春と修羅 |
桓魋を横目で見下ろしながら、ゆったりと戸口にもたれてこちらを見つめている。春の色をした瞳が眇められる。 「白樺が用意していたダチュラの香だ。この屋敷中に焚きしめられて、包囲網は全滅だ。白樺は自身が使っていたから、耐性があったんだろう。たとえお前に暴かれても、自分だけ逃げ延びるための最後の手段として用意していたんだろう。あなたも体が苦しいだろう?」 「お前には…効いていない…?」 陽子は何も応えなかった。絶命している白樺を見て、浩瀚は朦朧とする意識の中、首を振る。今のはお前が、やったのか。そう言いかけて、浩瀚の息が止まった。 陽子の手に持つ刀は、血が筋となって刻まれ、切っ先から赤い糸を引いて流れ落ちていたからだ。 「あなたは綺麗だと言ったけれど。こうして見ると、彼岸花みたいな髪色だろう?」 目の前に流れた煙を指でなぞる。 「春の穏やかな日差しや柔らかな桜の花の匂いよりも…私はあなたのその煙は、彼岸花と添える方が好みだな」 少女はくるくると指先で、浩瀚の口から落ちた煙管を回す。 浩瀚の煙管から立ち上る、細くたなびく煙が、ゆるりと陽子の髪にくゆる。 探偵としての何かが、彼の頭の片隅で警鐘を鳴らす。ゆっくりと、点と点がつながって――線になる。 肌が粟立つ。まさか。まさかまさか、まさか。――やはり。 「お前が…〝修羅〟…」 「ご名答」 応える少女は口元は甘く微笑んでいるが、目は挑むように鋭い。 浩瀚は声が出せなかった。やはり。浩瀚が最初に切って捨てていた――――ありえない最悪の推理が的中した。 修羅。それは、きっと誰もたどり着けない、犯人の正体だった。 陽子はくるりと身を翻す。 「『春に歯ぎしり行き来する。俺はひとりの修羅なのだ』…なんてね」 陽子は振り仰ぐ。 「人生なんて、くそくらえ。…そう思っていたけれど、世界の狭間で様々な本を見られて…こうしてあなたにも会えたのだから、それほど悪いものでもないのかもしれないな。あいつらも全員成敗できたしな…もうここに思い残すこともない」 浩瀚は歯ぎしりする。片膝をつきながら、もうほとんど力が体に入らなかった。喘ぐように、男は尋ねる。 「お前は、人か」 「人だよ」 少女の唇はふわりと笑む。 「私は、何だと思う?」 あなたはもう、本当は気がついているはずだ。そう告げるその目は、笑ってはいなかった。 「あなたは…既に私について、知っているはずだ。私は…あなたからしたら、この世にあるはずのない…そんな存在だよ」 さみしさのような感情が、その場をよぎる。少女は胸を突かれるような、無表情だった。 浩瀚は、思わず息をのんでその目に魅入る。巣食うのは、深い、翳るような孤独。陽子は煙管を回す。 「文明開化以降…異文化がなだれ込んだこの世の中は妙に明るいよね。そしてあなたは、この世界が嫌い。そうだろ?」 「…お前も…気に入ってはいないみたいじゃないか」 「さあ?正直よくわからない。変化するということは一概に良い悪いで切れないところがあるから」 そう言うと、ぴたりと少女は煙管を止めた。 「だけど今の世界は…華やかだが…苦しんでいる人が当たり前にいる世界は明るいだけで…あまり良い世界とは言えない気がしているよ。あまりにもきらびやかに語られるこの時代は、同じくらい闇が深いということに、どれだけの人間が気がついているのだろう」 貴方だってそうだろう?そう少女はゆるりと首をかしげる。 「だから貴方は…ここで、この時代で探偵をしているんだ。…この世の中の歪をその頭脳で解き明かしている。