王と麒麟。
 十二の国の最高権威の象徴。国の中で唯一の存在として奮闘する彼らは、お互いを半身とし、どこかが深く繋がり合っている。
 どんな時でもそれは強い絆となり、それぞれの存在を嫌でも肌に感じる。
 虚海に面した東の果ての国 慶東国の主従関係にしてもその(ことわり)は例外では無かった。だがどれほど強い絆があっても…互いの心の奥底の部分まで、透けて見えるわけではない。
 どれほど繋がっていても、心の奥にまどろんでその人を支配している色は見えない、その人が真に何を考えているかなんて見えない。
 隔たりを背負うことは、この世を生きていく全ての者に突きつけられた命題なのかもしれない。そう時折、私は思う。
 だってそれは…その(ことわり)もまた、慶東国の王と麒麟にとって例外とは言いがたい物であったのだから。

 小さな綻びから瓦解は始まっていく。


1




 ゆうらりと薄紅がたゆとう空。その日金波宮は、沈み始めた夕日の光の波を受けて、通り名のごとく黄金に照り輝いていた。王宮のある一角、空に浮かぶ内殿の窓が薄く開く。
(誰も‥いないよな)
 細い光が薄暗い部屋に流れ込んで、外から狭い窓枠に片手をかけた陽子はそっと中を窺った。
 しんと静まった部屋の空気は陽子以外の人の気配を含んではいなかった。口うるさい自分の半身は気づいているだろうか、と陽子は素早く周囲を見渡す。


 その日は丁度 国慶節 という慶国の伝統的な祝日として数えられる一日だった。国の安寧を願い、家族で特別な食事を囲んで今ある幸福に感謝する――その古くからの習慣を初めて聞いた折には、陽子は目を丸くし、浩瀚に様々な質問をした。その時聞いたことの一つとして、この日に大切な人物に心からの贈り物を捧げると、その人に大きな幸福が訪れるという言い伝えがあった。


(まさか、な。ただのジンクスだ)
 そう思いながら、陽子はもう片方の手のひらで握りしめていた物を見つめる。
 そっと陽子の掌から顔を覗かせているのは息を飲むほどの翡翠の玉だ。

 風習にならい、御伽話(おとぎばなし)のようなある大切な意味合いも込めて、陽子は半身のためにこの贈り物を用意した。

 翡翠の首飾りを大切そうにしまった陽子は、ふわりと壁を蹴ると窓を開けて中に身を転がり込ませる。だが地面に体を着き、身を起こそうとした途端、同時に頭上から底冷えのする声が降ってきた。
「主上」
「!!」
 心臓が飛び跳ねる。

