インドラの網


 桜の花が舞う。
 見つめた少女の瞳の翡翠色に、思わず息が止まる。浩瀚の目の前には、春が二つあった。
『貴方…探偵浩瀚?』
 息ができない。
『…君は』
『陽子。中嶋陽子』
『どうしてこんなところに立っている?』
『この街には来たばっかりなんだ。実は…あなたの噂を耳にして、どんな人かと思って見に来た…と言ったら驚くだろうか』
『…そうか』
『桜は満開なのに、肌寒いね。それも、少し前にふった季節外れの雪のせいだ』
 少女は、かすかに冷たい風の中微笑む。びゅうびゅうと吹きすさぶ風が、満開の桜を揉んでいく。
『待ってても来ないから、丁度帰ろうかと思っていたところなんだ。会えないかと思ったけど、本物を見れたから…もう満足した』
そう言って笑う少女はくるりと踵を返す。何故か浩瀚は少女を引き止めていた。
『!…待ってくれ』
 少女は目を丸くして、笑った。
『ごめんなさい。だけど今日はもう行かなきゃいけないんだ。抜け出してきちゃったから。でももし貴方が良かったら、今度はゆっくり話がしてみたいな』
少女は振り返って微笑んだ。

『私たち、きっとまたどこかで会うから』

「浩瀚様?」
 呼ばれる声に、はっと浩瀚は我に帰る。らしくもなく慌てて周囲を見渡せば、隣では桓魋が怪訝そうな顔を彼に向けていた。その顔を見て、自分が今どこにいるのかを思い出す。
「大丈夫ですか?」
「…あぁ」
 頭痛を抑えるように、浩瀚は眉間を指で揉む。記憶の底をかすめる、金の髪の不思議な空気を纏う男に、赤髪の少女。失礼した、と呟く彼の目の前には、丸く腹の突き出た、人の良さそうな顔をした紳士が座っていた。
「いや、お気になさらないでください。浩瀚様のお噂はかねがね伺っております。多忙な中依頼を受けていただけて本当に感謝しております」
 浩瀚は無言でカップに口付ける。ここは浩瀚の自宅兼探偵事務所だ。彼は今、依頼人と対峙している。口ひげを蓄えた初老の紳士は丸く突き出た腹を撫でる。
 白樺憲一郎。
 時代の流れを読み、いち早く諸外国を相手にした造船業に進出した実業家。この辺りに住む者で白樺財閥の名を知らない者はいないだろう。華族の中でも三井・住友・鴻池・岩崎家のように名のある実業家は男爵に列せられることが多い。この白樺も男爵として位を受けるのも時間の問題だと囁かれていた。白樺伯爵の隣に佇むガタイの良い男は、彼の用心棒、籠という者だそうだ。白樺伯爵の紹介に、日に焼けてガタイの良い男は、にかっと人好きのする笑みを浮かべた。
「依頼の内容は、十年前に起きた有島家子息失踪事件の解明…でよろしいですか」
「えぇ」
「有島家と言えば、悪い噂をいくつも聞く事業家ですが、この事件は初めて耳にしますね。それにしても…何故、今になって?」
「…今だからこそです。警察はもうこの事件を完全になかったことにしようとしている。普通なら十年以上経ってしまった事件の解明など、ほとんど不可能だ。だけど、そう諦めた時、私はあなたの噂を耳にしました。だから、これが最後のチャンスだと思ったのです」
 桓魋はむずむずと鼻を動かす。薄く香水をつけた白樺伯爵からは、ふわりと良い香りがしていた。
 桓魋のツテで警察から借りてきた捜査ファイルをめくりながら、書類から目も上げず、浩瀚は白樺伯爵に告げる。
「事件の経緯について、分かっている限りのことを教えてください」

