風の又三郎


散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする。



 春。
 桜。
 文明開化。
 開国という道を選んだ日本は刻々と変化を受け入れ、今では変革もようやく落ち着きを見せ始めている。地域の制度改革として出された廃藩置県の政策では、政府は新しく県を置いた。この地方に置かれた県の名称は「慶」。慶の中でもここは「麦州」という呼称を新たに与えられ、人々の日常生活では洋装や散切り頭が流行るようになった。 
変革期の呼び名は文明開化、御一新など様々だ。あの頃を振り返る今は、もう明治も終わりにさしかかろうとしている。麦州のある一角で、歩く男は顎を引く。
(…やはり寒い)
 桜の開花宣言をしていたのは誰だ。歩く男は着物の襟をきつく合わせる。上着を羽織ってこなかった自分を呪いたくなる。レンガ造りの建物、ガス灯に、紅を引いた女が微笑む広告。顔を横に向ければ、馬車や自動車など色とりどりの改革の成果が目の前を流れていく。
(皆、洋物好きだ)
 そう思いつつ、彼がかぶる鹿追帽子も袴の下から除く革靴も、和洋折衷の服装は街並みと馴染んで見えた。封建社会から大きく国は舵を切り、列強の国々を真似て着々と西洋化を進めていった。だが、八百万の神 魑魅魍魎 等、一神教を重んじがちな西洋とは真逆の世界観を持つ日本では、西欧諸国では見られない光景が目の前に広がっていることもまた確かだった。
 不意に彼がガス灯を避けた時、反対側から歩いてきた人物とぶつかる。
「すみません」
「こちらこそ」
 なんてことのない光景のはずだ。ぶつかった相手が―――人と同じ大きさの衣服を纏った二足歩行する狼でなければ。ふっと彼らは微笑んで互いに人混みの中へと消えていく。

西洋諸国では一番ありえない光景としてわかりやすいのは、人々が生活する景色の中に犬や猫といった半獣と呼ばれる獣人の姿が混ざっていることか。 

 そう思いながら微かに微笑んだ男の耳に、小さな子どもの声がした。
「あ!こ、浩瀚様だ!」
 男が自分の名を呼ぶ声に振り向いたその瞬間、強い風が吹いた。
 英国の探偵小説の主人公がかぶる帽子のような、トレードマークとなっている鹿追帽が空に飛ぶ。風に流された帽子を掴んだ少年に彼は歩み寄る。
「ありがとう」
 帽子を渡して礼を言われた少年は、興奮した瞳で彼を見上げる。
 彼の背後で小さくなっていく親子二人。後から追いついてきた見知らぬ男に不審げな顔をする母親に、少年が興奮したようにまくし立てる声がした。
「あの人だよ!浩瀚様だよ、知らないの?!あの人が建州の首吊り殺人を解決したんだ!今日は何しに来たんだろう?きっとまた事件だよ!」

 春めいた風はまだ来ない。

 そんな世界の中で私立探偵浩瀚は―――鹿追帽を深く被り直す。背後の子どもの黄色い声が、彼の足をせき立てる。四月になったとは言え雨上がりの今日の気候は肌寒くて、やはりとんび[コート]を羽織ってくるべきだった、と浩瀚は顔をしかめた。

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 私立探偵。
 政府は情報収集と問題処理のため密偵を各地に配置するようになり、民間でも密偵探偵機関が設立され始めている。実はようやく浸透し始めてきたが、「探偵」という言葉自体、未だ人々には耳慣れない単語だった。
 だがその中でも浩瀚は例外だ。
 麦州を拠点として活躍している私立探偵として名を馳せている。慶の中でも麦州の中心街は地価が高いが、彼は駅近くの文化住宅の一室を借り、下宿兼探偵事務所としている。寝食を忘れ事件解明に没頭し、事件が起こるたび彼が飛び出していく様は麦州では一種の名物となりつつあった。だが今日の浩瀚は――。
「…珍しく収穫のない一日だった」
 呟いた無粋とした表情の浩瀚は空を振り仰ぐ。空には一面の桜の花が咲き乱れていた。
 桜並木の下を歩く浩瀚は、今日も先日から受け持っていた事件現場から帰途につくところだ。もはや助手と化している軍人に何も収穫がなかった今日のことを話せば、肩をすくめられるのが目に見えている。だがしょうがない。だって今日は何故か――事務所から出て行かなくてはならないと、浩瀚の探偵としての直感が働いたのだから。
 目を眇める。