 そろりと上に翡翠の瞳を持ち上げると、見慣れた鉄面皮がはるか上から彼女を見下ろしていた。

「け、景麒いたのか」
 はいと答える声は冷たい。
「主上はこの部屋にいるものとばかり思っておりましたので」
 あからさまな嫌味に、陽子は苦虫を噛み潰したような顔で景麒の顔を見やる。取り澄ました半身は鉄柱のように動かない。
(お前‥抜け出してることは絶対分かってただろう)
 王気というものはいまいち陽子には理解できかねるが麒麟にとっては何よりも大切なものらしい。どこにいても自分に反応するそれを陽子センサーのようだと彼女は内心苦笑する。
「悪かった。許してくれ 景麒」
「あなたという方は‥王という者の立場をお忘れか?」
「す、すまない‥悪かったって」
「そう思われるのなら毎度毎度なぜこのようなことをなさるか!だいたい‥‥‥」
 陽子はそっと首飾りに手を掛けた。
 早く渡した顔が見たい。今怒っているこの能面鉄面皮はどんな顔をするだろうか。
 このままではまだまだ終わりが見えそうにない説教の合間をつつくように、陽子は声を滑り込ませる。
「景麒!実はな‥‥」
 景麒は手の平でそれを遮った。今の陽子を見つめる紫陽花色の瞳はどこまでも冷え冷えとしていて肌寒い。彼の様子に気圧されて思わず陽子は口を噤んだ。
 なんだかいつもの景麒と様子が違う。明らかに彼は苛々(いらいら)と頭をふり紫陽花の澄んだ瞳に怒気を溶かし込んでいた。
「主上、羽を休めたいというお気持ちは出来る限り組みます。ですが仮にも一国の王が威厳も持たず債務に飽いているという事態は考え物。そればかりは私は理解しかねます。たとえ御自らの御意思で登極されたわけではないとしても責務は果たさねばならぬのです」
 目を開いて何度か瞬きした陽子。だが、やがて 「分かっているよ」と少し疲れたような顔色を滲ませ笑った。王。何度聞いた言葉だろう。景麒は彼女がそこにいるための覚悟を固めていることは気づいていないのか。
 分かっていると陽子はもう一度繰り返す。ずっと指の腹で支えていた贈り物が急に重くなった。
 自分が贈られる人物は目の前にいるのに、翡翠の首飾りは気落ちしたように服の窪みに戻ろうとする。
 そんな笑った顔を崩さず少しだけ気を落した主の様子に景麒は気づかなかった。
「主上がここに居られなかったせいでどれ程の者が主上を探したのだと思っておられるのですか?その者達の時間をあなた様は無駄に裂かせることをお望みなのか。」
 え と陽子の瞳が円になる。違う、そんなつもりじゃない、言おうとしたが口がカラカラに乾いて舌がくっつき、口内でもつれた言葉は出なかった。
 握ろうとした首飾りが指先から身をよじりぽとりと服の奥に零れた。
 彼女に半身は尚も言の葉を重ね、叩く。
「それほど不満がおありなのですか。王の椅子に飽いたのですか。自らの御意思がまかり通らないことが御不快なのですか。」
 陽子の瞳がゆっくりと大きく開かれていく。彼女の深い色合いの翡翠が震えた。
 王と麒麟の間に薄く溝が掘られていくのに二人は気づいていなかった。冷え始めた空気が二人の間に流れ始め、続けざまに彼は、当たり前のように無自覚に、その溝を自らなぞりつけた。


「私の意志であなた様を選んだわけでもございません。麒麟は主を選べぬ生き物ですから。」


 空気に細く亀裂が走り抜けた。

 はあ と深く溜息を落した時に景麒はようやく気が付いた。
 主の動きがそこだけ時間から切り離されたように止まっているということに。
 彼女が殴られたような顔をしていることが彼の動きを止めさせた。少しわなないた口元を景麒はただ見つめる。震えて上下した息が妙に部屋の空気に広がった。
 人は誰しも心に琴線を持っている。笑いあっていてもふとした瞬間に触れてしまうことがある。
 景麒は最後の一言が彼女の琴線に触れてしまったことに気が付いていなかった。信じていた大切なものに薄く、でも鋭く大きな亀裂が走った瞬間だった。
 のろのろと彼女の唇が形を作る。主の言葉が妙に静かな部屋に響いた。
「お前にとって私が主であることは不満なことなのか?」
「‥‥は?」
「天啓など無ければ、選べるのならばお前は私を選んだりすることはなかったのか?」
 何を と言いかけた景麒に陽子は詰め寄った。毛足の長い絨毯が足の下で不規則にもつれ合っていたがそんなことはどうでも良かった。自分の息が、歩く時巻き上げた空気が、目の前の男の金の鬣を僅かに――揺らした。
「主上‥‥」
「よりにもよって私を玉座に据えたお前がそれを言うのか?」
「私を何もかもから引き離したお前が?」
 つるつると自分の口から言葉が滑り落ちていく。何かが、込み上げてくる。胸の奥から喉元まで来たそれを出したくはなかった。言葉がどこからともなく自分の口を突いて出て来たことに、彼女は気づかなかった。
 陽子の首飾りを握っていた指が緩んで、景麒への贈り物は服の淀みに落ちた。
「主上」
 陽子は何も言わずにふらふらとおぼつかない足取りで景麒の脇を突き抜けようとした。振り返る景麒の声が聞こえたが、彼の声は、届かない。
「主上!」
 景麒の腕が一回り細い陽子の腕を掴んだ時、彼女の中で何かが爆ぜた。
「触るな!!」
 怒気を孕んだ声が部屋に反響する。景麒が思わず気圧されたのを陽子は感じた。純粋なはずの怒鳴り声が涙で潤む、それがまた悲しかった。
 そうだった。景麒が傍にいるのは麒麟だから。それは陽子を好いている好いていない以前の問題だった。慶国の王として天命が下ったのがたまたま陽子で、たまたま彼がその慶国の麒麟だったからこそ王である彼女の傍にいただけだったのだ。 莫迦みたいだ。何を期待していたのだろう。人の付き合いで相手が自分を好いてくれているなどという決まりなんてないのに。嫌という程知ったはずなのに。責めることなど何もないのに。

