍い音と共に、巨大な熊が、火の塊の中に突っ込んだ。

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 頼りなくかしいでいた、小屋の輪郭でさえも、業火の中に溶け消える。だけどその瞬間、 男を咥えた巨大な熊が、火の粉を蹴散らして現れた。
「兄さん!」
 悲鳴のような声が響き渡り、あの書生の賢そうな少年夕暉が、形相を変えて虎嘯めがけて駆けていく。
 助け出された男を見て、鈴と祥瓊は歓声をあげた。浩瀚は顎を煽る。舐められたものだ、そう探偵は鼻を鳴らす。
「私の連れがいるのに、救出する人間を殺させるわけがないでしょう」
 白樺は表情のない目で、同じ光景を見つめながら苦々しく吐き捨てた。
「半獣など、もう古い時代の遺物。獣は早々にこの国から退去させなくてはならなかったな」
 桓魋と窓越しに目があう。桓魋は何かを悟ったように、弾かれるように浩瀚と白樺がいる部屋へと、庭から駆け出した。
 だけど、それでも、間に合うか。
 かっと目を見開いて、白樺は叫んだ。
「そこをどけ!浩瀚!!お前を殺せば全てはなかったことにできる!!道を開けろ!!私は…逃げ延びる!!」

 その巨体からは考えられないような速さで突っ込んでくる白樺は、既に浩瀚の胸めがけて、ナイフを突き出していた。

 鈴と祥瓊が悲鳴を上げる。
 やられる、そう浩瀚が直感的に思った、その時だった。
 風が、吹き荒れた。浩瀚は思わず顔を覆う。腕を外した時、そこにいたのは、ひとり呆然と立ち尽くす、白樺の姿だった。
 嘘だ、そう掠れた声が、男の喉から漏れた。最後の言葉の頭だった。

「なぜ…お前が…」

 言葉は最後までつなげられることはなかった。
 鮮血が、でっぷりと肥えた男の体から吹き上がる。辻切りに斬り捨てられた白樺は、そのままゆっくりと、地に倒れふした。白樺は絶命している。
 速すぎて、何が起こったのか、浩瀚にはわからなかった。
「な…!」
 その時、背後でどさりと何かが崩れ落ちるような音がした。浩瀚はとっさに振り返る。
「来たか、桓魋!」
 返事はなかった。確かに、駆け込んできたのは桓魋だった。だが。
「桓魋…?」
 桓魋は戸口の前に体を横倒しにして倒れていた。まるで浩瀚の元に慌てて向かおうとして、急に膝から力が抜けて倒れ込んだような体勢だった。息を呑んで駆け寄ろうとした瞬間、自分も目眩を感じ思わずテーブルに片手をつく。見渡せば、鈴も祥瓊も、使用人たちも、みんなが床に崩れ落ちていた。硝子の外では業火が揺れる。嗅ぎ覚えのある、独特の甘い香りが満ちていることに、浩瀚は気がつく。穏やかな声がした。
「気を失ってるだけだよ」
 ふわりと空気が揺れ、目にも鮮やかな緋色が視界に現れる。
「…お前は…」
 入口にもたれて、その人はゆるりと微笑む。

 そこにいたのは陽子だった。

  

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