 事件のあらましはこうだ。

 十年以上前。正確には、十三年前の四月六日
 紡績業で成功した財閥有島家の、当時十二歳になる少年が行方不明になった。
 少年は朝使用人が部屋に起こしに来た時には既に姿はなく、代わりに部屋にはべったりと血痕が残されていた。部屋に残されたものは他にはなく、鍵をかけられた密室の中、少年の姿だけが、忽然と消えていたのだ。
 有島家は必死に行方を探したが、ある時からパッタリと、息子の行方を追うことを止めてしまったのだと言う。
 警察の捜査も打ち切られ、部屋から消えた後の彼の消息さえもわかっていない状況が今日まで続いている。
 捜査ファイルの内容、報告書と相違ない内容の中には、ここに書いていないことも盛り込まれていた。浩瀚は唸る。
「…なるほど。途中で息子の行方を追うことをやめてしまった…これは、不自然ですな」
 白樺伯爵は、静かに指先を組んだ。
「…はい。私はその真意が知りたい。ですから、今回は依頼の一部として…浩瀚様に有島夫人とお会いしていただきたいのです」
 有島夫人という言葉を聞いた時、反応を見せた浩瀚に、桓魋が不思議そうな顔をする。長い間柄だからわかるほどの僅かな表情の機微だった。白樺伯爵は気がついた様子も見せず、桓魋が視線を戻した時には、浩瀚はいつもと同じ、静かな表情を浮かべていた。
「どういうことでしょう」
「本当は私が有島家の現状をこの目で確かめられれば良いのですが、奥方は私とはお会いしてくださらない。もう十年。事件に蹴りをつけるのにはもう今しかないのです。確かに有島家は悪名名高い、悪い噂しかもたぬ家ですが、あの子だけはそんなことはなかったのです。あの子のためにも。有島家の坊ちゃんは大層私になついてくれていました」
 白樺伯爵の膝の上の拳が震える。

「あれは…失踪事件ではありません。―――殺人事件です」

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 敷き詰められた毛足の長い絨毯。革が柔らかな光沢を放つ、贅沢なカウチソファ。見上げられるほど高い天井からは、たっぷりとした透明な硝子をいくつも纏ったシャンデリアが、幾何学的に燭光を弾きながら、垂れ下がる。
浩瀚と桓魋は今、十年前に子息が失踪したという有島家の館に、当時の状況の捜査のために訪れていた。応接間でチェアに腰掛けた浩瀚と桓魋は今奥方を待っている。
何人もの使用人たちが行き交う中、二人の目の前のテーブルでは、とんでもなく高価そうな茶器によって出された紅茶が、湯気を立てている。中で白と茶色の角砂糖が交差する、陶磁器の砂糖壺から、茶色の角砂糖をつまみ出しながら、桓魋は声を潜めた。
「それにしても…俺はえらい事件に巻き込まれた気がしてなりませんよ。今日行く白樺家の梅林館もとんでもない豪邸ですし、気が休まりませんね」
周囲のきらびやかな洋館の内装に、桓魋は気後れしたように肩をすくめた。浩瀚が表向き賓客として招かれた舞踏会、晩餐会は今日の夜に行われる。その時にまた依頼人の白樺伯爵とは顔を合わせることになっていた。この有島邸もさることながら、白樺邸は豪邸として有名な洋館でもある。伝統的な、和風の木造平屋の武家の出である桓魋は、この洋館から、圧力を感じるような重厚感を覚えていた。
「まあ実業家の邸宅に上がり込むことも、軍人と探偵という職業柄だからこそだな」
浩瀚はそんな桓魋を横目で見ながら、呟く。桓魋の声に言葉を返しながらも、浩瀚の頭にあったのは、あの真っ白な便箋のことだった。
(まさか、有島夫人と顔を合わせることまで、一致しているとはな)
 ここに来ることは、白樺伯爵の依頼でもあり、そして――あの名前のない依頼人からの指示でもあった。手紙に詳細に示された依頼内容の中にここを訪れることが含まれていた。
 浩瀚は、ザラメの壺からひとさじ救って紅茶へと落とす。その時、応接間の厚い扉が開かれ、美しい夫人が現れた。
 彼女がしずしずと歩くたびに、深い藍色に染まった着物の裾に走る流水文が流れる。
 涙にしては少し大振りな、ポタンとした真珠の耳飾りは、淡く室内光を吸って、柔らかな光沢を吐いている。レースの半衿と手袋が、深い藍色に反した軽やかさを添えていた。
 桓魋が思わず小声で呟く。
「これは…」
 真っ白な純白のレースの手袋に包まれた指先は細く、繊細な薄いうっすらと透ける色白の手は、さらに婦人の手を白く柔らかく見せる。カールした黒髪の髪飾りからは、うすくて張りのある、絹のニノン地を紗でふちどられた半透明のベールがかけられ、目鼻立ちの整った相貌を透かしていた。
伏し目がちな有島夫人は美女だったが、その顔は感情が読み取れない。紅を引いた唇だけが赤く目立っていた。
 桓魋はポカンと夫人に見とれている。浩瀚はふっと微笑んだ。
「お美しい」
「まぁ、お会いして早々、お上手ですわ…」
 困ったように、婦人は微笑を浮かべる。
「お世辞などではございません。お美しい。良い趣味をしてらっしゃいますね」
「私、騒々しいお着物は好きではなくて。洋物も少し冒険してみたくなったのですが、正解だったようで嬉しゅうございますわ」
 浩瀚は鼻を動かす。
「…不思議な香水を使っておられますか?どうも幾つかの匂いが組み合わさったような複雑な香りがします」
 確かに、と桓魋は思った。半獣である彼は鼻が利く。自分だけだと思ってはいたが、浩瀚も探偵として嗅覚が発達しているらしい。
「…あら、そうかしら。ゲランのサムサラという香りですわ、元々複雑な、オリエンタルな香りなのですよ」
 その時桓魋には、ほんの刹那、夫人の表情がこわばった気がした。だが、次の瞬間には赤い唇の端を、先程と変わらぬ角度で引き上げていた。
「主人がご挨拶できず申し訳ございません。主人は今、英国に出張中でして、どうかご容赦ください」
浩瀚は花の形を模して陶磁器で作られた、繊細なカップに口付ける。透き通った琥珀色の液体の底に残る、沈んだザラメが宝石のようだった。
 夫人の表情に気がついたのか、気がついていないのか、紅茶をすすった浩瀚は面を上げて、さて、と微笑んだ。
「とんでもない。本来なら突然の訪問を謝らねばならぬのはこちらの方です。唐突の来訪にも関わらず、もてなしていただきありがとうございます。このような美味しい紅茶を頂いた以上、さっそく探偵としての本分を果たさねば。少し、失踪されたというご子息のお部屋を見せてくださいませんか」