 痛い。

 一人で浮かれていた自分が。彼との絆を感じていた自分が。傷ついている自分が 痛い。
 何よりも、世界が全て敵に回っても彼は味方でいてくれると信じていた自分が 痛い。
 掴まれた腕を引きちぎるようにもぎ放し陽子は部屋を突っ切った。景麒の握った指を引きはがす時、指先が強く腕をたどった感触が残った。湿った空気が今はつらいくて、僅かな風さえもが陽子を遮ろうとする。
「お待ちください、主上!」
 また迫ろうとする景麒の腕を振り払うよう、陽子の腕が無意識に弧を描いた。その指先に僅かに絡んでいた細く柔らかい鎖がたわんで、官服の奥から翡翠の玉を引きずり出した。
 美しい新緑の塊がひゅんっと空気を突っ切り景麒の胸板に弾かれた。転々と転がるそれを見て、陽子は一瞬凍りつく。

 だが景麒の瞳が一瞬大きく開かれ、床に視線が移った時には、もう陽子は執務室から飛び出していた。

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 ――その日は甘い、甘い香りが空気に溶けて流れていた


 うとうととした眠気がねっとりと襲ってくる。飛び出して、しかし何かをするでもなくて、陽子は冷え始めた夕方の風に吹かれて帰った。その時には、もうそこに慶国の麒麟がいた跡は残ってはいなかった。
 戻ってきた陽子は浅く息をつき、卓の傍に構えている腰掛けに腰を落した。
 滑稽だ。
 何もかもが、億劫で仕方なかった。
 陽子はそっと睫毛を落し机の上で絡んだ腕の中に顔を埋めた。

 外は蜜をたっぷりと含ませた花弁を煮詰めたような、甘い香りで満たされていた。

 なぜかその匂いは嗅いではいけないような気がしたが、そう思ったとたんに鼻から香りがするりと流れ込んでくる。
 外の鋭さを持ち始めた寒気とその甘えた香りはなんともそぐわなくてちぐはぐとした思いにさせられた。
 あんな香りは嗅いだことがない。強い香水の芳香とも違う。頭の芯が痺れて熱く動かなくなるような香り。そう思う間もなく、また嗅ぎたいとずくりと喉が疼いた。
 あの香りを飲み干して熱く頭を痺れさせたい。腕に埋めた頭が重い。
 先程の出来事が終わりを見せずに頭を巡り、何もなかったように振る舞えたらどんなに良いだろうと陽子は小さく吐息を零す。どろりと思考が溶けだすのに任せて陽子の意識は混濁していく。

 ――何かがおかしいことにその時の陽子は気が付くことが出来なかった。

 不可思議な異変に、普段ならばきっと気付いた、きっと。だけど今の彼女は既に――捕らわれ始めていた。どこからともなく満ちていく不思議な香りにやられ、頭が痺れていることに、今の彼女は気付けない。
 陽子は誰かの名前を呼ぼうとしたが、それが誰の名前なのか、分からなかった。陽子の唇はふぅと息を小さく漏らしただけで、見えない香りはゆっくりと彼女に更に巻き付いて思考を覆っていく。呼ぼうとしたのは誰か大切な人物ではなかったか。だが、考えようとする陽子とは反対に、心で誰かが小さく呟いた。