癒されない人々の傷を。染まらない、真っ直ぐに見つめることが出来る、その瞳で」 少女は振り仰いで笑う。 「だけど」 顎を引いた少女は微笑んではいたが、だけどそれは笑みとしての要素の一切を削ぎ落とした、冷え冷えとした弧でしかなかった。興ざめとでも言いたげに瞳の温度はぬるかった。 「中々傲慢じゃないか。浩瀚。自分の頭だけで全てを解き明かせるなんて」 世の中には、論証できないことなんていくらでもあるのにね。 「魑魅魍魎…八百万の神々…自然や、すべての存在との調和、目に見えないものへの畏怖の念。科学じゃ説明できない、不可思議な世界。それこそが、この国が抱えるおもしろさの醍醐味なのに」 からからと笑う少女の紅の髪が風に揉まれる。眇められる翡翠の瞳の奥にまどろむのは鬼の仮面の欠片だ。少女の言葉が流れていく。 舞い散る桜が一層華やぐ。 「楽しかったよ。バクシュウコウ浩瀚…さよならだ。まだまだ楽しくなってきた世界を見たかったけれど、私がここにいられる時間が終わった。本当の、迎えが来た」 「待て…!行かせ…ない…!」 手を伸ばす。だけどもう視界はぐらついてしまって、彼の世界は下手な画家が適当に色を置いたようにしか見えない。 不意に彼の耳元に少女の頬が寄せられる。陽子が距離を詰めたのだと理解した時、耳元で掠れたような柔らかい声がした。 「なぁ浩瀚。…どうして私がここまで貴方に会いに来てみたんだと思う…?」 体が動かない。頭が動かない。目を見開いたまま、少女の言葉が耳をくすぐる。 それはね。 「たとえこのような修羅でも。詩みたいに春に歯ぎしりするよりも…私だって春の中で穏やかに微睡みたかったんだ」 少女の言葉の意味は、浩瀚には分からない。ただ、鬼を宿しながら、悲しいくらい綺麗な、苦しそうな微笑みが、胸を締め付ける。 景麒と呼ばれた――――金の髪の、宣教師のようなあの男の姿が見えた。その時浩瀚は、陽子にまとわりつく彼が、人ではないことを確信した。 紫陽花色の瞳が無表情にこちらを見つめる。視界が歪んで陽子の表情が崩れていく。私の連れが、迷惑をかけてすまなかったなと少女は囁く。くらりと揺れる意識の中、気がつけば浩瀚は声を絞り出して叫んでいた。 この世にあってはならない二人の存在に。 「必ず…!お前を…捕まえる…!!!」 少女は微笑む。ひどく悲しい微笑みで。 浩瀚の意識は深い亜鉛の闇に呑まれていく。最後に見たのは春を浮かべた、闇と同じくらい深い色をした翡翠の瞳だ。 人の心は、こんなにも不確かだ。説明できない感情に、浩瀚の胸の中で激しい炎が舞い上がる。目の前の光景が、不気味なくらいに美しくて、脳裏に焼きついて離れない。彼岸花と安らかな春を湛えた深い翡翠。 彼は気がついていなかった。ただただ、必ず仕留める。そう彼が心に誓った次の瞬間―― 目の前の美しい絵に閉じ込められた宿敵に、恋に堕ちた音がした。 ::::: 桜が散った、春うららかな日だった。 事件から数日がたった日は、ひたすらに穏やかで、日差しがこんこんと暖かさを感じさせた。 浩瀚の活躍により、依頼は無事に達成された。ただ―――白樺を殺した犯人は、未だ分からぬまま。 噂はまたたく間に広がり、人々は、修羅が出たと口を揃えた。 あの日は、十三年前の事件が解決し、白樺殺人事件という新たな事件が生まれた日となった。 そして後処理も終わり、修羅の事件以外のすべてが収束したその日。浩瀚は、もうすっかり散った桜の木の下で、桓魋と共に、虎嘯と夕暉と顔を合わせていた。夕暉は兄の隣で、深々と頭を下げる。 