ふと足を止めた時―――――どこからか事件の匂いがした気がした。

ぴくりと浩瀚は動きを止める。いつもの事件が起こる前触れのようなこの感覚。浩瀚は見慣れない人影を目の前の橋の上で捉えた。
(…あれは)
 佇むのは、見慣れない金の髪を持つ男だった。遠くをみつめる紫陽花色の瞳。見たところ異人、装いからして、宣教師か。
 不思議な彼に不意に話しかけようと思ったのは、男があまりにも何かを焦がれるように待っているようにも見えたからだ。
「…待ち人ですか」
 男が能面のような表情のまま浩瀚の方を振り向く。
「まるで…ここに神様でも来られるような面持ちをしてらっしゃる」
 微かに男は苦笑した。それはどうでしょう。
「…私が待っている方は向こう見ずで…とても神とは言い難い方ですから」
「…でも大切なお方と見受けられる」
「…そればかりは否定は…できません。ですがそろそろ…ここを離れようかと思っているところです」
 男は遠くを見つめる。桜吹雪が目の前を横切った。
「…待っていましたが…どうやらあの方は今はここには来られないようですから」
 浩瀚の柳眉が跳ね上がる。唐突に辺りに渦巻く季節はずれの木枯らしにひょうひょうと笛のような音が混ざる。能面のような顔に僅かな表情が浮かんだ。
 それが微笑だと気がつくまでに、一瞬の時を要した。それくらいかすかな表情の動きだった。
「…失礼する」
 一層強い木枯らしが吹き付け思わず浩瀚は顔を腕で覆う。薄目を開けた時、思わず浩瀚は絶句する。

 顔を上げた時には、もう男の姿はそこにはなかった。

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 訳が分からない。瞬きする間もなく掻き消えた男の姿に、浩瀚は二の句が出ない。だが、そんな驚きの余韻に浸る間もなく、浩瀚はハッと顔を上げる。背後から彼めがけて駆け抜けてくる人の足音。鞘走りの音。
 殺気。
(…またか)
 浩瀚は息をついて額に手を当てる。思い当たる件は数件。
「死ね、浩瀚!!!」
 数日前に浩瀚に事件絡みで明らかになった横領を摘発された男だった。どうやら事件のことを逆恨みした結果のことらしい。慣れているとは言え、さすがに今この場で相手をすることは憚られた。
(逃げるか…受けるか…)
 決めかねる。

 だけどその瞬間、浩瀚の背後から黒い影が疾走した。花びらが舞った。

「…なぁ?!」
 次の瞬間には男の体は宙に舞い、橋の欄干から放り出されていた。手足をばたつかせ悲鳴を上げながら、真っ逆さまに下の川へと落下する。派手な水しぶきと騒ぎを聞きつけて、すぐそばの交番から警官が飛び出し、周囲の店からは人の顔が覗いた。どよめきが辺りに満ちる中、浩瀚に向けて悠々とした男の声が響き渡った。
「ご無事ですか、浩瀚様」
「あぁおかげさまでな」
 桓魋、と浩瀚は男を見上げる。軍服を纏った男は肩をすくめただけだった。起こそうとする桓魋の手をつんと無視し、自らの足で浩瀚は立ち上がって砂を払う。
 桓魋は腰に手を当て、次にはどこか呆れた顔を浩瀚に向ける。
「これ、前来た時に俺の部屋に忘れていかれたでしょう。案の定寄ってみても事務所にもいないし、ボヤ騒ぎに巻き込まれてるし、事件になると浩瀚様はすぐ飛び出していくんですから」
 差し出される桓魋の手には浩瀚愛用のとんびがあった。
 本当にタイミングの良い男だ。
「…すまない」
吹き飛んだ鹿追帽を被り、袴の上からとんびを羽織る。和装の上から洋装を馴染ませる和製探偵に桓魋は思わず苦笑する。
「それにしても、やはりとんびが似合いますね、浩瀚様。軍の中でも洋装は規律化されてかなり普及してますが、俺が知る中で二重外套をここまで洒落て着こなせるのは貴方だけですよ。どこかの英国探偵も顔負けですね」
 じろりと浩瀚は桓魋を一瞥し、そのまま歩き出す。慌てて桓魋が後を追う中、彼は桓魋に向かって思い切り顔をしかめた。
「そんなことよりも…桓魋、私はお前が勲章を蹴ったという話の方が気になる。そんな話聞いたことがないぞ」
「いいんですよ。俺よりもふさわしい奴は山ほどいますから」
 肩をすくめる桓魋に、この熊の半獣の男はそういった欲というものがないのか、と浩瀚はため息をつく。