 別に誰でも…いいんじゃないか。

 その時、不可思議に揺らぐ意識に逆らう彼女の耳に、どこかから部屋の扉が開く軋んだ音が聞こえた。絨毯を踏む足音と、人間では無いようなどしりとした足音が彼女の耳に跡を残す。
 頭が酷く重たくて吐き気が胃から込み上げてきて、鉛のような頭を持ち上げることが出来ない。不意に束ねた真紅の波を掴まれ、強く後ろに引かれた。全ての髪の毛の根元が引きずり出されそうな感触に小さなうめきが唇から洩れる。あれ程重たかったはずの頭がかくりと前を向かされ、重い思考を押しのけてゆるりと瞳を開く。

 目の前にいたのは見知らぬ一人の男だった。

 年のころ四十だろうか。大きな体躯を持ち、顔の半分を覆い、茂っている髭が目に付いた。
 好き勝手に伸び長さもまちまちな髭がぼんやりと瞳に映る。その下で男がこらえ切れずに笑みを含んでいるのが見て取れた。
 王の執務室に無断で立ち入るこの男は誰だ。なぜ誰の断りも無くここに入ってこれたと陽子は思った。
 周りにはその他に人の気配の欠片も無い。普段これくらいの時間に、主上のお世話よとか言ってきゃっきゃと遊びに来る祥瓊も鈴も、今日は誰一人として、 来ない。
 男の顔の茂みが割れ、動いた。
「主上、ひどくお疲れのようですね。お労しや。王の責務にお疲れのことと見える。そもそも分に合わぬこと、致し方ありますまい。景台舗がお選びになられたのがまたしても女王ということ自体が悔恨でありますのに」
「‥‥‥‥おま‥え‥は‥?」
 痺れる頭を叱咤しながら紡ぎだした言葉に男は笑う。今まで気づかなかった大きな影が男の後ろで身動きをした。ぬくい臭気がぷんと鼻につき、その息の生温かさと生臭さに陽子の血が凍った。
 妖魔。
 思わず小さな悲鳴が腹から喉を滑り出た。何故。妖魔は人には――従わない。陽子の顔を間近に引き寄せ、双眼に爛々と乾いた炎を燃やした男は囁く。生臭い湿気った息が陽子の肌を撫でた。
「あなた様の治世はここで終えることとなりましょう。短いものですが、誰一人として文句など言わせはしませぬ。ええそうですとも。今こそ民がいらぬと嘆く愚の女王などではなく、危機とした状況を打開し、民を力の限り導く王が。待ち望まれた男王がこの慶を治める時なのです。全て手中の計画通りです。大丈夫ですとも。あなたの王位はもはや無いものなのだから。誰も文句など言えはしますまいよ」
 逆臣だ。声が出ない。陽子は口を開こうとしたが薄く息が零れただけだった。助けは来ない。誰も、来ない。
 微かに残った記憶に浮かぶのは一人の人影。
 だが…助けて と言いかけて、陽子の思考は止まった。

 来るわけがないのだ。

 自分が絆と感じていたものなど淡く脆い幻だったのだから。そう思いが胸を駆けた時、逆らっていた甘い香りが彼女を包み込む。その香りは今はとにかく優しく熟れて甘かった。
 とろりと瞼が閉じて瞳を覆う。陽子の辛うじて逆らっていた思考が揉まれ、記憶が歪んで、崩れて、溶けて、流れて、消えて…。やがて均されたころには彼の存在は彼女の中から消えていた。
「慶の麒麟は私の物だ」
 殺せ と男が後ろの獣に語りかけたのを耳に拾う。瞬間待ちかねたように(くちばし)に攫われた自分の体が宙を舞う。突き破られ、体に降り注ぐ硝子の感触を最後に、どこかに運ばれていく感覚を最後に、陽子の意識は黒く染まって見えなくなった。

 陽子は知らない。その直後に彼女が忘れた彼が血相を変えて部屋に飛び込んでくることを。



 噎せ返るような匂いが辺りに満ちた夕暮れだった。
 太陽が、夕暮の中赤く照り輝きながら沈んでゆく。それを飲み込む暗闇はどこまでも深く、空に光と影のコントラストを映し出して夜の闇を広げていく。

 薄闇が滲み始める慶国の首都堯天で、濃く甘い香りは空気を満たしてじわじわ広がる。

 風に漂い――どこまでも。



 

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