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 錠がかけられた部屋は埃をかぶり、景色が曇っているような錯覚に襲われた。
 部屋は北側の6.4帖の広さの洋室だった。白い木枠で囲われた窓、壁紙も子供用のライトグリーン色で統一されている。北側の部屋のため、あまり光が入らない薄暗い部屋だった。明るい色を使ってあるのは、少しでも部屋を明るく見せるためだろう。子供用とは思えない程大きなベッドが、房間に東側に天蓋付きで置かれている。斜のかかった天涯のカーテンも、誇りっぽさを感じ、桓魋は鼻がムズムズとするのを感じた。
あの子が失踪して以来、現場保存のために、手は入れていないんです、そう夫人は呟いた。浩瀚は振り返って微笑む。
「そちらの方がありがたいです。桓魋、間違ってもいつものどでかいくしゃみはするなよ」
「そういう浩瀚様も、ここで煙管を吸うのはやめてくださいよ」
 だが浩瀚は素知らぬ顔で、煙管を口にくわえたまま、部屋を見渡している。浩瀚の視線がとまり、桓魋もそれを追う。そこにあったのは、西側の壁際に何かを覆うようにかけられた厚い布だった。ぱっと見ただけではただの目隠しようの布でしかないが、目を瞬く桓魋とは対照的に、浩瀚の様子に、いち早く有島夫人が反応した。
「…それは」
 だが、浩瀚はその言葉を待たなかった。視線の先に歩み寄った浩瀚が厚い掛け布をはがせば、まず覗いたのは鈍い光を放つ鉄格子だった。それが暖炉だ、と気がつくのに僅かな時を要した。というのも、暖炉の口にはいくつもの板が打ち付けられており、いびつに歪んだその様は、浩瀚や桓魋が知る普通の暖炉とはかなりかけ離れていたからだ。桓魋は言葉を失う。
「…これは…」
 夫人は気まずそうに視線をそらす。
「壊れてしまって、今は使っておりませんの。以前事故が起きかけて、危ないので人が入れぬよう塞いだのです」
「それにしても、ここまでやりますか…」
夫人の言葉に、桓魋は冷や汗をかきながら呟く。あまりにも執拗に、何枚も重ねて打ち付けられた板。一番下に重なる板は大分古く、傷みが激しい。その前には更に鉄格子がかけられている様は、異様な執念を感じさせられた。
「実は特に、浩瀚様に見ていただきたいのは、こちらです」
 夫人の指す方向に、桓魋の視線が流れる。そこは北側の壁がある場所、床からから天井近くまで口を広げた、大人がゆうに通れる程大きなアーチ状の出入り口だった。桓魋は思わず声を漏らした。
「へ、部屋にこんな大きなバルコニーまでついているんですか」
「はい。この館をあの子はあまり好きではありませんでしたが、唯一このバルコニーだけは気に入っていました。ここから、外ばかり見ていた、活発でいたずら好きな子でした」
 ギシギシと立て付けは悪くなっているが、白の木枠で囲われた硝子の扉は無事開いた。
一歩出れば、白い板で舗装されたバルコニーへと続いている。大きくバルコニーを腕で抱くように、半円状に加工された柵の一部を、夫人は撫でる。
「あの子がいなくなったと分かった日、ここに、血がべったりとついていたのです。扉には、一度この館に泥棒が入ったことがあったので、いつも鍵をかけていました。あの子は血糊跡だけを残して、忽然と消えてしまったのです」
 レース越しに透ける、夫人のまつげは細かく震えていた。
 その時、かつん、とどこかで石が当たるような音がした。桓魋と夫人が周囲を見渡しても何もなく、後ろでは浩瀚が天井を見上げている所だった。
「それにしても、この部屋は春のこの季節に過ごすにはいい部屋ですね。窓からは花吹雪が観られる。鳥もよく来るでしょう。木の実を落としたようだ」
「はい。ここにはよく、鳩が木の実をついばみにきますわ。秋口がとくに多いのです」
なるほど、と頷きながら、部屋を見渡していた浩瀚は、バルコニーの方へと足を進める。
「…とても、子どもが降りることができる高さではありませんね」
「大人でも無理でしょう。だからこそ、どうやってあの子が消えてしまったのか」
 夫人は顔を伏せる。
「最初は、あの子が木を伝ったのかとも思いました。ですが幹も傷んでいないし、枝も折れていない、何よりそこまでしたら鳥たちが騒ぐ筈です。何よりいくら近くでも、子どもがひとりで渡れるだけの距離ではありません。本当に忽然と、私たちの前から姿を消してしまったのです」
「そうですね、私でも家出だったら、ロープか何かを使ってバルコニーから直接降りますからね。この場合、逆に木を使うことは危険でしょう」
 桓魋がうーんと唸る。
「それにしても…ご子息が失踪されるとはお辛いでしょう、少しでも力になれたらと思うのですが…」
 だが桓魋のその問いに、夫人はどこか気まずげに目を逸らしただけだった。
「…本当のことを言うと、あの子のことはもう諦めているのです」
 桓魋が驚いて息をのむ音がした。浩瀚は表情を変えぬまま、静かにバルコニーの辺りを観察している。浩瀚は手摺をひとなですると、夫人に向き直った。
「…白樺伯爵が貴方のことを心配されてましたよ。ここのところ、塞ぎっぱなしだとお聞きしましたが」
 浩瀚の声に冷え冷えとした視線を、夫人は向けた。
「まぁ。ご心配ありがとう存じます、とお伝えくださいな。直接ご挨拶できず、申し訳ない、ともお伝えくだされば嬉しいですわ」
 しらけたように、彼女の顔には表情というものが浮かんでいなかった。僅かにじっと浩瀚を見つめた夫人は、くるりと踵を返す。気がつけば扉が開き、使用人たちがこちらの様子を伺っていた。
「もう…お帰りくださいまし。もう十分ですわ。こうやって探して頂いているだけで、あの子も喜んでいることでしょう」
 どこか吐き捨てるような、冷え冷えとした声だった。