「今回は、本当にありがとうございました。浩瀚様」 いや、いいんだ。そう浩瀚は微笑む。 「大したことはしていない。私は、何も出来なかったのではないか。そんな思いが、時折浮かぶ。結局修羅を取り逃がしてしまったしな…」 その言葉を聞いて、夕暉はふっと口元をほころばせた。浩瀚様、そう呼ばれる声に、浩瀚は顔を上げる。そんなこと、あるわけないじゃないですか。夕暉は日の光の下でそう言う。 「知っていますか」 賢い少年の黒髪が、風に揺られて光を弾く。目の前の探偵に、少年は続ける。 「貴方自身が人から何と呼ばれているかを」 「な…に…?」 少年は微笑む。穏やかな顔は、浩瀚を眩しいものでも見るかのような表情を浮かべていた。 「麦に秋と書いて…麦秋侯 浩瀚」 その瞬間浩瀚の脳裏をかつてみた単語が、桓魋の言葉が、最後に陽子が残した言葉が駆け抜ける。 バクシュウコウ。 麦州侯。麦秋の候。―――麦秋侯。 陰月、卯月、卯花月、乾月、建巳月、木葉採月、鎮月、夏初月、花残月、植月、麦秋。旧暦の4月を示す言葉。 麦秋は―――春を示す異名の一つ。 「大方、ここが麦州だからそれとかけたんでしょう。探偵浩瀚の異名が麦秋の…春の伯爵とは面白い。いつの世でも人々はうまいこと言葉遊びをするものですね。麦秋の候。麦が金色に輝く季節…春の中でも…いちばん暖かい時。初夏に移り変わる寸前の、最後の春の異名を奪ってしまうなんて、貴方も罪な人だ」 夕暉は微笑む。貴方が春の通り名を持つことの意味…それは。 「この麦州の冬を壊したのは貴方。ここの人々にとって〝春〟は…貴方だということ」 何もできなかった、なんてそんなことあるはずないじゃないですか。 「きっと、あの赤髪のお嬢さんとはまた会うこともあるかもしれません。その時は、きっとあなたは誰も知らない論理づけられない世界を見ることになるのかもしれません」 夕暉の言葉に、浩瀚はその日初めて笑った。探偵は、自分が救った男に向き直る。 「虎嘯。どうだ、本当の意味で自由になった今は」 虎嘯は歯がゆそうに眉根を寄せる。夕暉の方を見ながら、彼は言った。 「正直言って…よく分からねぇ。こいつのこともまだ思い出せないんだ…」 「兄さん…」 だけど。そう言いながら、男は太陽のような笑顔を浮かべた。 「弟ができるってのは…悪くねぇな」 俺と違って出来も良さそうだしな、と虎嘯は豪快に笑う。 「助けてくれてありがとよ。浩瀚。お前のおかげで、俺はもう二度と会えないはずだった家族と、再び会うことができた。ここから、始まるんだ」 彼の服装は、旅支度をしたものになっていた。あのあと彼は夕暉と共に母親と再び会うことができ、義理の母親は泣いて喜んでいたという。虎嘯は始終――嬉しそうだったという。有島夫人は屋敷を売り払い、夕暉と共に、親子二人で暮らすと聞いた。 「兄さん…本当に、行ってしまうの」 さみしそうな夕暉に、どこかすっきりとした表情で虎嘯は笑う。 「あぁ…俺は戻らねぇ。もう俺は死んだことになっている人間。これからのことを考えても、俺の存在はないことにしておいた方がいい。今更家のことも、財閥のような仕事も俺には無理だ。母さんには心配かけただろうけど、俺よりもうちを立て直すのはお前の方がふさわしいよ、夕暉。俺はこのまま、一端の流浪の用心棒として、生きていくよ」 だが。そう言った男の瞳には、力強い光が浮かんでいた。 「俺の力が必要なときは、いつでも言え。俺は即座に、飛んでいく」 「うん…また、僕たちに会いに来て。