華族 士族 平民 奴婢 そして半獣

 四民平等もとい五民平等。そんな言葉を誰が言ったか。身分撤廃令はそれぞれの社会的な身分の差を制度上でならしただけで、人々の間には差別と軋轢だけが未だに残る。華族や士族は優遇の対象となったが、獣が混ざった者たちという意味合いが込められている半獣はその呼称自体が蔑称となっていた。だが、半獣の者たちは普通の人間の番の子としても突然生まれてくるものだ。人の都合など関係なく天の摂理は働く。
 四つの身分で構成された縦社会の中、上位に君臨する華族や士族にも勿論それは当てはまる。
半獣を一族に持つだけで恥だという風潮はいつからついてしまったのだろう。だけどそんな中でも、幼い頃に捨てられる者もいる始末の中で自分は幸運でしたよ、と桓魋は笑う。

 かくいう熊の半獣である桓魋も出生は名門の士族の旧家。

 半獣というだけで社会的には弱者となるため自立してからは社会的な面で苦労もした。
そしてそんな彼を助けたのは―――麦州を訪れ、探偵業を行い始めたばかりの浩瀚だった。
 今では桓魋は若くして実力で軍の上層部までのし上がっている。勲章は受けるも受けないも本人の自由だが、桓魋の行動に対し、せっかく世の中に認められるべき逸材なのにと不満を感じてしまうのは浩瀚の我侭か。
「…腑に落ちん。その行動も…ここで助けられることもな」
「ははっ勘弁してくださいよ。ただでさえ俺は浩瀚様に助けられっぱなしですからね。こういうところくらいは点数稼がせてくださいよ」
 それに、と桓魋は片眉を跳ね上げる。
「浩瀚様だって国の密偵の話を何回も蹴ってるんですから、俺の件に関してはどうこう言うことはできませんよ。おあいこです」
 不服そうに浩瀚は視線を逸らす。そこを突かれるとさすがに言い返す言葉がない。ため息をつけば隣で歩く男が機嫌よさそうに笑った気配がした。
「それにしても、どうでしたか。先の事件現場に行かれていたんでしょう。何か得られたことは?まぁあれも解決してるっちゃあしてるんですが…」

 二ヶ月前、洋館が立ち並ぶ一等地の住宅街で連続殺人事件が起こった。容疑者は5人。浩瀚立会いの元捜査は行われたが、その容疑者全員が捜査の段階で忽然と姿を消すという事態が起こった。
警察は容疑者たちを捜索していたのだが、つい先日その中の一人の男が遺体で見つかり、遺体の遺留品から殺人事件に使用されたと見られる血糊のついたナイフが検出された。
 残りの4名に関しては未だ行方がしれないが、このことから警察はこの男を一連の事件の犯人と断定。この連続殺人事件を解決済みとして手を引いたのだった。
 皆ひとまずは納得している。ただひとりを除いて。

「残念だが無駄足だったよ。それに何度も言うが、お前たちや警察が終わりにしても、私はあの事件は解決しているとは思っていないんだ」
眉間に手をあて、今日の出来事を反芻しながら浩瀚は呟く。だが。
「そちらは無駄足だったが…今日は不思議な男に会った。お前に話したいことも色々とある」
「またいつもの新しい事件の匂いですか。奇遇ですね。…実は俺も今日は浩瀚様が喜びそうな話を一つ持っているんです。難しそうですが…その方が浩瀚様も燃えるでしょう」
 二人の視線が暗黙のうちに交錯する。決まりですね、と桓魋は軍帽に指をかける。
 持ち上げた軍帽のつばが目元に落とすのは薄い影、目に一点の光を灯す男は不敵に笑う。