 屋敷のそばには、鬱蒼とした森と、由羅川と呼ばれる川が流れていた。流れの速い川は、岩を噛んで白く泡立っている。
 帰り道のさなか、桓魋の怒鳴り声が響き渡った。
「信じられない…!あれで本当に人の親か!」
 近くの木で、羽を休めて鳥たちが驚いて飛び立っていく音がした。となりの男の怒った声に耳を塞いでいた浩瀚は、ため息をつく。
「やかましい桓魋。迷惑だ」
 怒りで肩を揺らす桓魋は、普段より怒気で膨らんで見えた。桓魋は浩瀚に噛み付く。
「浩瀚様は何も思わないのですか?だって…自分の子どもですよ?!あの態度…!失踪してもあんな風にどうでも良さそうに…!!そんな親いますか?!」
 さあな、そう浩瀚は足早に歩きながら切り捨てる。
「感情的にまくし立てるな桓魋。気が散る。だが…確かにあの夫人、何かを必死に隠し通そうとしているのは確かだ。観察してみて…ある程度察しはついたがな」
 この事件、確かに色々と根が深いようだ、そう浩瀚は唸る。桓魋は、訳がわからなさそうに眉根を寄せた。
「…何ですか、それは」
「まず、巷ではこの事件は失踪事件として、今でも子息は行方不明だとされているが、白樺伯爵がこの事件は殺人事件だと言っていたな。事件の本質が、一見すると複雑に交錯していて、見えないようになっているんだ。失踪事件なのか、殺人事件なのか…。もう少し証拠を集めたい。あの家には、今、いくつもの嘘と秘密が抱えられている」
「嘘と秘密…?」
「まず…あの夫人、主人は今出張中だと言っていたな」
 頷く桓魋に、浩瀚の表情は鋭い。だが、と言いながら顎を引いた浩瀚は唸るように呟いた。
 だけど。