兄さんが顔見せてくれるだけで、母さん、喜ぶから。兄さんが来てくれなくても、僕の方から会いにいくから」 虎嘯は、微笑んだ。 「虎嘯!また今度俺と手合わせしろよな!」 虎嘯は大きく手を振った。二人の兄弟の背中は遠く遠く消えていく。まるで――未来へと向かうように。そんな二人の背を見送りながら、浩瀚は恒魋に口を開く。 「修羅は…見つからないのだな」 桓魋は厳しい表情で頷いた。自分が会話をした――――――中嶋陽子。浩瀚が目覚めた時に全てを聞いた桓魋は、帳簿ですぐに彼女を探した。だけど。 この世に、そんな人物などいなかったのだ。 まったくもって訳がわからなかった。そして後から分かったことは。 中嶋家の令嬢は、あの晩餐会にも、舞踏会にも、白樺から招待などされていなかったということだけだった。中嶋家に、娘などいないと言われた事実と衝撃は、桓魋の脳裏で消えることはなかった。 事件は、再び収束した。再び被疑者が消え去ったまま。 「…俺たちが関わったあの子は…一体何者だったんだろう」 桓魋は複雑そうな表情で呟き、続ける。 「わかりませんがただ…修羅は、人ではないからこそ、修羅と呼ばれるのかもしれませんね」 違う、そう浩瀚は声を搾り出す。ぎりりと彼は唇を噛んだ。あいつは。 「人だ」 春の幻だったなんて、ありえない。 「あの洋館での連続殺人事件では…被害者の尊厳を守るために、名前も顔も公表されませんでしたね」 「そうだな」 「えぇ…俺もあくまでも軍の人間。直接の捜査には基本的にはかかわらない。だから俺は、あの事件の被害者たちについて、何も知りません」 桓魋は浩瀚を振り返る。でも、あなたは違う。 「あの洋館での連続殺人事件の最初の被害者に―――あなたは、何を見たのですか」 浩瀚は、何も応えなかった。 だがやがて、ふっと苦い物を噛んだように、微笑んだ。 「それこそ…春の幻だと…思いたいものだ」 もしあれが夢ではないのなら。まだ何か自分にできることがあるのなら、それこそ何だってする。荒唐無稽な話も何でも、信じられる。 浩瀚は唇を噛む。 (本当に…ありえるはずがないんだ) 救われていった兄弟が、視界の端から消えていく。救われなかったあの事件の被害者の顔が、記憶の中から消えていく。 思い出すのは、満開の桜の下での、あの光景。 桜の木の下で佇む、あの子を見たあの時から、彼は信じられなかったのだ。だって。 あそこにあの少女がいること自体―――ありえるはずがない光景だったのだから。 陽子に会ったのは、あれが初めてではない。そして最初に出会った時は、もうそれきり関わることのない人だと思っていた。広がる赤い波。開かれたまま何も映さない、虚空を睨む濁った瞳。首の刺殺痕。最初に彼女を見たあの時。 陽子は、――――死んでいたのだから。 浩瀚がまだ終止符を打てていない、この誘拐事件以前に関わっていたあの事件の中で。 初めての出会いは、連続殺人事件の被害者の遺体と、捜査する探偵として。 そう思った、その瞬間だった。 どん、と鈍い音が空間に走った。目の前の桓魋が、遠のいていく夕暉が、虎嘯が、世界の音の何もかもが遠のいていく。 (?!) 一気に景色がより合わさって、幾千もの線となって捻じ切れていく。 花吹雪が吹き荒れる。散っているのではない。―――逆だ。散り終えた花びらが立ち上がり、吹き戻り、若葉を前にし、立ち枯れていた枝に急速に花が盛られていく。 花札が翻り、花魁たちが笑みを浮かべる。 何だってするから、まるで浩瀚のその言葉を何かが聞いていたように。 時が、巻き戻る。 ::::: あぁ、死ぬのだ。 少女はそう思った。服ははだけられ、腕は冷たい柱にくくりつけられたまま、男の影がのしかかる。女に生まれたことを憎みながら、女として最も惨めな形で人生を終えることが、少女には直感的にわかっていた。 だけど、殺される刹那。 目の前に、光が、差し込んだ。 「いました!浩瀚様!」 声と共に、男の影が、吹き飛ばされる。 もう、大丈夫だ。そう優しく微笑んだ精悍な男は、縛られていた腕を解き、自分の軍服の外套をかけてくれる。 「あり…がとう」 「俺がしたことなんて、微々たることです」 そういう男の瞳は、穏やかで優しい。 「浩瀚様が、お嬢さんがここにいると、必死になって突き止めたのですよ」 「浩瀚…?」 靴の音がした。逆光を背負いながら―――ひとりの男が、現れる。 「世の中には―――まだまだ解き明かせないことが、ありすぎるようだ」 陽子の息が止まる。訳がわからないまま、ぱくぱくと口を開け閉めする少女に、男は歩み寄る。 「中嶋陽子…中嶋財閥の養子。親との折り合いが悪く、女だてらにもっぱら本や武芸の稽古に勤しむ不良娘。ここには越して来たばかり。今回起きるはずだった…西南の洋館連続殺人事件の…一人目の、被害者。両親の意向により名前さえも、公表されることもなかった、闇の葬られた令嬢」 浩瀚は目を閉じる。 あの時、最初に生きている彼女を見た時、自分がおかしくなったと思った。皆、何も気がつかず少女と向かい合い、死者であることにさえ気がつかない。だが、後になってそれも無理もないと分かった。そもそも彼女は麦州において、存在さえも知られていなかった。 彼女の両親と白樺、一部の警察の者以外――――彼女の死を知る者はいなかった。 「あの男は…白樺はこの連続殺人事件を指示した主犯だ。令嬢たちをさらい、身代金を取ろうとしていたところを…実行犯たちがやりすぎたんだ。あの男が私に事件を依頼して殺そうとしていたのは、私がこの事件をしつこく蒸し返そうとしていたから。余罪が明らかになるのを恐れて呼び出したのだ」 陽子の両足にかかった縄を解きながら、浩瀚は呟く。 「あの男は、同時に修羅も恐れていた。それは間違いではない。あの男は、実にうまく、嘘と本音を織り交ぜて私に話をしたと思うよ。なんせ、実行犯たちを殺したのは、自分の罪が暴かれるのを恐れた、あの男ではないからな。自分が殺させた洋館の淑女たちにゆかりのある者だと、あの男は踏んでいた。だから、いつかその黒幕が自分だと明らかになれば、自分は修羅に殺される、それをあの男はわかっていたんだ」 だが、そう浩瀚はさみしげに笑う。 「まさかそれが…殺された少女本人だとは夢にも思わなかっただろうがな。実行犯を殺したのはお前だな?死んで化けてでてまでも、復讐するとは中々肝が座っているな」 「し、死んで化けた…?何を言っているんだ。そんなこと…ありえるわけ…」 だけど浩瀚は、真剣な表情のまま、何も言わなかった。 ずっと説明できなかった。犯人は、ただひとり。だけどそれは、警察が納得するはずもない、ありえない人物だった。 最初に殺された令嬢、中嶋陽子。だけど、やはり遺体保安所を訪れて確認しても、彼女は完全に死んでいて。あの蘭玉という少女は、笑いながら始終泣き出しそうな顔をしていて。あの時自分が舞踏会で踊った少女の手は、凍えるように冷たくて。 本当に、死者が蘇ったのだとしか、説明できなかったからだ。 「あの男は、景麒はどこだ、いないのか。私は…お前を救えたのか」 「…ケイキ…?」 「冥府の住人のことだ。