「行きましょう。俺みたいな野郎で申し訳ないですが…お茶でもしましょう、浩瀚様」

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木の扉に嵌められた丸窓に、扉につけられた軽やかな鐘の音。サイフォンのあげる蒸気の音。振り返れば、ステンドグラスを模した丸窓から差し込む光が色分けされて流れ込んでいるのが見えた。
「いらっしゃい、浩瀚様、桓魋!」
 茶屋鈴の音ではもはや顔なじみとなった看板娘、鈴が出迎えてくれる。鈴の糊のきいた着物にフリルのついた真っ白な前掛けが眩しい。和洋折衷。頭にさした赤い牡丹を象った簪は彼女の黒髪によく似合っていた。鈴から見れば、彼らももう立派なこの隠れ家的な茶屋の常連だ。
「いつものやつ」
「鈴、俺も浩瀚様と同じで」
「はいはい。二人ともほんとこのコーヒーが好きよね。実は最近出し始めたこのコーヒーを頼む人が多すぎて、〝かふぇ〟なんて名称に変えようかと話しているところなのよ。もう西洋のものならなんでもいい、なんて風潮になっちゃったもんね。みんなほんとに流行好きで困っちゃう」
 注文を受けて裏へ消えていく鈴の姿を見ながら、浩瀚は桓魋に言う。
「なぁ桓魋。人は…一瞬で姿を消すことができると思うか?」
「?一瞬で?…いくら優れた軍人でも、それはどうかと。かつての忍なら消えたと見せかけて姿をくらますことくらいはできたかもしれませんが」
「…実は今日出会った不思議な男がそうだった。金の髪を持つ宣教師風の男で、会話を終えたとたん突然消えたんだ」
「…何ですか、それ。怪談じゃないですよね…?」
 だが浩瀚は自分から怪談や冗談を言う類の人間ではない。無粋とした顔をする浩瀚に桓魋は眉根を寄せる。
「…でも、巷でも怪奇現象が話題になってるみたいなんですよね。最近ありえない妙な話が出回っているみたいだし」
「妙な話?」
 はい、と桓魋が答えようとした時、ちょうど鈴が木の盆に湯気の立つコーヒーを二つ乗せて来た。二人の前に、鈴はカップを置く。
「そうだ、俺よりもここの茶屋で働いている鈴の方がよく知ってるかもしれない。なぁ鈴、ここ最近客が妙な話をしていないか?」
 妙な話ねぇと首をかしげる鈴は、すぐに何かを思いついたように顔を上げる。
「あ、そうそう不思議なことといえばこの話があったわ。二人とも知ってる?最近〝修羅〟の噂が流れてるのよ」
「〝修羅〟…?」
 眉を寄せる浩瀚を見ながら鈴が声をひそめる。
「あら、この修羅は浩瀚様のこと指しているみたいなのよ?浩瀚様が担当していた例のあの事件なんだけど、そこで浩瀚様が犯人と目星をつけていた人々が忽然と消えた。誰も行方を知らない犯人たちはある人物に消されたことが話題になってるの。何でも人々はそれが〝修羅〟の仕業だと言ってるわ」
 木の盆を抱えたまま、鈴は声をひそめる。だが、当の浩瀚はどこ吹く風とでも言いたげに目を眇めただけだった。
「あ!知らないフリしてるわね浩瀚様!いくら貴方がこの麦州の英雄だからって!あの犯人たちの動向を知ってるのは浩瀚様だけなのよ?みんな不安がってるし、なんとかできないの?」
 残念だが今は無理だ、と浩瀚は肩をすくめる。鈴はため息をついただけだった。
「それにしてもやっぱり浩瀚様は噂には興味がないのね。自分のことが絡んでるのに!噂にも興味関心を持つようにした方が探偵業にも役立つんじゃない?」
「…生憎だが間に合っている。今日も事件現場に行ったが…迂闊なことはまだ明かせない。一応、今の話は覚えておこう」
「もう!ただでさえ浩瀚様は興味のあることしか頭にいれてないんだから!興味のないことにはからっきし。でもそのくせ誰かが死んだ、事件だ!ってなると大喜びで飛び出していくんだから!鬼!ほんと修羅だわ!!」
 まぁその人に助けられてるんだから何も言えないけど、と鈴は苦笑する。
「はは、確かに浩瀚様は修羅ですよ。長い間捜査に協力していますが、犯人たちを追い詰める様はこちらのほうが身の毛がよだちますよ、まったく」
「ふふ。ほんとね。まぁでもその修羅のおかげでこの辺の犯罪は激減したんだから助かるわ。治安が良くなってここの茶屋もささやかだけど恩恵を受けているみたいだしね」
 桓魋と鈴が笑う。顔をしかめる浩瀚に、桓魋が言う。
「実はその噂とは関係ないかもしれないが、俺も浩瀚様に洋館絡みの事件への招待状があるんです」
俺が話したかったことはこれです、と桓魋はコーヒーを煽る。
「どんなものだ」
空になったカップを置いて浩瀚の言葉を受ける彼の顔は、先程と変わりどこか真剣味を帯びていた。
「この時期、軍部の上層部に対して晩餐会の招待状が各華族の館から届くのはご存じですよね。あの白樺家から、舞踏会と晩餐会の賓客として浩瀚様にも是非お越しいただきたいという話が俺のところに流れてきました。ですがそれは表向きの話、実際はこの機会に乗じて浩瀚様に探偵としてある依頼を受けて欲しいとのこと」
「…依頼の内容は」
「――とある失踪事件の真相解明です」
 ざっと脳内の記憶の年表を辿る。ここ数年のこの地域での出来事なら事件好きの浩瀚の脳裏に記憶されている。記憶を洗い出しながら、浩瀚は微かに眉根を寄せた。
「?…麦州で起こった事件だろう。私はそんな失踪事件など聞いたことがない。…いつ起こった」
「…それが今回の事件を難解にする問題なんです」
「どういうことだ」
大抵の場合、事件は新しければ新しいほど探偵にとっては有利に働く。時間が経てば経つほど状況は変わり推察する手がかりも、証拠も消えていくからだ。難しい顔をしながら、桓魋が視線をあげる。