「主人はあそこにいたぞ」

「…は?」
 恒魋は驚いて息をのむ。浩瀚は目を閉じる。記憶と共に、匂いが流れた錯覚に陥る。
微かにただよう香の香り。決して開けられない一室。騒ぎが起きてもあえて目配せもしない夫人。流水文が散るように僅かに刺繍された、喪服のような―――死者を悼む、黒よりも深い、藍色の着物。

「…この家の主人は既に鬼籍に入っている。…それも、最近のことだ」

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 沈黙が、辺りを包んだ。桓魋の背筋を、ぞっと冷たいものが走った。
「き、鬼籍ですって?!どうしてそんなことがわかるんですか」
「香水に混じった、アルコールと防腐剤、そして線香の香り、僅かな腐敗臭。あとは、目に見える範囲ならば夫人の着物。どう見てもあれは忌服だ。茶、灰、藍、紫、エンジ色は略式の色喪服として使用される」
「喪、喪中の割には、い、イヤリングをつけてたじゃないですか。じゃああのアクセサリー類は…」
 浩瀚は懐から煙管を取り出し、火種をつける。炙りだした香りを吸い込み、ふわりと口から柔らかそうな煙を漏らした。
「真珠は古来より、月の涙が凝ったものといわれ、葬儀に身につけられる宝石だ。そして、まだこの国で知るものは少ないが、何よりあの婦人が顔にかけていたベールは、モーニング・ベールと呼ばれる、西洋諸国の夫を先になくした未亡人の女性の貴婦人がつけるものだ。レースの半衿と、手袋で和洋折衷の装いに見せているのは、傍から見たらそれを喪服と見せぬための工夫だろう」
 桓魋は複雑な表情を浮かべる。
「ですが、喪に服しているのなら、何よりもどうして俺たちを屋敷に招き入れたのですか」
「…怪しまれることは極力避けたいのだろう。、すぐに周囲に夫の死が伝わってしまう。遺体を火葬せず、防腐処理までして葬儀を遅らせている。本来なら私たちを招き、顔を合わせることもならぬはずだが、どうしても、主人の死を知られたくないようだな」
 浩瀚の言葉に、桓魋は考え込むように顎に手を当てる。
「あの服装から、たしかに普段からあまり派手好みの方でもないようですね、あの装いを何も知らない人間が見ても、洒落たご婦人としか映らない。考えたものです。浩瀚様は、肝心な現場に関しては、どうでしたか」
「十年も前だとほとんどの手がかりがないかと思ったが、保存状態は思っていたよりも良かったな。あの会話の中から思ってもみない収穫もあった。仮説は今はいくつかあるが、まだ言えん」
 あとは、そう言いながら、浩瀚は瞳を眇めた。
「彼女の言ったことのどこまでが本当で、どこからが嘘か。十年前に起こった、有島子息失踪事件の大きな鍵となりそうだ」
 夕暮れに差し掛かった日差しが、二人の影を長く伸ばす。桓魋にとって今聞いた話は、あまりにも不気味なものだった。夫人はあの美しさの奥に、一体何を隠しているのだろう。
 気がつけば、いつもの茶屋、鈴の音の前の枝道に差し掛かっていた。
 時計台に視線をやれば、時刻はちょうど、針が6時を指した所だった。桓魋は浩瀚に向かって、軍帽を片手で外した。
「それでは、浩瀚様、また後ほど。お呼ばれした晩餐会なんですから、浩瀚様はちゃんとした燕尾服で来てくださいね!」
 浩瀚は嫌そうに肩をすくめると、ひらりと後ろ手に手を振った。
薄紅をたたえた空には星屑が光り、紫の帳をおろし始めた空には、天の川のように淡いヴェールがかかる。まるで雨に濡れた、蜘蛛の巣のきらめく網のように、空には白銀の粒が散りばめられていた。

 まるで――秘密が眠る夜空に向かって歩いていく、獲物を逃さぬような、美しい網にも見えた。



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