まだお前を迎えに来ていないんだな。私は…間に合ったんだな」 ただただ陽子は、訳がわからないまま、眉根を寄せた。 「…どういうつもり」 ほう、と浩瀚の片眉が跳ねあがる。 「よく言うな。このあと自分に何が起きるのか分かっていたのか。化けて出てまで、私に助けを求めたくせに」 「悪いけど、何言ってるのか、全くわからない。頭おかしいんじゃないの。こんな姿の令嬢を見て、満足したのなら…さっさと帰ってくれ」 「駄目だ」 それに、そういいながら、浩瀚は顎を引いた。 「これから、ある兄弟を救わなくてはならないんだ。白樺を捕らえるために、証拠がまだ手元にない。私が行かなくては、彼らの時は動き出さない。もういちど、あの二人を陽の光の下で、並んで歩かせてやるためにも」 横顔は、真剣そのものだった。 「お前がいなくては、これから来る依頼は解決できない」 「何それ…初めて会ったばかりの娘に、何を言っているんだ」 浩瀚が身をかがめる。鹿追帽の影になった瞳は、優しく濡れていた。 「もう…何度も会っているよ」 あまりにも切ない色をしていた。 陽子は、ドキリと訳のわからない胸の高鳴りに、思わず体を引いた。 「ここ最近、命が狙われて困っていた所だ。桓魋もいつもいつも私のそばにいるわけでもない。ちょうど、腕の立つ助手が欲しかったんだ」 「え…それって」 帰るぞ、と浩瀚はぶっきらぼうに言う。陽子は驚いて、足を止める。 「雇ってやる。しばらくはうちの探偵事務所に住み込みで暮らせばいい」 もう絶縁されて、帰るとことも、ないのだろう。そう言った浩瀚の顔は、とても静かな決意に満ちたものだった。 「中嶋陽子…私が、必ず捕まえる、と言ったはずだ」 「春に、微睡みたいんだろう」 つまらない推理小説によくあるな、と浩瀚は思う。死者が人を殺すはずがない、そう言って生者によって行われた事件が暴かれていくという内容が。 (だが‥あながち狂っているのは、やはり私の方なのかもしれない) 何もかもが酔狂だ。 本当に…死者が人を殺していたことも。時が、巻き戻ることも。全部自分の夢の中のことかもしれない。だけどそれでも構わなかった。 「お前を、死なせずにすんだのなら。私はお前を…修羅になどさせない。約束通り、救ったからな…世界をまだまだ、見るのだろう」 君の言うとおり、この世は、説明できない怪奇に満ち溢れているのだから。 浩瀚が戻ったことを示すように、空にはまだ花開いていない、桜の蕾が揺れている。記憶の中で散った桜には、季節外れの雪が積もる。春めいた風はまだ来ない。二人の人物からの、事件の招待状はもう少ししたら来るだろう。 「わけがわからないよ‥手を‥‥離してよ」 陽子は頭を振る。浩瀚に無理やりつながれた手のひらは、春みたいに温かかった。手に視線を送った陽子に、にべもなく、いやだと拒否の言葉が返される。 「離すものか。やっと…救えたんだ」 平然としながら―――その声は、噛み締めるように、どこか震えていた。 おれはひとりの修羅なのだ 自分の知らない、訳のわからない詩が、陽子の頭の中を流れた。頭の中を流れて、春に溶けて消えた。 目の前にあるのは、あまりにも、美しい光景だった。 季節はずれの、雪が舞う。振り返れば、咲き始めた桜の木に雪の粉が降り積もり、信じられないほど綺麗な光景が目の前に広がっていた。陽子の顔が、ぐしゃりと歪んだ。涙を拭いながら、浩瀚に手を引かれるまま、少女は歩く。目がちらちらする。 つないだ手だけが、温かい。 綻びかけた春の蕾に、雪の火花が降り注ぐ。 |