「その事件が起こったのは―――もう十年も前のことなのです」

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 外に出れば、光で目をやられる。桓魋と別れ、振り仰げば、桜が目の前で揺れている。
下宿兼事務所となっている自分の部屋の前に辿りついた浩瀚はいつものように郵便受けを開ける。普段依頼状で溢れ返っているのだが、今日は真っ暗な郵便受けの中、白い封筒が一枚だけ入っているだけだった。
 中に書かれている依頼内容を読んで、浩瀚は思わず目を見開く。依頼の内容は、先程桓魋から聞いた白樺伯爵のものと全く同一のものだった。差出人の名前は書かれていない。便箋に使われている紙の質や簡素な文面から、出したのは白樺伯爵ではないと浩瀚は結論づけた。違う人物からの同一の依頼。

 名前のない依頼人からの依頼状。

 浩瀚は眉根を寄せ、二枚目の便箋に目を落とす。そこにタイプライターで打たれた文字を見た瞬間、浩瀚の動きが止まった。
 開いたままの郵便受けの中に、桜の花びらが吹き込んでくる。便箋を丁寧に封筒に戻しながら、浩瀚は思案する。桜が花開く方角へ、浩瀚は振り向いた。
春のほんの数日、あっという間に消えてしまう桜の季節の中でも刹那の時間がそこにある。そしてそれは――日本の四季のうち最も美しいと言われる光景だ。浩瀚は、すぐそばの桜の並木道でひとりの少女が桜を見上げているのを見た。
 今日はよく見知らぬ人間と遭う日だと心の中でごちる。
「…どうされた。このようなところに何か御用か」
 少女は振り返る。
 紫の行燈袴(あんどんばかま)に矢羽根の小袖。袴から伸びる鈍く黒光りする革靴。女学生だ。華族の娘か。
 下ろされた紅の微かに癖のある髪が揺れる。翡翠の色を浩瀚は見た。

 瞳に春を湛えた娘だった。



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